タカミムスヒ(高御産巣日神)は倭人伝の大倭であり天照大神は台与です。またオモイカネ(思金神)は大夫の難升米であり、ホノニニギ(邇邇芸命)は台与の後の男王です。『梁書』『北史』に「其の後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける」とありますが、この男王が神話のホノニニギです。
ホノニニギには天孫降臨の伝承があります。降臨とは神の住む天から人間の住む地上の降りるということですが、具体的にはこの男王の孫が初代の天皇になるという物語のようです。その前段階がオオクニヌシの国譲りになっています。
出雲には倭国統一を説得する使者が派遣されますが、『古事記』ではアメノホヒ(天菩比)はオオクニヌシに媚びついて三年経っても復命せず、アメノワカヒコ(天若日子)は自分が出雲の王になろうとして、八年経っても復命しなかったとされています。このころ女王国内に、この画策に反対している者がいました。一書は政治に関与することの 許されない庶民である「草木」さえも陰で批判したとしています。
一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に惡い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。
画策に反対しているのがアマツミカホシ(天津甕星)、またの名がアメノカカセオ(天香香背男)だというのですが、私はこれを出雲の併合に反対しているのではなく、台与の退位、つまり女王制度を廃止しようとする動きに反対しているのだと考えています。
反対しているのは物部氏の一部ではないかと思っています。物部氏の祖のニギハヤヒハには多くの従者を従えて河内の哮が峰に下ったという伝承がありますが、『先代旧事本紀』に見える従者の名を見ると「天津」が付くものが多く、また「赤」や「ら」の音(浦・占・麻良・原)を含むという共通性があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天にいる悪い神のアマツミカホシ、またの名はアメノカカセオにも似た点が見られます。アメノカカセオは星の神とされていますが、五部人の天津赤星も星に関係する名で、『先代旧事本紀』は天津赤星を「筑紫の弦田物部の祖」としています。
筑紫弦田物部の故地は鞍手郡鞍手町鶴田とされています。アマツミカホシ、またの名はアメノカカセオもやはり遠賀川流域に居た物部(二ギハヤヒ)の一族であり、ニギハヤヒは台与の退位に反対したのでフツヌシ・タケミカズチの討伐を受け、河内に下ったと考えることができそうです。
フツヌシは物部氏の祀る剣が神格化されたものだと考えられていますが、これだと物部氏の祀る剣が、同じ物部氏の祖のニギハヤヒを討伐するという矛盾が生じます。物部氏には理解できない面が多く推論になりますが、ニギハヤヒの同族の一部が台与の退位に反対したために追放されたのではないかと思っています。
『梁書』『北史』に「其の後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける」とあるのは、こうした動きに対処するために台与と男王が同時に立てられ、それを魏が認めていたのだと考えています。
女王国内にそうした動きがありましたが、『日本書紀』本文ではフツヌシとタケミカズチが出雲に派遣されて国譲りをさせます。それが近畿や北陸にまで及んだことは前々回に述べました。
2009年12月27日日曜日
神話の時期のまとめ
私は弥生時代を180年ごとに大区分し、これをさらに90年ごとに中区分し、30年ごとに小区分して実年代を推定することにしています。これは通説に準拠した目安に過ぎませんが、これを元にして今までに述べてきた神話の時期を纏めてみたいと思います。
238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期です。3期は240年から270年までの30年間で台与とその後の男王の時代ですが、 3期初の247年ころが天の岩戸の神話の時期になります。247年にはすでに台与が女王になっていますから、卑弥呼の死はそれ以前です。
3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が遣使した最後の年の266年にほぼ一致することに注意したいと思います。通説では弥生時代の終わりは3世紀後半とされていますが、私はそれを270年としています。その根拠のひとつとして266年の倭人の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思っていることを挙げたいと思います。
266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されると考えています。中国・朝鮮半島の歴史は倭人の歴史と無関係ではありません。中国では倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するようです。
奈良県箸墓古墳の外提から出土した「布留0(ふるゼロ)式土器」は、一説に280~300年ころのものだと言われていますが、270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンだと考えていますが、この間に確実に古墳時代が始まるようです。
239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、『晋書』武帝紀はその後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったとしています。昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年から265年までの7年間でした。
司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。炎が即位すると翌266年にさっそく倭人が遣使していますが、これが神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。
神武天皇は東遷の途中で筑紫の岡田宮(福岡県葦屋とする説が有力)に1年間 (古事記)立ち寄っています。それは東遷コースから外れていますがその理由は何だったのでしょうか。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮滞在中に行なわれたと考えています。
司馬炎が即位したのは255年12月ですから、遣使の行なわれたのは266年の夏でしょう。そして『神功皇后紀』は使節が洛陽に到着したのは秋の10月だとしていますから、使節の帰国は267年の初夏になったと思います。
267年に大和への移動が始まると考えるのですが、即位するまでに何年間かが経過したとされており、また即位後の在位期間を考えると天皇の死は280年代ころになることが考えられます。これは箸墓古墳の築造時期と重なりますが、私は箸墓古墳は神武天皇の墓ではないかと考えています。
270~80年ころに神武天皇が即位して大和朝廷が成立するようです。大和朝廷の成立、すなわち神武天皇の即位が弥生時代の終わりであり、部族制社会から氏姓制への転換点でもあり、また青銅祭器が姿を消して古墳が出現する原因でもあると考えます。
神武天皇を含めて「欠史八代」と呼ばれている開化天皇までの諸天皇は存在しないとする説がありますが、270年から360年までの90年間が「欠史八代」の時代であり、古墳時代前期でもあるようです。この間に大和朝廷の支配が確立すると考えられます。
そして卑弥呼の死んだ247年から266年までの20年間に、スサノオの追放、オオクニヌシの国譲り、天孫降臨の神話に語られているような、何等かの史実が存在していると考えています。司馬昭が相国だった7年間に行なわれた何度かの遣使にそれが反映しているように思っていますが、残念ながら記録には残っていません。
238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期です。3期は240年から270年までの30年間で台与とその後の男王の時代ですが、 3期初の247年ころが天の岩戸の神話の時期になります。247年にはすでに台与が女王になっていますから、卑弥呼の死はそれ以前です。
3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が遣使した最後の年の266年にほぼ一致することに注意したいと思います。通説では弥生時代の終わりは3世紀後半とされていますが、私はそれを270年としています。その根拠のひとつとして266年の倭人の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思っていることを挙げたいと思います。
266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されると考えています。中国・朝鮮半島の歴史は倭人の歴史と無関係ではありません。中国では倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するようです。
奈良県箸墓古墳の外提から出土した「布留0(ふるゼロ)式土器」は、一説に280~300年ころのものだと言われていますが、270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンだと考えていますが、この間に確実に古墳時代が始まるようです。
239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、『晋書』武帝紀はその後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったとしています。昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年から265年までの7年間でした。
司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。炎が即位すると翌266年にさっそく倭人が遣使していますが、これが神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。
神武天皇は東遷の途中で筑紫の岡田宮(福岡県葦屋とする説が有力)に1年間 (古事記)立ち寄っています。それは東遷コースから外れていますがその理由は何だったのでしょうか。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮滞在中に行なわれたと考えています。
司馬炎が即位したのは255年12月ですから、遣使の行なわれたのは266年の夏でしょう。そして『神功皇后紀』は使節が洛陽に到着したのは秋の10月だとしていますから、使節の帰国は267年の初夏になったと思います。
267年に大和への移動が始まると考えるのですが、即位するまでに何年間かが経過したとされており、また即位後の在位期間を考えると天皇の死は280年代ころになることが考えられます。これは箸墓古墳の築造時期と重なりますが、私は箸墓古墳は神武天皇の墓ではないかと考えています。
270~80年ころに神武天皇が即位して大和朝廷が成立するようです。大和朝廷の成立、すなわち神武天皇の即位が弥生時代の終わりであり、部族制社会から氏姓制への転換点でもあり、また青銅祭器が姿を消して古墳が出現する原因でもあると考えます。
神武天皇を含めて「欠史八代」と呼ばれている開化天皇までの諸天皇は存在しないとする説がありますが、270年から360年までの90年間が「欠史八代」の時代であり、古墳時代前期でもあるようです。この間に大和朝廷の支配が確立すると考えられます。
そして卑弥呼の死んだ247年から266年までの20年間に、スサノオの追放、オオクニヌシの国譲り、天孫降臨の神話に語られているような、何等かの史実が存在していると考えています。司馬昭が相国だった7年間に行なわれた何度かの遣使にそれが反映しているように思っていますが、残念ながら記録には残っていません。
2009年12月25日金曜日
大国主の国譲り その5
『日本書紀』第二の一書は出雲のオオナムチに続いて、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順したことを記しています。近畿式銅鐸の分布圏が統一されたことを伝えているのですが、さらに次のようにも記しています。
時に高皇産霊尊は大物主神に「汝がもし国つ神を妻とするなら、吾はなお汝に疎んずる心が有ると思うであろう。今、吾が娘三穂津姫を汝の妻にしようと思う。八十萬の神を率いて永遠に皇孫を守るように」と言って環り降らせた。
これは一種の妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話で、タカミムスビ(倭人伝の大倭)は娘のミホツヒメをオオモノヌシの妻にすることで、銅鐸分布圏の支配権を確保したというのです。大和の銅鐸を配布した部族と同じような立場にあったのが越(北陸)の部族ですが、これがタケミナカタ(建御名方)です。
タケミナカタは追われて信濃の諏訪大社の祭神になったとされていますが、タケミナカタが北陸地方の勢力を表し、オオナムチが山陰地方の勢力を表し、オオモノヌシとコトシロヌシは大和、あるいは近畿地方の勢力を表していると見てよいでしょう。いずれも銅鐸の分布圏です。
それはフツヌシの功績といえるのですが、フツヌシは物部氏の祀る神です。物部氏の祖のニギハヤヒは船長・舵取り・五部人・二十五部など、多くの従者を従えて天磐船に乗り、天から河内の哮が峰(たけるがみね)に下り、後に大和国の鳥見に遷ったと伝えられています。
『先代旧事本紀』はニギハヤヒをホノニニギの兄としていますが、ニギハヤヒが河内に下った理由を記していません。しかし天照大神から十種の神宝を授かって降りたとしていて、弟のホノニニギが日向の高千穂の峰に降臨したのに対し、兄のニギハヤヒは河内の哮が峰に降臨したと言いたいようです。
ニギハヤヒもまた、鳥見(奈良県登美)のナガスネビコ(長髄彦)の妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、児のウマシマジ(宇麻志麻遅)が生まれたとされています。これもタカミムスビがミホツヒメをオオモノヌシの妻にするのと同じ、高天が原との関係を表す妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話です。
氏姓制下の氏族は大和朝廷に初めて服属した者を始祖としています。元来の物部氏はフツヌシを始祖としていたようですが、ニギハヤヒが神武天皇に服従したことで、ニギハヤヒが始祖になるようです。ニギハヤヒの東遷はフツヌシが近畿式銅鐸の分布圏を併合したことにより、物部氏が大和に地盤を持ったということです。
換言するとオオモノヌシの帰順は物部氏が行わせたということになります。そこに神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するのですが、大和朝廷が成立したことにより全ての部族が消滅し、部族の存続する根拠の青銅祭器は地上から姿を消します。そして青銅祭器による部族の宗廟祭祀に替わって、大和朝廷に初めて服属した者を始祖とする氏族の宗廟祭祀が行なわれるようになります。その神体の多くは銅鏡です。
津田左右吉は主として『古事記』と『日本書紀』の神話の違いから、神話は創作されたものであって史実ではないとしていますが、伝えた部族や氏族によって違いがあるのは当然のことです。『日本書紀』第二の一書の、言わば異伝とも言うべき伝承から、意外な事実が分かってきます。
時に高皇産霊尊は大物主神に「汝がもし国つ神を妻とするなら、吾はなお汝に疎んずる心が有ると思うであろう。今、吾が娘三穂津姫を汝の妻にしようと思う。八十萬の神を率いて永遠に皇孫を守るように」と言って環り降らせた。
これは一種の妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話で、タカミムスビ(倭人伝の大倭)は娘のミホツヒメをオオモノヌシの妻にすることで、銅鐸分布圏の支配権を確保したというのです。大和の銅鐸を配布した部族と同じような立場にあったのが越(北陸)の部族ですが、これがタケミナカタ(建御名方)です。
タケミナカタは追われて信濃の諏訪大社の祭神になったとされていますが、タケミナカタが北陸地方の勢力を表し、オオナムチが山陰地方の勢力を表し、オオモノヌシとコトシロヌシは大和、あるいは近畿地方の勢力を表していると見てよいでしょう。いずれも銅鐸の分布圏です。
それはフツヌシの功績といえるのですが、フツヌシは物部氏の祀る神です。物部氏の祖のニギハヤヒは船長・舵取り・五部人・二十五部など、多くの従者を従えて天磐船に乗り、天から河内の哮が峰(たけるがみね)に下り、後に大和国の鳥見に遷ったと伝えられています。
『先代旧事本紀』はニギハヤヒをホノニニギの兄としていますが、ニギハヤヒが河内に下った理由を記していません。しかし天照大神から十種の神宝を授かって降りたとしていて、弟のホノニニギが日向の高千穂の峰に降臨したのに対し、兄のニギハヤヒは河内の哮が峰に降臨したと言いたいようです。
ニギハヤヒもまた、鳥見(奈良県登美)のナガスネビコ(長髄彦)の妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、児のウマシマジ(宇麻志麻遅)が生まれたとされています。これもタカミムスビがミホツヒメをオオモノヌシの妻にするのと同じ、高天が原との関係を表す妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話です。
氏姓制下の氏族は大和朝廷に初めて服属した者を始祖としています。元来の物部氏はフツヌシを始祖としていたようですが、ニギハヤヒが神武天皇に服従したことで、ニギハヤヒが始祖になるようです。ニギハヤヒの東遷はフツヌシが近畿式銅鐸の分布圏を併合したことにより、物部氏が大和に地盤を持ったということです。
換言するとオオモノヌシの帰順は物部氏が行わせたということになります。そこに神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するのですが、大和朝廷が成立したことにより全ての部族が消滅し、部族の存続する根拠の青銅祭器は地上から姿を消します。そして青銅祭器による部族の宗廟祭祀に替わって、大和朝廷に初めて服属した者を始祖とする氏族の宗廟祭祀が行なわれるようになります。その神体の多くは銅鏡です。
津田左右吉は主として『古事記』と『日本書紀』の神話の違いから、神話は創作されたものであって史実ではないとしていますが、伝えた部族や氏族によって違いがあるのは当然のことです。『日本書紀』第二の一書の、言わば異伝とも言うべき伝承から、意外な事実が分かってきます。
2009年12月20日日曜日
大国主の国譲り その4
『日本書紀』第二の一書は大和のオオモノヌシ(大物主」とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしていますが、それに続いて物作りの忌部が定められたことが記されています。
すなわち紀国(紀伊)の忌部の遠祖、手置帆負神(たおきほおいのかみ)を作笠者(かさぬい)に定めた。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)とする。天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とする。天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり)とする。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり)とする。(後略)
これを『日本書紀』第三の一書などでさらに詳しく見てみると次のようになります。重複しますが図を再度載せます。
讃岐の忌部の祖 手置帆負神
紀伊の忌部の祖 彦狭知神
筑紫・伊勢の忌部の祖 天目一箇神
阿波の忌部の祖 天日鷲神
出雲の忌部の祖 櫛明玉神
これを見ると筑紫・出雲の忌部を除くと近畿4式・5式銅鐸が分布する紀伊半島や四国東部の忌部になっています。そこで図では讃岐・阿波の忌部を⑥の徳島県徳島市の大麻比古神社で代表させてみました。
紀伊・伊勢の忌部についてはよく分からないので⑦の和歌山県日前・国縣宮、⑨の三重県伊勢神宮、⑩の愛知県熱田神宮をそれに代えて図示しています。銅鐸を配布した部族が併合されて大和朝廷が成立すると、その影響下で近畿4・5式、三遠式銅鐸の分布圏にこれらの神社が祭られるようになることを表そうとしています。
忌部といえば太玉命を祖とする忌部首氏との関係が考えられますが、『日本書紀』第三の一書を見ると別系統のように思われます。横田健一氏によると物部氏は祭祀に用いる物を調達・管理する氏族だったようですが、その物部氏の元で祭祀用具の製作に携わったのが、ここに見られる忌部のようです。
この神話のフツヌシ(経津主)の別名は、建布都神、または豊布都神ですが、布都神は物部氏の祀る剣神だと考えられていて、奈良県石上神宮でも祭られています。大場磐雄氏は物部氏を銅剣を使用した氏族だとしていますが、そうであれば瀬戸内に見られる平形銅剣を使用した物部氏が紀伊半島・四国東部を平定したことになります。
物部氏は「八十物部」と言われるように同族が多く、世情を見るのに巧みな氏族で、よく分からない面がありますが、私は元来の物部氏は奴国王の同族で銅剣を配布した部族ではなかったかと思っています。しかし九州で銅剣が造られなくなると銅矛を配布した部族に転じたと考えます。
四国には物部一族の分布が濃密ですが、通婚を強要し銅矛を配布することで勢力を侵食していったのでしょう。前述の「ヤマタノオロチ」も物部氏の進出かも知れません。その延長線上にあるのが出雲のオオナムチの国譲りであり、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシの帰順だと考えます。国譲り神話は物部氏が存在しなければもっと変わっていたでしょう。
出雲の国譲りがあったのであれば、吉備の国譲りがあってもよさそうなものですが、出雲の国譲りの中に含まれてしまっているのでしょう。このことを表すために図では⑤の岡山県・吉備津神社と、Ⅲの岡山県赤磐町・石上布津之魂神社を加えてみましたが、これは国譲りとは直接の関係はありません。
すなわち紀国(紀伊)の忌部の遠祖、手置帆負神(たおきほおいのかみ)を作笠者(かさぬい)に定めた。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)とする。天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とする。天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり)とする。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり)とする。(後略)
これを『日本書紀』第三の一書などでさらに詳しく見てみると次のようになります。重複しますが図を再度載せます。
讃岐の忌部の祖 手置帆負神
紀伊の忌部の祖 彦狭知神
筑紫・伊勢の忌部の祖 天目一箇神
阿波の忌部の祖 天日鷲神
出雲の忌部の祖 櫛明玉神
これを見ると筑紫・出雲の忌部を除くと近畿4式・5式銅鐸が分布する紀伊半島や四国東部の忌部になっています。そこで図では讃岐・阿波の忌部を⑥の徳島県徳島市の大麻比古神社で代表させてみました。
紀伊・伊勢の忌部についてはよく分からないので⑦の和歌山県日前・国縣宮、⑨の三重県伊勢神宮、⑩の愛知県熱田神宮をそれに代えて図示しています。銅鐸を配布した部族が併合されて大和朝廷が成立すると、その影響下で近畿4・5式、三遠式銅鐸の分布圏にこれらの神社が祭られるようになることを表そうとしています。
忌部といえば太玉命を祖とする忌部首氏との関係が考えられますが、『日本書紀』第三の一書を見ると別系統のように思われます。横田健一氏によると物部氏は祭祀に用いる物を調達・管理する氏族だったようですが、その物部氏の元で祭祀用具の製作に携わったのが、ここに見られる忌部のようです。
この神話のフツヌシ(経津主)の別名は、建布都神、または豊布都神ですが、布都神は物部氏の祀る剣神だと考えられていて、奈良県石上神宮でも祭られています。大場磐雄氏は物部氏を銅剣を使用した氏族だとしていますが、そうであれば瀬戸内に見られる平形銅剣を使用した物部氏が紀伊半島・四国東部を平定したことになります。
物部氏は「八十物部」と言われるように同族が多く、世情を見るのに巧みな氏族で、よく分からない面がありますが、私は元来の物部氏は奴国王の同族で銅剣を配布した部族ではなかったかと思っています。しかし九州で銅剣が造られなくなると銅矛を配布した部族に転じたと考えます。
四国には物部一族の分布が濃密ですが、通婚を強要し銅矛を配布することで勢力を侵食していったのでしょう。前述の「ヤマタノオロチ」も物部氏の進出かも知れません。その延長線上にあるのが出雲のオオナムチの国譲りであり、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシの帰順だと考えます。国譲り神話は物部氏が存在しなければもっと変わっていたでしょう。
出雲の国譲りがあったのであれば、吉備の国譲りがあってもよさそうなものですが、出雲の国譲りの中に含まれてしまっているのでしょう。このことを表すために図では⑤の岡山県・吉備津神社と、Ⅲの岡山県赤磐町・石上布津之魂神社を加えてみましたが、これは国譲りとは直接の関係はありません。
2009年12月19日土曜日
大国主の国譲り その3
前回の投稿では銅矛を配布した部族が勢力を東進させ、銅鐸・銅剣を配布した部族を統合したと考え、その経過をイメージ図で示してみました。九州と畿内との関係については様々な説がありますが、私は神武天皇の東遷説、あるいは邪馬台国東遷説に従いたいと思っています。
しかしその実態は銅矛を配布した部族の東遷であろうと思います。前回に示した図はこのことを示したいと思って作図したものですが、この図では国譲りの最終目的地は出雲ではなくて畿内だということになって、従来の解釈とは違った国譲り神話になります。
このように考えるのは『日本書紀』第二の一書が、オオナムチ(大己貴)の国譲りの後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順したとしているからです。オオナムチとオオモノヌシが区別されています。少々長くなりますが抜粋してみます。
ここに大己貴神は答えて、「天神の言われることはもっともです。あえて言われることに叛くことはありません。私が治めてきた顕露の事(あらわのこと、政事)は皇孫が治めなさい。私は退いて幽事(かくれたること、祭事)を治めます」と言った。すなわち岐神(ふなとのかみ)を二神に薦めて「この者が私に代わって仕えます。私は此処から去ろうと思います」(中略)
故に経津主神は岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として各地を平定して回った。逆らう者は斬り殺し帰順するものは褒めた。この時に帰順した首渠(君長・賊首)は大物主神と事代主神である。すなわち八十万(やそよろず)の神を天高市(あめのたけち)に集めて、率いて天(高天が原、邪馬台国)に昇って服属に偽りのないことを申し述べた。(後略)
オオナムチの国譲りの後に、オオモノヌシとコトシロヌシが帰順したというのですが、大己貴神は神話の舞台が山陰地方の場合のオオクニヌシですが、大和が舞台の場合には大物主になります。多くの場合、両者が区別されることはありませんが、ここでは明確に区別されています。そしてコトシロヌシもオオナムチではなく、オオモノヌシと共に帰順しています。
これはオオモノヌシを祀る大神(大三輪)氏や、コトシロヌシを祭る加茂氏の伝承でしょう。出雲の国譲りとは別に、近畿式銅鐸の内でも最も新しい4式・5式銅鐸を持っていた宗族が帰順したことが語られていると考えます。
そのオオモノヌシは多くの神々を天高市(あめのたけち)に集めて帰順したとされていますが、これは大和国高市郡に由来するのでしょう。高市郡は今の橿原市・明日香村・大和高田市などですが、大和朝廷の存在した古墳時代はともかくも、弥生時代の高市郡がそれほど重要な場所のようには思えません。
天照大神が岩戸にこもると八百万の神が「天の安の河原」に集まって善後策を相談したとされています。また出雲の特殊神事の「出雲神在祭」でも、出雲に参集した神々は、斐伊川の河原にある万九千神社で饗宴を催した後に帰っていくとされています。部族によって擁立された王の統治権は弱く、事が起きると合議が行なわれたようです。そのための広場が河原にあったようです。
初期の纏向遺跡もそうした広場だったでしょう。私は天高市は纏向遺跡のことであり、常時は市場だが有事には合議の場になったと考えています。纏向遺跡に有力者が集められ、部族の統合に同意するかどうか討議されたが、出雲はすでに帰順しているのだから、我々も帰順しようとゆうことになったと考えます。
しかしその実態は銅矛を配布した部族の東遷であろうと思います。前回に示した図はこのことを示したいと思って作図したものですが、この図では国譲りの最終目的地は出雲ではなくて畿内だということになって、従来の解釈とは違った国譲り神話になります。
このように考えるのは『日本書紀』第二の一書が、オオナムチ(大己貴)の国譲りの後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順したとしているからです。オオナムチとオオモノヌシが区別されています。少々長くなりますが抜粋してみます。
ここに大己貴神は答えて、「天神の言われることはもっともです。あえて言われることに叛くことはありません。私が治めてきた顕露の事(あらわのこと、政事)は皇孫が治めなさい。私は退いて幽事(かくれたること、祭事)を治めます」と言った。すなわち岐神(ふなとのかみ)を二神に薦めて「この者が私に代わって仕えます。私は此処から去ろうと思います」(中略)
故に経津主神は岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として各地を平定して回った。逆らう者は斬り殺し帰順するものは褒めた。この時に帰順した首渠(君長・賊首)は大物主神と事代主神である。すなわち八十万(やそよろず)の神を天高市(あめのたけち)に集めて、率いて天(高天が原、邪馬台国)に昇って服属に偽りのないことを申し述べた。(後略)
オオナムチの国譲りの後に、オオモノヌシとコトシロヌシが帰順したというのですが、大己貴神は神話の舞台が山陰地方の場合のオオクニヌシですが、大和が舞台の場合には大物主になります。多くの場合、両者が区別されることはありませんが、ここでは明確に区別されています。そしてコトシロヌシもオオナムチではなく、オオモノヌシと共に帰順しています。
これはオオモノヌシを祀る大神(大三輪)氏や、コトシロヌシを祭る加茂氏の伝承でしょう。出雲の国譲りとは別に、近畿式銅鐸の内でも最も新しい4式・5式銅鐸を持っていた宗族が帰順したことが語られていると考えます。
そのオオモノヌシは多くの神々を天高市(あめのたけち)に集めて帰順したとされていますが、これは大和国高市郡に由来するのでしょう。高市郡は今の橿原市・明日香村・大和高田市などですが、大和朝廷の存在した古墳時代はともかくも、弥生時代の高市郡がそれほど重要な場所のようには思えません。
天照大神が岩戸にこもると八百万の神が「天の安の河原」に集まって善後策を相談したとされています。また出雲の特殊神事の「出雲神在祭」でも、出雲に参集した神々は、斐伊川の河原にある万九千神社で饗宴を催した後に帰っていくとされています。部族によって擁立された王の統治権は弱く、事が起きると合議が行なわれたようです。そのための広場が河原にあったようです。
初期の纏向遺跡もそうした広場だったでしょう。私は天高市は纏向遺跡のことであり、常時は市場だが有事には合議の場になったと考えています。纏向遺跡に有力者が集められ、部族の統合に同意するかどうか討議されたが、出雲はすでに帰順しているのだから、我々も帰順しようとゆうことになったと考えます。
2009年12月18日金曜日
大国主の国譲り その2
オオクニヌシの国譲りとは、銅鐸を配布した部族の支配権が台与の後の男王に譲り渡されたということですが、図は銅矛を配布した部族が勢力を東進させて銅鐸を配布した部族を統合していく経過を、後世の著名神社の位置からイメージしています。
『日本書紀』本文では物部氏の祀るフツヌシ(経津主)と中臣氏の祀るタケミカズチ(武甕槌)が出雲に派遣されて強談判を行うことになっていますが、国譲り神話にしばしばこの2神が登場してきます。このことからフツヌシを祀る物部氏系の神社の位置からイメージしています。
タケミカズチを祀る中臣氏との関係も示すべきであろうと思いますが、中臣氏の祀る神社は少ないので、物部氏の祀る神社のみを示しています。ローマ数字は物部氏の祭る神社であり、英数字は非物部系神社です。
Ⅰ 島根県太田市 物部神社、 大国主の国譲りと関係する?
Ⅱ 愛媛県大三島 大山祗神社、 物部氏の伝承
Ⅲ 岡山県赤磐町 石上布津之魂神社 ヤマタノオロチとの関係
Ⅳ 奈良県天理市 石上神宮 神武天皇東征のニギハヤヒ
① 長崎県対馬 海神神社 ウガヤフキアエズとの関係
② 福岡県 住吉神社 邪馬台国と関係
③ 大分県 宇佐神宮 神武天皇東征の脚一騰宮の伝承
④ 島根県 出雲大社 大国主の国譲り
⑤ 岡山県 吉備津神社 神武天皇東征の高島宮の伝承
⑥ 徳島県 大麻比古神社 阿波忌部の服属
⑦ 和歌山県 日前・国縣宮 神体の鏡の由来
⑧ 奈良県 大神神社 大物主の服属
⑨ 三重県 伊勢神宮 八咫鏡の由来
⑩ 愛知県 熱田神宮 草薙剣の由来
図は私の年代観の弥生時代後期後半から古墳時代前期(180~360年)にわたる、相当に長期間をイメージしています。概観を言うと九州北半の①~③は神武天皇の東征が始まるまでをイメージし、中国地方と瀬戸内の④~⑥は大国主の国譲りがあったことをイメージし、近畿地方の⑦~⑩は神武天皇の東征で大和朝廷が成立し、大和が政治の中心になったことをイメージしています。
図では中国・四国北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡が示しているように青銅祭器の流入はなかったものの、前段階の中広形銅矛や銅剣・銅鐸が分布しています。私は国譲りのあったのは250年代だと考えていますが、これらの青銅祭器の祭祀が国譲りまで続いたかどうかが問題です。
鳥取県青谷上寺地遺跡、及び出雲市青木遺跡で近畿4式、または5式銅鐸の「飾り耳」と呼ばれている部分が出土しています。銅鐸片については鋳造の原材料だとか、アクセサリーだとか言われていますが、銅鏡片がそうであるように完形の銅鐸と同じ性格を持っていると考えるのがよいでしょう。
出雲市青木遺跡遺跡では副葬品として出土しており、完形の銅鐸が集団の祭祀具であったのに対し、銅鐸片は個人が祀ったように思います。これは山陰地方の銅鐸の祭祀は続いていたのであり、荒神谷・加茂岩倉遺跡は国譲りが銅鐸を配布した部族だけでなく、銅剣を配布した部族にも及んだことを示していると考えています。
『日本書紀』本文では物部氏の祀るフツヌシ(経津主)と中臣氏の祀るタケミカズチ(武甕槌)が出雲に派遣されて強談判を行うことになっていますが、国譲り神話にしばしばこの2神が登場してきます。このことからフツヌシを祀る物部氏系の神社の位置からイメージしています。
タケミカズチを祀る中臣氏との関係も示すべきであろうと思いますが、中臣氏の祀る神社は少ないので、物部氏の祀る神社のみを示しています。ローマ数字は物部氏の祭る神社であり、英数字は非物部系神社です。
Ⅰ 島根県太田市 物部神社、 大国主の国譲りと関係する?
