卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」とありますが、この鬼道を当時中国で流行していた道教と関係があるとする説があります。卑弥呼と天照大神が似ているのであれば天照大神に道教の影響が見られるはずですが、見えてくるのは古代神道の一部分であるシャーマニズムであり、道教との関係を思わせるものはありません。
紀元前136年(建元5)、前漢の武帝が儒教を国教にしますが、冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想が倭人に伝わり、縄文時代以来の古代祭祀と習合して神道が生まれると考えています。神道は弥生時代にすでに存在していたと思われます。その神道の重要な要素がシャーマニズムですが、『日本書紀』神功皇后紀にその具体的な記述があります。
神功皇后は神憑りして、夫の仲哀天皇に新羅を討てという神託があったことを伝えますが、仲哀天皇はこれを信じず祟る神があって崩御します。神功皇后紀九年三月条にはその祟る神を知るために、神功皇后が再び神懸かりすることが述べられています。
三月の壬申の朔に、皇后は吉日を選んで、齋宮に入りみずから神主になられた。そして竹内宿禰に命じて琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を召し出して審神者にされた。(中略)請いて言われるに「先の日に天皇に教えられたのは何という神でしょうか。願わくはその名を知りたい」と言われた。七日七夜すぎて神が答えて(中略)そこで審神者の言うのに、「今答えられないで、さらに後に言われることがあるでしょうか」
卑弥呼の鬼道には神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を弾く竹内宿禰に当たる当事者が必要でした。先に宮参りの時に見られる巫女さんと神主さんが、巫女とサニハの名残りだと書きましたが、竹内宿禰のひく琴は笛や太鼓になります。
笛や太鼓のにぎやかな奏楽の間、巫女さんと神主さんは平伏していますが、これは巫女とサニハが奏楽に導かれて神憑りする所作です。神憑りした巫女は神の託宣を降すのですが、これが巫女さんが鈴を鳴らしながら舞う所作になっています。
竹内宿禰が弾く琴の音に誘導されて巫女である神功皇后と、サニハである中臣烏賊津使主が神憑りするのですが、中臣烏賊津使主のサニハとは、巫女が神憑りして降す神託を通訳する者のことです。卑弥呼の行なう鬼道に於いても同じような光景が見られたはずですが、倭人伝には『王と為りて自り見る有る者少なし」とありますからそれを見た者はいないでしょう。
神功皇后紀に「是に、審神者の曰さく《今答えたまわずして更に後に言ふこと有(ま)しますや》」とあります。これは神功皇后が神に質問しているのではなく、サニハである中臣烏賊津使主が巫女である神功皇后を介して神に質問しています。巫女を介して神と人を結び付けるのがサニハです。
近時の例としては大本教教祖の出口なおと娘婿の出口王仁三郎が巫女とサニハの関係にあることが知られています。孝謙天皇は巫女ではないし道鏡も僧侶であってサニハではありませんが、孝謙天皇は巫女的な性格だったようで、その関係は巫女とサニハの関係に似ているようです。
サニハには巫女と交感する特殊な能力があり、巫女と同様にサニハもきびしい修行をしました。巫女の下す神の託宣はサニハ以外には意味が理解できず、それは巫女自身にも理解できません。それを通訳するのがサニハですが、サニハの解釈次第で託宣の意味が全く違ってきます。
卑弥呼は巫女であると同時に女王ですから、卑弥呼の下す託宣は政治的な意味を持ちます。それだけに卑弥呼の元でサニハを勤める者の立場は極めて重要でした。 倭人伝にそのような人物が見られます。
卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしていましたが、卑弥呼は巫女ですから辞とは神の託宣ということになります。この男子がサニハだと考えることができます。この男子は中臣烏賊津使主、竹内宿禰に当たるような役割を一人で果たし、さらには飲食の給仕までしていたと考えられます。
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