2012年2月12日日曜日

倭面土国を考える その6

西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいたものだと言えそうですが、ここで放射行程説を考えてみる必要がありそうです。

『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとし、大和が邪馬台国だと思わせようとしていますが、これは直線行程になります。おそらく西嶋氏は邪馬台国=九州説であり放射行程説を採っておられると思います。

放射行程については榎一雄氏の伊都国を起点とする説が知られていますが、伊都国は女王国内でも特殊な国であることが考えられ、末盧国までは方位・距離・国名の順になっているのに対し、伊都国以後は方位・国名・距離の順になっているというものです。

これに対し高橋善太郎氏は榎氏の説について、伊都国の特殊性に着目したに過ぎないと批評し末盧国を起点とする説を提唱しています。(『愛知大学文学部論集』、昭和43年、44年)高橋氏の説は合理性があり適切だと考えています。


高橋氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には「又」「次」「乃」など行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用するなど、何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。

高橋氏の指摘のように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表しているし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴て」「海岸に環い」「乍南し、乍南し」の文が見られます。

対海国の文には「始めて一海を度る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも又一海を渡る」とありますが、伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。 

高橋氏はこれを「末盧からの四至になるとさえも考えられる」としていますが、四至とは放射行程のことです。いずれにしても伊都国・末盧国のあたりで地理記事に変化が起きていることは確かです。

帯方郡から末盧国(佐賀県東松浦半島)までは一万里だとされ、残りの2千里が末盧国から邪馬台国までの距離だとされていますが、通説では狗邪韓国は金海・釜山とされ、その距離が七千余里だとされています。しかし狗弥韓国の七千余里は辰韓と馬韓の国境までの距離のようです。

対馬国(対馬南島)の寄港地も厳原ではなく浅茅湾のようです。そうであれば万二千里の終点は末盧国の海岸になり、「従郡至倭」の行程も末盧国で終わことになります。(2011年11月投稿「再考 従郡至倭の行程」)

高橋氏が末盧国と伊都国の間で地理記事に変化が生じているとするのは、末盧国までが「従郡至倭」の行程であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国になることによります。図の左が私の考える放射行程ですが、末盧国と伊都国の中間に面土国があり、面土国が放射の起点になっていると考えています。

末盧国=東松浦半島、伊都国=糸島市付近とする限り、地理的な現実の問題として末盧国・伊都国を起点とする放射行程は成立しません。西嶋氏が帥升を伊都国王とすることについて「文献的に確認された事実ではない」とされている遠因に、こうした点もあると推察しています。

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