Ⅱ 愛媛県大三島 大山祗神社、 物部氏の伝承
Ⅲ 岡山県赤磐町 石上布津之魂神社 ヤマタノオロチとの関係
Ⅳ 奈良県天理市 石上神宮 神武天皇東征のニギハヤヒ
① 長崎県対馬 海神神社 ウガヤフキアエズとの関係
② 福岡県 住吉神社 邪馬台国と関係
③ 大分県 宇佐神宮 神武天皇東征の脚一騰宮の伝承
④ 島根県 出雲大社 大国主の国譲り
⑤ 岡山県 吉備津神社 神武天皇東征の高島宮の伝承
⑥ 徳島県 大麻比古神社 阿波忌部の服属
⑦ 和歌山県 日前・国縣宮 神体の鏡の由来
⑧ 奈良県 大神神社 大物主の服属
⑨ 三重県 伊勢神宮 八咫鏡の由来
⑩ 愛知県 熱田神宮 草薙剣の由来
図は私の年代観の弥生時代後期後半から古墳時代前期(180~360年)にわたる、相当に長期間をイメージしています。概観を言うと九州北半の①~③は神武天皇の東征が始まるまでをイメージし、中国地方と瀬戸内の④~⑥は大国主の国譲りがあったことをイメージし、近畿地方の⑦~⑩は神武天皇の東征で大和朝廷が成立し、大和が政治の中心になったことをイメージしています。
図では中国・四国北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡が示しているように青銅祭器の流入はなかったものの、前段階の中広形銅矛や銅剣・銅鐸が分布しています。私は国譲りのあったのは250年代だと考えていますが、これらの青銅祭器の祭祀が国譲りまで続いたかどうかが問題です。
鳥取県青谷上寺地遺跡、及び出雲市青木遺跡で近畿4式、または5式銅鐸の「飾り耳」と呼ばれている部分が出土しています。銅鐸片については鋳造の原材料だとか、アクセサリーだとか言われていますが、銅鏡片がそうであるように完形の銅鐸と同じ性格を持っていると考えるのがよいでしょう。
出雲市青木遺跡遺跡では副葬品として出土しており、完形の銅鐸が集団の祭祀具であったのに対し、銅鐸片は個人が祀ったように思います。これは山陰地方の銅鐸の祭祀は続いていたのであり、荒神谷・加茂岩倉遺跡は国譲りが銅鐸を配布した部族だけでなく、銅剣を配布した部族にも及んだことを示していると考えています。
2009年12月17日木曜日
大国主の国譲り その1
卑弥呼の死後に起きた千余人が殺されるという争乱は、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。神話ではこれが天照大神の天の岩戸こもりとして語られていますが、争乱の原因はスサノオ(面土国王)にあるとされ、追放されたことになっています。
広形銅戈が激減していることから分かるように銅戈を配布した部族は劣勢でしたから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、面土国王が悪役にされたのです。その結果、台与が共立されますが、面土国王と銅戈を配布した部族という対立する勢力が消滅したことにより女王制は有名無実になります。
そこで台与を退位させて男王を立て、倭人を統一しようという動きが出てきます。これを画策したのが大倭(高皇産霊尊)や難升米(思金神)たちでした。倭人を統一するとなると、思い立ったからといって直ぐに実行できる性質のものではありませんが、その基礎はすでに出来上がっていました。
それには2つの大きな要素があると考えています。その一つは卑弥呼の「親魏倭王」という魏の爵号です。台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、台与もまた親魏倭王に冊封されたでしょう。
周代の諸侯(後の内臣の王)は周王の住む城からの距離に応じて毎年、二年毎、3年毎というように定期的に貢納することを義務付けられていました。卑弥呼は即位後ほぼ隔年に遣使していますが、これは周王の居城から1500~2000里以内を領土とする「旬服」に位置づけられている諸候に義務付けられた頻度に当たります。
卑弥呼の「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる高位で、他には大月氏国(クシャーン王国)のヴァースデーヴァ王が「親魏大月氏王」に任ぜられただけでした。卑弥呼は魏皇帝の執務代行者として、倭人の有力者に魏の官職を授けることができたと考えられます。
このことについては「邪馬台国と神話 その3」で述べていますので参考にして下さい。これは部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・主導権)が存在しているということです。後継者の台与が倭人を統一したいと言えば、それは魏皇帝が言ったことになります。
冊封体制の職約(義務)によって、部族の擁立した王は稍(六〇〇里四方)以上を支配することはできませんが、親魏倭王はそれらの王を超越した存在でした。親魏倭王の卑弥呼・台与がいたことが、弥生時代の部族制社会から古墳時代の氏姓制社会への転換の契機になりました。
もう一つの基礎は青銅祭器を配布する巨大な部族が存在していたことです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしたものですが、卑弥呼・台与の時代に配布された銅矛と銅鐸の分布が示されています。
北部九州から四国西部に銅矛が分布し、近畿から四国東南部に銅鐸が分布しています。両者は四国南部で接触していますが、これは条件が整えば何時でも統合できる状態になっていたということです。
倭人を統一するには銅矛・銅鐸を配布した部族の族長に、その支配権を放棄させればよいのです。一般にオオクニヌシの国譲りといえば出雲の国を譲り渡したということだと考えられていますが、実は銅鐸を配布した部族の支配権を、台与の後の男王に譲り渡したということなのです。
オオクニヌシには多くの別名がありますが同時に稍出雲(中国・四国地方)の王でもあります。図では中国地方と四国の北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に見られるように、ここには銅矛・銅鐸に加えて銅剣も見られます。オオクニヌシの別名を八千戈神とも言いますが、これは銅剣のことを言っているのでしょう。
出雲の王が部族の統一に同意したことで銅矛・銅鐸を配布した部族も、また銅剣を配布した部族も部族も統一に同意したのでしょう。国譲り神話の舞台が出雲とされているのはこのためでしょう。
広形銅戈が激減していることから分かるように銅戈を配布した部族は劣勢でしたから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、面土国王が悪役にされたのです。その結果、台与が共立されますが、面土国王と銅戈を配布した部族という対立する勢力が消滅したことにより女王制は有名無実になります。
そこで台与を退位させて男王を立て、倭人を統一しようという動きが出てきます。これを画策したのが大倭(高皇産霊尊)や難升米(思金神)たちでした。倭人を統一するとなると、思い立ったからといって直ぐに実行できる性質のものではありませんが、その基礎はすでに出来上がっていました。
それには2つの大きな要素があると考えています。その一つは卑弥呼の「親魏倭王」という魏の爵号です。台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、台与もまた親魏倭王に冊封されたでしょう。
周代の諸侯(後の内臣の王)は周王の住む城からの距離に応じて毎年、二年毎、3年毎というように定期的に貢納することを義務付けられていました。卑弥呼は即位後ほぼ隔年に遣使していますが、これは周王の居城から1500~2000里以内を領土とする「旬服」に位置づけられている諸候に義務付けられた頻度に当たります。
卑弥呼の「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる高位で、他には大月氏国(クシャーン王国)のヴァースデーヴァ王が「親魏大月氏王」に任ぜられただけでした。卑弥呼は魏皇帝の執務代行者として、倭人の有力者に魏の官職を授けることができたと考えられます。
このことについては「邪馬台国と神話 その3」で述べていますので参考にして下さい。これは部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・主導権)が存在しているということです。後継者の台与が倭人を統一したいと言えば、それは魏皇帝が言ったことになります。
冊封体制の職約(義務)によって、部族の擁立した王は稍(六〇〇里四方)以上を支配することはできませんが、親魏倭王はそれらの王を超越した存在でした。親魏倭王の卑弥呼・台与がいたことが、弥生時代の部族制社会から古墳時代の氏姓制社会への転換の契機になりました。
もう一つの基礎は青銅祭器を配布する巨大な部族が存在していたことです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしたものですが、卑弥呼・台与の時代に配布された銅矛と銅鐸の分布が示されています。
北部九州から四国西部に銅矛が分布し、近畿から四国東南部に銅鐸が分布しています。両者は四国南部で接触していますが、これは条件が整えば何時でも統合できる状態になっていたということです。
倭人を統一するには銅矛・銅鐸を配布した部族の族長に、その支配権を放棄させればよいのです。一般にオオクニヌシの国譲りといえば出雲の国を譲り渡したということだと考えられていますが、実は銅鐸を配布した部族の支配権を、台与の後の男王に譲り渡したということなのです。
オオクニヌシには多くの別名がありますが同時に稍出雲(中国・四国地方)の王でもあります。図では中国地方と四国の北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に見られるように、ここには銅矛・銅鐸に加えて銅剣も見られます。オオクニヌシの別名を八千戈神とも言いますが、これは銅剣のことを言っているのでしょう。
出雲の王が部族の統一に同意したことで銅矛・銅鐸を配布した部族も、また銅剣を配布した部族も部族も統一に同意したのでしょう。国譲り神話の舞台が出雲とされているのはこのためでしょう。
2009年12月14日月曜日
少名彦那と大物主 その2
『 古事記』では国作りの途中でスクナヒコナは常世の国に行ってしまい、オオクニヌシ(大国主)が嘆いているとオオモノヌシ(大物主)が現れて共に国造りをすることになっています。ここでオオクニヌシと「双生児的な関係」、あるいは「第2の自我」であるスクナヒコナは、オオモノヌシと入れ替わります。言うまでもなくオオモノヌシは奈良県大神神社の祭神で、纏向遺跡にとっては神奈備山とも言うべき三輪山に祀られている神です。
以前には銅鐸分布圏と利器形祭器分布圏とは対立しており九州には銅鐸は無いと考えられていましたが、最近では九州に古いタイプの銅鐸があることが知られるようになって来ました。銅鐸もやはり九州が起源であり、部族の支配権の移動に伴って分布圏も移動したようです。
近畿式銅鐸が造られ始めて、銅鐸の祭祀の中心は近畿地方に移ります。中国地方(稍P)の銅鐸を配布した部族は、初期には荒神谷の6個や福田形のような最古式の銅鐸を持っていた宗族が支配していたが、やがて近畿式銅鐸を持っていた宗族に移るようです。
それは一世紀末ころで北部九州では奴国王から面土国王に王権の移譲があり、また中国地方では荒神谷の中細形銅剣c類が造られたことにより、部族間のパワーバランスに変化があったことに関係するのでしょう。
スクナヒコナが常世の国に行ったというのは、一見すると最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだということのように思えますが、そうではなさそうです。考古学では青銅祭器が造られなくなった時点と祭祀が終わった時点とは、得てして同じだと考えられ勝ちですが、造られなくなった時と祭祀が終わった時とには時間差があるはずです。
荒神谷遺跡では最古式の銅鐸と中広形銅矛b類が同じ埋納坑から出土しています。写真は出土状況を再現したものですが、同時に埋められたことが分かります。銅鐸の祭祀は続いており最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだわけではありません。
荒神谷遺跡では銅剣と銅矛・銅鐸が7メートルほど離れた別の埋納坑から出土しました。銅鐸6個は最古式の特徴を持ち、九州で造られたことを考えてもよいと思います。銅矛は明らかに九州で造られたもので、それが同じ埋納坑から出土しています。
出雲で造られたとも言われている銅剣は別の埋納坑に埋められていましたが、埋納坑が別になっているのは、部族連合国家としての出雲(稍P)が、九州(稍M)系宗族と畿内(稍O)系宗族に分立していたということでしょう。
近畿式銅鐸が荒神谷遺跡にはなく、加茂岩倉遺跡で出土していることもこのことを表しているようです。私は荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器はオオクニヌシの国譲りの時に埋納されたと考えますが、荒神谷に埋納された時点では加茂岩倉の近畿式銅鐸を持っていた宗族は国譲りに同意していなかったようです。
『日本書紀』第二の一書はオオナムチ(オオクニヌシの別名)が国譲りした後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシとコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしています。加茂岩倉の銅鐸はこの時に埋納されたようで、荒神谷と加茂岩倉にはわずかに時間差があると思われます。
オオモノヌシはオオクニヌシの別名とされ、オオクニヌシの子がコトシロヌシだと考えられていますが、大神氏(大三輪氏)の祖がオオモノヌシであり、加茂氏の祖がコトシロヌシで、両者は共に銅鐸を祀る宗族ではあるけれど父子というわけではないようです。
オオクニヌシの国造りのイメージは、西日本が律令制出雲国を中心にして統一されたように思えますが、これは銅鐸を配布した部族の神話であり、その内部事情が語られているようです。
以前には銅鐸分布圏と利器形祭器分布圏とは対立しており九州には銅鐸は無いと考えられていましたが、最近では九州に古いタイプの銅鐸があることが知られるようになって来ました。銅鐸もやはり九州が起源であり、部族の支配権の移動に伴って分布圏も移動したようです。
近畿式銅鐸が造られ始めて、銅鐸の祭祀の中心は近畿地方に移ります。中国地方(稍P)の銅鐸を配布した部族は、初期には荒神谷の6個や福田形のような最古式の銅鐸を持っていた宗族が支配していたが、やがて近畿式銅鐸を持っていた宗族に移るようです。
それは一世紀末ころで北部九州では奴国王から面土国王に王権の移譲があり、また中国地方では荒神谷の中細形銅剣c類が造られたことにより、部族間のパワーバランスに変化があったことに関係するのでしょう。
スクナヒコナが常世の国に行ったというのは、一見すると最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだということのように思えますが、そうではなさそうです。考古学では青銅祭器が造られなくなった時点と祭祀が終わった時点とは、得てして同じだと考えられ勝ちですが、造られなくなった時と祭祀が終わった時とには時間差があるはずです。
荒神谷遺跡では最古式の銅鐸と中広形銅矛b類が同じ埋納坑から出土しています。写真は出土状況を再現したものですが、同時に埋められたことが分かります。銅鐸の祭祀は続いており最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだわけではありません。
荒神谷遺跡では銅剣と銅矛・銅鐸が7メートルほど離れた別の埋納坑から出土しました。銅鐸6個は最古式の特徴を持ち、九州で造られたことを考えてもよいと思います。銅矛は明らかに九州で造られたもので、それが同じ埋納坑から出土しています。
出雲で造られたとも言われている銅剣は別の埋納坑に埋められていましたが、埋納坑が別になっているのは、部族連合国家としての出雲(稍P)が、九州(稍M)系宗族と畿内(稍O)系宗族に分立していたということでしょう。
近畿式銅鐸が荒神谷遺跡にはなく、加茂岩倉遺跡で出土していることもこのことを表しているようです。私は荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器はオオクニヌシの国譲りの時に埋納されたと考えますが、荒神谷に埋納された時点では加茂岩倉の近畿式銅鐸を持っていた宗族は国譲りに同意していなかったようです。
『日本書紀』第二の一書はオオナムチ(オオクニヌシの別名)が国譲りした後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシとコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしています。加茂岩倉の銅鐸はこの時に埋納されたようで、荒神谷と加茂岩倉にはわずかに時間差があると思われます。
オオモノヌシはオオクニヌシの別名とされ、オオクニヌシの子がコトシロヌシだと考えられていますが、大神氏(大三輪氏)の祖がオオモノヌシであり、加茂氏の祖がコトシロヌシで、両者は共に銅鐸を祀る宗族ではあるけれど父子というわけではないようです。
オオクニヌシの国造りのイメージは、西日本が律令制出雲国を中心にして統一されたように思えますが、これは銅鐸を配布した部族の神話であり、その内部事情が語られているようです。
2009年12月12日土曜日
少名彦那と大物主 その1
根の堅洲国のスサノオからさまざまな試練を受けたオオナムチは、鼠やスセリビメの助けを借りてこれを乗り切り、兄弟の八十神を追い伏せ、追い払って国造りを始めます。国造りを助けたのがスクナヒコナ(少名彦那)とオオモノヌシ(大物主)ですが、スクナヒコナについて本居宣長は『古事記伝』で次のように述べています。
此ノ御名の須久那は、只少の意のみとも聞こえ、又名の字を添えて書けるは、大名持の大名に対へるか
スクナとは一寸法師のような小さな神という意味か、あるいはオオクニヌシの別名であるオオナモチ(大名持)のオオナに対してスクナ(少名)というのであろうとしています。また両者の双生児的な関係が述べられているとする説や、スクナヒコナにオオクニヌシの「第2の自我」を見ることができるとする説もあります。
私はこれらの説に概ね同意したいと思いますが、青銅祭器と神話は相関々係にあると考えるので、「少」については「小さな銅鐸」のことだと理解しています。オオクニヌシは銅鐸を配布した部族ですから、スクナヒコナは銅鐸を祀っていた宗族だと考えるのです。
初期の菱環鈕式銅鐸が24センチ程度であるのに対して、滋賀県小篠原出土の突線鈕5式銅鐸は135センチもあり、その差は110センチにもなります。図は同縮尺で比較したものですが、とても同じ銅鐸とは思えないほどの違いで、その違いを小さな神だと語り伝えていると考えます。
その小さな銅鐸の中に「福田形」という特殊な形態を持つ一群がありますが、この福田形銅鐸を持っていた宗族がスクナヒコナのようです。その福田形銅鐸は5個が出土しています。図は私の想定している福田形銅鐸の移動経路です。
考えられることは福田形銅鐸を持っていた宗族は北部九州(女王国)の宗族と同族関係にあったということです。それに対し近畿式銅鐸は近畿地方で造られたものであり、これを持っていた宗族は近畿地方の宗族と同族関係があったようです。つまり青銅祭器を配布した部族には幾つもの分派があったのであり、銅鐸の場合には東海地方西部にも三遠式銅鐸を持っていた分派がありました。
此ノ御名の須久那は、只少の意のみとも聞こえ、又名の字を添えて書けるは、大名持の大名に対へるか
スクナとは一寸法師のような小さな神という意味か、あるいはオオクニヌシの別名であるオオナモチ(大名持)のオオナに対してスクナ(少名)というのであろうとしています。また両者の双生児的な関係が述べられているとする説や、スクナヒコナにオオクニヌシの「第2の自我」を見ることができるとする説もあります。
私はこれらの説に概ね同意したいと思いますが、青銅祭器と神話は相関々係にあると考えるので、「少」については「小さな銅鐸」のことだと理解しています。オオクニヌシは銅鐸を配布した部族ですから、スクナヒコナは銅鐸を祀っていた宗族だと考えるのです。
初期の菱環鈕式銅鐸が24センチ程度であるのに対して、滋賀県小篠原出土の突線鈕5式銅鐸は135センチもあり、その差は110センチにもなります。図は同縮尺で比較したものですが、とても同じ銅鐸とは思えないほどの違いで、その違いを小さな神だと語り伝えていると考えます。
その小さな銅鐸の中に「福田形」という特殊な形態を持つ一群がありますが、この福田形銅鐸を持っていた宗族がスクナヒコナのようです。その福田形銅鐸は5個が出土しています。図は私の想定している福田形銅鐸の移動経路です。
②佐賀県吉野ヶ里銅鐸
④広島県福田木の宗山銅鐸
⑤島根県木幡家銅鐸
⑥伝伯耆出土銅鐸
⑦岡山県足守銅鐸
佐賀県吉野ヶ里銅鐸を除く4個が中国地方の中央部で出土していることに注意が必要で、付近はヤマタノオロチやスクナヒコナの伝承地になっています。私は『風土記』に見えるスクナヒコナの伝承から、播磨国神前郡(兵庫県神前郡)と③の伊予国温泉郡(愛媛県松山市付近)にも福田形銅鐸があると見ています。
その中間の40センチ前後の大きさの近畿2式、近畿3式銅鐸を持っていた宗族がオオモノヌシのようで、これが書によってはコトシロヌシ(事代主)になることもあるようです。大神氏(大三輪氏)の伝承の場合にはオオモノヌシになり、加茂氏の伝承の場合にはコトシロヌシになるようです。
福田形銅鐸は佐賀県吉野ヶ里でも出土しており、その鋳型は九州以外では出土せず佐賀県安永田、福岡県赤穂ノ浦(図の①)で出土していますから、福田形銅鐸は九州で造られ中国地方に運ばれてきたと考えてよいでしょう。
④広島県福田木の宗山銅鐸
⑤島根県木幡家銅鐸
⑥伝伯耆出土銅鐸
⑦岡山県足守銅鐸
佐賀県吉野ヶ里銅鐸を除く4個が中国地方の中央部で出土していることに注意が必要で、付近はヤマタノオロチやスクナヒコナの伝承地になっています。私は『風土記』に見えるスクナヒコナの伝承から、播磨国神前郡(兵庫県神前郡)と③の伊予国温泉郡(愛媛県松山市付近)にも福田形銅鐸があると見ています。
その中間の40センチ前後の大きさの近畿2式、近畿3式銅鐸を持っていた宗族がオオモノヌシのようで、これが書によってはコトシロヌシ(事代主)になることもあるようです。大神氏(大三輪氏)の伝承の場合にはオオモノヌシになり、加茂氏の伝承の場合にはコトシロヌシになるようです。
福田形銅鐸は佐賀県吉野ヶ里でも出土しており、その鋳型は九州以外では出土せず佐賀県安永田、福岡県赤穂ノ浦(図の①)で出土していますから、福田形銅鐸は九州で造られ中国地方に運ばれてきたと考えてよいでしょう。
そして『古事記』はスクナヒコナを神産巣日神の子とし、『日本書紀』第六の一書は高皇産霊尊の子だとしていますが、先述のように神産巣日神も高皇産霊尊も高天が原の神です。高天が原は邪馬台国ですが、最古式銅鐸と邪馬台国が結びつきます。
考えられることは福田形銅鐸を持っていた宗族は北部九州(女王国)の宗族と同族関係にあったということです。それに対し近畿式銅鐸は近畿地方で造られたものであり、これを持っていた宗族は近畿地方の宗族と同族関係があったようです。つまり青銅祭器を配布した部族には幾つもの分派があったのであり、銅鐸の場合には東海地方西部にも三遠式銅鐸を持っていた分派がありました。
2009年12月7日月曜日
八岐大蛇 その4
スサノオは面土国王ですが、銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になりました。スサノオは銅戈を配布した部族でもあります。そのスサノオは出雲でも活動しますが出雲の銅戈は1本だけで、その活動ぶりと出土した銅戈数はアンバランスです。
ところが大阪湾沿岸には「大阪湾形」と呼ばれる銅戈が見られ、出雲神話のスサノオには大阪湾形銅戈を配布した部族が含まれていることが考えられます。和歌山県有田市山地では大阪湾形銅戈6本が出土しており、近くにはスサノオの子の五十猛を祭る伊太祁曾神社があり、樹種を蒔いたという伝承があります。また和歌山県内には熊野本宮大社を始めとして多くのスサノオ伝承があります。
長野県中野市の柳沢遺跡で銅鐸5個と大阪湾形銅戈6本が、九州形銅戈1本と共に出土して注目されていますが、大阪湾形銅戈6本の中には和歌山県有田市山地のものと同じ斜格子文、複合鋸歯文を持つものが見られて、両遺跡に関係のあることが考えられています。
信濃の九州形銅戈はこれで2本になりましたが、2本の九州形銅戈は面土国王と直接の関係があり、6本の大阪湾形銅戈は大阪湾沿岸を介した間接の関係が有ったことが考えられます。信濃にはスサノオの伝承はないようですが、諏訪大社の祭神タケミナカタを筑前宗像と結びつける説があります。
これらの事を見ると神話の出雲は近畿から北陸にかけての地域も含まれていると考えるのがよさそうです。つまり倭人伝に見える、女王国の東の海を渡った所にある「倭種の国」が、神話では出雲として捉えられているのです。私は倭人伝に見える「船行一年」を面土国から本州の東端に至るのに 一年を要するのだと理解しています。
兵庫県神戸市桜ヶ岡遺跡の銅鐸14個と共に出土した大阪湾形銅戈7本や、神戸市保久良遺跡の1本などについてはスサノオとの関係が見られませんが、『播磨国風土記』に見られるようにアシハラシコオ(オオクニヌシの別名)や天之日矛・伊和大神の伝承のために消滅してしまったことが考えられます。
長野県柳沢、神戸市桜ヶ岡のいずれも銅鐸と共伴しており、そこは近畿式銅鐸の分布する地域でもあります。大場磐雄氏は『銅鐸私考』で、銅鐸を使用した氏族を大神氏(大三輪氏)・加茂氏などの「出雲神族」だとしています。出雲神族とはオオクニヌシに系譜が連なるという伝承を持っている氏族という意味で、銅鐸の分布している地域にはオオクニヌシの伝承があります。
倭国大乱は近畿・北陸地方にまで波及していった可能性があります。この地方にはヤマタノオロチの伝承がないので推察になりますが、もしも争乱が起きたのであれば、それは近畿式銅鐸を配布した部族と大阪湾形銅戈を配布した部族の対立であったはずです。
このような推察をするのは紀伊(和歌山県)が『古事記』でオオナムチ(オオクニヌシの別名)がスサノオの娘のスセリビメを妻問い(求婚)する神話の舞台になっているからです。神話の舞台は「木の国」となっていますが、紀伊のことです。
根の堅洲国のスサノオからさまざまな試練を受けたオオナムチは、鼠やスセリビメの助けを借りてこれを乗り切り、スセリビメと生大刀・生弓矢・天の沼琴を手に入れ、大国主になるという物語です。出雲のヤマタノオロチの神話はスサノオがクシイナタビメを妻問いしますが、紀伊ではオオナムチがスサノオの娘を妻問いしています。
私は銅鐸分布圏では大きな争乱は起きなかったと考えていますが、オオナムチがスサノオから試練を受けることが、倭国大乱が紀伊や信濃に波及したことを表していると考えます。その結果、近畿式銅鐸を配布した部族が王を擁立しますが、その王がオオクニヌシとされるようになると考えます。
こうして『日本書紀』本文に見えるオオクニヌシをスサノオの児とする伝承が生まれたと考えますが、これは銅鐸を配布した部族の伝承で、他の一書や『古事記』の六世孫とするものは銅矛・銅剣を配布した部族の伝承でしょう。銅剣を配布した部族の伝承だと考えるのがよさそうです。
ところが大阪湾沿岸には「大阪湾形」と呼ばれる銅戈が見られ、出雲神話のスサノオには大阪湾形銅戈を配布した部族が含まれていることが考えられます。和歌山県有田市山地では大阪湾形銅戈6本が出土しており、近くにはスサノオの子の五十猛を祭る伊太祁曾神社があり、樹種を蒔いたという伝承があります。また和歌山県内には熊野本宮大社を始めとして多くのスサノオ伝承があります。
長野県中野市の柳沢遺跡で銅鐸5個と大阪湾形銅戈6本が、九州形銅戈1本と共に出土して注目されていますが、大阪湾形銅戈6本の中には和歌山県有田市山地のものと同じ斜格子文、複合鋸歯文を持つものが見られて、両遺跡に関係のあることが考えられています。
信濃の九州形銅戈はこれで2本になりましたが、2本の九州形銅戈は面土国王と直接の関係があり、6本の大阪湾形銅戈は大阪湾沿岸を介した間接の関係が有ったことが考えられます。信濃にはスサノオの伝承はないようですが、諏訪大社の祭神タケミナカタを筑前宗像と結びつける説があります。
これらの事を見ると神話の出雲は近畿から北陸にかけての地域も含まれていると考えるのがよさそうです。つまり倭人伝に見える、女王国の東の海を渡った所にある「倭種の国」が、神話では出雲として捉えられているのです。私は倭人伝に見える「船行一年」を面土国から本州の東端に至るのに 一年を要するのだと理解しています。
兵庫県神戸市桜ヶ岡遺跡の銅鐸14個と共に出土した大阪湾形銅戈7本や、神戸市保久良遺跡の1本などについてはスサノオとの関係が見られませんが、『播磨国風土記』に見られるようにアシハラシコオ(オオクニヌシの別名)や天之日矛・伊和大神の伝承のために消滅してしまったことが考えられます。
長野県柳沢、神戸市桜ヶ岡のいずれも銅鐸と共伴しており、そこは近畿式銅鐸の分布する地域でもあります。大場磐雄氏は『銅鐸私考』で、銅鐸を使用した氏族を大神氏(大三輪氏)・加茂氏などの「出雲神族」だとしています。出雲神族とはオオクニヌシに系譜が連なるという伝承を持っている氏族という意味で、銅鐸の分布している地域にはオオクニヌシの伝承があります。
倭国大乱は近畿・北陸地方にまで波及していった可能性があります。この地方にはヤマタノオロチの伝承がないので推察になりますが、もしも争乱が起きたのであれば、それは近畿式銅鐸を配布した部族と大阪湾形銅戈を配布した部族の対立であったはずです。
このような推察をするのは紀伊(和歌山県)が『古事記』でオオナムチ(オオクニヌシの別名)がスサノオの娘のスセリビメを妻問い(求婚)する神話の舞台になっているからです。神話の舞台は「木の国」となっていますが、紀伊のことです。
根の堅洲国のスサノオからさまざまな試練を受けたオオナムチは、鼠やスセリビメの助けを借りてこれを乗り切り、スセリビメと生大刀・生弓矢・天の沼琴を手に入れ、大国主になるという物語です。出雲のヤマタノオロチの神話はスサノオがクシイナタビメを妻問いしますが、紀伊ではオオナムチがスサノオの娘を妻問いしています。
私は銅鐸分布圏では大きな争乱は起きなかったと考えていますが、オオナムチがスサノオから試練を受けることが、倭国大乱が紀伊や信濃に波及したことを表していると考えます。その結果、近畿式銅鐸を配布した部族が王を擁立しますが、その王がオオクニヌシとされるようになると考えます。
こうして『日本書紀』本文に見えるオオクニヌシをスサノオの児とする伝承が生まれたと考えますが、これは銅鐸を配布した部族の伝承で、他の一書や『古事記』の六世孫とするものは銅矛・銅剣を配布した部族の伝承でしょう。銅剣を配布した部族の伝承だと考えるのがよさそうです。
2009年12月5日土曜日
八岐大蛇 その3
2世紀末の倭国大乱を境にして、武器形祭器は中広形から広形に変わりますが、それにつれて女王国(稍P)では銅戈が激減し銅矛が増加しています。卑弥呼を女王に擁立したことにより部族の構成が変わり、銅矛を配布した部族が優勢になったことを表しています。
中国・四国地方の稍(稍P)でも同様の現象が見られ、広形の青銅祭器が見られなくなります。北部九州製の銅矛も、近畿製の銅鐸も流入してこなくなり、また自分達で銅剣を造らなくなります。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。
これについては青銅祭器の祭祀をやめて山陰側では四隅突出型墳丘墓の、また山陽側では特殊器台を用いた墓の祭祀を行なうようになったと考えられていますが、私は青銅祭器を用いた宗廟祭祀は続いていると見ています。新たな王が立てられたことにより部族の構成が固定されたため、青銅祭器を配布する必要がなくなったのだと考えます。女王国とは 逆の現象が起きたのです。
女王国の大乱は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でしたが、その結果、部族に対して中立の立場の卑弥呼が王に共立されます。大乱は中国・四国地方の稍(稍P)にも波及したようです。前回に述べたように銅矛を配布した部族、すなわちヤマタノオロチ(邪馬台のおろ血)が通婚を強要して勢力を拡大しようとしたようです。
そのため銅矛、銅剣・銅鐸を配布した三部族が鼎立する争乱に発展したようです。神話は斬られたオロチの血で斐伊川が染まったと述べていますが、鳥取県青谷上寺地遺跡では殺傷痕のあるものを含む90数体の人骨が溝の中で見つかっています。その時期は170年ころと見られていますから、倭国大乱が因幡に波及してきたことを考えて見る必要がありそうです。
島根県荒神谷遺跡では銅剣358本、銅矛16個、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が出土しており、その合計は419になります。青銅祭器がこの2遺跡に集中している意味を考える必要がありますが、出雲国内では他でも出土しています。これらの青銅祭器の全てが出雲国内から回収されたようには思えません。
荒神谷遺跡が発見された時、島根大学の山本清氏は358本の銅剣に関連して「山陰地方連合体」という考えを提唱されました。山陰地方は8国52郡387郷だから、1郷に1本が配布されたのであり、「山陰地方連合体」が存在したのだというものです。
マタノオロチの伝承は安芸の可愛川流域や備前の赤坂郡にもありますから、大乱は中国地方一帯に波及したことが考えられます。銅剣には隣接する山陰・山陽や四国、つまり「稍P」の全域から回収されたものもあると考えるのがよいようです。ちなみに荒神谷遺跡のものと同じ中細形銅剣c類が四国でも出土しています。
稍P(出雲)の三部族に対して中立の立場にあるのは銅戈を配布した部族ですが、出雲の銅戈の出土は一本だけで王を立てることができる勢力ではありません。このような場合、銅戈を配布した部族が王をたてることはできませんが、卑弥呼の例のように出雲の王は三部族鼎立のバランスの上に立つ必要があり、こうして王になったのが面土国王の同族で、これが出雲神話のスサノオだと思われます。
出雲大社本殿の背後にスサノオを祀る素鵞神社があります。素鵞神社の東200メートルほどの境外摂社、命主神社境内から中細形銅戈1本と硬玉製の勾玉1個が出土しています。出雲大社の祭神はオオクニヌシですが、中世にはスサノオと考えられた時期がありました。出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しているようです。
スサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものでもありますが、この銅戈を持っていた宗族がオロチを退治したスサノオとされているようです。このために出雲大社の摂社として素鵞神社が祭られるようになったことが考えられます。
オロチの尾を切ると中から草薙剣が出て来ることになっています。この剣は中細形銅剣c類を配布した部族を象徴しており、この剣を持つことは銅剣を配布した部族を支配している王であることを表すと考えています。それが今では皇位を継承していることを表すようになっています。
荒神谷遺跡の青銅祭器は銅剣が圧倒的に多数ですが、スサノオが草薙剣を得たというのは、中細形銅剣c類を配布した部族が面土国王の一族を王に擁立したということなのでしょう。
中国・四国地方の稍(稍P)でも同様の現象が見られ、広形の青銅祭器が見られなくなります。北部九州製の銅矛も、近畿製の銅鐸も流入してこなくなり、また自分達で銅剣を造らなくなります。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。
これについては青銅祭器の祭祀をやめて山陰側では四隅突出型墳丘墓の、また山陽側では特殊器台を用いた墓の祭祀を行なうようになったと考えられていますが、私は青銅祭器を用いた宗廟祭祀は続いていると見ています。新たな王が立てられたことにより部族の構成が固定されたため、青銅祭器を配布する必要がなくなったのだと考えます。女王国とは 逆の現象が起きたのです。
女王国の大乱は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でしたが、その結果、部族に対して中立の立場の卑弥呼が王に共立されます。大乱は中国・四国地方の稍(稍P)にも波及したようです。前回に述べたように銅矛を配布した部族、すなわちヤマタノオロチ(邪馬台のおろ血)が通婚を強要して勢力を拡大しようとしたようです。
そのため銅矛、銅剣・銅鐸を配布した三部族が鼎立する争乱に発展したようです。神話は斬られたオロチの血で斐伊川が染まったと述べていますが、鳥取県青谷上寺地遺跡では殺傷痕のあるものを含む90数体の人骨が溝の中で見つかっています。その時期は170年ころと見られていますから、倭国大乱が因幡に波及してきたことを考えて見る必要がありそうです。
島根県荒神谷遺跡では銅剣358本、銅矛16個、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が出土しており、その合計は419になります。青銅祭器がこの2遺跡に集中している意味を考える必要がありますが、出雲国内では他でも出土しています。これらの青銅祭器の全てが出雲国内から回収されたようには思えません。
荒神谷遺跡が発見された時、島根大学の山本清氏は358本の銅剣に関連して「山陰地方連合体」という考えを提唱されました。山陰地方は8国52郡387郷だから、1郷に1本が配布されたのであり、「山陰地方連合体」が存在したのだというものです。
マタノオロチの伝承は安芸の可愛川流域や備前の赤坂郡にもありますから、大乱は中国地方一帯に波及したことが考えられます。銅剣には隣接する山陰・山陽や四国、つまり「稍P」の全域から回収されたものもあると考えるのがよいようです。ちなみに荒神谷遺跡のものと同じ中細形銅剣c類が四国でも出土しています。
稍P(出雲)の三部族に対して中立の立場にあるのは銅戈を配布した部族ですが、出雲の銅戈の出土は一本だけで王を立てることができる勢力ではありません。このような場合、銅戈を配布した部族が王をたてることはできませんが、卑弥呼の例のように出雲の王は三部族鼎立のバランスの上に立つ必要があり、こうして王になったのが面土国王の同族で、これが出雲神話のスサノオだと思われます。
出雲大社本殿の背後にスサノオを祀る素鵞神社があります。素鵞神社の東200メートルほどの境外摂社、命主神社境内から中細形銅戈1本と硬玉製の勾玉1個が出土しています。出雲大社の祭神はオオクニヌシですが、中世にはスサノオと考えられた時期がありました。出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しているようです。
スサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものでもありますが、この銅戈を持っていた宗族がオロチを退治したスサノオとされているようです。このために出雲大社の摂社として素鵞神社が祭られるようになったことが考えられます。
オロチの尾を切ると中から草薙剣が出て来ることになっています。この剣は中細形銅剣c類を配布した部族を象徴しており、この剣を持つことは銅剣を配布した部族を支配している王であることを表すと考えています。それが今では皇位を継承していることを表すようになっています。
荒神谷遺跡の青銅祭器は銅剣が圧倒的に多数ですが、スサノオが草薙剣を得たというのは、中細形銅剣c類を配布した部族が面土国王の一族を王に擁立したということなのでしょう。
2009年12月2日水曜日
八岐大蛇 その2
今では蛇も蛙も少なくなってあまり見かけませんが、以前には蛇が蛙を丸呑みにしているのをよく見たものです。「蛇ににらまれた蛙」と言いますが、蛙は蛇の意のままになっています。蛙を助けようと蛇を殺した経験のある人もいるでしょう。このような経験が、ある史実と結びついてヤマタノオロチの神話が生まれたようです。
蛇のことを古くはミズチ(水の精霊)といい、巨大なミズチがオロチです。ミズチは蛙を呑みますがオロチは娘を呑みます。子供が蛙を助けようとして蛇を殺すように、スサノオが娘を助けるために巨大な蛇、すなわちヤマタノオロチを殺したというストーリーができたようです。しかし実際に娘を呑むような大蛇がいたわけではありません。
ヤマタノオロチについては「鉄穴流し」と呼ばれる製鉄法にまつわる伝承だとか、シベリヤのオロチョン族だとする説、あるいは斐伊川の氾濫を表しているとする説などがありますが、神話が史実ではないとされる代表格がこのヤマタノオロチでしょう。私はヤマタノオロチを「邪馬台のおろ血」だと理解しています。
日本古典文学大系『日本書紀』は「頭尾八岐有り」とあるので八岐大蛇というとし、ヲを峰、ロを助詞、チはミズチ、イカヅチなどのチだとしていますが、私は「オロチ」の「オ」は「緒=ほそ紐」のことで、緒には始め・興り・糸口・筋という意味もあり、同族間の序列を言うと考えています。ニニギの天孫降臨に随行する神を「五伴緒」(いつのとものお)とする使用例があります。前述のように スサノオも「帥升の緒」でしょう。
助詞の「ロ」は同族間の序列に従って、オウ(王)・オミ(臣)・オサ(長)・オヤ(親)・オセ(大人)・オエ(大兄・兄)・オト(弟)・オジ(叔父)・オバ(叔母)・オイ(甥)・オレ(俺)・オラ(緒等・仲間)というように変化し、序列の遠近・親疎を表すと考えます。男系社会のため女系の呼称はオバ以外にはないようです。
それでは「オロ」とはどうゆう序列かということになりますが、『大辞林』には「オロ」について次のように述べられています。
接頭
おろそか、おろかなどの「おろ」と同源。動詞・形容詞などについて十分でないさまを表す。不完全、わずかなどの意
このように解釈するとオロチの「オロ」は序列の最末端に位置する者、疎遠な者といった意味になり、オラ(緒等・仲間)よりも関係の薄い「遠い親戚」ほどの意味になりそうです。オロチの「チ」は血のことで、祖先を同じくする同族ということでしょうが、日本古典文学大系『日本書紀』の述べるようにミズチ・イカズチなどのチのように「精霊」といった意味も含んでいるのかもしれません。
弥生時代には銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸を配布する巨大な大部族が存在していました。部族は血縁集団である宗族が通婚することによって結合した「擬制された血縁集団」で、その序列は宗族と同じ形態を取ったでしょう。オサ(長)が宗族の族長ですが、青銅祭器を配布し王を出すような巨大な部族の場合には、その序列の中に支配者階層のオウ(王)やオミ(臣)を含むようです。
大部族は勢力を拡大するために通婚を強要し、通婚が成立すると青銅祭器を配布しました。娘を呑む大蛇とは通婚を強要し青銅祭器を配布する大部族のことであり、その大部族が邪馬台なのだと考えます。ヤマタについては邪馬台国のこととする考え方がありますが、これに同意したいと思います。つまり ヤマタノオロチとは「邪馬台の一族」といったほどの意味でしょう。
邪馬台(女王国)は銅矛を配布した部族が主導権を持つ国でした。銅矛を配布した部族が出雲の宗族に通婚を強要し、勢力を拡大しようとしたようです。それがヤマタノオロチは娘を呑むと言い伝えられているようです。島根県荒神谷遺跡では16本の銅矛が出土していますが、この16本の銅矛を祀っていた宗族がオロチに呑まれた娘ということになります。
蛇のことを古くはミズチ(水の精霊)といい、巨大なミズチがオロチです。ミズチは蛙を呑みますがオロチは娘を呑みます。子供が蛙を助けようとして蛇を殺すように、スサノオが娘を助けるために巨大な蛇、すなわちヤマタノオロチを殺したというストーリーができたようです。しかし実際に娘を呑むような大蛇がいたわけではありません。
ヤマタノオロチについては「鉄穴流し」と呼ばれる製鉄法にまつわる伝承だとか、シベリヤのオロチョン族だとする説、あるいは斐伊川の氾濫を表しているとする説などがありますが、神話が史実ではないとされる代表格がこのヤマタノオロチでしょう。私はヤマタノオロチを「邪馬台のおろ血」だと理解しています。
日本古典文学大系『日本書紀』は「頭尾八岐有り」とあるので八岐大蛇というとし、ヲを峰、ロを助詞、チはミズチ、イカヅチなどのチだとしていますが、私は「オロチ」の「オ」は「緒=ほそ紐」のことで、緒には始め・興り・糸口・筋という意味もあり、同族間の序列を言うと考えています。ニニギの天孫降臨に随行する神を「五伴緒」(いつのとものお)とする使用例があります。前述のように スサノオも「帥升の緒」でしょう。
助詞の「ロ」は同族間の序列に従って、オウ(王)・オミ(臣)・オサ(長)・オヤ(親)・オセ(大人)・オエ(大兄・兄)・オト(弟)・オジ(叔父)・オバ(叔母)・オイ(甥)・オレ(俺)・オラ(緒等・仲間)というように変化し、序列の遠近・親疎を表すと考えます。男系社会のため女系の呼称はオバ以外にはないようです。
それでは「オロ」とはどうゆう序列かということになりますが、『大辞林』には「オロ」について次のように述べられています。
接頭
おろそか、おろかなどの「おろ」と同源。動詞・形容詞などについて十分でないさまを表す。不完全、わずかなどの意
このように解釈するとオロチの「オロ」は序列の最末端に位置する者、疎遠な者といった意味になり、オラ(緒等・仲間)よりも関係の薄い「遠い親戚」ほどの意味になりそうです。オロチの「チ」は血のことで、祖先を同じくする同族ということでしょうが、日本古典文学大系『日本書紀』の述べるようにミズチ・イカズチなどのチのように「精霊」といった意味も含んでいるのかもしれません。
弥生時代には銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸を配布する巨大な大部族が存在していました。部族は血縁集団である宗族が通婚することによって結合した「擬制された血縁集団」で、その序列は宗族と同じ形態を取ったでしょう。オサ(長)が宗族の族長ですが、青銅祭器を配布し王を出すような巨大な部族の場合には、その序列の中に支配者階層のオウ(王)やオミ(臣)を含むようです。
大部族は勢力を拡大するために通婚を強要し、通婚が成立すると青銅祭器を配布しました。娘を呑む大蛇とは通婚を強要し青銅祭器を配布する大部族のことであり、その大部族が邪馬台なのだと考えます。ヤマタについては邪馬台国のこととする考え方がありますが、これに同意したいと思います。つまり ヤマタノオロチとは「邪馬台の一族」といったほどの意味でしょう。
邪馬台(女王国)は銅矛を配布した部族が主導権を持つ国でした。銅矛を配布した部族が出雲の宗族に通婚を強要し、勢力を拡大しようとしたようです。それがヤマタノオロチは娘を呑むと言い伝えられているようです。島根県荒神谷遺跡では16本の銅矛が出土していますが、この16本の銅矛を祀っていた宗族がオロチに呑まれた娘ということになります。
2009年11月29日日曜日
八岐大蛇 その1
今回からまた神話に戻ります。卑弥呼は天照大神であり、天の岩戸の神話では247年ころのことが語られています。神話でみると間もなく面土王家が滅びますが、これがスサノオの高天が原からの追放として語られています。
高天が原を追放されたスサノオは出雲の肥の川上(斐伊川)の鳥髪という土地に下り(古事記)、ヤマタノオロチを退治することになっています。神話をそのままに解釈すると、倭人伝の「刺史の如き者」、すなわち面土国王が248年から間もないころに追放されて出雲に行ったということになり、三世紀後半の出雲でオロチ退治に語られている事件があったということになります。
神話の舞台は筑紫から出雲に移っていきますが、スサノヲが降る先がなぜ出雲でなければならないのかが問題です。卑弥呼共立までの7~80年間は面土国王が倭国の盟主でしたが、大乱後には盟主の座は卑弥呼に移ります。
先述のように筑紫神話では魏・蜀正閠論は魏が邪馬台国に、また蜀が面土国に置き換えられていますが、出雲神話では魏が女王国に置き換えられ、蜀が出雲に置き換えられているようです。ここで出雲とスサノオ(面土国王)との結びついてきますが、この場合の出雲は銅剣・銅鐸の分布圏と考えるのがよいようです。その考え方は卑弥呼が魏から親魏倭王に冊封されたことに始まります。
中・四国地方や近畿地方の、銅剣・銅鐸を配布した部族も、面土国王を潜在的な倭王と考えたのでしょう。これが出雲神話におけるスサノオのようです。高天が原を追放されたスサノオと、オロチを退治しクシイナダヒメを妻にするスサノオとは直接の関連は無く、紀伝体の神話によく見られるようにまったく別の神話だと見なければならないようです。
『日本書紀』本文はオオナムチ(大国主神の別名)をスサノオの子としていますが、子とするのは本文だけで、他の一書も『古事記』も六世孫だとしています。
古事記 六代の系譜の記載がある
『日本書記』本文 (素戔鳴尊と奇稻田姫は)兒大己貴神を生む
第一の一書 兒は八島篠、この神の五世の孫は、即ち大国主神なり
第二の一書 六世の孫、これを大己貴命と曰す
第三の一書 (素戔鳴尊)の五世の孫の天之葺根神(その兒が大国主)
オオナムチがスサノヲの六世孫であれば、天照大神の孫のホノニニギとは世代が合わず国譲りの神話は成立しませんが、オオナムチをスサノヲの子とすることによって初めて国譲り神話は成立します。『日本書紀』本文は国譲り神話を成立させるために、オオナムチをスサノオの子としなければならなかったようです。
前述のようにホノニニギは台与の後の男王ですから、その活動時期は247年(正始8年)から266年までの間のある時期になります。そのホノニニギにオオナムチが国譲りをするのですから、オロチを退治するスサノオの活動時期は、天の岩戸の天照大神やスサノオよりも4代ほど以前ということになりそうです。
天照大神B(台与)とオシホミミ(卑弥呼死後の男王)の活動時期は出雲の天之冬衣神と同時期になり、天照大神A(卑弥呼)と高天が原のスサノオが淤美豆奴神と同時期であることが考えられます。淤美豆奴神は『出雲国風土記』で国引きをする八束水臣津野命と同神です。
淤美豆奴神とオロチを退治するスサノオの間には、まだ深淵之水夜礼花神、布波能母遅久奴須奴神、八島士奴美神の三代が入りますが、安本美典氏は古代の王の平均在位年数を10,3年とされています。その説に従うとオロチを退治するスサノオの時期は、オオクニヌシの60年ほど以前、すなわち倭国大乱のころになります。オロチ退治とは倭国大乱が出雲に波及したことが語られているようです。
高天が原を追放されたスサノオは出雲の肥の川上(斐伊川)の鳥髪という土地に下り(古事記)、ヤマタノオロチを退治することになっています。神話をそのままに解釈すると、倭人伝の「刺史の如き者」、すなわち面土国王が248年から間もないころに追放されて出雲に行ったということになり、三世紀後半の出雲でオロチ退治に語られている事件があったということになります。
神話の舞台は筑紫から出雲に移っていきますが、スサノヲが降る先がなぜ出雲でなければならないのかが問題です。卑弥呼共立までの7~80年間は面土国王が倭国の盟主でしたが、大乱後には盟主の座は卑弥呼に移ります。
先述のように筑紫神話では魏・蜀正閠論は魏が邪馬台国に、また蜀が面土国に置き換えられていますが、出雲神話では魏が女王国に置き換えられ、蜀が出雲に置き換えられているようです。ここで出雲とスサノオ(面土国王)との結びついてきますが、この場合の出雲は銅剣・銅鐸の分布圏と考えるのがよいようです。その考え方は卑弥呼が魏から親魏倭王に冊封されたことに始まります。
中・四国地方や近畿地方の、銅剣・銅鐸を配布した部族も、面土国王を潜在的な倭王と考えたのでしょう。これが出雲神話におけるスサノオのようです。高天が原を追放されたスサノオと、オロチを退治しクシイナダヒメを妻にするスサノオとは直接の関連は無く、紀伝体の神話によく見られるようにまったく別の神話だと見なければならないようです。
『日本書紀』本文はオオナムチ(大国主神の別名)をスサノオの子としていますが、子とするのは本文だけで、他の一書も『古事記』も六世孫だとしています。
古事記 六代の系譜の記載がある
『日本書記』本文 (素戔鳴尊と奇稻田姫は)兒大己貴神を生む
第一の一書 兒は八島篠、この神の五世の孫は、即ち大国主神なり
第二の一書 六世の孫、これを大己貴命と曰す
第三の一書 (素戔鳴尊)の五世の孫の天之葺根神(その兒が大国主)
オオナムチがスサノヲの六世孫であれば、天照大神の孫のホノニニギとは世代が合わず国譲りの神話は成立しませんが、オオナムチをスサノヲの子とすることによって初めて国譲り神話は成立します。『日本書紀』本文は国譲り神話を成立させるために、オオナムチをスサノオの子としなければならなかったようです。
前述のようにホノニニギは台与の後の男王ですから、その活動時期は247年(正始8年)から266年までの間のある時期になります。そのホノニニギにオオナムチが国譲りをするのですから、オロチを退治するスサノオの活動時期は、天の岩戸の天照大神やスサノオよりも4代ほど以前ということになりそうです。
天照大神B(台与)とオシホミミ(卑弥呼死後の男王)の活動時期は出雲の天之冬衣神と同時期になり、天照大神A(卑弥呼)と高天が原のスサノオが淤美豆奴神と同時期であることが考えられます。淤美豆奴神は『出雲国風土記』で国引きをする八束水臣津野命と同神です。
淤美豆奴神とオロチを退治するスサノオの間には、まだ深淵之水夜礼花神、布波能母遅久奴須奴神、八島士奴美神の三代が入りますが、安本美典氏は古代の王の平均在位年数を10,3年とされています。その説に従うとオロチを退治するスサノオの時期は、オオクニヌシの60年ほど以前、すなわち倭国大乱のころになります。オロチ退治とは倭国大乱が出雲に波及したことが語られているようです。
2009年11月27日金曜日
神功皇后紀の年代 その3
神功皇后紀の紀年だと皇后は169年に生まれ、269年に死んだことになりますが、413年に東晋の安帝に方物を献じた倭の五王の賛を、仁徳・履中のいずれかの天皇とすると、神功皇后の時代は4世紀も終わりのころでなければならないことになります。
よく知られているように干支2運、120年が繰り上げられており、120年を繰り下げると神功皇后の死は389年になって実態に近くなります。『日本書紀』の紀年を干支2運、120年繰り上げるためには、神功皇后は倭女王、つまり卑弥呼・台与でなければならなかったのです。
なぜそのような操作をする必要があったのでしょうか。私は『日本書紀』の編纂者は卑弥呼が天照大神であり、邪馬台国が高天が原であることを知っていたのだと考えます。天照大神の5代の後の神武天皇の即位は紀元前660年とされていますが、そうするためには天照大神が卑弥呼・台与であってはならなかったのでしょう。
その結果、天照大神の時代は神代とされ、初期の天皇の在位期間は異常に永くなりました。在位期間が2倍に引き延ばされているという考えも見られますが、そうであっても計算が合いません。仲衷天皇の皇后としての神功皇后は実在したでしょうが、皇后の三韓征伐はなかったように思います。斉明天皇の百済救援の出兵と卑弥呼・台与とが合成されて、神功皇后の三韓征伐の物語が出来たのだと考えています。
「欠史八代」という呼び方は、初期の大和朝廷が弱体で諸天皇の事績に見るべきものが無かったことを表しているのでしょう。 しかし「欠史八代」は存在しないという説は適切ではないように思います。古墳時代前期はおよそ4世紀だとされていますが、私は270年から360年にかけての90年間を古墳時代前期として捉えるのがよいと思っています。この90年間が「欠史八代」の時代であり、大和朝廷の統治が確立する時期だと考えます。
240年から270年の後期後半3期に、台与とその後の男王の時代があり、やがて神武天皇の東征があって大和朝廷成立するのだと思います。266年の倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するのでしょう。
古墳は弥生時代後期の墓が巨大になったと言うよりも、氏姓制が施行されたことによって墓制が変わったことにより出現したと考えるのがよさそうです。氏姓制とは有力氏族長に県主・君・公・直などの姓(かばね)を与えて土地・人民の私有を認めると共に、朝廷の統治を分担させる制度です。前方後円墳という定型化された古墳は大和朝廷から姓を与えられた者の墓だと考えるのがよさそうです。
『日本書紀』綏靖天皇紀を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間がありますが、この空位は東征以前から従って来た中臣氏、忌部氏、猿女氏など天神系氏族と、東征後に服属するようになった三輪氏、賀茂氏など地祇系氏族との間に、大王(天皇)位を巡る抗争があったためのようです。
綏靖天皇は親(神武天皇)を思う気持ちが強く空位の三年間は神武天皇の喪葬に専念したとされています。綏靖天皇紀の記事にはこの三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが述べられているようです。これが前方後円墳の出現の要因になっているのでしょう。
箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛の墓だとも、また卑弥呼の墓だとも言われていますが、箸墓が三世紀後半に造られたものであれば、卑弥呼の時代とは 20~30年の年代差が出ます。箸墓古墳は大神氏、加茂氏などの地祇系氏族や、綏靖、安寧、懿徳各天皇の妃を出した磯城県主の祖、あるいは銅鐸を配布した部族の残存勢力が、綏靖天皇を大王(天皇)に擁立するために造った、神武天皇の墓のように思います。
よく知られているように干支2運、120年が繰り上げられており、120年を繰り下げると神功皇后の死は389年になって実態に近くなります。『日本書紀』の紀年を干支2運、120年繰り上げるためには、神功皇后は倭女王、つまり卑弥呼・台与でなければならなかったのです。
なぜそのような操作をする必要があったのでしょうか。私は『日本書紀』の編纂者は卑弥呼が天照大神であり、邪馬台国が高天が原であることを知っていたのだと考えます。天照大神の5代の後の神武天皇の即位は紀元前660年とされていますが、そうするためには天照大神が卑弥呼・台与であってはならなかったのでしょう。
その結果、天照大神の時代は神代とされ、初期の天皇の在位期間は異常に永くなりました。在位期間が2倍に引き延ばされているという考えも見られますが、そうであっても計算が合いません。仲衷天皇の皇后としての神功皇后は実在したでしょうが、皇后の三韓征伐はなかったように思います。斉明天皇の百済救援の出兵と卑弥呼・台与とが合成されて、神功皇后の三韓征伐の物語が出来たのだと考えています。
「欠史八代」という呼び方は、初期の大和朝廷が弱体で諸天皇の事績に見るべきものが無かったことを表しているのでしょう。 しかし「欠史八代」は存在しないという説は適切ではないように思います。古墳時代前期はおよそ4世紀だとされていますが、私は270年から360年にかけての90年間を古墳時代前期として捉えるのがよいと思っています。この90年間が「欠史八代」の時代であり、大和朝廷の統治が確立する時期だと考えます。
240年から270年の後期後半3期に、台与とその後の男王の時代があり、やがて神武天皇の東征があって大和朝廷成立するのだと思います。266年の倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するのでしょう。
古墳は弥生時代後期の墓が巨大になったと言うよりも、氏姓制が施行されたことによって墓制が変わったことにより出現したと考えるのがよさそうです。氏姓制とは有力氏族長に県主・君・公・直などの姓(かばね)を与えて土地・人民の私有を認めると共に、朝廷の統治を分担させる制度です。前方後円墳という定型化された古墳は大和朝廷から姓を与えられた者の墓だと考えるのがよさそうです。
『日本書紀』綏靖天皇紀を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間がありますが、この空位は東征以前から従って来た中臣氏、忌部氏、猿女氏など天神系氏族と、東征後に服属するようになった三輪氏、賀茂氏など地祇系氏族との間に、大王(天皇)位を巡る抗争があったためのようです。
綏靖天皇は親(神武天皇)を思う気持ちが強く空位の三年間は神武天皇の喪葬に専念したとされています。綏靖天皇紀の記事にはこの三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが述べられているようです。これが前方後円墳の出現の要因になっているのでしょう。
箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛の墓だとも、また卑弥呼の墓だとも言われていますが、箸墓が三世紀後半に造られたものであれば、卑弥呼の時代とは 20~30年の年代差が出ます。箸墓古墳は大神氏、加茂氏などの地祇系氏族や、綏靖、安寧、懿徳各天皇の妃を出した磯城県主の祖、あるいは銅鐸を配布した部族の残存勢力が、綏靖天皇を大王(天皇)に擁立するために造った、神武天皇の墓のように思います。
2009年11月24日火曜日
神功皇后紀の年代 その2
神功皇后紀の編纂者は誰も見たことのない『晋起居注』を引用したとして、266年に台与が遣使したと思わせようとしていますが、これは事実ではありません。『梁書』『北史』に次のような記事があります。
正始中卑弥呼死、更立男王、国中不服更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與為王、其後復立男王、并中国爵命
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與(いよ)を立てて王となす。その後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける〉
この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は中国が倭王に冊封したということですが、「并」には二人を前後にならべて一組にするという意味があります。
「并」は二人を前後にならべて一組にすると意味で、前が台与、後が男王ということになります。当時の倭国では台与を退位させ、男王を立てようとする動きがあったようですが、一時期二人の王がおりそれを中国が認めています。
台与が即位して間もなく、卑弥呼死後の争乱の原因になったとして面土国王と銅戈を配布した部族が滅ぼされるようです。女王共立の一方の当事者が滅んだことにより女王制は有名無実になり、台与を退位させ、男王を立てようとする動きが出てきます。
ところがやはり台与を退位させて男王を立てることに対して反対する者があり、この反対する者を封じ込めるために、台与と男王とが同時に立てられたようです。私も「并」にそのような意味があるとは思わなかったので漫然と見すごしていたのですが、女王の時代と男王の時代の間に、王が二人いる時代があったようです。『晋書』巻九十七 四夷伝 倭人条に次のように記されています。
乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
〈すなわち女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と言う。宣帝の公孫氏を平(たいら)ぐるや、其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘(こうへい)の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數(かず)至(いた)る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す〉
宣帝は司馬懿(しばい)のことで、文帝は懿の子の昭(しょう)のことです。二三九年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、その後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国になってからも何度かの遣使、入貢があったというのです。
昭が相国として魏の実権を握っていたのは二五八年から二六五年までの七年間でした。『神功皇后紀』六十六年条に引きずられて、このことが省みられていないことはまことに残念です。『晋起居注』を見たと言っているのは『神功皇后紀』の編纂者だけです。
254年、司馬師は皇帝芳を廃し、高貴郷公髦を立てますが、後継者の司馬昭は髦を殺し元帝を立てていて、皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。司馬氏が元帝から禅譲を受けることは衆知の事実で、それが何時になるのかが関心の的になっていたようです。
倭人もこのことを知っていて、炎が即位すると翌266年にさっそく遣使しますが、これが「泰始の初め」の遣使、つまり神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。司馬昭が相国だった時期にも何度かの遣使がありました。台与が即位して初めて行なった遣使が266年だという説は『神功皇后紀』の創作です。
後期後半三期(240~70)の残りの20年間は台与とその後の男王の時代ですが、男王は1代ではなく2代か3代のようです。神功皇后紀は台与の後に男王が立ったことを隠蔽していますが、266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されるようです。
正始中卑弥呼死、更立男王、国中不服更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與為王、其後復立男王、并中国爵命
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與(いよ)を立てて王となす。その後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける〉
この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は中国が倭王に冊封したということですが、「并」には二人を前後にならべて一組にするという意味があります。
「并」は二人を前後にならべて一組にすると意味で、前が台与、後が男王ということになります。当時の倭国では台与を退位させ、男王を立てようとする動きがあったようですが、一時期二人の王がおりそれを中国が認めています。
台与が即位して間もなく、卑弥呼死後の争乱の原因になったとして面土国王と銅戈を配布した部族が滅ぼされるようです。女王共立の一方の当事者が滅んだことにより女王制は有名無実になり、台与を退位させ、男王を立てようとする動きが出てきます。
ところがやはり台与を退位させて男王を立てることに対して反対する者があり、この反対する者を封じ込めるために、台与と男王とが同時に立てられたようです。私も「并」にそのような意味があるとは思わなかったので漫然と見すごしていたのですが、女王の時代と男王の時代の間に、王が二人いる時代があったようです。『晋書』巻九十七 四夷伝 倭人条に次のように記されています。
乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
〈すなわち女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と言う。宣帝の公孫氏を平(たいら)ぐるや、其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘(こうへい)の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數(かず)至(いた)る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す〉
宣帝は司馬懿(しばい)のことで、文帝は懿の子の昭(しょう)のことです。二三九年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、その後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国になってからも何度かの遣使、入貢があったというのです。
昭が相国として魏の実権を握っていたのは二五八年から二六五年までの七年間でした。『神功皇后紀』六十六年条に引きずられて、このことが省みられていないことはまことに残念です。『晋起居注』を見たと言っているのは『神功皇后紀』の編纂者だけです。
254年、司馬師は皇帝芳を廃し、高貴郷公髦を立てますが、後継者の司馬昭は髦を殺し元帝を立てていて、皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。司馬氏が元帝から禅譲を受けることは衆知の事実で、それが何時になるのかが関心の的になっていたようです。
倭人もこのことを知っていて、炎が即位すると翌266年にさっそく遣使しますが、これが「泰始の初め」の遣使、つまり神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。司馬昭が相国だった時期にも何度かの遣使がありました。台与が即位して初めて行なった遣使が266年だという説は『神功皇后紀』の創作です。
後期後半三期(240~70)の残りの20年間は台与とその後の男王の時代ですが、男王は1代ではなく2代か3代のようです。神功皇后紀は台与の後に男王が立ったことを隠蔽していますが、266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されるようです。
2009年11月22日日曜日
神功皇后紀の年代 その1
倭人伝の記事は正始八年(二四七)で終わりますが、その正始八年の記事には台与が掖邪狗ら二〇人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。帯方郡使の張政の送還を兼ねての遣使でしたが、使節には復命の義務があり任務が終了すればすみやかに復命しなければいけません。
張政の復命のことを考えると掖邪狗らが洛陽に行ったのは、正始八年か翌九年と考えなければならないでしょう。ところが通説では晋の武帝の泰始二年(二六六)だとされています。これは『日本書紀』神功皇后紀六十六年条に次のように記されているためです。
六十六年 この年は晋の武帝の泰初二年。晋の起居注に云う。晋の武帝の泰初二年十月、倭の女王が遣わして譯を重ねて貢献す。
神功皇后紀は『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼、台与と思わせようとしていますが、卑弥呼は二四七年ころに死んでいるので、この女王は台与ということになります。しかしどこか不自然で、この引用部分は後世に書き加えられたとして削除する考え方もあります。
神功皇后紀三十九年条と六十六年条を比較してみると、文の構成が非常によく似ていて、明らかに四十年条、四十三年条とは構成が違います。これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されているということのようです。
三十九年 是の年は太歳己未なり。 魏志に云はく、明帝景初三年六月に倭女王は大夫難升米等を遣わして、郡に詣でて朝献を求める。
六十六年 是の年は晋の武帝の泰初二年。晋起居注に云はく、晋の武帝の泰初二年十月に倭女王は遣わして、譯を重ねて貢献する。
四十年条と四十三年条の書き出しは「魏志云」となっていますが、三十九年条も「魏志云」で始めればよさそうなのに「是年也」で始まっています。六十六年条も同じで「晋起居注云」で始めればよさそうなものなのに「是年」で始まっていますが、これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されたということでしょう。
三十九年条に「是年也太歳己未」とあるのは、六十九年条の神功皇后の崩年が「是年也太歳己丑」とされていることによるのでしょう。太歳の文字は天皇の即位年や崩年など、『日本書紀』の紀年の基準になる重要な年に付けられますが、六十九年条の「是年也大歳己丑」を設定する根拠が『魏志』の明帝景初三年六月の記事なので、そのことを表すために三十九年条では『魏志』の文に「是年也太歳己未」が加えられたことが考えられます。
そうすると三十九年条と六十九年条との中間の、泰初二年の遣使は女王が行ったとしなければならず、こうして六十六年条が創作されたと考えられます。三十九年条の「是年也太歳己未」が「是年晋武帝泰初二年」に書き換えられ、また「魏志云」が「晋起居注云」に書き換えられたのです。
「明帝景初三年六月」は「晋の武帝の泰初二年十月」に書き換えられ、「大夫難升米等」を削除して六十六年条の女王遣使記事が完成しました。『魏志』の記事と『晋書』武帝紀や『晋書』四夷伝の記事が合成されたのです。こうして創作すると『魏志』の「倭女王」の文字が、六十六年条にコピーされます。
神功皇后紀の編纂者にとっての神功皇后は半神半人の神聖な存在ですが、その神功皇后を東夷の野蛮人のような倭人と書くわけにはいきません。そこで六十六年条に倭女王という表記がコピーされたのでしょう。こうして神功皇后は卑弥呼・台与だと思われるようになるのですが、これは神功皇后紀の創作であって、266年の遣使は台与が行なったのではないようです。
張政の復命のことを考えると掖邪狗らが洛陽に行ったのは、正始八年か翌九年と考えなければならないでしょう。ところが通説では晋の武帝の泰始二年(二六六)だとされています。これは『日本書紀』神功皇后紀六十六年条に次のように記されているためです。
六十六年 この年は晋の武帝の泰初二年。晋の起居注に云う。晋の武帝の泰初二年十月、倭の女王が遣わして譯を重ねて貢献す。
神功皇后紀は『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼、台与と思わせようとしていますが、卑弥呼は二四七年ころに死んでいるので、この女王は台与ということになります。しかしどこか不自然で、この引用部分は後世に書き加えられたとして削除する考え方もあります。
神功皇后紀三十九年条と六十六年条を比較してみると、文の構成が非常によく似ていて、明らかに四十年条、四十三年条とは構成が違います。これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されているということのようです。
三十九年 是の年は太歳己未なり。 魏志に云はく、明帝景初三年六月に倭女王は大夫難升米等を遣わして、郡に詣でて朝献を求める。
六十六年 是の年は晋の武帝の泰初二年。晋起居注に云はく、晋の武帝の泰初二年十月に倭女王は遣わして、譯を重ねて貢献する。
四十年条と四十三年条の書き出しは「魏志云」となっていますが、三十九年条も「魏志云」で始めればよさそうなのに「是年也」で始まっています。六十六年条も同じで「晋起居注云」で始めればよさそうなものなのに「是年」で始まっていますが、これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されたということでしょう。
三十九年条に「是年也太歳己未」とあるのは、六十九年条の神功皇后の崩年が「是年也太歳己丑」とされていることによるのでしょう。太歳の文字は天皇の即位年や崩年など、『日本書紀』の紀年の基準になる重要な年に付けられますが、六十九年条の「是年也大歳己丑」を設定する根拠が『魏志』の明帝景初三年六月の記事なので、そのことを表すために三十九年条では『魏志』の文に「是年也太歳己未」が加えられたことが考えられます。
そうすると三十九年条と六十九年条との中間の、泰初二年の遣使は女王が行ったとしなければならず、こうして六十六年条が創作されたと考えられます。三十九年条の「是年也太歳己未」が「是年晋武帝泰初二年」に書き換えられ、また「魏志云」が「晋起居注云」に書き換えられたのです。
「明帝景初三年六月」は「晋の武帝の泰初二年十月」に書き換えられ、「大夫難升米等」を削除して六十六年条の女王遣使記事が完成しました。『魏志』の記事と『晋書』武帝紀や『晋書』四夷伝の記事が合成されたのです。こうして創作すると『魏志』の「倭女王」の文字が、六十六年条にコピーされます。
神功皇后紀の編纂者にとっての神功皇后は半神半人の神聖な存在ですが、その神功皇后を東夷の野蛮人のような倭人と書くわけにはいきません。そこで六十六年条に倭女王という表記がコピーされたのでしょう。こうして神功皇后は卑弥呼・台与だと思われるようになるのですが、これは神功皇后紀の創作であって、266年の遣使は台与が行なったのではないようです。
2009年11月18日水曜日
後期後半
倭国大乱から弥生時代の終わる三世紀後半までの九〇年間が後期後半で、それは一八〇年から二七〇年までになります。この時期の中国は三国時代に当たりますが、同時に懿・師・昭・炎と続く司馬氏の時代でもあり、司馬氏が後漢滅亡後の中国を再統一するための期間でもあります。
1期の倭国は大乱で王のいない時期だと考えられます。大乱は卑弥呼が王になることで終わると言われていますが卑弥呼が王になった時期は分かっていません。『後漢書』などに「更に相攻伐し暦年無主」とあり、卑弥呼が王になるのは三国鼎立が確定したことによると見ることもできます。
