107年ころに奴国王から面土国王に統治権の移譲が行われたことが考えられますが、この統治権の移譲のさいに動乱があったようです。この動乱のことは中国の史書には見えませんが、相当に大規模のものだったようです。この動乱から霊帝の光和年中(178~183)の倭国大乱までが後期前半になるようです。帥升が即位したのが1期であり、倭国大乱で王のいなくなるのが3期になります。
私が90年ごとに中区分することに拘る最大の原因はこのことにあります。面土国王が倭国王として君臨したのは、後期前半90年間の内の7~80年間だったと考えることができます。紀元前1世紀を百余国時代とし、1世紀を奴国時代とするなら、2世紀は面土国時代であり、3世紀は邪馬台国時代だとも言えるようです。
換言すると後期は倭国大乱を境にして前半と後半に分かれ、面土国王が倭王として君臨した七、八〇年間が後期前半であり、後期後半は卑弥呼や台与の時代だということになります。武器形青銅祭器の中広形と広形は後期に造られたとされていますが、面土国王が倭王だった時期に中広形が造られ、卑弥呼や台与の時代に広形が造られたことになりそうです。
面土国王が遣使した後期前半1期ころに中広形a類が造られ、倭国大乱の予兆が見えてきた3期ころに中広形b類が造られたと考えることができ、卑弥呼が女王になると広形a類が造られ、卑弥呼死後の争乱のころに広形b類が造られたことになります。中広形をabcdに4分類することも行なわれていますが、これは地域によって異なった形式が見られることによるようです。
銅戈は中細形、中広形の段階では銅矛以上の量が造られていますが、広形になると三本ほどと極端に少なくなり、逆に銅矛は増加しています。広形銅矛にa類とb類があるのに銅戈にはa類とb類の区別がありません。中細形が中広形に変わるのは奴国王から面土国王への統治権の移譲に伴う動乱のころであり、中広形が広形に変わるのは二世紀末の倭国大乱が原因になっていると考えられます。
銅戈を配布した部族は一世紀から倭国大乱までは隆盛しますが、大乱後には劣勢になります。面土国王は倭国大乱までの7、8〇年間、倭王として君臨しますが、大乱で王位を卑弥呼に譲り「自女王国以北」の国々を「刺史の如く」に支配するようになるのです。面土国王を擁立したのは銅戈を配布した部族です。
銅矛を配布した部族が神格化されたものがイザナギですが、那珂海人、阿曇海人など、博多湾沿岸の海人でしょう。銅戈を配布した部族が神格化されたものがスサノヲであり、その部族が面土国王を擁立したことが考えられます。面土国は宗像郡であり、スサノヲの剣から生まれた三女神を祭る宗像神社があります。
この神話には魏と蜀の正閠論が関係していることが考えられます。銅矛を配布した部族は魏を正統とし、銅剣・銅戈を配布した部族は蜀を正統としたのでしよう。邪馬台国は魏を正統とし、奴国や面土国は蜀を正統として対立したようです。これが誕生したスサノヲが母の住む根の国に行きたいと言って泣いたために、イザナギに追放される神話になっているようです。
スサノヲは出雲でも大活躍しますが、そうであれば出雲に大量の銅戈が分布していてもよさそうなものです。大場磐雄氏は加茂岩倉遺跡の発見を予見していましたが、それは的中しました。その出雲のことですから、どこかに三〇〇本ほどの「出雲形銅戈」が眠っているかもしれません。私はそのことを秘かに願っているのですが、しかしその可能性は少ないように思っています。
出雲大社本殿の背後にスサノヲを祭る素鵞神社があり、東に200メートルほど離れた命主神社境内から中細形銅戈一本と瑪瑙製の勾玉一個が出土しています。この銅戈を祀っていた宗族が出雲神話のスサノヲようで、出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しており、それはスサノオに結びつくと考えています。
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