2009年12月20日日曜日

大国主の国譲り その4

『日本書紀』第二の一書は大和のオオモノヌシ(大物主」とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしていますが、それに続いて物作りの忌部が定められたことが記されています。

すなわち紀国(紀伊)の忌部の遠祖、手置帆負神(たおきほおいのかみ)を作笠者(かさぬい)に定めた。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)とする。天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とする。天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり)とする。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり)とする。(後略)

これを『日本書紀』第三の一書などでさらに詳しく見てみると次のようになります。重複しますが図を再度載せます。

讃岐の忌部の祖     手置帆負神  
紀伊の忌部の祖     彦狭知神   
筑紫・伊勢の忌部の祖  天目一箇神  
阿波の忌部の祖     天日鷲神  
出雲の忌部の祖     櫛明玉神   

これを見ると筑紫・出雲の忌部を除くと近畿4式・5式銅鐸が分布する紀伊半島や四国東部の忌部になっています。そこで図では讃岐・阿波の忌部を⑥の徳島県徳島市の大麻比古神社で代表させてみました。

紀伊・伊勢の忌部についてはよく分からないので⑦の和歌山県日前・国縣宮、⑨の三重県伊勢神宮、⑩の愛知県熱田神宮をそれに代えて図示しています。銅鐸を配布した部族が併合されて大和朝廷が成立すると、その影響下で近畿4・5式、三遠式銅鐸の分布圏にこれらの神社が祭られるようになることを表そうとしています。

忌部といえば太玉命を祖とする忌部首氏との関係が考えられますが、『日本書紀』第三の一書を見ると別系統のように思われます。横田健一氏によると物部氏は祭祀に用いる物を調達・管理する氏族だったようですが、その物部氏の元で祭祀用具の製作に携わったのが、ここに見られる忌部のようです

この神話のフツヌシ(経津主)の別名は、建布都神、または豊布都神ですが、布都神は物部氏の祀る剣神だと考えられていて、奈良県石上神宮でも祭られています。大場磐雄氏は物部氏を銅剣を使用した氏族だとしていますが、そうであれば瀬戸内に見られる平形銅剣を使用した物部氏が紀伊半島・四国東部を平定したことになります。

物部氏は「八十物部」と言われるように同族が多く、世情を見るのに巧みな氏族で、よく分からない面がありますが、私は元来の物部氏は奴国王の同族で銅剣を配布した部ではなかったかと思っています。しかし九州で銅剣が造られなくなると銅矛を配布した部族に転じたと考えます。

四国には物部一族の分布が濃密ですが、通婚を強要し銅矛を配布することで勢力を侵食していったのでしょう。前述の「ヤマタノオロチ」も物部氏の進出かも知れません。その延長線上にあるのが出雲のオオナムチの国譲りであり、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシの帰順だと考えます。国譲り神話は物部氏が存在しなければもっと変わっていたでしょう

出雲の国譲りがあったのであれば、吉備の国譲りがあってもよさそうなものですが、出雲の国譲りの中に含まれてしまっているのでしょう。このことを表すために図では⑤の岡山県・吉備津神社と、Ⅲの岡山県赤磐町・石上布津之魂神社を加えてみましたが、これは国譲りとは直接の関係はありません。 

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