後期後半3期は240年から270年までの30年間です。238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていいますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期であり、3期の初めにも卑弥呼の遣使は続きます。
270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンで、この間に確実に古墳時代が始まりそうです。当稿が今まで主に言及してきたのは3期の最初の10年間ですが、私たちが最も知りたいのは倭人伝の記述の終わる247年から、倭人の遣使のあった266年までの20年間だと言えそうです。
注意されなければならないのは、3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が弥生時代に遣使した最後の年の266年にほぼ一致することです。265年には炎が魏の元帝に禅譲を迫って皇帝になり国名を晋としますが、その翌年に倭人の遣使が行なわれています。中国の動きに連動して倭国でも変化が起きるようです。
晋の成立の4年後が270年なのですが、私が270年を弥生時代の終わりとするのは、90年ごとに時代(文化)が変わるということの他に、266年の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思うからです。それは稍を統合して部族を解体し、倭国王(大王、天皇)が氏族を支配する体制に変えようということで、部族社会から氏族社会へ転換しようということです。
高天が原で活動するスサノヲが追放されて出雲に下る神話に語られているように、250年ころに卑弥呼死後の争乱の戦後処理が行われて、銅戈を配布した部族が消滅し、その部族に擁立された面土国王家も滅亡します。この時に銅戈がいっせいに埋納されるのですが、春日市とその周辺には多数の埋納された銅戈が見られます。
私は台与が遣使して倭王に冊封されたのは266年ではなく249年ころだと考えていますが、面土国王は卑弥呼死後の争乱の原因になったとして滅ぼされていますから、面土国王家の滅亡は卑弥呼死後の争乱から間もないころで、250年よりも後のことになりそうです。
面土国王は女王共立の一方の当事者ですが、その当事者が居なくなったのですから女王制には存在理由がなくなります。こうして女王制にかわるヘゲモニーが必要になってきて、台与は退位し、実権のある王が立てられることになります。それは弥生時代の部族連盟社会が古墳時代の氏族社会(氏姓制社会)に変わっていく接点に、卑弥呼・台与がいるということです。
部族連盟社会とは部族の擁立した王が、部族の連盟に属している宗族を統率している社会です。それに対し氏族社会(氏姓制社会)は天皇(大王)が氏族長を支配し、氏族長が下部にいる氏族員を支配するもので、部族は存在しなくなります。それを画策したのは大倭や難升米たちでした。
冊封体制の職約(義務)によって部族制社会の王は六〇〇里四方以上を支配することはできません。その六〇〇里四方が稍ですが、オオクニヌシの「出雲の国譲り」とは稍P(稍出雲)が併合されたとゆうことです。ホノニニギの「天孫降臨」とは稍O(稍日向)が併合されたとゆうことであり、そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の稍Q(稍大和)への東征が始まるのだと考えています。
1期の倭国は大乱で王のいない時期だと考えられます。大乱は卑弥呼が王になることで終わると言われていますが卑弥呼が王になった時期は分かっていません。『後漢書』などに「更に相攻伐し暦年無主」とあり、卑弥呼が王になるのは三国鼎立が確定したことによると見ることもできます。
後期後半3期は240年から270年までの30年間です。238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていいますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期であり、3期の初めにも卑弥呼の遣使は続きます。
270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンで、この間に確実に古墳時代が始まりそうです。当稿が今まで主に言及してきたのは3期の最初の10年間ですが、私たちが最も知りたいのは倭人伝の記述の終わる247年から、倭人の遣使のあった266年までの20年間だと言えそうです。
注意されなければならないのは、3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が弥生時代に遣使した最後の年の266年にほぼ一致することです。265年には炎が魏の元帝に禅譲を迫って皇帝になり国名を晋としますが、その翌年に倭人の遣使が行なわれています。中国の動きに連動して倭国でも変化が起きるようです。
晋の成立の4年後が270年なのですが、私が270年を弥生時代の終わりとするのは、90年ごとに時代(文化)が変わるということの他に、266年の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思うからです。それは稍を統合して部族を解体し、倭国王(大王、天皇)が氏族を支配する体制に変えようということで、部族社会から氏族社会へ転換しようということです。
高天が原で活動するスサノヲが追放されて出雲に下る神話に語られているように、250年ころに卑弥呼死後の争乱の戦後処理が行われて、銅戈を配布した部族が消滅し、その部族に擁立された面土国王家も滅亡します。この時に銅戈がいっせいに埋納されるのですが、春日市とその周辺には多数の埋納された銅戈が見られます。
私は台与が遣使して倭王に冊封されたのは266年ではなく249年ころだと考えていますが、面土国王は卑弥呼死後の争乱の原因になったとして滅ぼされていますから、面土国王家の滅亡は卑弥呼死後の争乱から間もないころで、250年よりも後のことになりそうです。
面土国王は女王共立の一方の当事者ですが、その当事者が居なくなったのですから女王制には存在理由がなくなります。こうして女王制にかわるヘゲモニーが必要になってきて、台与は退位し、実権のある王が立てられることになります。それは弥生時代の部族連盟社会が古墳時代の氏族社会(氏姓制社会)に変わっていく接点に、卑弥呼・台与がいるということです。
部族連盟社会とは部族の擁立した王が、部族の連盟に属している宗族を統率している社会です。それに対し氏族社会(氏姓制社会)は天皇(大王)が氏族長を支配し、氏族長が下部にいる氏族員を支配するもので、部族は存在しなくなります。それを画策したのは大倭や難升米たちでした。
冊封体制の職約(義務)によって部族制社会の王は六〇〇里四方以上を支配することはできません。その六〇〇里四方が稍ですが、オオクニヌシの「出雲の国譲り」とは稍P(稍出雲)が併合されたとゆうことです。ホノニニギの「天孫降臨」とは稍O(稍日向)が併合されたとゆうことであり、そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の稍Q(稍大和)への東征が始まるのだと考えています。
2009年11月15日日曜日
後期前半
107年ころに奴国王から面土国王に統治権の移譲が行われたことが考えられますが、この統治権の移譲のさいに動乱があったようです。この動乱のことは中国の史書には見えませんが、相当に大規模のものだったようです。この動乱から霊帝の光和年中(178~183)の倭国大乱までが後期前半になるようです。帥升が即位したのが1期であり、倭国大乱で王のいなくなるのが3期になります。
私が90年ごとに中区分することに拘る最大の原因はこのことにあります。面土国王が倭国王として君臨したのは、後期前半90年間の内の7~80年間だったと考えることができます。紀元前1世紀を百余国時代とし、1世紀を奴国時代とするなら、2世紀は面土国時代であり、3世紀は邪馬台国時代だとも言えるようです。
換言すると後期は倭国大乱を境にして前半と後半に分かれ、面土国王が倭王として君臨した七、八〇年間が後期前半であり、後期後半は卑弥呼や台与の時代だということになります。武器形青銅祭器の中広形と広形は後期に造られたとされていますが、面土国王が倭王だった時期に中広形が造られ、卑弥呼や台与の時代に広形が造られたことになりそうです。
面土国王が遣使した後期前半1期ころに中広形a類が造られ、倭国大乱の予兆が見えてきた3期ころに中広形b類が造られたと考えることができ、卑弥呼が女王になると広形a類が造られ、卑弥呼死後の争乱のころに広形b類が造られたことになります。中広形をabcdに4分類することも行なわれていますが、これは地域によって異なった形式が見られることによるようです。
銅戈は中細形、中広形の段階では銅矛以上の量が造られていますが、広形になると三本ほどと極端に少なくなり、逆に銅矛は増加しています。広形銅矛にa類とb類があるのに銅戈にはa類とb類の区別がありません。中細形が中広形に変わるのは奴国王から面土国王への統治権の移譲に伴う動乱のころであり、中広形が広形に変わるのは二世紀末の倭国大乱が原因になっていると考えられます。
銅戈を配布した部族は一世紀から倭国大乱までは隆盛しますが、大乱後には劣勢になります。面土国王は倭国大乱までの7、8〇年間、倭王として君臨しますが、大乱で王位を卑弥呼に譲り「自女王国以北」の国々を「刺史の如く」に支配するようになるのです。面土国王を擁立したのは銅戈を配布した部族です。
銅矛を配布した部族が神格化されたものがイザナギですが、那珂海人、阿曇海人など、博多湾沿岸の海人でしょう。銅戈を配布した部族が神格化されたものがスサノヲであり、その部族が面土国王を擁立したことが考えられます。面土国は宗像郡であり、スサノヲの剣から生まれた三女神を祭る宗像神社があります。
この神話には魏と蜀の正閠論が関係していることが考えられます。銅矛を配布した部族は魏を正統とし、銅剣・銅戈を配布した部族は蜀を正統としたのでしよう。邪馬台国は魏を正統とし、奴国や面土国は蜀を正統として対立したようです。これが誕生したスサノヲが母の住む根の国に行きたいと言って泣いたために、イザナギに追放される神話になっているようです。
スサノヲは出雲でも大活躍しますが、そうであれば出雲に大量の銅戈が分布していてもよさそうなものです。大場磐雄氏は加茂岩倉遺跡の発見を予見していましたが、それは的中しました。その出雲のことですから、どこかに三〇〇本ほどの「出雲形銅戈」が眠っているかもしれません。私はそのことを秘かに願っているのですが、しかしその可能性は少ないように思っています。
出雲大社本殿の背後にスサノヲを祭る素鵞神社があり、東に200メートルほど離れた命主神社境内から中細形銅戈一本と瑪瑙製の勾玉一個が出土しています。この銅戈を祀っていた宗族が出雲神話のスサノヲようで、出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しており、それはスサノオに結びつくと考えています。
私が90年ごとに中区分することに拘る最大の原因はこのことにあります。面土国王が倭国王として君臨したのは、後期前半90年間の内の7~80年間だったと考えることができます。紀元前1世紀を百余国時代とし、1世紀を奴国時代とするなら、2世紀は面土国時代であり、3世紀は邪馬台国時代だとも言えるようです。
換言すると後期は倭国大乱を境にして前半と後半に分かれ、面土国王が倭王として君臨した七、八〇年間が後期前半であり、後期後半は卑弥呼や台与の時代だということになります。武器形青銅祭器の中広形と広形は後期に造られたとされていますが、面土国王が倭王だった時期に中広形が造られ、卑弥呼や台与の時代に広形が造られたことになりそうです。
面土国王が遣使した後期前半1期ころに中広形a類が造られ、倭国大乱の予兆が見えてきた3期ころに中広形b類が造られたと考えることができ、卑弥呼が女王になると広形a類が造られ、卑弥呼死後の争乱のころに広形b類が造られたことになります。中広形をabcdに4分類することも行なわれていますが、これは地域によって異なった形式が見られることによるようです。
銅戈は中細形、中広形の段階では銅矛以上の量が造られていますが、広形になると三本ほどと極端に少なくなり、逆に銅矛は増加しています。広形銅矛にa類とb類があるのに銅戈にはa類とb類の区別がありません。中細形が中広形に変わるのは奴国王から面土国王への統治権の移譲に伴う動乱のころであり、中広形が広形に変わるのは二世紀末の倭国大乱が原因になっていると考えられます。
銅戈を配布した部族は一世紀から倭国大乱までは隆盛しますが、大乱後には劣勢になります。面土国王は倭国大乱までの7、8〇年間、倭王として君臨しますが、大乱で王位を卑弥呼に譲り「自女王国以北」の国々を「刺史の如く」に支配するようになるのです。面土国王を擁立したのは銅戈を配布した部族です。
銅矛を配布した部族が神格化されたものがイザナギですが、那珂海人、阿曇海人など、博多湾沿岸の海人でしょう。銅戈を配布した部族が神格化されたものがスサノヲであり、その部族が面土国王を擁立したことが考えられます。面土国は宗像郡であり、スサノヲの剣から生まれた三女神を祭る宗像神社があります。
この神話には魏と蜀の正閠論が関係していることが考えられます。銅矛を配布した部族は魏を正統とし、銅剣・銅戈を配布した部族は蜀を正統としたのでしよう。邪馬台国は魏を正統とし、奴国や面土国は蜀を正統として対立したようです。これが誕生したスサノヲが母の住む根の国に行きたいと言って泣いたために、イザナギに追放される神話になっているようです。
スサノヲは出雲でも大活躍しますが、そうであれば出雲に大量の銅戈が分布していてもよさそうなものです。大場磐雄氏は加茂岩倉遺跡の発見を予見していましたが、それは的中しました。その出雲のことですから、どこかに三〇〇本ほどの「出雲形銅戈」が眠っているかもしれません。私はそのことを秘かに願っているのですが、しかしその可能性は少ないように思っています。
出雲大社本殿の背後にスサノヲを祭る素鵞神社があり、東に200メートルほど離れた命主神社境内から中細形銅戈一本と瑪瑙製の勾玉一個が出土しています。この銅戈を祀っていた宗族が出雲神話のスサノヲようで、出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しており、それはスサノオに結びつくと考えています。
2009年10月22日木曜日
中期後半 その2
105、6年ころからの中国は内政では幼帝が続いて外戚・宦官が実権を握り、外交では異民族の侵犯が続いて、漢王朝は次第に衰退していきます。こうした中国の影響を受けて奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。
帥升についてはこれを奴国王とする説や伊都国王とする説があります。帥升が奴国王なら107年ころに倭の盟主が奴国王から面土国王に交替することはありませんから、男王の統治期間は70~80年間ではなく120~30年以上でなければいけません。
また伊都国王とする説も面土国のことが考えられていないだけで根拠はありません。帥升は奴国王でも伊都国王でもなく面土国王なのです。そして西島定生氏は『邪馬台国と倭国』の中で次のように述べています。
倭国王帥升等が一〇七年に朝貢したということの背景には、奴国の没落とか、何か倭人の国々の中に 変動が起こったことを示しているのかもしれません。そうであるとすると、その背後には、その後の倭国大乱をまたずに、すでに倭国が形成されていたのであり、その前夜にも動乱があったのではないかということになるでしょう。
帥升が107年に朝貢する直前に、奴国の没落とそれに伴う動乱があったのではないかと述べられています。この動乱のことは中国側の史書には見えません。 通説ではこのことがまったく考慮されていません。
貨泉が流通停止になった四〇年ころは中期前半2期の安定期で、この動乱に留意すれば中期と後期の境を40年ころとする根拠が薄弱であることが分かってきます。その根本的原因は面土国の存在を認めていないことにあり、年代を考える上でも面土国の存在を認めることは重要なようです。
それは青銅祭器を理解することにも繋がるようです。表は岩永省三氏による分類で、時代区分には私の私観が加わっています。この表は造られ期間を示しており、使用期間の終わりはこの表では示すことはできないと考えています。もちろん正確に30年ごとに形式が変化するわけではなく、全体の推移はこのようになるという推定です。
中細形は中期後半に造られ、中広形と広形は後期に造られたと考えられていますが、とすれば中細形が中広形に変わる時と、時代区分の中期が後期に移る時とは一致する可能性があり、中細形が中広形に替わるのは90年ころであることが考えられます。
中細形a類が作られたのは新が滅んで後漢の興る中期後半1期と考えるのがよいように思います。中期前半の百余国体制がどのようなものであったかは分かりませんが、その百余国体制が崩壊し、新たな体制が模索された結果、部族の統合が急速に進んでいくと思います。
その結果、部族は新たに同族関係が生じた宗族に中細形a類を配布したのだと考えます。57年の奴国王の遣使のころに中細形b類が配布されますが、銅剣を配布した部族も銅剣b類を配布したでしょう。
中細形c類が配布されたころに奴国王の退位があり、それに伴って銅剣を配布した部族の中枢は北九州から出雲に移っていくと考えられます。出雲の荒神谷遺跡では中細形c類が358本出土していますが、奴国王の退位との関係を考えなければならないようです。
剣形祭器が九州に少ないのは、奴国王を擁立した部族が衰退し、面土国王を擁立した部族が優勢になったことを表しているのでしょう。奴国王を擁立した部族が配布したのは銅剣であり、面土国王を擁立した部族が配布したのは銅矛、または銅戈だということになりますが、私は銅戈だと考えています。
帥升についてはこれを奴国王とする説や伊都国王とする説があります。帥升が奴国王なら107年ころに倭の盟主が奴国王から面土国王に交替することはありませんから、男王の統治期間は70~80年間ではなく120~30年以上でなければいけません。
また伊都国王とする説も面土国のことが考えられていないだけで根拠はありません。帥升は奴国王でも伊都国王でもなく面土国王なのです。そして西島定生氏は『邪馬台国と倭国』の中で次のように述べています。
倭国王帥升等が一〇七年に朝貢したということの背景には、奴国の没落とか、何か倭人の国々の中に 変動が起こったことを示しているのかもしれません。そうであるとすると、その背後には、その後の倭国大乱をまたずに、すでに倭国が形成されていたのであり、その前夜にも動乱があったのではないかということになるでしょう。
帥升が107年に朝貢する直前に、奴国の没落とそれに伴う動乱があったのではないかと述べられています。この動乱のことは中国側の史書には見えません。 通説ではこのことがまったく考慮されていません。
貨泉が流通停止になった四〇年ころは中期前半2期の安定期で、この動乱に留意すれば中期と後期の境を40年ころとする根拠が薄弱であることが分かってきます。その根本的原因は面土国の存在を認めていないことにあり、年代を考える上でも面土国の存在を認めることは重要なようです。
それは青銅祭器を理解することにも繋がるようです。表は岩永省三氏による分類で、時代区分には私の私観が加わっています。この表は造られ期間を示しており、使用期間の終わりはこの表では示すことはできないと考えています。もちろん正確に30年ごとに形式が変化するわけではなく、全体の推移はこのようになるという推定です。
中細形は中期後半に造られ、中広形と広形は後期に造られたと考えられていますが、とすれば中細形が中広形に変わる時と、時代区分の中期が後期に移る時とは一致する可能性があり、中細形が中広形に替わるのは90年ころであることが考えられます。
中細形a類が作られたのは新が滅んで後漢の興る中期後半1期と考えるのがよいように思います。中期前半の百余国体制がどのようなものであったかは分かりませんが、その百余国体制が崩壊し、新たな体制が模索された結果、部族の統合が急速に進んでいくと思います。
その結果、部族は新たに同族関係が生じた宗族に中細形a類を配布したのだと考えます。57年の奴国王の遣使のころに中細形b類が配布されますが、銅剣を配布した部族も銅剣b類を配布したでしょう。
中細形c類が配布されたころに奴国王の退位があり、それに伴って銅剣を配布した部族の中枢は北九州から出雲に移っていくと考えられます。出雲の荒神谷遺跡では中細形c類が358本出土していますが、奴国王の退位との関係を考えなければならないようです。
剣形祭器が九州に少ないのは、奴国王を擁立した部族が衰退し、面土国王を擁立した部族が優勢になったことを表しているのでしょう。奴国王を擁立した部族が配布したのは銅剣であり、面土国王を擁立した部族が配布したのは銅矛、または銅戈だということになりますが、私は銅戈だと考えています。
2009年10月20日火曜日
中期後半 その1
王莽は前漢末期の社会不安を巧に利用して新を建国しますが、建国10年で赤眉・緑林の反乱が起き、光武帝が後漢王朝を成立させたのは後25年でした。中期前半3期に王莽が漢王朝中断を準備し、中期後半1期に光武帝が漢王朝を再興したと言えます。
56年、光武帝は泰山で「封禅の儀」を挙行しますが、「封禅の儀」は秦の始皇帝、前漢の高祖劉邦・武帝、後漢の光武帝など、功績のあった皇帝のみが行なえた儀式です。翌57年には奴国王が遣使していますが、「奉貢朝賀」とあることから見て封禅の儀を祝賀するための遣使だったのでしょう。
光武帝、明帝、章帝の時代は匈奴など異民族の侵犯もなく、国内もよく治まりました。外戚(皇帝の母系の一族)の王莽が前漢を滅ぼしたことが忘れられておらず、明帝・章帝の時代の外戚は謙虚でした。しかし四代和帝が88年に9歳で即位してから幼少で即位する皇帝が続き、外戚・宦官が実権を握るようになります。
和帝は宦官の鄭衆に頼り外戚の竇氏を粛清するという悪例を残しました。宦官の多くは政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、その跳梁により政治の腐敗が深刻になります。こうしたことから後漢王朝はなし崩しに衰退していき、やがて滅亡します。
通説では中期と後期の境は1世紀中葉と考えられています。王莽の時代(8~23)には銅銭の改鋳がしばしば行われましたが、14年に鋳造が始まり40年に流通停止になった貨泉が日本でも相当数出土していて、貨泉と一緒に出土する土器は中期末のものなのか、あるいは後期初頭のものなのかということが問題になっています。
今のところ中期末とする説が有力で、このことから通説では貨泉は中期と後期の境に埋まったとされています。しかし私の年代観では貨泉が鋳造された14年は中期後半1期になり、流通が停止された40年は2期になって、中期と後期の境は90年になります。
通説との差の50年については次のように考えています。倭人伝は倭国大乱以前の7~80年間は男子が王だったことを記していますが、大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。西暦178年の80年前は西暦98年であり、西暦183年の70年前は西暦113年です。
今まで述べてきたように大乱前の男王は面土国王ですが、面土国王が初めて倭王になったのは、西暦98~113年の間ということになります。その15年間のうちの西暦107年に帥升が生口160人を献上しているのです。
私の年代観は90年ごとに等分に区分しているので、中期と後期の境は自動的に西暦90年になります。しかし実際には90年ごとに時代が変わるわけではなく、西暦98~113年までの15年間のある時に帥升が王になり、そのことが中期から後期に変わる原因になっていると考えています。
西暦98~113年の中間は西暦105年か6年ですが、このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられ、竇皇太后が臨朝しますが、翌年死亡し13歳の安帝が即位します。
中国の西では106年ころにチベットの羌族が反乱を起こし、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのためなのでしょうか106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。
玄莬郡 が後退したことは楽浪郡の果たす役割が大きくなったということであり、朝鮮半島や倭国に影響が出てきたことが考えられます。こうした東アジア世界の動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。
この争乱のことは中国史書には見えず問題にもされていませんが、相当に大規模なものであったようです。私はこのことが青銅祭器を中細形から中広形に変え、また中期から後期に移る原因になっていると考えています。
56年、光武帝は泰山で「封禅の儀」を挙行しますが、「封禅の儀」は秦の始皇帝、前漢の高祖劉邦・武帝、後漢の光武帝など、功績のあった皇帝のみが行なえた儀式です。翌57年には奴国王が遣使していますが、「奉貢朝賀」とあることから見て封禅の儀を祝賀するための遣使だったのでしょう。
光武帝、明帝、章帝の時代は匈奴など異民族の侵犯もなく、国内もよく治まりました。外戚(皇帝の母系の一族)の王莽が前漢を滅ぼしたことが忘れられておらず、明帝・章帝の時代の外戚は謙虚でした。しかし四代和帝が88年に9歳で即位してから幼少で即位する皇帝が続き、外戚・宦官が実権を握るようになります。
和帝は宦官の鄭衆に頼り外戚の竇氏を粛清するという悪例を残しました。宦官の多くは政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、その跳梁により政治の腐敗が深刻になります。こうしたことから後漢王朝はなし崩しに衰退していき、やがて滅亡します。
通説では中期と後期の境は1世紀中葉と考えられています。王莽の時代(8~23)には銅銭の改鋳がしばしば行われましたが、14年に鋳造が始まり40年に流通停止になった貨泉が日本でも相当数出土していて、貨泉と一緒に出土する土器は中期末のものなのか、あるいは後期初頭のものなのかということが問題になっています。
今のところ中期末とする説が有力で、このことから通説では貨泉は中期と後期の境に埋まったとされています。しかし私の年代観では貨泉が鋳造された14年は中期後半1期になり、流通が停止された40年は2期になって、中期と後期の境は90年になります。
通説との差の50年については次のように考えています。倭人伝は倭国大乱以前の7~80年間は男子が王だったことを記していますが、大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。西暦178年の80年前は西暦98年であり、西暦183年の70年前は西暦113年です。
今まで述べてきたように大乱前の男王は面土国王ですが、面土国王が初めて倭王になったのは、西暦98~113年の間ということになります。その15年間のうちの西暦107年に帥升が生口160人を献上しているのです。
私の年代観は90年ごとに等分に区分しているので、中期と後期の境は自動的に西暦90年になります。しかし実際には90年ごとに時代が変わるわけではなく、西暦98~113年までの15年間のある時に帥升が王になり、そのことが中期から後期に変わる原因になっていると考えています。
西暦98~113年の中間は西暦105年か6年ですが、このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられ、竇皇太后が臨朝しますが、翌年死亡し13歳の安帝が即位します。
中国の西では106年ころにチベットの羌族が反乱を起こし、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのためなのでしょうか106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。
玄莬郡 が後退したことは楽浪郡の果たす役割が大きくなったということであり、朝鮮半島や倭国に影響が出てきたことが考えられます。こうした東アジア世界の動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。
この争乱のことは中国史書には見えず問題にもされていませんが、相当に大規模なものであったようです。私はこのことが青銅祭器を中細形から中広形に変え、また中期から後期に移る原因になっていると考えています。
2009年10月19日月曜日
中期中葉
紀元前四九年に即位した元帝は熱心な儒学信奉者でしたが、その甥の王莽もまた儒学に傾倒しました。若いころの王莽は儒学の実践者として知られ、聖人とまで言われましたが、その彼が教理に反して主家を滅ぼすのです。前期前半の3期という人間のバイオリズムが、王莽を狂わせたのでしょうか。
儒教は仁・義・礼・智・信という徳性を養うことにより父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の序列や、その関係を維持することを教えていますが、元帝から王莽の時代には周時代以前への回帰が盛んに言われ、春秋・戦国時代に失われた周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活した時代でした。礼とは人間の上下関係で守るべきことを言います。
しかしその政治は「託古改制」と言われている、孔子の思想をそのまま政治に持ち込んだ現実を無視したものでした。皇帝になった王莽の統治も託古改制そのもので、現実に合わず矛盾が生じ、その矛盾を訂正しなかったため社会は大混乱に陥ります。それを批判するように讖緯思想が盛んになります。
この時期には元帝の皇后だった元后と、その外戚の王氏が実権を握っていました。中期前半三期は成帝、哀帝、平帝という暗君と、王氏という愚臣が前漢王朝を崩壊へ導いた時期でした。紀元後八年、元后の甥の王莽が「天人感応説」を巧に利用して、前漢王朝を滅ぼして新を建国します。
九年、王莽は『周官』に基づいて前漢王朝の制度を廃止する、官制、官名、地名の改革を断行し、「天に二日無く、地に二王無し」ということで王を諸侯に降格します。周時代以前には王は一人だけで他はすべて諸侯でしたから、これに習って王という呼称を廃止しようとしたのですが、理由はそれだけでまさに暴挙としか言いようがありません。
これは外臣の王にも及び、外臣の王も諸侯に降格されました。これに反発したのが匈奴で、王莽は離反した匈奴を討伐するために高句麗に出兵を命じます。しかし高句麗も降格されていたのでこれに応じませんでした。王莽は高句麗候を殺し、布告を出して国名を下句麗に変えさせています。
子供が駄々をこねているような話ですが、それが大真面目で行なわれたのです。王莽の政治は一事が万事で社会を混乱に陥れ、各地で大規模な反乱が起き、農民反乱軍の赤眉、緑林をはじめ、各種各様の反乱軍が蜂起し、大地主たちも自衛のために武装集団を抱えるようになります。こうした中で南陽(河南省南陽市)の豪族、劉秀兄弟が出てきますが、劉秀が後漢初代の光武帝です。
弥生時代は前漢200年と後漢200年に、その前後の先秦・秦時代と三国時代を加えた時期に並行します。そのちょうど中間が王莽の新時代ですが、王莽が前漢王朝の簒奪を図った平帝の時代、つまり紀元前後を中期中葉とするのがよいようです。
中期前半には倭の百余国が遣使していますが、玄界灘・響灘沿岸を中心にした「百余国体制」とでもいうべきものが存在していたことが考えられますが、その内容の詳しいことは分かっていません。しかし前漢王朝の滅亡と王莽の失政で、その体制が崩壊したことが考えられます。
冊封体制によって儒教の「礼」という考え方が流入してきたことや、百余国体制が崩壊したことにより、新しい社会体制が摸索されたことが青銅器を祭器に変えていくと考えられます。新しい社会体制とは巨大な部族が出現し、その巨大な部族が王を擁立しするようになるということのようです。
紀元前後の中国では仏教が定着し、儒教では讖緯思想が現れています。キリストの誕生もこのころですが、世界全体がそうした変動期であったようです。私は神道の成立もこのころであり、神道の成立と同時に青銅祭器が出現 すると考えています。
北部九州は冊封体制に直接に組み込まれていたので、青銅器を入手する機会が多く、中国、朝鮮半島の風習をまねて青銅器(銅鏡、細形の剣、矛、戈など)を副葬することが行われていますが、北部九州以外では青銅器の流入量が少ない上に、特定の個人が青銅器を独占することはなかったと考えられています。
北部九州以外では青銅器は個人の持つものではなく、集団(宗族)の共有物とされ、宗族の祖先祭祀に用いられるようになると考えられます。青銅器を祭器に変えたのは中国・四国地方の宗族であったことが考えられています。
中国の氏族には姓がありますが、倭人の部族には姓はなかったでしょう。北アメリカインディアンの部族は動物、植物を象徴物(トーテム)とし、扶余の部族は牛、馬、豚、犬などをトーテムにしていました。青銅祭器は部族、あるいは宗族の祖先祭祀の神体であると同時に、姓に相当するトーテムでもあったでしょう。
宗族が所有している青銅祭器を見れば、その宗族がどの部族に所属しているかが解り、その形式から所有している宗族が置かれている、部族内部でのランクさえも解ったと考えられます。福田形銅鐸と近畿式銅鐸を比較すれば福田形が古く近畿式が新しいことが分かり、それを所有していた宗族の新旧が分かりますが、こうしたことから宗族のランク付けも可能だったのでしょう。
儒教は仁・義・礼・智・信という徳性を養うことにより父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の序列や、その関係を維持することを教えていますが、元帝から王莽の時代には周時代以前への回帰が盛んに言われ、春秋・戦国時代に失われた周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活した時代でした。礼とは人間の上下関係で守るべきことを言います。
しかしその政治は「託古改制」と言われている、孔子の思想をそのまま政治に持ち込んだ現実を無視したものでした。皇帝になった王莽の統治も託古改制そのもので、現実に合わず矛盾が生じ、その矛盾を訂正しなかったため社会は大混乱に陥ります。それを批判するように讖緯思想が盛んになります。
この時期には元帝の皇后だった元后と、その外戚の王氏が実権を握っていました。中期前半三期は成帝、哀帝、平帝という暗君と、王氏という愚臣が前漢王朝を崩壊へ導いた時期でした。紀元後八年、元后の甥の王莽が「天人感応説」を巧に利用して、前漢王朝を滅ぼして新を建国します。
九年、王莽は『周官』に基づいて前漢王朝の制度を廃止する、官制、官名、地名の改革を断行し、「天に二日無く、地に二王無し」ということで王を諸侯に降格します。周時代以前には王は一人だけで他はすべて諸侯でしたから、これに習って王という呼称を廃止しようとしたのですが、理由はそれだけでまさに暴挙としか言いようがありません。
これは外臣の王にも及び、外臣の王も諸侯に降格されました。これに反発したのが匈奴で、王莽は離反した匈奴を討伐するために高句麗に出兵を命じます。しかし高句麗も降格されていたのでこれに応じませんでした。王莽は高句麗候を殺し、布告を出して国名を下句麗に変えさせています。
子供が駄々をこねているような話ですが、それが大真面目で行なわれたのです。王莽の政治は一事が万事で社会を混乱に陥れ、各地で大規模な反乱が起き、農民反乱軍の赤眉、緑林をはじめ、各種各様の反乱軍が蜂起し、大地主たちも自衛のために武装集団を抱えるようになります。こうした中で南陽(河南省南陽市)の豪族、劉秀兄弟が出てきますが、劉秀が後漢初代の光武帝です。
弥生時代は前漢200年と後漢200年に、その前後の先秦・秦時代と三国時代を加えた時期に並行します。そのちょうど中間が王莽の新時代ですが、王莽が前漢王朝の簒奪を図った平帝の時代、つまり紀元前後を中期中葉とするのがよいようです。
中期前半には倭の百余国が遣使していますが、玄界灘・響灘沿岸を中心にした「百余国体制」とでもいうべきものが存在していたことが考えられますが、その内容の詳しいことは分かっていません。しかし前漢王朝の滅亡と王莽の失政で、その体制が崩壊したことが考えられます。
冊封体制によって儒教の「礼」という考え方が流入してきたことや、百余国体制が崩壊したことにより、新しい社会体制が摸索されたことが青銅器を祭器に変えていくと考えられます。新しい社会体制とは巨大な部族が出現し、その巨大な部族が王を擁立しするようになるということのようです。
紀元前後の中国では仏教が定着し、儒教では讖緯思想が現れています。キリストの誕生もこのころですが、世界全体がそうした変動期であったようです。私は神道の成立もこのころであり、神道の成立と同時に青銅祭器が出現 すると考えています。
北部九州は冊封体制に直接に組み込まれていたので、青銅器を入手する機会が多く、中国、朝鮮半島の風習をまねて青銅器(銅鏡、細形の剣、矛、戈など)を副葬することが行われていますが、北部九州以外では青銅器の流入量が少ない上に、特定の個人が青銅器を独占することはなかったと考えられています。
北部九州以外では青銅器は個人の持つものではなく、集団(宗族)の共有物とされ、宗族の祖先祭祀に用いられるようになると考えられます。青銅器を祭器に変えたのは中国・四国地方の宗族であったことが考えられています。
中国の氏族には姓がありますが、倭人の部族には姓はなかったでしょう。北アメリカインディアンの部族は動物、植物を象徴物(トーテム)とし、扶余の部族は牛、馬、豚、犬などをトーテムにしていました。青銅祭器は部族、あるいは宗族の祖先祭祀の神体であると同時に、姓に相当するトーテムでもあったでしょう。
宗族が所有している青銅祭器を見れば、その宗族がどの部族に所属しているかが解り、その形式から所有している宗族が置かれている、部族内部でのランクさえも解ったと考えられます。福田形銅鐸と近畿式銅鐸を比較すれば福田形が古く近畿式が新しいことが分かり、それを所有していた宗族の新旧が分かりますが、こうしたことから宗族のランク付けも可能だったのでしょう。
2009年10月17日土曜日
中期前半
武帝は紀元前141年に即位し、87年までの54年間在位しました。中期前半は紀元前九〇年から西暦紀元までと考えていますが、武帝の死のころが前漢王朝の転換点になっているようです。それに追随する形で弥生時代が前期から中期に移っていくと考えればよいと思います。
