2009年9月29日火曜日

邇々芸命

倭人伝の記事は台与が王になった時点で終わっており、倭人伝からはその後のことは分かりません。しかし『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。

正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも、国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、并せて中国の爵命を受ける

この文には臺與(台与)の後に、また男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は、中国(おそらく晋ではなく魏)が倭王に冊封したということですが、并には二人が前後に並び、それを一組にするという意味があり、台与と男王の二人の王がいると考えないといけません。

このことが無視されていることが不思議なのですが、その原因は『日本書紀』神功皇后紀が266年の倭人の遣使を神功皇后が行ったと思わせようとしていることにあります。しかし『梁書』『北史』の「その後また男王を立て、并べて中国の爵命を受ける」から別の考え方ができます。

266年の倭人の遣使までに女王制は有名無実になっており、台与の後の男王が立てられるようです。卑弥呼死後の男王がオシホミミであるのなら、台与の後の男王はホノニニギということになります。天孫降臨の神話は、台与の後の男王の時代に侏儒国が併合されたことが語られているようです。

遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主とせむと欲す。然も彼地に多に蛍火の光く神、および蠅聲す邪しき神有り。複草木咸に能く言語有り。

ニニギ(邇々芸命・瓊瓊杵尊)は台与の後の男王ですが、台与を退位させて男王を立てようとしたが、それに反対する者があったというのです。それが「蛍火の光く神、及び蠅聲(さばえな)す邪(あ)しき神」であり、「草木咸(ことごとく)に、よく言うこと有り」と説明さています。

草木とは政治に関与することが許されない名もない庶民のことで、それらの者までが陰で批判しているというのです。私はこの批判をかわすために台与と、その後継の男王という、二人の王のいる時期があったと考えています。その男王がホノニニギなのでしょう。

ホノニニギは葦原中国の統治を命ぜられて日向の高千穂の峰に降臨しますが、日向三代の神話は侏儒国に女王国の支配が及んで来たことが語られているようです。王の支配地は冊封体制によって稍、つまり六百里四方に制限されていて、六百里四方の外側は隣の国で別の王が支配しています。ホノニニギが高千穂の峰に降臨したのは、九州南半の稍(稍O)を支配する王に冊封されたということだと思っています。

ホノニニギには天孫降臨という重責のわりには事績がなく、オシホミミとホホデミの系譜を中継しているだけのように見えます。ニニギと木花之佐久夜毘売の間に、火照命・火須勢理命・火遠理命の三神が生まれますが、津田左右吉はニニギを中心とする物語は高千穂の峰に下ったことと、国つ神の娘をめとってホホデミを生んだことであり、その子のホホデミは、もともとは海幸彦、山幸彦とは関係がなく、ヤマトへの東征の主人公であったとしています。

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