2009年9月17日木曜日

思金神 その2

思金神は難升米だと考えられますが、もしそうであればこの難升米という人物は、古代史上比類のない大政治家、外交官であり、名参謀であったとしなければならないようです。238年8月に遼東の公孫淵が殺されると、翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その対応の素早いことなどは、彼が並の政治家・外交官ではなかったことを示しています。

彼は安曇海人・那珂海人を通じて内外の情報を収集していたのでしょう。その後の倭国は難升米の予想したように動いていくようです。古代史上の名参謀といえば聖徳太子が挙げられますが、私は思金神が難升米であれば、その後世への影響は聖徳太子よりも難升米の方が大きいと思っています。難升米自身は自分がそのような立場に置かれているとは思ってもいなかったでしょう。

政治家・軍人には二つのタイプがありますが、一つは周囲に祭り上げられて能力を発揮するタイプで、前漢の高祖劉邦などがこのタイプです。もう一つのタイプは逆に他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプで、蜀の諸葛孔明がこのタイプです。孔明は劉備を祭り上げることで活動の場を与えられています。

難升米は諸葛孔明のように他者を祭り上げることによって持っている能力を発揮するタイプのようで、難升米の祭り上げたのが卑弥呼や神話の高御産巣日神、すなわち倭人伝の大倭でした。難升米は魏の皇帝を祭り上げることも忘れてはいません。卑弥呼が親魏倭王に冊封されたのも難升米の力量によるところが大きいようです。表は私の想像する難升米の経歴です。

200年       誕生?このころ卑弥呼が即位する
216   16歳  政治に参画?
239   39歳  卑弥呼の使者になり、率善中朗将に任ぜられる
245   45歳  魏から黄幢、詔書を授与される
247   47歳  卑弥呼の死
           台与を擁立する(神話の天の岩戸)
           黄幢、詔書が届く
250   50歳  (神話の出雲の国譲り)
255   55歳  台与の後の男王を擁立する(神話の天孫降臨)
266   66歳  倭人の遣使を建策する(神話の神武天皇の東征開始)
270   70歳  死亡?

難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間で、それ以外は想像したものです。239年に卑弥呼の使者として洛陽まで行って率善中朗将に任ぜられるには、外交官、あるいは政治家としての相当の経験と、長い旅に耐えられる体力、気力が必要ですが、29歳では率善中朗将に任じられる外交官としては経験不足であり、49歳では体力・気力が衰えるであろうということで、中間の39歳と考えてみました。
 
245年に黄幢・詔書が授与され2年後にそれが届きますが、届けた張政は台与と難升米に対し「檄(げき)を為して告喩(こくゆ)」したと書かれています。卑弥呼は弟が補佐していましたが、台与を補佐したのが難升米だったと思われます。難升米に黄幢・詔書が与えられたのは外交官として油ののりきった時期だったようです。それと共に「告喩」の文字から内政も熟知した円熟した時期であったことが感じられます。

この想像が正しいのであれば、難升米の誕生は200年ころということになりますが、当時の平均寿命は短かったと思われますから210年ころと考えてもよいのかもしれません。いずれにしても卑弥呼の即位したのは難升米が誕生したころということが考えられます。その死が6~70歳であったとすれば、弥生時代が古墳時代に変わるころに死んだことになります。

つまり難升米は三国時代が始まった時に生まれ、三国時代が終わった時に死んだことになり、「三国時代の申し子」だと言えます。天の岩戸の多力男は卑弥呼の弟の子、すなわち卑弥呼の甥であることが考えられますが、想像をたくましくすれば卑弥呼の甥とは同世代で、卑弥呼と常に接しながら成長したという仮定もできます。

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