武帝は108年に真番・辰国が遣使するのを衛氏朝鮮が妨害しているという、冊封体制の職約(義務)違反を理由にして衛氏朝鮮を滅ぼし、そしてその地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置します。しかし真番・臨屯・玄菟の3郡は維持していくことができず、紀元前82年に真番・臨屯郡は廃止され玄菟郡も西に後退します。
ただ楽浪郡だけは真番・臨屯郡の果たしていた役割をも合わせ持つ、朝鮮半島経営の拠点になりました。これを大楽浪郡と言っていますが、中期前半は前漢の大楽浪郡時代に並行する時期だと考えるのがよいと思っています。
紀元前七四年に即位した宣帝は下情に通じた名君として知られ、武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝の子の元帝の時代が中期前半二期になりますが、匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。このころ倭人も楽浪郡を通じて前漢王朝と接触したと考えられます。倭人伝に「旧百余国、漢時有朝見者」とあるのはこのころのことでしょう。
福岡県春日市須玖岡本遺跡、飯塚市立岩遺跡、前原市三雲南小路遺跡などの出土品が流入してくるのがこの時期だと考えられます。ただこれらの遺跡の副葬品が作られた時と、副葬された時には時間差があると考えなければいけないでしょう。前漢王朝の滅亡が原因になって前漢鏡が価値を失い、王莽の新鏡や後漢初期の鏡が流入してきたことで副葬されるのであり、遺跡の実年代は紀元後一世紀前半以後になると思います。
紀元前三三年に成帝が即位しますが、このころから前漢末の社会不安が広がっていきます。次の哀帝は同性愛の相手を大司馬に任ずる愚帝でした。次の平帝も九歳で即位しましたが、14歳で王莽に毒殺されます。3期は変革期ですが、中期前半3期の中国は王莽による前漢王朝簒奪が準備された時期でした。
この中期前半で特記されなければならことは、儒教が国教として定着したことです。前漢の高祖、劉邦は遊侠の徒から成り上がって皇帝になりましたから、倫理思想とか政治思想には関心を持たず、儒者の勿体ぶった態度を嫌い儒者の冠帽に小便をしたといわれています。
しかし前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、武帝の治世の紀元前一三六年に、菫仲舒の奏上により五経博士が定められて、太学で儒教の経典である五経を講義させるようになります。しかしまだ国教として定着したわけではありません。儒学が国教として定着するのは紀元前四九年に即位した元帝以後のことです。
元帝は熱心な儒学信奉者で、まだ皇太子であったころ父の宣帝の統治を批判して儒教に元づく統治を進言しました。その執着ぶりに宣帝は「国家を乱すのは皇太子であろう」と嘆いたということですが、宣帝の嘆いた通りに元帝の甥の王蒙が儒学を弄して前漢を滅ぼすことになります。
元帝が父の宣帝に儒教に元づく統治を進言した時、宣帝は「王道と覇道とは時に応じて使い分けるものだ」と答えています。王道とは儒教に基づく統治であり、覇道とは秦の法治主義などを言っているのでしょう。元帝の統治時代は平穏で覇道は必要のないものでしたので儒教が重視されました。
即位した元帝は儒家を登用して彼らの言う理想的な政治を行おうとしました。孔子は周初期やそれ以前を理想的な社会とし、その時代の道徳を取り戻すことを目標としたが、登用された儒家は周初期やそれ以前の社会を再現すれば、それが理想的な社会だと考えていました。
周初期と前漢時代とでは時代背景が違いますから、当然のこととして矛盾が生じています。また思想には得てして理想論が加わりやすいものです。そのため元帝の政治は孔子の理想を追求するだけの、現実を無視したものになりました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
こうしたことから孔子の思想に忠実であろうとする儒者を今文派というのに対し、儒教を現実に合うように解釈しようとする一派が生まれ、その一派を古文派と言っています。古文派は秦の始皇帝による「焚書坑儒」で焼け残った儒書をテキストにしていると称したのでこう呼ばれています。これが冊封体制によって倭人に伝わってきたようです。
ただし倭人がこの時に儒教を知ったというのではありません。中国の統治方法が儒教の教理に基づいており、冊封体制の根本原理でもあったので、倭人はこれを部族国家の統治方法として受け入れたのです。換言するとそうとは知らずに儒教を受け入れていたということでしょう。
儒教では宗廟祭祀が重視されていますが、私はそうとは知らずに儒教を受け入れたことが、青銅器を祭器に変えていく原因になっており、また神道が成立する要因にもなっていると考えています。青銅祭器は巨大な部族が同族関係にある宗族に配布しましたが、青銅祭器の配布を受けた宗族は、これを神体とする宗廟祭祀を行ないました。それが後に氏族の行なう氏神の祭りになり、神社の神体の鏡になると考えています。
武帝は108年に真番・辰国が遣使するのを衛氏朝鮮が妨害しているという、冊封体制の職約(義務)違反を理由にして衛氏朝鮮を滅ぼし、そしてその地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置します。しかし真番・臨屯・玄菟の3郡は維持していくことができず、紀元前82年に真番・臨屯郡は廃止され玄菟郡も西に後退します。
ただ楽浪郡だけは真番・臨屯郡の果たしていた役割をも合わせ持つ、朝鮮半島経営の拠点になりました。これを大楽浪郡と言っていますが、中期前半は前漢の大楽浪郡時代に並行する時期だと考えるのがよいと思っています。
紀元前七四年に即位した宣帝は下情に通じた名君として知られ、武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝の子の元帝の時代が中期前半二期になりますが、匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。このころ倭人も楽浪郡を通じて前漢王朝と接触したと考えられます。倭人伝に「旧百余国、漢時有朝見者」とあるのはこのころのことでしょう。
福岡県春日市須玖岡本遺跡、飯塚市立岩遺跡、前原市三雲南小路遺跡などの出土品が流入してくるのがこの時期だと考えられます。ただこれらの遺跡の副葬品が作られた時と、副葬された時には時間差があると考えなければいけないでしょう。前漢王朝の滅亡が原因になって前漢鏡が価値を失い、王莽の新鏡や後漢初期の鏡が流入してきたことで副葬されるのであり、遺跡の実年代は紀元後一世紀前半以後になると思います。
紀元前三三年に成帝が即位しますが、このころから前漢末の社会不安が広がっていきます。次の哀帝は同性愛の相手を大司馬に任ずる愚帝でした。次の平帝も九歳で即位しましたが、14歳で王莽に毒殺されます。3期は変革期ですが、中期前半3期の中国は王莽による前漢王朝簒奪が準備された時期でした。
この中期前半で特記されなければならことは、儒教が国教として定着したことです。前漢の高祖、劉邦は遊侠の徒から成り上がって皇帝になりましたから、倫理思想とか政治思想には関心を持たず、儒者の勿体ぶった態度を嫌い儒者の冠帽に小便をしたといわれています。
しかし前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、武帝の治世の紀元前一三六年に、菫仲舒の奏上により五経博士が定められて、太学で儒教の経典である五経を講義させるようになります。しかしまだ国教として定着したわけではありません。儒学が国教として定着するのは紀元前四九年に即位した元帝以後のことです。
元帝は熱心な儒学信奉者で、まだ皇太子であったころ父の宣帝の統治を批判して儒教に元づく統治を進言しました。その執着ぶりに宣帝は「国家を乱すのは皇太子であろう」と嘆いたということですが、宣帝の嘆いた通りに元帝の甥の王蒙が儒学を弄して前漢を滅ぼすことになります。
元帝が父の宣帝に儒教に元づく統治を進言した時、宣帝は「王道と覇道とは時に応じて使い分けるものだ」と答えています。王道とは儒教に基づく統治であり、覇道とは秦の法治主義などを言っているのでしょう。元帝の統治時代は平穏で覇道は必要のないものでしたので儒教が重視されました。
即位した元帝は儒家を登用して彼らの言う理想的な政治を行おうとしました。孔子は周初期やそれ以前を理想的な社会とし、その時代の道徳を取り戻すことを目標としたが、登用された儒家は周初期やそれ以前の社会を再現すれば、それが理想的な社会だと考えていました。
周初期と前漢時代とでは時代背景が違いますから、当然のこととして矛盾が生じています。また思想には得てして理想論が加わりやすいものです。そのため元帝の政治は孔子の理想を追求するだけの、現実を無視したものになりました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。
こうしたことから孔子の思想に忠実であろうとする儒者を今文派というのに対し、儒教を現実に合うように解釈しようとする一派が生まれ、その一派を古文派と言っています。古文派は秦の始皇帝による「焚書坑儒」で焼け残った儒書をテキストにしていると称したのでこう呼ばれています。これが冊封体制によって倭人に伝わってきたようです。
ただし倭人がこの時に儒教を知ったというのではありません。中国の統治方法が儒教の教理に基づいており、冊封体制の根本原理でもあったので、倭人はこれを部族国家の統治方法として受け入れたのです。換言するとそうとは知らずに儒教を受け入れていたということでしょう。
儒教では宗廟祭祀が重視されていますが、私はそうとは知らずに儒教を受け入れたことが、青銅器を祭器に変えていく原因になっており、また神道が成立する要因にもなっていると考えています。青銅祭器は巨大な部族が同族関係にある宗族に配布しましたが、青銅祭器の配布を受けた宗族は、これを神体とする宗廟祭祀を行ないました。それが後に氏族の行なう氏神の祭りになり、神社の神体の鏡になると考えています。
2009年10月16日金曜日
弥生時代前期後半
中区分の90年間を30年ごとに3期に小区分していますが、1期には草創期という性格があるようです。2期は1期の延長で比較的に平穏で大きな動きがありません。そして3期は変革期になっています。3期の変革が次の90年間の1期の草創に繋がっていて、それが繰替えされていくのですが、人間のバイオリズムがそうさせているとしか思えません。
前期前半を紀元前270年から180年までをとし、前期後半を180年から90年までとしますが、その前期前半3期の202年に劉邦が前漢皇帝として即位します。前期前半3期は中国を統一した秦が短期間で滅び、前漢が誕生するという、統一中国への変革期になっています。
劉邦は建国の功臣を王に冊封しますが、政権が安定するとこの王を排除し、国内の王は劉姓の同族に限定するようになります。劉邦の少年時代からの友人で燕王に冊封されていた廬綰も、匈奴と内通しているという嫌疑を受けて匈奴に亡命します。
廬綰が匈奴に亡命すると燕人の衛満も千余人をひきいて朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準(じゅん)を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定め、朝鮮王と称するようになります。
衛満は紀元前180年に前漢から朝鮮王に冊封されます。建国間もない前漢が国内政策と匈奴対策に腐心していたころ、衛氏朝鮮は周辺の部族国家を統合していき、紀元前150年ころには真番・辰国を支配下に置きます。
前期後半は倭人が衛氏朝鮮の影響を受けた時期で、朝鮮半島では銅矛、BⅡ式銅剣、銅戈、銅鐸が造られ、また多鈕細文鏡が作られ、それが倭国に流入してきます。玄界灘・響灘沿岸、あるいは日本海沿岸で、衛氏朝鮮に追われた渡来民を中心にした部族国家が生まれ、それが衛氏朝鮮と接触していたことが考えられます。
ただこれらの朝鮮半島製の青銅器が製作された時期と、日本で墓に副葬された時期とに年代差があることを考えなければならないようです。銅鏡の場合、その差は100年を最長として限りなくゼロに近づける説まで諸説がありますが、概して数値の設定は恣意的で、発表年が新しくなるに従ってゼロに近づく傾向があります。
しかし近いとは言ってもその差がゼロということはあり得ません。柳田康雄氏は当時の平均寿命を4~50年と考えて王の在位期間を2~30年とし、鏡が作られた時に2~30年をプラスしたものが副葬された時期とされていますが、最短でもそれくらいの経過を見込まなければならないでしょう。
私は鏡は威信財であり、鏡が造られた時に、鏡としての価値がなくなるまでの期間をプラスしたものが副葬された時だと考えます。鏡が副葬される時期についての問題点は、鏡に備わっている威信を一代限りのものと見るか、それとも威信は子孫が継承したと見るかの違いにあるように思います。
威信を自分の子や孫に伝えたいと思うのが古今を問わない人情であろうと思います。鏡に威信財としての価値がある間は子、孫へと伝世され、同時に鏡によって顕示されることになる威信も子孫に伝えられていくが、その価値がなくなった時に所有者が死ぬと副葬されるのだと思います。
多鈕細文鏡が造られたのは衛氏朝鮮時代ですが、紀元前108年に楽浪郡が設置されて倭人が中国の冊封体制に組み込まれ、前漢後半の鏡が流入して来たことにより多鈕細文鏡が価値を失い副葬されたことが考えられます。
製作時期と埋納時期の差をゼロに近づけることが進歩的だとは言えないように思います。朝鮮半島製の青銅器を副葬している墓の年代は紀元前108年以後だと考えなければならないでしょう。
前期前半を紀元前270年から180年までをとし、前期後半を180年から90年までとしますが、その前期前半3期の202年に劉邦が前漢皇帝として即位します。前期前半3期は中国を統一した秦が短期間で滅び、前漢が誕生するという、統一中国への変革期になっています。
劉邦は建国の功臣を王に冊封しますが、政権が安定するとこの王を排除し、国内の王は劉姓の同族に限定するようになります。劉邦の少年時代からの友人で燕王に冊封されていた廬綰も、匈奴と内通しているという嫌疑を受けて匈奴に亡命します。
廬綰が匈奴に亡命すると燕人の衛満も千余人をひきいて朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準(じゅん)を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定め、朝鮮王と称するようになります。
衛満は紀元前180年に前漢から朝鮮王に冊封されます。建国間もない前漢が国内政策と匈奴対策に腐心していたころ、衛氏朝鮮は周辺の部族国家を統合していき、紀元前150年ころには真番・辰国を支配下に置きます。
前期後半は倭人が衛氏朝鮮の影響を受けた時期で、朝鮮半島では銅矛、BⅡ式銅剣、銅戈、銅鐸が造られ、また多鈕細文鏡が作られ、それが倭国に流入してきます。玄界灘・響灘沿岸、あるいは日本海沿岸で、衛氏朝鮮に追われた渡来民を中心にした部族国家が生まれ、それが衛氏朝鮮と接触していたことが考えられます。
ただこれらの朝鮮半島製の青銅器が製作された時期と、日本で墓に副葬された時期とに年代差があることを考えなければならないようです。銅鏡の場合、その差は100年を最長として限りなくゼロに近づける説まで諸説がありますが、概して数値の設定は恣意的で、発表年が新しくなるに従ってゼロに近づく傾向があります。
しかし近いとは言ってもその差がゼロということはあり得ません。柳田康雄氏は当時の平均寿命を4~50年と考えて王の在位期間を2~30年とし、鏡が作られた時に2~30年をプラスしたものが副葬された時期とされていますが、最短でもそれくらいの経過を見込まなければならないでしょう。
私は鏡は威信財であり、鏡が造られた時に、鏡としての価値がなくなるまでの期間をプラスしたものが副葬された時だと考えます。鏡が副葬される時期についての問題点は、鏡に備わっている威信を一代限りのものと見るか、それとも威信は子孫が継承したと見るかの違いにあるように思います。
威信を自分の子や孫に伝えたいと思うのが古今を問わない人情であろうと思います。鏡に威信財としての価値がある間は子、孫へと伝世され、同時に鏡によって顕示されることになる威信も子孫に伝えられていくが、その価値がなくなった時に所有者が死ぬと副葬されるのだと思います。
多鈕細文鏡が造られたのは衛氏朝鮮時代ですが、紀元前108年に楽浪郡が設置されて倭人が中国の冊封体制に組み込まれ、前漢後半の鏡が流入して来たことにより多鈕細文鏡が価値を失い副葬されたことが考えられます。
製作時期と埋納時期の差をゼロに近づけることが進歩的だとは言えないように思います。朝鮮半島製の青銅器を副葬している墓の年代は紀元前108年以後だと考えなければならないでしょう。
2009年10月14日水曜日
弥生時代の実年代 その4
私は弥生時代は部族が国を形成していた時代だと考えています。弥生時代の始まりについては稲作の始まった時だとか、弥生式系の土器が作られ始めた時だとする考え方があるようですが、私は部族国家が出現した時に弥生時代が始まると考えるのがよいと思っています。部族国家についてはすでに述べていますが、部族のことがほとんど考えられていないことが、弥生時代を分かり難くしているように思っています。
紀元前一〇八年に楽浪郡が設置されると、倭人も冊封体制に組み込まれますが、弥生時代の倭国は中国、朝鮮半島の影響を強く受けており、冊封体制と倭人の部族国家や時代区分に関係がないとは思えません。
周は姫氏の一族が支配する国でしたが、紀元前403年、周王が韓、魏、趙の3氏を諸侯と認めたことにより姫氏の一族の晋が滅びます。385年には田氏が諸侯に任ぜられて、やはり姫氏の一族の斉を乗っ取ります。こうして姫氏一族の支配は衰退していき、戦国七雄といわれる諸国が勢揃いします。戦国時代の始まりですが、弥生時代前期の前に早期を置く説ではこのころを早期の始めとする説があります。
七雄の諸国は諸子百家と呼ばれる人材を登用して富国強兵を図りますが、それが最も成功したのが秦でした。紀元前361年、秦の孝公は法家の商鞅(しょうおう)を登用して商鞅変法と呼ばれる政治改革を行い、七雄最強の国になります。その秦の名君として知られているのが昭襄王で、紀元前307年から251年まで、56年間在位しました。この昭襄王の時代に後の始皇帝による中国統一の基礎が確立します。
同じころ燕の昭王(在位前313~279)も、「まず隗(かい)より始めよ」の故事で知られる人材登用を行い、楽毅、蘇秦、鄒衍、劇辛などの人材が集まりました。紀元前311年、昭王は東胡を討伐し、その地に遼東、遼西、右北平、魚陽、上谷の五郡を設置しますが、このころ朝鮮半島には箕氏朝鮮(きしちょうせん)がありました。
五郡の設置で遼東方面の韓族が朝鮮半島に移動したと言われており、漢族と箕氏朝鮮の接触が始まりますが、その影響で朝鮮半島の韓族が南下し、その一部が海を渡って倭国に来たことが考えられます。このことが弥生時代の始まりの直接の原因になっているように思われます。
その後箕氏朝鮮が燕の意に従わなくなり、前284年、燕は武将の秦開を遣わして二千余里の土地を奪い、満番汗(まんばんかん)という土地まで兵を進め、そこを燕と箕氏朝鮮の国境にします。箕氏朝鮮はその後力を失い、秦が燕を滅ぼした後にはこれに従属するようになります。
秦や燕、あるいは箕氏朝鮮の動きに触発されて弥生時代が始まると考えるのですが、紀元前3世紀の前半ころまでには確実に弥生時代になるようです。ですから前期の前に早期を置く説に従えば、早期の始まりを秦の孝公が商鞅を登用した紀元前360年ころとすることができそうに思われます。
『山海経』海内北経(紀元前後に成立)には「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という記述があります。蓋国は高句麗領の蓋馬に在った国だといわれていますが、「倭属燕」とありますから、倭人が燕と接触していたことが考えられます。冊封関係があったのなら面白いのですが記録にはありません。対馬で遼寧式銅剣が出土しているのはこのことを示しているのかも知れません。
また『漢書』地理志の燕地の条には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って献見るすと云う」とあります。燕は紀元前222年に滅んでいますし、百余国の遣使も紀元前一世紀のことと考えられていますから、この文が倭人と燕との接触を示しているとは言えませんが、少なくとも倭国と燕は無関係ではないとは言えそうです。
倭人の部族は秦や燕、あるいは箕氏朝鮮と接触することによって国という統治機構を持つようになることが考えられます。それまでの部族は通婚によって結びついた同族集団でした。水利を共有し、物資を融通し合ったり共同して敵と戦ったりする「文化統一体」でしたが、それが秦や燕と接触したことによって「政治統一体」に変質し始めるのだと考えます。その変化が弥生時代の始まりとして捉えられているように思います。
紀元前一〇八年に楽浪郡が設置されると、倭人も冊封体制に組み込まれますが、弥生時代の倭国は中国、朝鮮半島の影響を強く受けており、冊封体制と倭人の部族国家や時代区分に関係がないとは思えません。
周は姫氏の一族が支配する国でしたが、紀元前403年、周王が韓、魏、趙の3氏を諸侯と認めたことにより姫氏の一族の晋が滅びます。385年には田氏が諸侯に任ぜられて、やはり姫氏の一族の斉を乗っ取ります。こうして姫氏一族の支配は衰退していき、戦国七雄といわれる諸国が勢揃いします。戦国時代の始まりですが、弥生時代前期の前に早期を置く説ではこのころを早期の始めとする説があります。
七雄の諸国は諸子百家と呼ばれる人材を登用して富国強兵を図りますが、それが最も成功したのが秦でした。紀元前361年、秦の孝公は法家の商鞅(しょうおう)を登用して商鞅変法と呼ばれる政治改革を行い、七雄最強の国になります。その秦の名君として知られているのが昭襄王で、紀元前307年から251年まで、56年間在位しました。この昭襄王の時代に後の始皇帝による中国統一の基礎が確立します。
同じころ燕の昭王(在位前313~279)も、「まず隗(かい)より始めよ」の故事で知られる人材登用を行い、楽毅、蘇秦、鄒衍、劇辛などの人材が集まりました。紀元前311年、昭王は東胡を討伐し、その地に遼東、遼西、右北平、魚陽、上谷の五郡を設置しますが、このころ朝鮮半島には箕氏朝鮮(きしちょうせん)がありました。
五郡の設置で遼東方面の韓族が朝鮮半島に移動したと言われており、漢族と箕氏朝鮮の接触が始まりますが、その影響で朝鮮半島の韓族が南下し、その一部が海を渡って倭国に来たことが考えられます。このことが弥生時代の始まりの直接の原因になっているように思われます。
その後箕氏朝鮮が燕の意に従わなくなり、前284年、燕は武将の秦開を遣わして二千余里の土地を奪い、満番汗(まんばんかん)という土地まで兵を進め、そこを燕と箕氏朝鮮の国境にします。箕氏朝鮮はその後力を失い、秦が燕を滅ぼした後にはこれに従属するようになります。
秦や燕、あるいは箕氏朝鮮の動きに触発されて弥生時代が始まると考えるのですが、紀元前3世紀の前半ころまでには確実に弥生時代になるようです。ですから前期の前に早期を置く説に従えば、早期の始まりを秦の孝公が商鞅を登用した紀元前360年ころとすることができそうに思われます。
『山海経』海内北経(紀元前後に成立)には「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という記述があります。蓋国は高句麗領の蓋馬に在った国だといわれていますが、「倭属燕」とありますから、倭人が燕と接触していたことが考えられます。冊封関係があったのなら面白いのですが記録にはありません。対馬で遼寧式銅剣が出土しているのはこのことを示しているのかも知れません。
また『漢書』地理志の燕地の条には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って献見るすと云う」とあります。燕は紀元前222年に滅んでいますし、百余国の遣使も紀元前一世紀のことと考えられていますから、この文が倭人と燕との接触を示しているとは言えませんが、少なくとも倭国と燕は無関係ではないとは言えそうです。
倭人の部族は秦や燕、あるいは箕氏朝鮮と接触することによって国という統治機構を持つようになることが考えられます。それまでの部族は通婚によって結びついた同族集団でした。水利を共有し、物資を融通し合ったり共同して敵と戦ったりする「文化統一体」でしたが、それが秦や燕と接触したことによって「政治統一体」に変質し始めるのだと考えます。その変化が弥生時代の始まりとして捉えられているように思います。
2009年10月12日月曜日
弥生時代の実年代 その3
弥生時代の実年代は流動的で研究者によって違いがあります。そこで私は弥生時代を180年ごとに大区分し、これをさらに90年ごとに中区分し、30年ごとに小区分して実年代を推定することにしています。もちろん時代区分は今日までが中期で明日からは後期になるというような機械的なものではありませんから、これはあくまでも通説に準拠した目安に過ぎません。
そこで各期の境の前後には三〇年間のグレーゾーンを設定することにしています。弥生時代の終わりの場合は、270年の前後の各15年間で、255年から285年までの30年間の或る時期だと考えるわけです。弥生時代の始まりも紀元前255年から285年までの、或る時期だというふうに考えます。
例えば奈良県箸墓古墳の外提から出土したという「布留0(ふるゼロ)式土器」の場合、後期終末か古墳時代初頭の土器ということなので、その実年代は255年~285年になるだろうと判断するわけです。従って国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表した炭素14年代測定法による240~260年という年代は、15~25年ほど古く見ていると判断するのです。
私は邪馬台国は北部九州に在ったと考えていますので箸墓が卑弥呼の墓だとは考えませんが、いずれにしても布留0式土器は、卑弥呼の死んだ247年よりも後のものということになります。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮(筑前遠賀郡)滞在中に行なわれたと考え、箸墓古墳は神武天皇の墓だと考えています。
弥生式土器は1世代1形式と言われていますが、那珂通世は『上世年紀考』の中で、孔安国が『論語』に「三〇年を世という」としていることや、許慎が『説文』で「三〇年を一世とする」としていることを紹介しています。30年ごとに小さな文化の変化が起きると考えなければならないようです。
例えば後期後半の場合、倭国に大乱の起きた180年から三世紀後半の270年までの90年間だと判断するわけですが、この90年間をさらに30年ごとに3区分すると、1期は180~210年に、2期は210~240年に、3期は240~270年になります。
後期後半1期は倭国大乱で王の居なかった時期だと考えることができ、卑弥呼はまだ即位していなかった可能性があります。2期は卑弥呼が確実に王であった時期に当たります。3期は台与とその後の男王の時代になります。そして270年に弥生時代が終わることになります。
私はこの180年ごとの大区分、90年ごとの中区分、30年ごとの小区分は根拠のない数ではないと考えています。それには人間のバイオリズムが関係しているようです。一般家庭でも30歳までには親になり、60歳で孫を持つことになって、30年で世代交代が起きています。
私は自分を運命論者とは思っていませんが、90歳になったころに死ぬことは間違いありません。90年は人間の寿命に当たります。180年は祖父母から聞いたことを孫に語って聞かせる期間に相当します。文字のない時代には歴史は口伝されましたが、それは180年が限度でしょう。
倭人伝に「其人壽考。或百年、或八九十年」とありますが、倭人の寿命は100年、あるいは8~90年だとされています。平均寿命は生活環境に左右されて変わりますが、寿命は80~90年で変わりません。
これは人間のバイオリズムであって、それを人間が変えることはできません。歴史も人間のバイオリズムに合わせて変わっていくようです。那珂通世は30年を一世代と考えていますが、およそ30年ごとに世代交替があり、90年で生きている人間が全部入れ替わって過去の歴史が忘れられ、それにつれて時代が変わっていくようです。
幕末のペリーの来航から1945年の終戦までの、およそ90年間もその例だと考えます。列強諸国に「追い着け・追い越せ」の文化が破綻したのが1945年であり、その後には「東洋の奇跡」と言われている経済発展を遂げることになります。
そして6世代180年で社会が一変するようです。中国の歴史を見ても、およそ90年ごとに歴史を大きく変えてしまうような事件が起きたり、名君、賢臣が現れ、あるいは逆に暗君、愚臣が現れたりしているように見えます。そして事実として前漢・後漢王朝は実質180年間で消滅しています。
それに連動して倭国にも動きが出てきます。前々回紹介したように西島定生氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されていますが、倭国の歴史は中国・朝鮮半島の歴史に連動しています。
それは90年あるいは180年ごとに変化しています。表は中国・朝鮮半島の歴史に連動した、私の考える前期後半以後の時代区分です。
そこで各期の境の前後には三〇年間のグレーゾーンを設定することにしています。弥生時代の終わりの場合は、270年の前後の各15年間で、255年から285年までの30年間の或る時期だと考えるわけです。弥生時代の始まりも紀元前255年から285年までの、或る時期だというふうに考えます。
例えば奈良県箸墓古墳の外提から出土したという「布留0(ふるゼロ)式土器」の場合、後期終末か古墳時代初頭の土器ということなので、その実年代は255年~285年になるだろうと判断するわけです。従って国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表した炭素14年代測定法による240~260年という年代は、15~25年ほど古く見ていると判断するのです。
私は邪馬台国は北部九州に在ったと考えていますので箸墓が卑弥呼の墓だとは考えませんが、いずれにしても布留0式土器は、卑弥呼の死んだ247年よりも後のものということになります。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮(筑前遠賀郡)滞在中に行なわれたと考え、箸墓古墳は神武天皇の墓だと考えています。
弥生式土器は1世代1形式と言われていますが、那珂通世は『上世年紀考』の中で、孔安国が『論語』に「三〇年を世という」としていることや、許慎が『説文』で「三〇年を一世とする」としていることを紹介しています。30年ごとに小さな文化の変化が起きると考えなければならないようです。
例えば後期後半の場合、倭国に大乱の起きた180年から三世紀後半の270年までの90年間だと判断するわけですが、この90年間をさらに30年ごとに3区分すると、1期は180~210年に、2期は210~240年に、3期は240~270年になります。
後期後半1期は倭国大乱で王の居なかった時期だと考えることができ、卑弥呼はまだ即位していなかった可能性があります。2期は卑弥呼が確実に王であった時期に当たります。3期は台与とその後の男王の時代になります。そして270年に弥生時代が終わることになります。
私はこの180年ごとの大区分、90年ごとの中区分、30年ごとの小区分は根拠のない数ではないと考えています。それには人間のバイオリズムが関係しているようです。一般家庭でも30歳までには親になり、60歳で孫を持つことになって、30年で世代交代が起きています。
私は自分を運命論者とは思っていませんが、90歳になったころに死ぬことは間違いありません。90年は人間の寿命に当たります。180年は祖父母から聞いたことを孫に語って聞かせる期間に相当します。文字のない時代には歴史は口伝されましたが、それは180年が限度でしょう。
倭人伝に「其人壽考。或百年、或八九十年」とありますが、倭人の寿命は100年、あるいは8~90年だとされています。平均寿命は生活環境に左右されて変わりますが、寿命は80~90年で変わりません。
これは人間のバイオリズムであって、それを人間が変えることはできません。歴史も人間のバイオリズムに合わせて変わっていくようです。那珂通世は30年を一世代と考えていますが、およそ30年ごとに世代交替があり、90年で生きている人間が全部入れ替わって過去の歴史が忘れられ、それにつれて時代が変わっていくようです。
幕末のペリーの来航から1945年の終戦までの、およそ90年間もその例だと考えます。列強諸国に「追い着け・追い越せ」の文化が破綻したのが1945年であり、その後には「東洋の奇跡」と言われている経済発展を遂げることになります。
そして6世代180年で社会が一変するようです。中国の歴史を見ても、およそ90年ごとに歴史を大きく変えてしまうような事件が起きたり、名君、賢臣が現れ、あるいは逆に暗君、愚臣が現れたりしているように見えます。そして事実として前漢・後漢王朝は実質180年間で消滅しています。
それに連動して倭国にも動きが出てきます。前々回紹介したように西島定生氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されていますが、倭国の歴史は中国・朝鮮半島の歴史に連動しています。
それは90年あるいは180年ごとに変化しています。表は中国・朝鮮半島の歴史に連動した、私の考える前期後半以後の時代区分です。
2009年10月11日日曜日
弥生時代の実年代 その2
弥生時代は紀元前3世紀から3世紀にかけてのおよそ数百年間だとされ、前期、中期、後期に3区分されていますが、最近では早期・前期・中期・後期に4区分することが主流になりつつあります。
しかしその実年代については非常に流動的で近年では「年輪年代法」や「炭素14年代測定法」により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説が出てきています。
表は都出比呂志氏の『古代国家はこうして生まれた』(角川書店、1998年)から引用させていただいたものです。表でも分かるように研究者によって実年代が異なり、また実年代が示されていてもそれが実年代として正しいのか判断に迷います。
近畿の研究者と九州の研究者とでも違いがありますし、最近では炭素14年代測定法によって中期の始まりを紀元前400年ころとする考えも出てきています。
ある研究者の後期後半と、別の研究者の「古式土師器の時代」とはどのように違うのかとなるとさらに混乱してきます。そこで私は個々の研究者の年代観とは別の、私流の年代観で実年代を判断することにしています。
弥生時代を前期180年間、中期180年間、後期180年間に大区分しようというもので、弥生時代の始まりは紀元前270年とします。中期の始まりは紀元前90年になり、後期の始まりは紀元後90年になって、弥生時代の終わりは紀元後270年になります。そして180年を90年ごとに中区分します。
つまり前期の土器を6形式に分類して、それは180年間に作られたことにしてしまおうというのです。中期・後期も同様で弥生時代全体では18形式が540年間に作られたと考えるわけです。縄文時代と古墳時代との境に各1形式を置けば20形式、600年間になります。
この年代観は結果的には、1960年に杉原荘介氏(1913~83)が発表し、その後しばらく影響力を持っていた説の焼き直しということになります。杉原氏は1期間を100年としています。それを10年短縮して90年にしたに過ぎないのですが、半世紀も前のクラシックな年代観だと言えます。
ただ10年短縮したことによりその分だけ現在の通説に近くなっています。杉原氏は弥生時代の終わりを300年ごろとしていますが、私の年代観だと270年になって、3世紀後半とする最近の通説に近くなっています。中期と後期の境も通説では1世紀中葉とされていますが、私の年代観では90年になり杉原氏の説より10年だけ近くなります。
寺沢氏は近畿地方の弥生式土器を19形式に分類され、弥生時代と古墳時代の境に4形式の庄内式を入れています。寺沢氏の分類では庄内式は弥生時代の土器なのか、それとも古墳時代の土器なのか判然としませんが、4形式を半分ずつにすると弥生時代の土器を、およそ21・2形式程度に分類されていると見ることができます。
弥生時代を600年間とすると29年で形式に変化が起きることになりますが、およそ30年が土器の形式に変化の起きる期間だとするのです。ただしこの方法は前期の前に早期を置く4区分では矛盾が生じるようです。
弥生式土器は一世代一形式といわれています。早期の1形式が30年間で変化するようには思えませんが、幸いなことに地方ごとの土器の形式分類は緻密に行われています。この土器の形式分類の1形式を強引に小区分(30年間)に当て嵌めてしまおうというのです。
しかしその実年代については非常に流動的で近年では「年輪年代法」や「炭素14年代測定法」により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説が出てきています。
表は都出比呂志氏の『古代国家はこうして生まれた』(角川書店、1998年)から引用させていただいたものです。表でも分かるように研究者によって実年代が異なり、また実年代が示されていてもそれが実年代として正しいのか判断に迷います。
近畿の研究者と九州の研究者とでも違いがありますし、最近では炭素14年代測定法によって中期の始まりを紀元前400年ころとする考えも出てきています。
ある研究者の後期後半と、別の研究者の「古式土師器の時代」とはどのように違うのかとなるとさらに混乱してきます。そこで私は個々の研究者の年代観とは別の、私流の年代観で実年代を判断することにしています。
弥生時代を前期180年間、中期180年間、後期180年間に大区分しようというもので、弥生時代の始まりは紀元前270年とします。中期の始まりは紀元前90年になり、後期の始まりは紀元後90年になって、弥生時代の終わりは紀元後270年になります。そして180年を90年ごとに中区分します。
つまり前期の土器を6形式に分類して、それは180年間に作られたことにしてしまおうというのです。中期・後期も同様で弥生時代全体では18形式が540年間に作られたと考えるわけです。縄文時代と古墳時代との境に各1形式を置けば20形式、600年間になります。
この年代観は結果的には、1960年に杉原荘介氏(1913~83)が発表し、その後しばらく影響力を持っていた説の焼き直しということになります。杉原氏は1期間を100年としています。それを10年短縮して90年にしたに過ぎないのですが、半世紀も前のクラシックな年代観だと言えます。
ただ10年短縮したことによりその分だけ現在の通説に近くなっています。杉原氏は弥生時代の終わりを300年ごろとしていますが、私の年代観だと270年になって、3世紀後半とする最近の通説に近くなっています。中期と後期の境も通説では1世紀中葉とされていますが、私の年代観では90年になり杉原氏の説より10年だけ近くなります。
寺沢氏は近畿地方の弥生式土器を19形式に分類され、弥生時代と古墳時代の境に4形式の庄内式を入れています。寺沢氏の分類では庄内式は弥生時代の土器なのか、それとも古墳時代の土器なのか判然としませんが、4形式を半分ずつにすると弥生時代の土器を、およそ21・2形式程度に分類されていると見ることができます。
弥生時代を600年間とすると29年で形式に変化が起きることになりますが、およそ30年が土器の形式に変化の起きる期間だとするのです。ただしこの方法は前期の前に早期を置く4区分では矛盾が生じるようです。
弥生式土器は一世代一形式といわれています。早期の1形式が30年間で変化するようには思えませんが、幸いなことに地方ごとの土器の形式分類は緻密に行われています。この土器の形式分類の1形式を強引に小区分(30年間)に当て嵌めてしまおうというのです。
2009年10月8日木曜日
弥生時代の実年代 その1
倭人伝の記述と神話がどのように似ているかを見てきましたが、天の岩戸の神話と卑弥呼の死の前後の様子とは非常によく似ています。主として倭人伝の人物と神話の神との関係を述べましたが、安本美典氏は一連の著書で人物以外にも似ている点の多いことを具体的に述べられています。
都市牛利・以聲耆・載斯烏越についても触れてみたいのですが、残念ながらこの3人には具体的な動きがなく特徴がありません。いずれにしても天の岩戸から天孫降臨にかけて活動する神に当たると考えてよいようです。天石門別神や玉祖命・天児屋命・布刀玉命などを考えてよいでしょう。
私がこのような考えを持つに至ったについては、安本氏の著書に接したことが大きいのですが、違う点もあります。そのひとつは3世紀にも面土国が存在しており、スサノオは面土国王だということです。面土国の存在を認め、それを解明するという視線で神話に接すると、神話が史実を含んでいることがよく理解できるようになってきます。
しかし神話には史実と創作とがないまぜになった危うさがあって、創作部分にこだわると「神話の迷路」に迷い込むことになります。「神話の迷路」とは後世に加わった創作部分に、さらに恣意的な解釈を加えるということです。考古学・民族学など実証を重視する分野と神話との間には、越えがたい障壁がありますが、その原因の一つに「神話の迷路」に迷い込んだ説が氾濫していることがあるようです。
倭人伝と神話の関係を見てきましたが、ここでいったん神話を終わり、次回から年代論に入ります。年代論は地味であまり面白くないかもしれませんが、邪馬台国の位置と同様に大事なことのようです。それに関して西島定生氏は『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成六年)で次のように述べています。
日本の歴史を考えるばあいに、日本の国内だけに目を向けていては、十分な理解が得られないと言うことである。これが、大陸あるいはヨーロッパの歴史であると、そのようなことは常識であって、一つの国だけで独自の歴史が展開するということはなく、当然周辺の諸民族ないしは諸国家と関係しながら、その歴史が進行するのである。
ところが日本のばあいには、幸か不幸か島国であって、大陸とは海を隔てているために、ともすれば、日本の歴史というものは日本だけで完結しているという考え方が意識的、無意識的に生じやすい。もちろん大陸との交渉があったことは何人も知っていながらも、なおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考えやすい。
西嶋氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されています。西嶋氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制をあげ、これらの文化が伝播してきたことにも冊封体制が貢献をしていると見ています。
東アジア世界を結び付けているのが冊封体制です。紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置して以後、倭人も冊封体制に組み込まれて中国の影響を強く受けるようになります。しかし冊封体制は外交儀礼のように思われていて、あまり意識されていないようです。
弥生時代の日本は中国を中心とする「東アジア世界」の一員でしたが、西嶋氏の述べられるように日本では「それでもなおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考え」られています。この点を追及してみたいと思っています。
都市牛利・以聲耆・載斯烏越についても触れてみたいのですが、残念ながらこの3人には具体的な動きがなく特徴がありません。いずれにしても天の岩戸から天孫降臨にかけて活動する神に当たると考えてよいようです。天石門別神や玉祖命・天児屋命・布刀玉命などを考えてよいでしょう。
私がこのような考えを持つに至ったについては、安本氏の著書に接したことが大きいのですが、違う点もあります。そのひとつは3世紀にも面土国が存在しており、スサノオは面土国王だということです。面土国の存在を認め、それを解明するという視線で神話に接すると、神話が史実を含んでいることがよく理解できるようになってきます。
しかし神話には史実と創作とがないまぜになった危うさがあって、創作部分にこだわると「神話の迷路」に迷い込むことになります。「神話の迷路」とは後世に加わった創作部分に、さらに恣意的な解釈を加えるということです。考古学・民族学など実証を重視する分野と神話との間には、越えがたい障壁がありますが、その原因の一つに「神話の迷路」に迷い込んだ説が氾濫していることがあるようです。
倭人伝と神話の関係を見てきましたが、ここでいったん神話を終わり、次回から年代論に入ります。年代論は地味であまり面白くないかもしれませんが、邪馬台国の位置と同様に大事なことのようです。それに関して西島定生氏は『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成六年)で次のように述べています。
日本の歴史を考えるばあいに、日本の国内だけに目を向けていては、十分な理解が得られないと言うことである。これが、大陸あるいはヨーロッパの歴史であると、そのようなことは常識であって、一つの国だけで独自の歴史が展開するということはなく、当然周辺の諸民族ないしは諸国家と関係しながら、その歴史が進行するのである。
ところが日本のばあいには、幸か不幸か島国であって、大陸とは海を隔てているために、ともすれば、日本の歴史というものは日本だけで完結しているという考え方が意識的、無意識的に生じやすい。もちろん大陸との交渉があったことは何人も知っていながらも、なおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考えやすい。
西嶋氏は中国を中心とした「東アジア世界」という領域を設定し、その中で日本の歴史を再考察すべきだと提唱されています。西嶋氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制をあげ、これらの文化が伝播してきたことにも冊封体制が貢献をしていると見ています。
東アジア世界を結び付けているのが冊封体制です。紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置して以後、倭人も冊封体制に組み込まれて中国の影響を強く受けるようになります。しかし冊封体制は外交儀礼のように思われていて、あまり意識されていないようです。
弥生時代の日本は中国を中心とする「東アジア世界」の一員でしたが、西嶋氏の述べられるように日本では「それでもなおかつ基本的には、日本の国内だけで歴史の進行が行われているごとく考え」られています。この点を追及してみたいと思っています。
2009年10月2日金曜日
大気都比売
白鳥庫吉はスサノオを狗奴国の男王だと考えていますが、スサノオは面土国王ですから、天照大神とスサノオの対立は女王国と狗奴国の対立ではありません。『日本書紀』第十一の一書と『古事記』は殺された神の体から五穀と牛馬、あるいは蚕が化成するという同質の物語を伝えています。
『日本書紀』はツキヨミが保食神(うけもちのかみ)を殺したとし、『古事記』はスサノヲが大気都比売(おおけつひめ)を殺したとしていますが、両者は食物の神であることが共通しています。『日本書紀』では天照大神に保食神を見てくるようにと命ぜられたツキヨミが、命令に反して保食神を殺したため、天照大神とツキヨミが一日一夜隔て離れて住むようになったとされています。
よく知られているように狗奴国に比定できる阿蘇外輪山のなだらかで広大な台地は、日本有数の畑作地帯になっています。そして眼前の内海は魚介類の宝庫です。この神話は五穀の起源を語っていますが肥後の農作が意識されており、このことが狗奴国との対立に結び付けられているようです。
その時期は『古事記』ではスサノヲが高天原を追放されて出雲に下る前のことになっています。ツキヨミが保食神を殺す物語もスサノヲが大気都比売を殺す物語も、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、面土国王が滅ぶころのことになります。
二四七年に帯方郡使の張政が難升米に黄幢と詔書を届けに来ますが、黄幢の性格から見て詔書には難升米が魏の武官として狗奴国を討伐することを許可するということが書かれていたはずです。難升米はこの黄幢と詔書を根拠として、狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼を討伐するのでしょう。
大気都比売、あるいは保食神は狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼だと思われます。狗古智卑狗は菊地彦のことで、肥後の菊池川流域の支配者であることが考えられます。
菊地川流域などの肥後北半には青銅祭器や須玖式系土器が分布しており、北九州文化圏に属しています。ところが緑川流域から南は「火の国」の文化で、菊池川流域は北部九州の文化と南部九州の接点になっています。
ツキヨミは保食神から、またスサノヲは大気都比売から饗応を受けますが、食物を汚しているとして保食神、あるいは大気都比売は殺されています。狗古智卑狗は北部九州勢力と南部九州勢力の両方から影響を受けており、両面外交を余儀なくされていたように思われます。
この神話から狗古智卑狗が殺され狗奴国が滅ぶことが考えられます。女王国内では面土国王が滅び、さらに狗奴国も滅ぶようです。この時点で九州の半分が統合されたのです。とすれば次は全九州の統合ということになりますが、これがニニギの天孫降臨の神話になっています。
『日本書紀』はツキヨミが保食神(うけもちのかみ)を殺したとし、『古事記』はスサノヲが大気都比売(おおけつひめ)を殺したとしていますが、両者は食物の神であることが共通しています。『日本書紀』では天照大神に保食神を見てくるようにと命ぜられたツキヨミが、命令に反して保食神を殺したため、天照大神とツキヨミが一日一夜隔て離れて住むようになったとされています。
よく知られているように狗奴国に比定できる阿蘇外輪山のなだらかで広大な台地は、日本有数の畑作地帯になっています。そして眼前の内海は魚介類の宝庫です。この神話は五穀の起源を語っていますが肥後の農作が意識されており、このことが狗奴国との対立に結び付けられているようです。
その時期は『古事記』ではスサノヲが高天原を追放されて出雲に下る前のことになっています。ツキヨミが保食神を殺す物語もスサノヲが大気都比売を殺す物語も、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、面土国王が滅ぶころのことになります。
二四七年に帯方郡使の張政が難升米に黄幢と詔書を届けに来ますが、黄幢の性格から見て詔書には難升米が魏の武官として狗奴国を討伐することを許可するということが書かれていたはずです。難升米はこの黄幢と詔書を根拠として、狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼を討伐するのでしょう。
大気都比売、あるいは保食神は狗奴国の官の狗古智卑狗、あるいは狗奴国の男王の卑弥狗呼だと思われます。狗古智卑狗は菊地彦のことで、肥後の菊池川流域の支配者であることが考えられます。
菊地川流域などの肥後北半には青銅祭器や須玖式系土器が分布しており、北九州文化圏に属しています。ところが緑川流域から南は「火の国」の文化で、菊池川流域は北部九州の文化と南部九州の接点になっています。
ツキヨミは保食神から、またスサノヲは大気都比売から饗応を受けますが、食物を汚しているとして保食神、あるいは大気都比売は殺されています。狗古智卑狗は北部九州勢力と南部九州勢力の両方から影響を受けており、両面外交を余儀なくされていたように思われます。
この神話から狗古智卑狗が殺され狗奴国が滅ぶことが考えられます。女王国内では面土国王が滅び、さらに狗奴国も滅ぶようです。この時点で九州の半分が統合されたのです。とすれば次は全九州の統合ということになりますが、これがニニギの天孫降臨の神話になっています。
2009年10月1日木曜日
猿田彦
ニニギが天降り(あまくだり)しようとした時、天の八衢(あめのやちまた)に立って高天が原から葦原中国までを照らす神がいました。その神の鼻の長は七咫(ななあた)、背丈は七尺、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、またホオズキのように照り輝いているという異様な姿でした。そこで天照大神と髙木神はアメノウズメ(天宇受売、天鈿女命))に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じます。その神が国津神のサルタヒコ(猿田彦)で、ニニギの降臨を先導しようと迎えに来たのです。
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる道祖神と同一視され、全国各地で賽の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られています。この場合、妻とされるアメノウズメとともに祀られるのが通例です。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面をかぶり一本歯の足駄を履いた猿田彦役の者が先導をすることがあります。
「自女王国以北」には特に一大率が置かれ、それは常に伊都国に治すとされ、諸国を検察していて諸国はこれを畏憚すると述べられています。一方のサルタヒコ(猿田彦大神)はアメノヤチマタにいる神とされ、道路が交わる辻を守護する神として道祖神と同一視されています。
一大率はサルタヒコだと思われます。人々は一大率を畏憚していましたが、そのことが語り伝えられているうちに、サルタヒコは異様な姿をしているという風に語られるようになったのでしょう。
私は田川郡が伊都国だと考えていますが、香春付近には猿田彦大神と陰刻された石塔が多くみられます。これは一大率が香春付近を根拠地にしていたということのようです。なぜ一大率が香春付近にいたのかについては「伊都国その3」で、伊都国の特殊性に触れていますので参考にしてください。
藤原広嗣の反乱では田河路沿いに進攻してくる朝廷軍を阻止するために、この付近は多胡古麻呂が守備していました。女王にとっては関門海峡・周防灘方面への進出路を確保する必要があり、この地が重視されていました。
サルタヒコはアメノウズメとペアで活動しますが、アメノウズメには卑弥呼のようなシャーマンとしての性格があるように感じられます。天の岩戸の前でのストリップダンスは巫女が神憑りして演ずる狂態(通常者から見て)のように思われます。『日本書紀』第一の一書ではアメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけた時にも、同じようにストリップを演じています。
ニニギが高千穂の峰に降臨したというのは女王国によって侏儒国が併合されたということで、天孫降臨は軍事行動でした。軍事行動は一大率の監視下にあり一大率の同意が必要でしたが、巫女であるアメノウズメの下した託宣によって降臨が可能になったというのでしょう。
私はアメノウズメは伊都国王でもあると考えるのがよいと思っています。アメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけたのは、女王制の終焉に際して一大率も廃止されたということであり、女王の統治権と一大率の軍事、警察権が統合されて、一本化されたということだと考えています。
卑弥呼の死と台与の共立との間に男王が立つが千余人が殺される争乱になります。伊都国には王が居るが女王国に統属しているとありますが、男王の時代に卑弥呼や台与のように巫女であると同時に王でもあるという役割を演じていたのが、伊都国王だったと思うのです。一大率(サルタヒコ)と伊都国王(アメノウズメ)がペアで男王の時代の混乱を乗り切ったのでしょう。
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる道祖神と同一視され、全国各地で賽の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られています。この場合、妻とされるアメノウズメとともに祀られるのが通例です。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面をかぶり一本歯の足駄を履いた猿田彦役の者が先導をすることがあります。
「自女王国以北」には特に一大率が置かれ、それは常に伊都国に治すとされ、諸国を検察していて諸国はこれを畏憚すると述べられています。一方のサルタヒコ(猿田彦大神)はアメノヤチマタにいる神とされ、道路が交わる辻を守護する神として道祖神と同一視されています。
一大率はサルタヒコだと思われます。人々は一大率を畏憚していましたが、そのことが語り伝えられているうちに、サルタヒコは異様な姿をしているという風に語られるようになったのでしょう。
私は田川郡が伊都国だと考えていますが、香春付近には猿田彦大神と陰刻された石塔が多くみられます。これは一大率が香春付近を根拠地にしていたということのようです。なぜ一大率が香春付近にいたのかについては「伊都国その3」で、伊都国の特殊性に触れていますので参考にしてください。
藤原広嗣の反乱では田河路沿いに進攻してくる朝廷軍を阻止するために、この付近は多胡古麻呂が守備していました。女王にとっては関門海峡・周防灘方面への進出路を確保する必要があり、この地が重視されていました。
サルタヒコはアメノウズメとペアで活動しますが、アメノウズメには卑弥呼のようなシャーマンとしての性格があるように感じられます。天の岩戸の前でのストリップダンスは巫女が神憑りして演ずる狂態(通常者から見て)のように思われます。『日本書紀』第一の一書ではアメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけた時にも、同じようにストリップを演じています。
ニニギが高千穂の峰に降臨したというのは女王国によって侏儒国が併合されたということで、天孫降臨は軍事行動でした。軍事行動は一大率の監視下にあり一大率の同意が必要でしたが、巫女であるアメノウズメの下した託宣によって降臨が可能になったというのでしょう。
私はアメノウズメは伊都国王でもあると考えるのがよいと思っています。アメノウズメがサルタヒコに何者かと問いかけたのは、女王制の終焉に際して一大率も廃止されたということであり、女王の統治権と一大率の軍事、警察権が統合されて、一本化されたということだと考えています。
卑弥呼の死と台与の共立との間に男王が立つが千余人が殺される争乱になります。伊都国には王が居るが女王国に統属しているとありますが、男王の時代に卑弥呼や台与のように巫女であると同時に王でもあるという役割を演じていたのが、伊都国王だったと思うのです。一大率(サルタヒコ)と伊都国王(アメノウズメ)がペアで男王の時代の混乱を乗り切ったのでしょう。
2009年9月29日火曜日
邇々芸命
倭人伝の記事は台与が王になった時点で終わっており、倭人伝からはその後のことは分かりません。しかし『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも、国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、并せて中国の爵命を受ける
この文には臺與(台与)の後に、また男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は、中国(おそらく晋ではなく魏)が倭王に冊封したということですが、并には二人が前後に並び、それを一組にするという意味があり、台与と男王の二人の王がいると考えないといけません。
このことが無視されていることが不思議なのですが、その原因は『日本書紀』神功皇后紀が266年の倭人の遣使を神功皇后が行ったと思わせようとしていることにあります。しかし『梁書』『北史』の「その後また男王を立て、并べて中国の爵命を受ける」から別の考え方ができます。
266年の倭人の遣使までに女王制は有名無実になっており、台与の後の男王が立てられるようです。卑弥呼死後の男王がオシホミミであるのなら、台与の後の男王はホノニニギということになります。天孫降臨の神話は、台与の後の男王の時代に侏儒国が併合されたことが語られているようです。
遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主とせむと欲す。然も彼地に多に蛍火の光く神、および蠅聲す邪しき神有り。複草木咸に能く言語有り。
ニニギ(邇々芸命・瓊瓊杵尊)は台与の後の男王ですが、台与を退位させて男王を立てようとしたが、それに反対する者があったというのです。それが「蛍火の光く神、及び蠅聲(さばえな)す邪(あ)しき神」であり、「草木咸(ことごとく)に、よく言うこと有り」と説明さています。
草木とは政治に関与することが許されない名もない庶民のことで、それらの者までが陰で批判しているというのです。私はこの批判をかわすために台与と、その後継の男王という、二人の王のいる時期があったと考えています。その男王がホノニニギなのでしょう。
ホノニニギは葦原中国の統治を命ぜられて日向の高千穂の峰に降臨しますが、日向三代の神話は侏儒国に女王国の支配が及んで来たことが語られているようです。王の支配地は冊封体制によって稍、つまり六百里四方に制限されていて、六百里四方の外側は隣の国で別の王が支配しています。ホノニニギが高千穂の峰に降臨したのは、九州南半の稍(稍O)を支配する王に冊封されたということだと思っています。
ホノニニギには天孫降臨という重責のわりには事績がなく、オシホミミとホホデミの系譜を中継しているだけのように見えます。ニニギと木花之佐久夜毘売の間に、火照命・火須勢理命・火遠理命の三神が生まれますが、津田左右吉はニニギを中心とする物語は高千穂の峰に下ったことと、国つ神の娘をめとってホホデミを生んだことであり、その子のホホデミは、もともとは海幸彦、山幸彦とは関係がなく、ヤマトへの東征の主人公であったとしています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも、国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、并せて中国の爵命を受ける
この文には臺與(台与)の後に、また男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は、中国(おそらく晋ではなく魏)が倭王に冊封したということですが、并には二人が前後に並び、それを一組にするという意味があり、台与と男王の二人の王がいると考えないといけません。
このことが無視されていることが不思議なのですが、その原因は『日本書紀』神功皇后紀が266年の倭人の遣使を神功皇后が行ったと思わせようとしていることにあります。しかし『梁書』『北史』の「その後また男王を立て、并べて中国の爵命を受ける」から別の考え方ができます。
266年の倭人の遣使までに女王制は有名無実になっており、台与の後の男王が立てられるようです。卑弥呼死後の男王がオシホミミであるのなら、台与の後の男王はホノニニギということになります。天孫降臨の神話は、台与の後の男王の時代に侏儒国が併合されたことが語られているようです。
遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主とせむと欲す。然も彼地に多に蛍火の光く神、および蠅聲す邪しき神有り。複草木咸に能く言語有り。
ニニギ(邇々芸命・瓊瓊杵尊)は台与の後の男王ですが、台与を退位させて男王を立てようとしたが、それに反対する者があったというのです。それが「蛍火の光く神、及び蠅聲(さばえな)す邪(あ)しき神」であり、「草木咸(ことごとく)に、よく言うこと有り」と説明さています。
草木とは政治に関与することが許されない名もない庶民のことで、それらの者までが陰で批判しているというのです。私はこの批判をかわすために台与と、その後継の男王という、二人の王のいる時期があったと考えています。その男王がホノニニギなのでしょう。
ホノニニギは葦原中国の統治を命ぜられて日向の高千穂の峰に降臨しますが、日向三代の神話は侏儒国に女王国の支配が及んで来たことが語られているようです。王の支配地は冊封体制によって稍、つまり六百里四方に制限されていて、六百里四方の外側は隣の国で別の王が支配しています。ホノニニギが高千穂の峰に降臨したのは、九州南半の稍(稍O)を支配する王に冊封されたということだと思っています。
ホノニニギには天孫降臨という重責のわりには事績がなく、オシホミミとホホデミの系譜を中継しているだけのように見えます。ニニギと木花之佐久夜毘売の間に、火照命・火須勢理命・火遠理命の三神が生まれますが、津田左右吉はニニギを中心とする物語は高千穂の峰に下ったことと、国つ神の娘をめとってホホデミを生んだことであり、その子のホホデミは、もともとは海幸彦、山幸彦とは関係がなく、ヤマトへの東征の主人公であったとしています。
2009年9月27日日曜日
忍穂耳命
卑弥呼の死後に男王が立ちますが、国中が服さず千余人が殺される争乱が起きました。神話では卑弥呼の死と台与の共立が天の岩戸に隠もった天照大神が引き出されたと語られていますが、天照大神が岩戸に隠もっている間に卑弥呼の死後の男王が立ったことになります。
神話では天の岩戸の後にはスサノヲが追放されて出雲に降り、マタノオロチを退治することになっていますが、天の岩戸の神話には男王が立ったことを表す部分がありません。しかしオオクニヌシの国譲りの後にオシホミミ(忍穂耳命)が葦原中国に降臨することになっています。
天照大神はオシホミミに葦原中国の統治を命じますが、統治を命ぜられたのは高天が原ではなくて葦原中国であることに注目する必要があります。『日本書紀』本文は次のように記しています。
是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして、臨睨り(おせり)て曰はく「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す
「未平(さや)げり」は平らでないということで、卑弥呼死後の争乱を意味しているようです。「不須也(いな)」は不用である、要らないという意味です。「頗傾(かぶ)」は曲がり傾いていること、「凶目杵之国(しこめきくに)」は不安定で平らかでなく悪い国だという意味です。
オシホミミは葦原中国に降るために天の浮橋(あめのうきはし)まで来ますが、下界を見ると葦原中国は頑迷で乱れており不安定な所です。どうしても降りていく気になれないので高天が原に引き返し、天照大神に降りなかった理由を説明したというのです。
卑弥呼の死後に男王が立ちますが国中が従わず、千余人が殺される争乱になり、台与が共立されます。一方のオシホミミも天の浮橋に立ちながら、下界が騒がしいので引き返しています。倭人伝と神話とではその時期が多少違いますが、男王と忍穂耳尊の立場はよく似ています。
神話は年代を示す方法がなかったので紀伝体になっていて、年代の異なる史実が物語風に纏められています。この部分ではスサノオの追放の物語が喚入されたために別の物語のようになっていますが、卑弥呼の死後の男王はオシホミミなのです。
葦原中国は具体的には出雲ということになっていますが、出雲には律令制出雲國という意味のほかに、銅鐸・銅剣を配布した部族というという意味もあるようです。高天が原が邪馬台国であるのに対し、葦原中国には邪馬台国以外の国という意味もあって、それには面土国や銅戈を配布した部族も含まれているようです。
忍穂耳尊が葦原中国の統治を命ぜられたのは、稍を支配する王と、これを擁立する部族を統一し、倭国を統一国家にしようとする動きがあったということで、卑弥呼の後の男王は単に卑弥呼の後継の王というだけではなかったようです。卑弥呼死後の争乱は銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立でした。
私が降りようと衣装を整えている間に子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇々芸命です。この子を降すのがよいでしょう」といわれた
結局、降臨したのはオシホミミではなく、子の穂のホノニニギ(番能邇々芸命・瓊瓊杵尊)ですが、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、面土国王家は滅び、銅戈を配布した部族も消滅します。もはや女王は不必要になり男王が立てられますが、これがホノニニギです。それを画策したのは大倭(タカミムスヒ)や難升米(オモイカネ)などの、台与のブレーンたちだったのです。
神話では天の岩戸の後にはスサノヲが追放されて出雲に降り、マタノオロチを退治することになっていますが、天の岩戸の神話には男王が立ったことを表す部分がありません。しかしオオクニヌシの国譲りの後にオシホミミ(忍穂耳命)が葦原中国に降臨することになっています。
天照大神はオシホミミに葦原中国の統治を命じますが、統治を命ぜられたのは高天が原ではなくて葦原中国であることに注目する必要があります。『日本書紀』本文は次のように記しています。
是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして、臨睨り(おせり)て曰はく「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す
「未平(さや)げり」は平らでないということで、卑弥呼死後の争乱を意味しているようです。「不須也(いな)」は不用である、要らないという意味です。「頗傾(かぶ)」は曲がり傾いていること、「凶目杵之国(しこめきくに)」は不安定で平らかでなく悪い国だという意味です。
オシホミミは葦原中国に降るために天の浮橋(あめのうきはし)まで来ますが、下界を見ると葦原中国は頑迷で乱れており不安定な所です。どうしても降りていく気になれないので高天が原に引き返し、天照大神に降りなかった理由を説明したというのです。
卑弥呼の死後に男王が立ちますが国中が従わず、千余人が殺される争乱になり、台与が共立されます。一方のオシホミミも天の浮橋に立ちながら、下界が騒がしいので引き返しています。倭人伝と神話とではその時期が多少違いますが、男王と忍穂耳尊の立場はよく似ています。
神話は年代を示す方法がなかったので紀伝体になっていて、年代の異なる史実が物語風に纏められています。この部分ではスサノオの追放の物語が喚入されたために別の物語のようになっていますが、卑弥呼の死後の男王はオシホミミなのです。
葦原中国は具体的には出雲ということになっていますが、出雲には律令制出雲國という意味のほかに、銅鐸・銅剣を配布した部族というという意味もあるようです。高天が原が邪馬台国であるのに対し、葦原中国には邪馬台国以外の国という意味もあって、それには面土国や銅戈を配布した部族も含まれているようです。
忍穂耳尊が葦原中国の統治を命ぜられたのは、稍を支配する王と、これを擁立する部族を統一し、倭国を統一国家にしようとする動きがあったということで、卑弥呼の後の男王は単に卑弥呼の後継の王というだけではなかったようです。卑弥呼死後の争乱は銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立でした。
私が降りようと衣装を整えている間に子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇々芸命です。この子を降すのがよいでしょう」といわれた
結局、降臨したのはオシホミミではなく、子の穂のホノニニギ(番能邇々芸命・瓊瓊杵尊)ですが、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、面土国王家は滅び、銅戈を配布した部族も消滅します。もはや女王は不必要になり男王が立てられますが、これがホノニニギです。それを画策したのは大倭(タカミムスヒ)や難升米(オモイカネ)などの、台与のブレーンたちだったのです。
2009年9月26日土曜日
高御産巣日神 その2
タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)は神話の冒頭で高天が原にいる「別天つ神」とされていて、イザナキ、イザナミ二神に至る、いわゆる神世七代とは別系統の神だと書かれています。イザナギ、イザナミ二神もスサノヲも高天が原の神ではありません。
また『日本書記』本文は天照大神も元から高天が原に居たのではなく、「天の御柱」によって、天に送り上げられたとしていますから、高天が原の元来の神はタカミムスビとその眷族、及びそれに従属する神ということになります。卑弥呼は邪馬台国の王だという人がいますが、王都が邪馬台国にあったというだけで 、邪馬台国の王ではありません。
天地が初めて明かになった時に、高天が原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。次に国が稚く、浮かんでいる脂のようで、くらげのようにただよっている時、葦の牙が萌え上がるように現われた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神、この二神も単独の神として現れ、身を隠された
上の件の五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)である
戸数7万の邪馬台国は律令制の郡程度の面積を持つ部族国家が統合されたものです。私は人口密度の高い所では、1郡当り7千戸ほどではなかったと考えています。福岡平野の那珂川・御笠川流域にそうした部族国家があり、その王がイザナギですが、イザナギは那珂(なか)海人の王です。
タカミムスビが大倭であれば、大倭もそうした郡程度の大きさの部族国家の王であることが考えられ、その国が元来の邪馬台国のようです。私はそれを甘木・朝倉地方だと考えています。
神話には「天の安川」という川が登場してきますが、天照大神が岩戸に籠もったので八百万の神々が「天の安の河原」に集まったとされています。甘木市の近くに夜須という地名があり小石原川という川があります。別名を「夜須川」とも呼ばれていますが、安本美典氏はこの小石原川の周辺に髙木神社が多いことを指摘しています。
大倭は小石原川の周辺に居たように思われます。小石原川の河原に広場があり平素は河原で市が開かれており、大倭が市を管理していたのでしょう。その広場は非常時には宗族長が召集されて討議の場になったようです。
私は大和の纏向遺跡も弥生時代にはそうした広場であったものが、古墳時代に政治の場になっていくと考えています。出雲の斐伊川河口にもそうした広場があり、そこは出雲の特殊神事の神在祭の舞台になっています。
甘木平野にあった邪馬台国に卑弥呼が都を置くように画策した人物が「別天つ神」(ことあまつかみ)の最初の天之御中主神のようです。卑弥呼が都を置いたことによりタカミムスビ、すなわち大倭は女王国の経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられます。
女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのですが、もとより王は卑弥呼ですから大倭が表面に出ることはなく陰の実力者です。大倭は女王国の経済を支配している実力者でしたが、タカミムスビの孫はホノニニギであり、『日本書記』本文は「皇祖高皇産霊尊」としています。
このように見てくると台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置づけられることになる人物であったことが考えられてきます。
また『日本書記』本文は天照大神も元から高天が原に居たのではなく、「天の御柱」によって、天に送り上げられたとしていますから、高天が原の元来の神はタカミムスビとその眷族、及びそれに従属する神ということになります。卑弥呼は邪馬台国の王だという人がいますが、王都が邪馬台国にあったというだけで 、邪馬台国の王ではありません。
天地が初めて明かになった時に、高天が原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。次に国が稚く、浮かんでいる脂のようで、くらげのようにただよっている時、葦の牙が萌え上がるように現われた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神、この二神も単独の神として現れ、身を隠された
上の件の五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)である
戸数7万の邪馬台国は律令制の郡程度の面積を持つ部族国家が統合されたものです。私は人口密度の高い所では、1郡当り7千戸ほどではなかったと考えています。福岡平野の那珂川・御笠川流域にそうした部族国家があり、その王がイザナギですが、イザナギは那珂(なか)海人の王です。
タカミムスビが大倭であれば、大倭もそうした郡程度の大きさの部族国家の王であることが考えられ、その国が元来の邪馬台国のようです。私はそれを甘木・朝倉地方だと考えています。
神話には「天の安川」という川が登場してきますが、天照大神が岩戸に籠もったので八百万の神々が「天の安の河原」に集まったとされています。甘木市の近くに夜須という地名があり小石原川という川があります。別名を「夜須川」とも呼ばれていますが、安本美典氏はこの小石原川の周辺に髙木神社が多いことを指摘しています。
大倭は小石原川の周辺に居たように思われます。小石原川の河原に広場があり平素は河原で市が開かれており、大倭が市を管理していたのでしょう。その広場は非常時には宗族長が召集されて討議の場になったようです。
私は大和の纏向遺跡も弥生時代にはそうした広場であったものが、古墳時代に政治の場になっていくと考えています。出雲の斐伊川河口にもそうした広場があり、そこは出雲の特殊神事の神在祭の舞台になっています。
甘木平野にあった邪馬台国に卑弥呼が都を置くように画策した人物が「別天つ神」(ことあまつかみ)の最初の天之御中主神のようです。卑弥呼が都を置いたことによりタカミムスビ、すなわち大倭は女王国の経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられます。
女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのですが、もとより王は卑弥呼ですから大倭が表面に出ることはなく陰の実力者です。大倭は女王国の経済を支配している実力者でしたが、タカミムスビの孫はホノニニギであり、『日本書記』本文は「皇祖高皇産霊尊」としています。
このように見てくると台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置づけられることになる人物であったことが考えられてきます。
2009年9月25日金曜日
高御産巣日神 その1
倭人伝は国々に市があり大倭が「之を監せしむ」(管理している)と述べていますが、従来のこの文の前後の解釈には問題があり、検討が必要なようです。大倭については、①倭人中の大人とする説、②邪馬台国の設置した官とする説、③大和朝廷のこととする説の三説があります。
租賦を収めるに邸閣有り。国国に市有り有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。自女王国以北に特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於て(国中に於ける?)刺史の如き有り、王の遣使の京都、帯方郡、諸韓国に詣でるに・・(略)
この文について東洋史の植村清二氏は、交易と大倭とは関係がなく、大倭は一大率を管理しているのだと解釈し、一大率に諸国を検察させている大倭は、大和に有った国の高官だとしています。一大率はあたかも中国の州刺史のようなものであり、諸国を検察し、また津(港)で捜露しているのだとしています。
「邪馬台国と面土国 その6」で述べたようにこの解釈はたいへんな誤解で、一大率があたかも中国の州刺史のようなものだというのと、面土国王が「自女王国以北」の国を州刺史のように支配しているのとでは大変な違いです。一大率があたかも中国の州刺史のようだと最初に解釈したのは植村氏のようです。
一大率があたかも中国の州刺史のようだという解釈は大和朝廷、あるいはそれに代わる邪馬台国=畿内説を前提にしなければいけませんが、今まで述べてきたように邪馬台国=畿内説は成立せず、大和朝廷もまだ成立していません。植村氏の説は成立しないのです。
従って大倭は租賦(租税)や市を管理しているのだと考えなければいけませんが、私は①の倭人中の大人とする説と、②の邪馬台国の設置した官とする説を折半したものが大倭だと考えています。面土国王は刺史の如く「自女王国以北」を支配し、大倭は市場や交易などの経済を管理、支配しており、一大率は軍事を担当しており、それぞれ役割を分担しているのです。
政治も経済抜きでは運営できませんから、大倭は女王国を陰で操っている実力者だったのでしょう。大倭という文字の意味からもそのように考えることができますが、天の岩戸以後活動する神の中にいかにもそれらしい神がいます。タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)です。この神は神話の冒頭にも高天が原にいる五柱の別天つ神(ことあまつかみ)として出てきます。
この神は天の岩戸以前には活動が見られず、それ以後に天照大御神とペアで、時には単独で神々に指令を出すようになります。つまり卑弥呼の時代には活動が見られず、台与の時代になると台与と対等か、それ以上に活動するようになるのです。
台与が即位して間もなく面土国王と、それを擁立した銅戈を配布した部族が滅ぼされ女王制は有名無実になっていきます。これがスサノオの高天が原からの追放ですが、その後事実上の倭王になったのが大倭で、これがタカミムスビなのです。
租賦を収めるに邸閣有り。国国に市有り有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。自女王国以北に特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於て(国中に於ける?)刺史の如き有り、王の遣使の京都、帯方郡、諸韓国に詣でるに・・(略)
この文について東洋史の植村清二氏は、交易と大倭とは関係がなく、大倭は一大率を管理しているのだと解釈し、一大率に諸国を検察させている大倭は、大和に有った国の高官だとしています。一大率はあたかも中国の州刺史のようなものであり、諸国を検察し、また津(港)で捜露しているのだとしています。
「邪馬台国と面土国 その6」で述べたようにこの解釈はたいへんな誤解で、一大率があたかも中国の州刺史のようなものだというのと、面土国王が「自女王国以北」の国を州刺史のように支配しているのとでは大変な違いです。一大率があたかも中国の州刺史のようだと最初に解釈したのは植村氏のようです。
一大率があたかも中国の州刺史のようだという解釈は大和朝廷、あるいはそれに代わる邪馬台国=畿内説を前提にしなければいけませんが、今まで述べてきたように邪馬台国=畿内説は成立せず、大和朝廷もまだ成立していません。植村氏の説は成立しないのです。
従って大倭は租賦(租税)や市を管理しているのだと考えなければいけませんが、私は①の倭人中の大人とする説と、②の邪馬台国の設置した官とする説を折半したものが大倭だと考えています。面土国王は刺史の如く「自女王国以北」を支配し、大倭は市場や交易などの経済を管理、支配しており、一大率は軍事を担当しており、それぞれ役割を分担しているのです。
政治も経済抜きでは運営できませんから、大倭は女王国を陰で操っている実力者だったのでしょう。大倭という文字の意味からもそのように考えることができますが、天の岩戸以後活動する神の中にいかにもそれらしい神がいます。タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)です。この神は神話の冒頭にも高天が原にいる五柱の別天つ神(ことあまつかみ)として出てきます。
この神は天の岩戸以前には活動が見られず、それ以後に天照大御神とペアで、時には単独で神々に指令を出すようになります。つまり卑弥呼の時代には活動が見られず、台与の時代になると台与と対等か、それ以上に活動するようになるのです。
台与が即位して間もなく面土国王と、それを擁立した銅戈を配布した部族が滅ぼされ女王制は有名無実になっていきます。これがスサノオの高天が原からの追放ですが、その後事実上の倭王になったのが大倭で、これがタカミムスビなのです。
2009年9月24日木曜日
蛭児 その2
卑弥呼の鬼道とは神憑りして神の託宣を伝えるシャーマニズムのようです。律令が整備されていない時代には慣習や前例が法になっていました。後の大和朝廷でこれを職掌としたのが中臣氏(藤原氏)です。しかし慣習や前例がない場合にはシャーマンの下す託宣が法になりました。
今のイギリス憲法も形式的にはそうなっているようで、シャーマンの役割はイングランド王になるようです。また日本では国会で討議して新しい法律を決議し、天皇が認証するという形になります。卑弥呼の場合には討議は重臣たちが行なっていたでしょうが、決議案の採択の部分を神の託宣とすることのできる立場にいたと思います。
卑弥呼の鬼道については当時中国で流行していた道教と関係付ける説があり、他にも奇妙な説を見かけますが、その重臣と卑弥呼を結び付けるのがサニハ(審神者)なのです。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす
女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。この男子については卑弥呼の弟と見る説がありますが、文脈上からみて弟とするのには無理があります。
卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよいようで、ヒルコはサニハ(審神者)のようです。『日本書紀』本文は蛭兒について次のように記しています
次ぎに蛭兒を生まれた。すでに三歳になるのに脚が立たなかった。そこで天磐樟船に乗せて、風のままに放ち捨てた。
『古事記』にもイザナギ・イザナミ2神が水蛭子を生んだという同じような記事がありますが、『古事記』の神話は島を生む物語ですから両者は無関係と考えるのがよいようです。
卑弥呼の元に出入りする男子については魏には内緒にされた影の夫であろうとか、情人だという穿ったことが言われています。孝謙天皇と弓削道鏡との関係にも同じようなことがいわれていますが、それは俗世間から見た邪推です。巫女やサニハは神のお告げに誤りが生じないように俗事に係わることを避けますから、独身であることが求められていました。
神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのです。『先代旧事本記』は天照大神を大日靈女貴尊(おおひるめむちのみこと)とし、蛭子を大日靈子貴尊(おおひるこむちのみこと)としていますが、換言すると女性の大蛭女(おおひるめ)に相対する男性が蛭子(ひるこ)ということになります。
巫女にしてもサニハにしても霊感が働かなければならずそれには修行も必要で、子供が三歳くらいになると自我が芽生えてきて、能力の有無が判ってきます。能力の有る子供は俗世間から隔離されて、巫女なりサニハなりの修行をしました。
私は伊都国は福岡県田川郡だと考えていますが、田川郡で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。ヒメは五色の着物を着ていて、何事でも見通す力を持っているが、その姿は修行を積んだ者だけに見えるということです。
修行を積んだ者だけに姿が見えるということから見て香春神社の祭神の豊比売神か、宇佐神宮の比売大神のことを言っているのでしょうが、巫女にしてもサニハにしても修行が必要であり、ヒルコが三歳になるまで脚が立たなかったので船に乗せて捨てたというのは、サニハとして俗世間とは隔絶した社会にいることを表しているようです。
福岡県朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。「邪馬台国その6」で卑弥呼の墓ではないかと述べましたが、6世紀の古墳に2基を接合した例を知りません。
卑弥呼の元に出入りする男子は飲食の給仕までしていました。卑弥呼はその男子に全面的に依存した生活を送っていたようです。二人は神事に携わる者として男女の間柄を超えた強い絆で結ばれていたようです。卑弥呼が死んで墓が造られた時、人々はそばにこの男子(蛭児)の墓を造ってやったのでしょう。
今のイギリス憲法も形式的にはそうなっているようで、シャーマンの役割はイングランド王になるようです。また日本では国会で討議して新しい法律を決議し、天皇が認証するという形になります。卑弥呼の場合には討議は重臣たちが行なっていたでしょうが、決議案の採択の部分を神の託宣とすることのできる立場にいたと思います。
卑弥呼の鬼道については当時中国で流行していた道教と関係付ける説があり、他にも奇妙な説を見かけますが、その重臣と卑弥呼を結び付けるのがサニハ(審神者)なのです。
名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす
女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。この男子については卑弥呼の弟と見る説がありますが、文脈上からみて弟とするのには無理があります。
卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよいようで、ヒルコはサニハ(審神者)のようです。『日本書紀』本文は蛭兒について次のように記しています
次ぎに蛭兒を生まれた。すでに三歳になるのに脚が立たなかった。そこで天磐樟船に乗せて、風のままに放ち捨てた。
『古事記』にもイザナギ・イザナミ2神が水蛭子を生んだという同じような記事がありますが、『古事記』の神話は島を生む物語ですから両者は無関係と考えるのがよいようです。
卑弥呼の元に出入りする男子については魏には内緒にされた影の夫であろうとか、情人だという穿ったことが言われています。孝謙天皇と弓削道鏡との関係にも同じようなことがいわれていますが、それは俗世間から見た邪推です。巫女やサニハは神のお告げに誤りが生じないように俗事に係わることを避けますから、独身であることが求められていました。
神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのです。『先代旧事本記』は天照大神を大日靈女貴尊(おおひるめむちのみこと)とし、蛭子を大日靈子貴尊(おおひるこむちのみこと)としていますが、換言すると女性の大蛭女(おおひるめ)に相対する男性が蛭子(ひるこ)ということになります。
巫女にしてもサニハにしても霊感が働かなければならずそれには修行も必要で、子供が三歳くらいになると自我が芽生えてきて、能力の有無が判ってきます。能力の有る子供は俗世間から隔離されて、巫女なりサニハなりの修行をしました。
私は伊都国は福岡県田川郡だと考えていますが、田川郡で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。ヒメは五色の着物を着ていて、何事でも見通す力を持っているが、その姿は修行を積んだ者だけに見えるということです。
修行を積んだ者だけに姿が見えるということから見て香春神社の祭神の豊比売神か、宇佐神宮の比売大神のことを言っているのでしょうが、巫女にしてもサニハにしても修行が必要であり、ヒルコが三歳になるまで脚が立たなかったので船に乗せて捨てたというのは、サニハとして俗世間とは隔絶した社会にいることを表しているようです。
福岡県朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。「邪馬台国その6」で卑弥呼の墓ではないかと述べましたが、6世紀の古墳に2基を接合した例を知りません。
卑弥呼の元に出入りする男子は飲食の給仕までしていました。卑弥呼はその男子に全面的に依存した生活を送っていたようです。二人は神事に携わる者として男女の間柄を超えた強い絆で結ばれていたようです。卑弥呼が死んで墓が造られた時、人々はそばにこの男子(蛭児)の墓を造ってやったのでしょう。
2009年9月23日水曜日
蛭児 その1
卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」とありますが、この鬼道を当時中国で流行していた道教と関係があるとする説があります。卑弥呼と天照大神が似ているのであれば天照大神に道教の影響が見られるはずですが、見えてくるのは古代神道の一部分であるシャーマニズムであり、道教との関係を思わせるものはありません。
紀元前136年(建元5)、前漢の武帝が儒教を国教にしますが、冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想が倭人に伝わり、縄文時代以来の古代祭祀と習合して神道が生まれると考えています。神道は弥生時代にすでに存在していたと思われます。その神道の重要な要素がシャーマニズムですが、『日本書紀』神功皇后紀にその具体的な記述があります。
神功皇后は神憑りして、夫の仲哀天皇に新羅を討てという神託があったことを伝えますが、仲哀天皇はこれを信じず祟る神があって崩御します。神功皇后紀九年三月条にはその祟る神を知るために、神功皇后が再び神懸かりすることが述べられています。
三月の壬申の朔に、皇后は吉日を選んで、齋宮に入りみずから神主になられた。そして竹内宿禰に命じて琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を召し出して審神者にされた。(中略)請いて言われるに「先の日に天皇に教えられたのは何という神でしょうか。願わくはその名を知りたい」と言われた。七日七夜すぎて神が答えて(中略)そこで審神者の言うのに、「今答えられないで、さらに後に言われることがあるでしょうか」
卑弥呼の鬼道には神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を弾く竹内宿禰に当たる当事者が必要でした。先に宮参りの時に見られる巫女さんと神主さんが、巫女とサニハの名残りだと書きましたが、竹内宿禰のひく琴は笛や太鼓になります。
笛や太鼓のにぎやかな奏楽の間、巫女さんと神主さんは平伏していますが、これは巫女とサニハが奏楽に導かれて神憑りする所作です。神憑りした巫女は神の託宣を降すのですが、これが巫女さんが鈴を鳴らしながら舞う所作になっています。
竹内宿禰が弾く琴の音に誘導されて巫女である神功皇后と、サニハである中臣烏賊津使主が神憑りするのですが、中臣烏賊津使主のサニハとは、巫女が神憑りして降す神託を通訳する者のことです。卑弥呼の行なう鬼道に於いても同じような光景が見られたはずですが、倭人伝には『王と為りて自り見る有る者少なし」とありますからそれを見た者はいないでしょう。
神功皇后紀に「是に、審神者の曰さく《今答えたまわずして更に後に言ふこと有(ま)しますや》」とあります。これは神功皇后が神に質問しているのではなく、サニハである中臣烏賊津使主が巫女である神功皇后を介して神に質問しています。巫女を介して神と人を結び付けるのがサニハです。
近時の例としては大本教教祖の出口なおと娘婿の出口王仁三郎が巫女とサニハの関係にあることが知られています。孝謙天皇は巫女ではないし道鏡も僧侶であってサニハではありませんが、孝謙天皇は巫女的な性格だったようで、その関係は巫女とサニハの関係に似ているようです。
サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。巫女の下す神の託宣はサニハ以外には意味が理解できず、それは巫女自身にも理解できません。それを通訳するのがサニハですが、サニハの解釈次第で託宣の意味が全く違ってきます。
卑弥呼は巫女であると同時に女王ですから、卑弥呼の下す託宣は政治的な意味を持ちます。それだけに卑弥呼の元でサニハを勤める者の立場は極めて重要でした。 倭人伝にそのような人物が見られます。
卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしていましたが、卑弥呼は巫女ですから辞とは神の託宣ということになります。この男子がサニハだと考えることができます。この男子は中臣烏賊津使主、竹内宿禰に当たるような役割を一人で果たし、さらには飲食の給仕までしていたと考えられます。
紀元前136年(建元5)、前漢の武帝が儒教を国教にしますが、冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想が倭人に伝わり、縄文時代以来の古代祭祀と習合して神道が生まれると考えています。神道は弥生時代にすでに存在していたと思われます。その神道の重要な要素がシャーマニズムですが、『日本書紀』神功皇后紀にその具体的な記述があります。
神功皇后は神憑りして、夫の仲哀天皇に新羅を討てという神託があったことを伝えますが、仲哀天皇はこれを信じず祟る神があって崩御します。神功皇后紀九年三月条にはその祟る神を知るために、神功皇后が再び神懸かりすることが述べられています。
三月の壬申の朔に、皇后は吉日を選んで、齋宮に入りみずから神主になられた。そして竹内宿禰に命じて琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を召し出して審神者にされた。(中略)請いて言われるに「先の日に天皇に教えられたのは何という神でしょうか。願わくはその名を知りたい」と言われた。七日七夜すぎて神が答えて(中略)そこで審神者の言うのに、「今答えられないで、さらに後に言われることがあるでしょうか」
卑弥呼の鬼道には神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を弾く竹内宿禰に当たる当事者が必要でした。先に宮参りの時に見られる巫女さんと神主さんが、巫女とサニハの名残りだと書きましたが、竹内宿禰のひく琴は笛や太鼓になります。
笛や太鼓のにぎやかな奏楽の間、巫女さんと神主さんは平伏していますが、これは巫女とサニハが奏楽に導かれて神憑りする所作です。神憑りした巫女は神の託宣を降すのですが、これが巫女さんが鈴を鳴らしながら舞う所作になっています。
竹内宿禰が弾く琴の音に誘導されて巫女である神功皇后と、サニハである中臣烏賊津使主が神憑りするのですが、中臣烏賊津使主のサニハとは、巫女が神憑りして降す神託を通訳する者のことです。卑弥呼の行なう鬼道に於いても同じような光景が見られたはずですが、倭人伝には『王と為りて自り見る有る者少なし」とありますからそれを見た者はいないでしょう。
神功皇后紀に「是に、審神者の曰さく《今答えたまわずして更に後に言ふこと有(ま)しますや》」とあります。これは神功皇后が神に質問しているのではなく、サニハである中臣烏賊津使主が巫女である神功皇后を介して神に質問しています。巫女を介して神と人を結び付けるのがサニハです。
近時の例としては大本教教祖の出口なおと娘婿の出口王仁三郎が巫女とサニハの関係にあることが知られています。孝謙天皇は巫女ではないし道鏡も僧侶であってサニハではありませんが、孝謙天皇は巫女的な性格だったようで、その関係は巫女とサニハの関係に似ているようです。
サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。巫女の下す神の託宣はサニハ以外には意味が理解できず、それは巫女自身にも理解できません。それを通訳するのがサニハですが、サニハの解釈次第で託宣の意味が全く違ってきます。
卑弥呼は巫女であると同時に女王ですから、卑弥呼の下す託宣は政治的な意味を持ちます。それだけに卑弥呼の元でサニハを勤める者の立場は極めて重要でした。 倭人伝にそのような人物が見られます。
卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしていましたが、卑弥呼は巫女ですから辞とは神の託宣ということになります。この男子がサニハだと考えることができます。この男子は中臣烏賊津使主、竹内宿禰に当たるような役割を一人で果たし、さらには飲食の給仕までしていたと考えられます。
2009年9月22日火曜日
須佐之男命 その4
イザナギに追放されたスサノオは、暇乞いのために高天が原の天照大神を訪れますが、天照大神は国を奪いに来るのであろうと武装して待ち受けます。これは面土国王が「自女王国以北」の国を中国の刺史のように支配したり、津(港)で女王の使者を捜露するなど、卑弥呼との関係が良いものではなかったことを表しています。その背景には銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立があり、さらには中国の「正閠論」が絡んでいるようです。
そこで八百万の神は共に計らって、速須佐之男命に千位の置戸を負わせ、また髪を切り手足の爪を抜いて追放した
天照大御神が岩戸から出てくると、神々は岩戸にこもった原因はスサノオにあるとして追放します。天照大御神が岩戸から出てくるとは台与が共立されたということで、卑弥呼死後の争乱の原因が面土国王にあるとされていることがわかります。このスサノオが倭人伝の「刺史の如き者」であることは言うまでもありません。
千位の置戸(ちくらのおきど)とは贖い物を置く多くの台ということで、多くの賠償が課せられたということです。鬚を切り手足の爪を抜くのは体刑であり、神やらいは追放で、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれて面土国王やそれに加担した者が処罰されたというのです。
倭人伝の記事は正始八年、つまり天照大神が岩戸から出てきた時点で終わっており、倭人伝の記事からはこのことは分かりません。白鳥庫吉の言うようにスサノオを面土国王ではなく狗奴国の男王や、その官の狗古智卑狗と見ればどうなるでしょうか。途中を省略しますが、結論は神話は史実ではないということになるでしょう。
この部分は神話を無視してはならいことが特によく分かる部分です。面土国の存在を認めることで邪馬台国の位置論が解明できることを述べましたが、神話もまた解明できそうです。さらには青銅祭器の謎を解明することもできそうです。
私は卑弥呼の統治下で広形銅矛a類が造られ、台与の時代以後にb類が作られたと考えています。従ってa類からb類に変化するのは台与が共立された247年ころということになります。広形銅矛は出土量も多くa類とb類がありますが、広形銅戈は中広形と違って数が非常に少なくa類とb類の別がありません。
これは広形銅矛b類が造られた時期には銅戈は造られていなかったということで、広形銅矛b類が造られた時期に面土国王家が滅亡し、銅戈を配布した部族も消滅したということのようです。それは台与共立の一方の当事者が存在しなくなったということであり、女王制が有名無実になったということです。
天照大神は天の岩戸の前後で性格が大きく変わり、天の岩戸以前にはスサノヲの姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。台与が共立されて間もない250年ころに女王の時代は終わり、高御産巣日神に相当する人物が実質的な倭王になるようです。私は高御産巣日神を倭人伝の大倭だと考えています。
追放されたスサノオは出雲に降(くだ)りヤマタノオロチを退治することになっていますが、編年体の史書と違って紀伝体の神話では年代も時代も違う史実が物語風に纏められています。年代も場所も違う神話がスサノオの追放で結び付けられているのですが、私はスサノオのオロチ退治の神話は倭国大乱が出雲に波及したことが語られていると考えています。
そこで八百万の神は共に計らって、速須佐之男命に千位の置戸を負わせ、また髪を切り手足の爪を抜いて追放した
天照大御神が岩戸から出てくると、神々は岩戸にこもった原因はスサノオにあるとして追放します。天照大御神が岩戸から出てくるとは台与が共立されたということで、卑弥呼死後の争乱の原因が面土国王にあるとされていることがわかります。このスサノオが倭人伝の「刺史の如き者」であることは言うまでもありません。
千位の置戸(ちくらのおきど)とは贖い物を置く多くの台ということで、多くの賠償が課せられたということです。鬚を切り手足の爪を抜くのは体刑であり、神やらいは追放で、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれて面土国王やそれに加担した者が処罰されたというのです。
倭人伝の記事は正始八年、つまり天照大神が岩戸から出てきた時点で終わっており、倭人伝の記事からはこのことは分かりません。白鳥庫吉の言うようにスサノオを面土国王ではなく狗奴国の男王や、その官の狗古智卑狗と見ればどうなるでしょうか。途中を省略しますが、結論は神話は史実ではないということになるでしょう。
この部分は神話を無視してはならいことが特によく分かる部分です。面土国の存在を認めることで邪馬台国の位置論が解明できることを述べましたが、神話もまた解明できそうです。さらには青銅祭器の謎を解明することもできそうです。
私は卑弥呼の統治下で広形銅矛a類が造られ、台与の時代以後にb類が作られたと考えています。従ってa類からb類に変化するのは台与が共立された247年ころということになります。広形銅矛は出土量も多くa類とb類がありますが、広形銅戈は中広形と違って数が非常に少なくa類とb類の別がありません。
これは広形銅矛b類が造られた時期には銅戈は造られていなかったということで、広形銅矛b類が造られた時期に面土国王家が滅亡し、銅戈を配布した部族も消滅したということのようです。それは台与共立の一方の当事者が存在しなくなったということであり、女王制が有名無実になったということです。
天照大神は天の岩戸の前後で性格が大きく変わり、天の岩戸以前にはスサノヲの姉として自ら行動しますが、天の岩戸以後には自ら行動することはなく、高御産巣日神とペアで神々に指令を下すだけになります。台与が共立されて間もない250年ころに女王の時代は終わり、高御産巣日神に相当する人物が実質的な倭王になるようです。私は高御産巣日神を倭人伝の大倭だと考えています。
追放されたスサノオは出雲に降(くだ)りヤマタノオロチを退治することになっていますが、編年体の史書と違って紀伝体の神話では年代も時代も違う史実が物語風に纏められています。年代も場所も違う神話がスサノオの追放で結び付けられているのですが、私はスサノオのオロチ退治の神話は倭国大乱が出雲に波及したことが語られていると考えています。
2009年9月21日月曜日
須佐之男命 その3
魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)を受けて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。どちらが後漢王朝の後継王朝として正統かという論争が「正閠論」です。
正閠論は中国でも問題にされており『三国志』を素材にした羅貫中の小説『三国志演義』は劉備を正統とする立場で書かれており、曹操は悪役にされています。判官贔屓ということもあるでしょうが、『三国志演義』にとっては宦官の養子の子の曹操よりも、中山王劉勝の子孫の劉備が正統でなければならなかったのです。
呉は地方豪族の連合政権で「正閠論」の面では不利でしたが、呉の孫氏と蜀の劉氏は「二帝並尊」と呼ばれる盟約を結んでいました。それは呉と蜀の皇帝が対等の立場で同盟し協力して魏を討つというもので、魏の滅亡後の領域まで決めていました。
蜀には大きな国力はありませんでしたが二帝並尊でそれなりの影響力を持っており、魏は呉・蜀と対峙することになります。三国鼎立で中国を中心とする東アジア世界が、魏と呉・蜀という二つの核を持つことになりましたが、それが端的に表れたのが遼東の公孫氏の立場です。
二二八年に呉の孫権が皇帝と称するようになり、そのことを公孫氏に伝えました.呉は魏の背後に位置する公孫氏と連携することが、魏に対する圧力になると考えたのですが、公孫氏の方も保身を図ろうとして呉に服属しようとします。
これが倭国にも大きな影響を与えているようです。二三八年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼が魏に遣使しています。これは女王国が魏を後漢王朝の後継王朝と認めたということですが、ここで考えなければならないのは、卑弥呼と対立する立場にある者の中には、蜀を正統として呉と連携しようとする者もいたであろうということです。
二世紀末には倭国に大乱が起きて男王を立てることができず、卑弥呼の死後にも男王が立つが争乱が起きています。女王国内には対立する二つの勢力が存在していると見てよいのですが、今まで述べてきたように対立する二つの勢力とは、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族です。
銅戈を配布した部族の側から見ると面土国王こそ正統の倭国王であり、卑弥呼は大乱で男王が立てられないので共立された仮の王ということになります。卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱が起きますが、この争乱は銅戈を配布した部族が面土国王を正統の倭国王と見たことに起因しているようです。
争乱は13歳の台与を共立することで結着しますが、神話の語るところによれば台与の共立を画策したのが難升米(思金神)であり、それを実行に移したのが掖邪狗(手力男神)ということになります。 二人を中心にして台与の共立が進められたのでしょう。
後漢王朝は五七年に奴国王を、また一〇七年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。
最終的に魏は晋の武帝に禅譲し、呉・蜀も晋に降伏していますから、倭人にとっては魏・蜀の「正閠論」は意味がないようにも思えますが、倭人にも影響を与えており、正閠論はスサノオ(面土国王)の6世孫のオオクニヌシが、天照大神(卑弥呼)の孫のニニギに国譲りをすることで決着したとされているようです。
しかしそれは後にも応神天皇以前と以後とを区別するために、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化していくようです。
正閠論は中国でも問題にされており『三国志』を素材にした羅貫中の小説『三国志演義』は劉備を正統とする立場で書かれており、曹操は悪役にされています。判官贔屓ということもあるでしょうが、『三国志演義』にとっては宦官の養子の子の曹操よりも、中山王劉勝の子孫の劉備が正統でなければならなかったのです。
呉は地方豪族の連合政権で「正閠論」の面では不利でしたが、呉の孫氏と蜀の劉氏は「二帝並尊」と呼ばれる盟約を結んでいました。それは呉と蜀の皇帝が対等の立場で同盟し協力して魏を討つというもので、魏の滅亡後の領域まで決めていました。
蜀には大きな国力はありませんでしたが二帝並尊でそれなりの影響力を持っており、魏は呉・蜀と対峙することになります。三国鼎立で中国を中心とする東アジア世界が、魏と呉・蜀という二つの核を持つことになりましたが、それが端的に表れたのが遼東の公孫氏の立場です。
二二八年に呉の孫権が皇帝と称するようになり、そのことを公孫氏に伝えました.呉は魏の背後に位置する公孫氏と連携することが、魏に対する圧力になると考えたのですが、公孫氏の方も保身を図ろうとして呉に服属しようとします。
これが倭国にも大きな影響を与えているようです。二三八年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼が魏に遣使しています。これは女王国が魏を後漢王朝の後継王朝と認めたということですが、ここで考えなければならないのは、卑弥呼と対立する立場にある者の中には、蜀を正統として呉と連携しようとする者もいたであろうということです。
二世紀末には倭国に大乱が起きて男王を立てることができず、卑弥呼の死後にも男王が立つが争乱が起きています。女王国内には対立する二つの勢力が存在していると見てよいのですが、今まで述べてきたように対立する二つの勢力とは、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族です。
銅戈を配布した部族の側から見ると面土国王こそ正統の倭国王であり、卑弥呼は大乱で男王が立てられないので共立された仮の王ということになります。卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱が起きますが、この争乱は銅戈を配布した部族が面土国王を正統の倭国王と見たことに起因しているようです。
争乱は13歳の台与を共立することで結着しますが、神話の語るところによれば台与の共立を画策したのが難升米(思金神)であり、それを実行に移したのが掖邪狗(手力男神)ということになります。 二人を中心にして台与の共立が進められたのでしょう。
後漢王朝は五七年に奴国王を、また一〇七年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。
最終的に魏は晋の武帝に禅譲し、呉・蜀も晋に降伏していますから、倭人にとっては魏・蜀の「正閠論」は意味がないようにも思えますが、倭人にも影響を与えており、正閠論はスサノオ(面土国王)の6世孫のオオクニヌシが、天照大神(卑弥呼)の孫のニニギに国譲りをすることで決着したとされているようです。
しかしそれは後にも応神天皇以前と以後とを区別するために、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化していくようです。
2009年9月20日日曜日
須佐之男命 その2
『日本書紀』本文では天照大神・月読尊に次いで素戔嗚尊が生まれますが、この神には天照大神、月読尊とは正反対の性格が与えられていて、父母のイザナギ、イザナミ二神はスサノオを追放します。『古事記』ではスサノオを追放するのはイザナギだけになっています。『日本書紀』本文は次のように記しています。
次ぎに素戔嗚尊を生まれた。(一書に神素戔嗚尊、速素戔嗚尊という。この神は勇悍(たけだけしく)て安忍(残忍)で、また泣き嘆くことを常とした。ゆえに國内の人民が多く死んだ。さらにまた青山を枯山に変えた。そこで父母の二神は素戔嗚尊に言われた。「汝ははなはだ無道である。だから天上、天下を支配してはならない。遠い根の國に行け」と言って追放された。
これは『日本書紀』本文の神話ですが、『古事記』ではイザナギに海原(うなばら)を治めるように命ぜられながら、母のいる根の堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと泣いてばかりいたので、そのために様々な禍が起き、イザナギは素戔嗚尊を追放したとされています。
これには2世紀末に起きた倭国大乱のことが語られているようです。つまり大乱の当事者がスサノオとイザナギなのです。イザナギは禊(みそぎ)はらいして阿曇海人・那珂海人の祀る神を生みますが、前述したようにイザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものです。
それに対して追放されるスサノヲは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。青銅祭器についてはさらに詳しく述べるつもりですが、ここでは「そのように考えることもできる」という程度に思ってください。
倭国大乱は倭王位を巡る銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。スサノヲは母のいる根の堅洲国に行きたいと泣いてばかりいましたが、母とはイザナミのことです。イザナミは銅剣を配布した部族であると同時に、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあります。
世の古今東西を問わず全ての支配者に共通することの一つに、自分の支配権の正当性を認めさせようとして、様々な手段を用いていることがあげられます。前漢を滅ぼした王莽は天の意思が王莽を皇帝にしたという天人感応説を巧みに利用して皇帝になりましたが、卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されたことによって正当な王とされました。
この神話には魏の曹氏と蜀の劉氏の「正閠論」が絡んでいるように思われます。「正閠論」とは魏と蜀のどちらが後漢の後継王朝かという論議です。57年の奴国王の遣使も107年の面土国王帥升の遣使も、後漢王朝に対して行なわれていますが、卑弥呼は魏に遣使して親魏倭王に冊封されています。
奴国や面土国には蜀を正統とする考え方があったように思われます。それによると魏は後漢を滅ぼしたのであり、魏によって冊封された卑弥呼は正統の倭王ではなく、仮の王だということになります。正統の倭王は面土国王だというのですが、これが卑弥呼の死後に起きた争乱の原因になっているようです。
スサノヲが母のいる根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王の統治権は奴国王から継承したものであり、その統治権は後漢が認めた正当なものであると主張しているのであり、このことが倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているということのようです。「正閠論」はその後にも尾を引き、古墳時代の氏族の権力闘争にも影響しているようです。
次ぎに素戔嗚尊を生まれた。(一書に神素戔嗚尊、速素戔嗚尊という。この神は勇悍(たけだけしく)て安忍(残忍)で、また泣き嘆くことを常とした。ゆえに國内の人民が多く死んだ。さらにまた青山を枯山に変えた。そこで父母の二神は素戔嗚尊に言われた。「汝ははなはだ無道である。だから天上、天下を支配してはならない。遠い根の國に行け」と言って追放された。
これは『日本書紀』本文の神話ですが、『古事記』ではイザナギに海原(うなばら)を治めるように命ぜられながら、母のいる根の堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと泣いてばかりいたので、そのために様々な禍が起き、イザナギは素戔嗚尊を追放したとされています。
これには2世紀末に起きた倭国大乱のことが語られているようです。つまり大乱の当事者がスサノオとイザナギなのです。イザナギは禊(みそぎ)はらいして阿曇海人・那珂海人の祀る神を生みますが、前述したようにイザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものです。
それに対して追放されるスサノヲは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。青銅祭器についてはさらに詳しく述べるつもりですが、ここでは「そのように考えることもできる」という程度に思ってください。
倭国大乱は倭王位を巡る銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。スサノヲは母のいる根の堅洲国に行きたいと泣いてばかりいましたが、母とはイザナミのことです。イザナミは銅剣を配布した部族であると同時に、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあります。
世の古今東西を問わず全ての支配者に共通することの一つに、自分の支配権の正当性を認めさせようとして、様々な手段を用いていることがあげられます。前漢を滅ぼした王莽は天の意思が王莽を皇帝にしたという天人感応説を巧みに利用して皇帝になりましたが、卑弥呼は魏から「親魏倭王」に冊封されたことによって正当な王とされました。
この神話には魏の曹氏と蜀の劉氏の「正閠論」が絡んでいるように思われます。「正閠論」とは魏と蜀のどちらが後漢の後継王朝かという論議です。57年の奴国王の遣使も107年の面土国王帥升の遣使も、後漢王朝に対して行なわれていますが、卑弥呼は魏に遣使して親魏倭王に冊封されています。
奴国や面土国には蜀を正統とする考え方があったように思われます。それによると魏は後漢を滅ぼしたのであり、魏によって冊封された卑弥呼は正統の倭王ではなく、仮の王だということになります。正統の倭王は面土国王だというのですが、これが卑弥呼の死後に起きた争乱の原因になっているようです。
スサノヲが母のいる根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王の統治権は奴国王から継承したものであり、その統治権は後漢が認めた正当なものであると主張しているのであり、このことが倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているということのようです。「正閠論」はその後にも尾を引き、古墳時代の氏族の権力闘争にも影響しているようです。
2009年9月19日土曜日
須佐之男命 その1
白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男命・素戔嗚尊)を狗奴国の男王としていますが、前に述べたように狗奴国は肥後であり、肥後とスサノオには全く関係がありません。その点では宗像大社の祭神の三女神がスサノオの所持する剣から生まれたとされていて、宗像と深い関係があります。
高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、ヤマタノオロチを退治するなど大活躍しますが、肥後と出雲には何等の関係も見られません。その点においても宗像と出雲には密接な関係が見られます。筑紫神話のスサノオは宗像と関係があると考えてよいでしょう。倭人伝の記事の多くは宗像での見聞ですが、宗像は面土国であり素戔嗚尊は面土国王なのです。
後漢王朝は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期を迎えますが、4代和帝の治世からふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになり、彼らの専横によって後漢王朝は統治能力を失います。184年に黄巾の乱が起きた時には、もはや反乱を鎮圧するだけの軍事力はありませんでした。
220年、14代献帝は曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ漢王朝は滅亡し、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代に入っていきます。島国の倭国もこうした中国の動きと無関係ではいられません。面土国王が倭王として君臨したのは4代和帝の死の直後から、黄巾の乱が起きた184年頃までの7~80年間でした。
後漢末の中国の混乱が倭国にも波及してきて大乱が起き卑弥呼が共立されますが、大乱の一方の当事者が面土国王で、これが神話のスサノオです。卑弥呼を共立した面土国王は「自女王国以北」、つまり遠賀川流域を、あたかも中国の州刺史の如くに支配するようになります。
その初代の王が107年に後漢に遣使した帥升ですが、帥升の北京官話音は shuai-shengです。『後漢書』には帥升が師升と記されていますが、この場合にはshuo-shengになります。一方、須佐はhsu-tsuoであり、素戔はsu-chienとなります。帥升(師升)の音と須佐(素戔)は非常によく似ていますが、須佐、あるいは素戔とは帥升(師升)のことなのです。
『日本書紀』の「嗚=u」、『古事記』の「之男=no―o」とは「緒=o」のことで、細くて長い高まりが「緒」で、これが「鼻緒」「尾根」などの語源になっています。「緒」には「はじめ・おこり・いとぐち・すぢ」という意味もあります。ホノニニギの天孫降臨に随伴する五柱の神を「五伴緒(いつのとものお)」とする使用例がありますが、ニニギを基点にしてそれに連なる者が五伴緒です。
「緒」は血筋や系譜が連なっていることを表し、素戔嗚(須佐之男)とは帥升の子孫、あるいは系譜が連なっている者のことをいいます。スサは固有名詞ですがスサノヲはスサの複数形です。卑弥呼が王になる以前の七、八〇年間の男王はすべてスサノヲ(帥升の緒)であり、倭人伝の刺史の如き者は、天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノヲです。
「帥升の緒」は宗像だけではなく、出雲や大阪湾沿岸・紀伊半島にも居ました。私は面土国王は銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になったと考えていますが、大阪湾沿岸の「帥升の緒」は大阪湾形と呼ばれている銅戈を配布しています。紀伊のスサノオは大阪湾形銅戈を祀っていた部族でしよう。
スサノオが面土国王であるのなら宗像郡にスサノオを祀る神社があってもよさそうなものですが、スサノオ自身ではなくスサノオの物実(ものざね)である剣から生まれたとされる3女神が祀られています。このことは天照大神も同様で、大和朝廷が成立したことにより祭祀の中心が東方に移動したことによるようです。
宗像3女神は天照大神が生んだとされていますが、これには後に述べる魏・蜀の正閠論が絡んでくるようです。概略を言うと卑弥呼と面土国王のどちらが倭王として正統かということですが、宗像の「帥升の緒」は天照大神との関係が強調されているようです。
スサノオを祀る神社として出雲では出雲市の須佐神社や松江市の八重垣神社・熊野大社が知られており、また紀伊では熊野本宮大社でもスサノオが祀られています。 それに重なるようにイザナミとオオクニヌシを祭る神社があり、その伝承があることに注意する必要がありそうです。
出雲の熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名とし、紀伊の熊野本宮大社では家都美御子大神がスサノオとされています。
白鳥庫吉・津田左右吉の師弟間に論争がありましたが、白鳥は津田を説得できませんでした。それは白鳥が三世紀に面土国が存在したこと、素戔嗚尊が面土国王であることに気づいていないことに原因があります。もしも白鳥庫吉がその存在に気づいていたら津田左右吉を説得できたでしょうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかったでしょう。
高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、ヤマタノオロチを退治するなど大活躍しますが、肥後と出雲には何等の関係も見られません。その点においても宗像と出雲には密接な関係が見られます。筑紫神話のスサノオは宗像と関係があると考えてよいでしょう。倭人伝の記事の多くは宗像での見聞ですが、宗像は面土国であり素戔嗚尊は面土国王なのです。
後漢王朝は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期を迎えますが、4代和帝の治世からふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになり、彼らの専横によって後漢王朝は統治能力を失います。184年に黄巾の乱が起きた時には、もはや反乱を鎮圧するだけの軍事力はありませんでした。
220年、14代献帝は曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ漢王朝は滅亡し、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代に入っていきます。島国の倭国もこうした中国の動きと無関係ではいられません。面土国王が倭王として君臨したのは4代和帝の死の直後から、黄巾の乱が起きた184年頃までの7~80年間でした。
後漢末の中国の混乱が倭国にも波及してきて大乱が起き卑弥呼が共立されますが、大乱の一方の当事者が面土国王で、これが神話のスサノオです。卑弥呼を共立した面土国王は「自女王国以北」、つまり遠賀川流域を、あたかも中国の州刺史の如くに支配するようになります。
その初代の王が107年に後漢に遣使した帥升ですが、帥升の北京官話音は shuai-shengです。『後漢書』には帥升が師升と記されていますが、この場合にはshuo-shengになります。一方、須佐はhsu-tsuoであり、素戔はsu-chienとなります。帥升(師升)の音と須佐(素戔)は非常によく似ていますが、須佐、あるいは素戔とは帥升(師升)のことなのです。
『日本書紀』の「嗚=u」、『古事記』の「之男=no―o」とは「緒=o」のことで、細くて長い高まりが「緒」で、これが「鼻緒」「尾根」などの語源になっています。「緒」には「はじめ・おこり・いとぐち・すぢ」という意味もあります。ホノニニギの天孫降臨に随伴する五柱の神を「五伴緒(いつのとものお)」とする使用例がありますが、ニニギを基点にしてそれに連なる者が五伴緒です。
「緒」は血筋や系譜が連なっていることを表し、素戔嗚(須佐之男)とは帥升の子孫、あるいは系譜が連なっている者のことをいいます。スサは固有名詞ですがスサノヲはスサの複数形です。卑弥呼が王になる以前の七、八〇年間の男王はすべてスサノヲ(帥升の緒)であり、倭人伝の刺史の如き者は、天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノヲです。
「帥升の緒」は宗像だけではなく、出雲や大阪湾沿岸・紀伊半島にも居ました。私は面土国王は銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になったと考えていますが、大阪湾沿岸の「帥升の緒」は大阪湾形と呼ばれている銅戈を配布しています。紀伊のスサノオは大阪湾形銅戈を祀っていた部族でしよう。
スサノオが面土国王であるのなら宗像郡にスサノオを祀る神社があってもよさそうなものですが、スサノオ自身ではなくスサノオの物実(ものざね)である剣から生まれたとされる3女神が祀られています。このことは天照大神も同様で、大和朝廷が成立したことにより祭祀の中心が東方に移動したことによるようです。
宗像3女神は天照大神が生んだとされていますが、これには後に述べる魏・蜀の正閠論が絡んでくるようです。概略を言うと卑弥呼と面土国王のどちらが倭王として正統かということですが、宗像の「帥升の緒」は天照大神との関係が強調されているようです。
スサノオを祀る神社として出雲では出雲市の須佐神社や松江市の八重垣神社・熊野大社が知られており、また紀伊では熊野本宮大社でもスサノオが祀られています。 それに重なるようにイザナミとオオクニヌシを祭る神社があり、その伝承があることに注意する必要がありそうです。
出雲の熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名とし、紀伊の熊野本宮大社では家都美御子大神がスサノオとされています。
白鳥庫吉・津田左右吉の師弟間に論争がありましたが、白鳥は津田を説得できませんでした。それは白鳥が三世紀に面土国が存在したこと、素戔嗚尊が面土国王であることに気づいていないことに原因があります。もしも白鳥庫吉がその存在に気づいていたら津田左右吉を説得できたでしょうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかったでしょう。
2009年9月18日金曜日
思金神 その3
難升米(思金神)が政治家としてデビューしたころには卑弥呼は王になっていたでしょう。私は難升米の類いまれな政治家、外交官としての感性は、卑弥呼が優れたシャーマンとして倭国を統率したのと同じで、三国時代という中国の歴史の中でも特異な時代に対応して育まれていったと考えています。
このような時代に対処するには、時代に応じた方法があったことが考えられますが、難升米は中国、朝鮮半島はもとより、倭国内にも情報網を持っていたことが考えられます。難升米は阿曇、住吉、宗像など玄界灘沿岸の海人を使って情報収集しており、事態に的確に対応することができた人物だったようです。
238年8月に公孫淵が殺されると翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その結果卑弥呼は親魏倭王に、また難升米自身も率善中朗将に任ぜられています。外交の成果は外交官の腕の如何によって変わってくるものですが、卑弥呼が親魏倭王に、また自身も率善中朗将に任じられたのは、難升米の外交手腕がなみなみならないものであったことを表しています。
泰始元年(265)12月には司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位し晋が成立しますが、その翌年の10月か11月に倭人が遣使しています。とすれば使者が倭国を出発したのは気候の安定している5、6六月ころでしょう。それは難升米が66歳ころのことで、この遣使を画策したのも難升米であることが考えられます。
この対応の素早さは景初3年(239)と泰始2年(266)に共通しており、時宜を見逃さない難升米の政治感覚の鋭敏さが表われているように思われます。倭人伝の記事は正始8年で終わっており、その後の難升米の消息は不明ですが、難升米が思金神なら卑弥呼死後には台与や大倭を補佐したことが考えられます。
思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し、主導したことになります。私は神武天皇の東遷、すなわち大和朝廷の成立も難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えています。それは民族統一であり、倭民族の自立ということでした。
魏王朝は敵対する大勢力が出現するのを警戒して、稍、つまり六百里四方以上を支配することを認めませんでした。卑弥呼には親魏倭王という高位を与えましたが、これとても女王国の支配は認めても周辺の稍(国)を支配することは認めていません。
難升米は中国・朝鮮半島の政情や倭人社会の構造を見るにつけ、倭人は冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えていたと思います。幸か不幸か倭人は島国に住んでいるので、高句麗・韓のように緊迫したものではありませんでしたが、倭人だけが特別というわけにはいきません。
正始10年に司馬懿がクーデターを決行し曹爽(そうそう)一派を追い落としますが、難升米はいずれ司馬氏か魏を乗っ取り、やがては中国を再統一するであろうと判断していたと考えています。それは倭国の内政においては、部族が対立したことで共立された女王は不必要になることを意味します。
難升米のシナリオには、中国が再統一された後のことも考えられていたはずで、それが倭国の統一でした。中国の動きに並行して間もなく台与に換わって男子が王になり統一が進められていきますが、それを発案したのも難升米だったと考えます。
このような時代に対処するには、時代に応じた方法があったことが考えられますが、難升米は中国、朝鮮半島はもとより、倭国内にも情報網を持っていたことが考えられます。難升米は阿曇、住吉、宗像など玄界灘沿岸の海人を使って情報収集しており、事態に的確に対応することができた人物だったようです。
238年8月に公孫淵が殺されると翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その結果卑弥呼は親魏倭王に、また難升米自身も率善中朗将に任ぜられています。外交の成果は外交官の腕の如何によって変わってくるものですが、卑弥呼が親魏倭王に、また自身も率善中朗将に任じられたのは、難升米の外交手腕がなみなみならないものであったことを表しています。
泰始元年(265)12月には司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位し晋が成立しますが、その翌年の10月か11月に倭人が遣使しています。とすれば使者が倭国を出発したのは気候の安定している5、6六月ころでしょう。それは難升米が66歳ころのことで、この遣使を画策したのも難升米であることが考えられます。
この対応の素早さは景初3年(239)と泰始2年(266)に共通しており、時宜を見逃さない難升米の政治感覚の鋭敏さが表われているように思われます。倭人伝の記事は正始8年で終わっており、その後の難升米の消息は不明ですが、難升米が思金神なら卑弥呼死後には台与や大倭を補佐したことが考えられます。
思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し、主導したことになります。私は神武天皇の東遷、すなわち大和朝廷の成立も難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えています。それは民族統一であり、倭民族の自立ということでした。
魏王朝は敵対する大勢力が出現するのを警戒して、稍、つまり六百里四方以上を支配することを認めませんでした。卑弥呼には親魏倭王という高位を与えましたが、これとても女王国の支配は認めても周辺の稍(国)を支配することは認めていません。
難升米は中国・朝鮮半島の政情や倭人社会の構造を見るにつけ、倭人は冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えていたと思います。幸か不幸か倭人は島国に住んでいるので、高句麗・韓のように緊迫したものではありませんでしたが、倭人だけが特別というわけにはいきません。
正始10年に司馬懿がクーデターを決行し曹爽(そうそう)一派を追い落としますが、難升米はいずれ司馬氏か魏を乗っ取り、やがては中国を再統一するであろうと判断していたと考えています。それは倭国の内政においては、部族が対立したことで共立された女王は不必要になることを意味します。
難升米のシナリオには、中国が再統一された後のことも考えられていたはずで、それが倭国の統一でした。中国の動きに並行して間もなく台与に換わって男子が王になり統一が進められていきますが、それを発案したのも難升米だったと考えます。
2009年9月17日木曜日
思金神 その2
思金神は難升米だと考えられますが、もしそうであればこの難升米という人物は、古代史上比類のない大政治家、外交官であり、名参謀であったとしなければならないようです。238年8月に遼東の公孫淵が殺されると、翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その対応の素早いことなどは、彼が並の政治家・外交官ではなかったことを示しています。
彼は安曇海人・那珂海人を通じて内外の情報を収集していたのでしょう。その後の倭国は難升米の予想したように動いていくようです。古代史上の名参謀といえば聖徳太子が挙げられますが、私は思金神が難升米であれば、その後世への影響は聖徳太子よりも難升米の方が大きいと思っています。難升米自身は自分がそのような立場に置かれているとは思ってもいなかったでしょう。
政治家・軍人には二つのタイプがありますが、一つは周囲に祭り上げられて能力を発揮するタイプで、前漢の高祖劉邦などがこのタイプです。もう一つのタイプは逆に他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプで、蜀の諸葛孔明がこのタイプです。孔明は劉備を祭り上げることで活動の場を与えられています。
難升米は諸葛孔明のように他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプのようで、難升米の祭り上げたのが卑弥呼や神話の高御産巣日神、すなわち倭人伝の大倭でした。難升米は魏の皇帝を祭り上げることも忘れてはいません。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたのも難升米の力量によるところが大きいようです。表は私の想像する難升米の経歴です。
200年 誕生?このころ卑弥呼が即位する
216 16歳 政治に参画?
239 39歳 卑弥呼の使者になり、率善中朗将に任ぜられる
245 45歳 魏から黄幢、詔書を授与される
247 47歳 卑弥呼の死
台与を擁立する(神話の天の岩戸)
黄幢、詔書が届く
250 50歳 (神話の出雲の国譲り)
255 55歳 台与の後の男王を擁立する(神話の天孫降臨)
266 66歳 倭人の遣使を建策する(神話の神武天皇の東征開始)
270 70歳 死亡?
難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間で、それ以外は想像したものです。239年に卑弥呼の使者として洛陽まで行って率善中朗将に任ぜられるには、外交官、あるいは政治家としての相当の経験と、長い旅に耐えられる体力、気力が必要ですが、29歳では率善中朗将に任じられる外交官としては経験不足であり、49歳では体力・気力が衰えるであろうということで、中間の39歳と考えてみました。
245年に黄幢・詔書が授与され2年後にそれが届きますが、届けた張政は台与と難升米に対し「檄(げき)を為して告喩(こくゆ)」したと書かれています。卑弥呼は弟が補佐していましたが、台与を補佐したのが難升米だったと思われます。難升米に黄幢・詔書が与えられたのは外交官として油ののりきった時期だったようです。それと共に「告喩」の文字から内政も熟知した円熟した時期であったことが感じられます。
この想像が正しいのであれば、難升米の誕生は200年ころということになりますが、当時の平均寿命は短かったと思われますから210年ころと考えてもよいのかもしれません。いずれにしても卑弥呼の即位したのは難升米が誕生したころということが考えられます。その死が6~70歳であったとすれば、弥生時代が古墳時代に変わるころに死んだことになります。
つまり難升米は三国時代が始まった時に生まれ、三国時代が終わった時に死んだことになり、「三国時代の申し子」だと言えます。天の岩戸の多力男は卑弥呼の弟の子、すなわち卑弥呼の甥であることが考えられますが、想像をたくましくすれば卑弥呼の甥とは同世代で、卑弥呼と常に接しながら成長したという仮定もできます。
彼は安曇海人・那珂海人を通じて内外の情報を収集していたのでしょう。その後の倭国は難升米の予想したように動いていくようです。古代史上の名参謀といえば聖徳太子が挙げられますが、私は思金神が難升米であれば、その後世への影響は聖徳太子よりも難升米の方が大きいと思っています。難升米自身は自分がそのような立場に置かれているとは思ってもいなかったでしょう。
政治家・軍人には二つのタイプがありますが、一つは周囲に祭り上げられて能力を発揮するタイプで、前漢の高祖劉邦などがこのタイプです。もう一つのタイプは逆に他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプで、蜀の諸葛孔明がこのタイプです。孔明は劉備を祭り上げることで活動の場を与えられています。
難升米は諸葛孔明のように他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプのようで、難升米の祭り上げたのが卑弥呼や神話の高御産巣日神、すなわち倭人伝の大倭でした。難升米は魏の皇帝を祭り上げることも忘れてはいません。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたのも難升米の力量によるところが大きいようです。表は私の想像する難升米の経歴です。
200年 誕生?このころ卑弥呼が即位する
216 16歳 政治に参画?
239 39歳 卑弥呼の使者になり、率善中朗将に任ぜられる
245 45歳 魏から黄幢、詔書を授与される
247 47歳 卑弥呼の死
台与を擁立する(神話の天の岩戸)
黄幢、詔書が届く
250 50歳 (神話の出雲の国譲り)
255 55歳 台与の後の男王を擁立する(神話の天孫降臨)
266 66歳 倭人の遣使を建策する(神話の神武天皇の東征開始)
270 70歳 死亡?
難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間で、それ以外は想像したものです。239年に卑弥呼の使者として洛陽まで行って率善中朗将に任ぜられるには、外交官、あるいは政治家としての相当の経験と、長い旅に耐えられる体力、気力が必要ですが、29歳では率善中朗将に任じられる外交官としては経験不足であり、49歳では体力・気力が衰えるであろうということで、中間の39歳と考えてみました。
245年に黄幢・詔書が授与され2年後にそれが届きますが、届けた張政は台与と難升米に対し「檄(げき)を為して告喩(こくゆ)」したと書かれています。卑弥呼は弟が補佐していましたが、台与を補佐したのが難升米だったと思われます。難升米に黄幢・詔書が与えられたのは外交官として油ののりきった時期だったようです。それと共に「告喩」の文字から内政も熟知した円熟した時期であったことが感じられます。
この想像が正しいのであれば、難升米の誕生は200年ころということになりますが、当時の平均寿命は短かったと思われますから210年ころと考えてもよいのかもしれません。いずれにしても卑弥呼の即位したのは難升米が誕生したころということが考えられます。その死が6~70歳であったとすれば、弥生時代が古墳時代に変わるころに死んだことになります。
つまり難升米は三国時代が始まった時に生まれ、三国時代が終わった時に死んだことになり、「三国時代の申し子」だと言えます。天の岩戸の多力男は卑弥呼の弟の子、すなわち卑弥呼の甥であることが考えられますが、想像をたくましくすれば卑弥呼の甥とは同世代で、卑弥呼と常に接しながら成長したという仮定もできます。
2009年9月16日水曜日
思金神 その1
多力雄神は掖邪狗のようで、彼は卑弥呼の甥のだと思われます。それに対し思金神は難升米のように思われます。表は天の岩戸以後、天孫降臨以前に活動する高天が原の神と、『古事記』にその神が出てくる回数を比較したものですが、思金神の回数が多いことに注意が必要で、回数が多いほど活発に活動していることを表し、神格が高い傾向があります。
回数 回数 回数
天照大御神 15 邇々芸命 4 天菩比命 3
高御産巣日神 11 天津国玉 2 天若日子 18
思金神 8 天石門別神 4 雉 6
天津麻羅 1 忍穂耳命 4 伊都之尾羽張 3
伊斯許度売命 3 須佐之男命 2 建雷之男神 4
玉祖命 3 大気都比売神 3 天迦久神 2
天児屋命 5 神産巣日神 1 天鳥船神 2
布刀玉命 6 万幡豊秋津師比売 1 天津久米神 2
多力男神 4 天日明命 1 登由宇気神 1
天宇受売命 8 天忍日命 2
猿田毘古神 5
例外は天若日子の18回で、その多くは雉の6回とペアになった天若日子自身の物語で、天若日子の神格が高いというわけではありません。また天宇受売の8回も猿田毘古の5回とペアの物語になっているものが多いが、『古事記』神話を伝えた稗田氏は天宇受売、猿田毘古の子孫とされています。
天宇受売の8回と猿田毘古の5回には稗田氏の始祖伝承が加わっていると考えるのがよいようです。『古事記』の神話は稗田氏など天神系氏族が伝えたもののようです。これらを除くとアマテラスの15回、高御産巣日神の11回、思金神の8回が他を圧しています。
この天照大神は卑弥呼ではなく台与ですが、後に述べるように高御産巣日神は大倭(だいわ)です。ですからこの二神の回数が多いのは当然のことで、この二神は天若日子を出雲に派遣する指令を出して以後、ペアで神々に指令を出す指令神として活動します。天照大神を差し置いて高御産巣日神だけが単独で指令を出している場合も多い。
思金神は天の岩戸以前には活動の見られない神で、天の岩戸以後には天照大神・高御産巣日神の指令を受けて、それを具体化する働きをしています。それも天照大神よりも高御産巣日神の指令を受け、それに応答していることが目立ちます。思金神は八意思兼神とも呼ばれるように、深く謀り、遠く思慮する神だと考えられています。
私はこの八意思兼神という神名が、難升米を正確に表現していると思っています。思金神は天の岩戸から天孫降臨にかけて八百万神の筆頭として活動しますが、言ってみれば政治家なら官房長官、軍人なら参謀総長のような役回りであり、天孫降臨の段では特別視されています 『古事記』 には次のように記されています。
「此の鏡は専(もぱ)ら吾が御魂(みたま)と為て、吾が前を拝(いつ)くが如(ごと)いつき奉(まつ)れ。次に思金神は前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とのりたまいき。此の二柱の神は、さくくしろ、いすずの宮にに拝(いつき)き祭る
二柱の神とは八咫の鏡と思金神で鏡は天照大神のことであり、いすずの宮は五十鈴川のほとりにある宮という意味で伊勢神宮のことです。天照大神と思金神が伊勢神宮に祭られていることが述べられていますが、伊勢神宮に思金神が祭られているのには意味がありそうです。
「前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とは天照大神の祭事、あるいは政事を引き継いで執り行うようにという意味ですが、この部分は天孫ホノニニギが降臨する部分ですから、本来なら指令は邇々芸命(『日本書紀』では瓊々杵尊)に対して出されるはずのものです。それが思金神に対して出されています。ここではホノニニギよりも思金神の方が重視されているのです。
天照大神は台与であり、後に述べるがホノニニギは台与の後の男王であり、ホノニニギが高千穂の峰に降臨することは高天原の主がいなくなるということで、天孫降臨の後の高天が原の留守番役が思金神だというのでしょう。
思金神は八百万の神の筆頭であり、天照大神・高御産巣日神も八百万の神も、思金神の発案に従って行動しているように思えます。思金神は神話の中で特異な立場にありますが、倭人伝中の人物にも同じように特異な立場の人物がいます。
回数 官位 授けられたもの
難升米 7 率善中朗将 銀印青綬、黄幢、詔書、告喩
倭女王 4 詔書、印綬
卑弥呼 4 親魏倭王 詔書、金印紫綬
壹與 3 告喩
都市牛利 4 率善校尉 銀印、青綬
以聲耆 1 率善中朗将 印綬
掖邪狗 3 率善中朗将 印綬
載斯烏越 1
表は倭人伝に登場する人物の名前とその回数ですが、難升米がとびぬけて多く官位も高く、黄幢、詔書を授けられるなど特別な働きをしています。思金神と難升米の性格がよく似ていますが、思金神は難升米だと思ってよいようです。
回数 回数 回数
天照大御神 15 邇々芸命 4 天菩比命 3
高御産巣日神 11 天津国玉 2 天若日子 18
思金神 8 天石門別神 4 雉 6
天津麻羅 1 忍穂耳命 4 伊都之尾羽張 3
伊斯許度売命 3 須佐之男命 2 建雷之男神 4
玉祖命 3 大気都比売神 3 天迦久神 2
天児屋命 5 神産巣日神 1 天鳥船神 2
布刀玉命 6 万幡豊秋津師比売 1 天津久米神 2
多力男神 4 天日明命 1 登由宇気神 1
天宇受売命 8 天忍日命 2
猿田毘古神 5
例外は天若日子の18回で、その多くは雉の6回とペアになった天若日子自身の物語で、天若日子の神格が高いというわけではありません。また天宇受売の8回も猿田毘古の5回とペアの物語になっているものが多いが、『古事記』神話を伝えた稗田氏は天宇受売、猿田毘古の子孫とされています。
天宇受売の8回と猿田毘古の5回には稗田氏の始祖伝承が加わっていると考えるのがよいようです。『古事記』の神話は稗田氏など天神系氏族が伝えたもののようです。これらを除くとアマテラスの15回、高御産巣日神の11回、思金神の8回が他を圧しています。
この天照大神は卑弥呼ではなく台与ですが、後に述べるように高御産巣日神は大倭(だいわ)です。ですからこの二神の回数が多いのは当然のことで、この二神は天若日子を出雲に派遣する指令を出して以後、ペアで神々に指令を出す指令神として活動します。天照大神を差し置いて高御産巣日神だけが単独で指令を出している場合も多い。
思金神は天の岩戸以前には活動の見られない神で、天の岩戸以後には天照大神・高御産巣日神の指令を受けて、それを具体化する働きをしています。それも天照大神よりも高御産巣日神の指令を受け、それに応答していることが目立ちます。思金神は八意思兼神とも呼ばれるように、深く謀り、遠く思慮する神だと考えられています。
私はこの八意思兼神という神名が、難升米を正確に表現していると思っています。思金神は天の岩戸から天孫降臨にかけて八百万神の筆頭として活動しますが、言ってみれば政治家なら官房長官、軍人なら参謀総長のような役回りであり、天孫降臨の段では特別視されています 『古事記』 には次のように記されています。
「此の鏡は専(もぱ)ら吾が御魂(みたま)と為て、吾が前を拝(いつ)くが如(ごと)いつき奉(まつ)れ。次に思金神は前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とのりたまいき。此の二柱の神は、さくくしろ、いすずの宮にに拝(いつき)き祭る
二柱の神とは八咫の鏡と思金神で鏡は天照大神のことであり、いすずの宮は五十鈴川のほとりにある宮という意味で伊勢神宮のことです。天照大神と思金神が伊勢神宮に祭られていることが述べられていますが、伊勢神宮に思金神が祭られているのには意味がありそうです。
「前の事を取り持ちて政為(まつりごとせ)よ」とは天照大神の祭事、あるいは政事を引き継いで執り行うようにという意味ですが、この部分は天孫ホノニニギが降臨する部分ですから、本来なら指令は邇々芸命(『日本書紀』では瓊々杵尊)に対して出されるはずのものです。それが思金神に対して出されています。ここではホノニニギよりも思金神の方が重視されているのです。
天照大神は台与であり、後に述べるがホノニニギは台与の後の男王であり、ホノニニギが高千穂の峰に降臨することは高天原の主がいなくなるということで、天孫降臨の後の高天が原の留守番役が思金神だというのでしょう。
思金神は八百万の神の筆頭であり、天照大神・高御産巣日神も八百万の神も、思金神の発案に従って行動しているように思えます。思金神は神話の中で特異な立場にありますが、倭人伝中の人物にも同じように特異な立場の人物がいます。
回数 官位 授けられたもの
難升米 7 率善中朗将 銀印青綬、黄幢、詔書、告喩
倭女王 4 詔書、印綬
卑弥呼 4 親魏倭王 詔書、金印紫綬
壹與 3 告喩
都市牛利 4 率善校尉 銀印、青綬
以聲耆 1 率善中朗将 印綬
掖邪狗 3 率善中朗将 印綬
載斯烏越 1
表は倭人伝に登場する人物の名前とその回数ですが、難升米がとびぬけて多く官位も高く、黄幢、詔書を授けられるなど特別な働きをしています。思金神と難升米の性格がよく似ていますが、思金神は難升米だと思ってよいようです。
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