2012年3月25日日曜日

日向神話の構成 その2

『粱書』『北史』に「複立卑弥呼宗女・臺與為王。其後複立男王。竝受中国爵命」とありますが、台与の後にも男王が並び立ち中国の爵命を受けたというのです。「竝」には2人が横に並ぶということで「並び立つ」という意味があり、この文によると台与が女王だった3世紀後半に2人の王がいたことになります。

台与が即位して間もなく面土国王は卑弥呼死後の争乱の当事者として処罰され失脚するようです。王が2人居れば王位を巡る対立が起きるものですが、面土国王が排除されたことで台与は有名無実の王になり男王が立てられたようです。これが「天孫降臨」の神話になりますが、台与の後に男王が立ったこと自体がほとんど考えられていません。

図は倭人伝中の人物と高天ヶ原神話に登場してくる神を対比させたもので()内が倭人伝中の人物です。『日本書記』神功皇后紀は卑弥呼・台与を神功皇后だとしていますが、安本美典氏は卑弥呼を天照大神とし、台与を万幡豊秋津師比売とされています。

その名に「トヨ」の音が含まれていることやその系譜をみると、安本氏の言われるように万幡豊秋津師比売が台与の可能性がありますが、私は天照大神の別名のオオヒルメムチ(大日孁貴、卑弥呼)と『日本書記』第一の一書に見えるワカヒルメ(稚日女、台与)を合成したものが天照大神だと考えています。

白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男・素戔鳴)を狗奴国の男王だとしていますが、これは面土国の存在が考えられていないことによるものであり、スサノオは面土国王であり宗像氏のはるかな遠祖です。

天照大神とスサノオの誓約(ウケヒ)で生まれたオシホミミ(忍穂耳・忍骨)は、葦原中国に降るために「天の浮橋」まで来て引き返しますが、これは卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱になったことが語られているようで、オシホミミは弥呼死後の男王だと考えてよさそうです。

台与は卑弥呼死後の争乱を決着させるために、13歳で即位した名目だけの女王でしたが、倭人伝の記述が終わる正始8年(247)から間もないころに、争乱の当事者だった面土国王(スサノオ)が排除されたことにより、女王の存在理由がなくなります。そこで台与を退位させ男王を立てることが考えられたと思います。

この男王がホノニニギですが、私はこの男王も名目だけの王で、その背後にキングメーカー(陰の実力者)が居て、2人の王を操っていると考えています。そのキングメーカーこそ倭人伝の大倭であり、それが神話のタカミムスヒ(高皇産霊、高御産巣日、高木神)だと考えます。

倭人伝中でその名が最も多く見えるのは7回の難升米ですが、難升米は魏から「率善中朗将」に任ぜられ、245年には黄幢・詔書を授与されています。大倭を補佐して台与の退位と台与の後の男王の擁立を画策したのは難升米のようで、それは神話のオモイカネ(思金、思兼)だと考えています。(2011年1~2月投稿)

其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初 遣使重譯入貢

其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す

文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるが、その後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初め(泰始2年、266)にも倭人が遣使したというのです。

『日本書記』神功皇后紀は、泰始の初めの遣使は台与が行ったとしていますが、『晋書』武帝紀によると司馬昭が相だった258年~265年の7年間か、或いはそれ以前にも何度かの倭人の遣使があったことになり、その中に台与の後の男王(ホノニニギ)が中国の爵命を受けるための遣使があったとすることができます。

2012年3月18日日曜日

日向神話の構成 その1

新井白石・本居宣長以来続いている邪馬台国論争は決着する気配がありませんが、これは『古事記』や『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることに始まる「ボタンの掛け違い」でしょう。最初のボタン穴を間違えると最後まで喰い違ってしまいますが、面土国の存在を認めない限り、この状態は永遠に続くと思います。

このことは邪馬台国の位置論だけでなく神話にも関係してきます。白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で卑弥呼を天照大神としスサノオは狗奴国の男王だとしていますが、スサノオは宗像郡と深い関係がある一方で出雲の山間部でも活発に活動することになっています。

邪馬台国=九州説では一般に狗奴国は肥後とされますが、スサノオが狗奴国の男王なら出雲に狗奴国、あるいは肥後との関係を思わせるものがあるはずですがそれがまったく見られません。スサノオは狗奴国の男王ではなく面土国王であり、面土国は宗像郡なのです。

宗像郡にはスサノオの所持する剣から生まれたとされている宗像三女神を祭神とする宗像大社があり、4世紀になると朝鮮半島と大和朝廷の関係を思わせる沖ノ島祭祀遺跡が出現してきますが、平成20年には弥生中期の田熊石畑遺跡で全国最多の銅剣・銅矛・銅戈15点が出土しました。宗像には面土国とするにふさわしい歴史があります。

図は出土した弥生時代人骨の形質を地域別に区分したものですが、赤色の実線は地学上の臼杵―八代構造線(九州山地)です。構造線は九州の南北の交通を分断しており、南北で文化の違いが見られます。

青銅祭器は通婚することにより巨大化した部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、臼杵―八代構造線の北側には多数の青銅祭器が見られるのに南側には殆ど見られず、肥前でも東半には見られるのに西半には見られません。

出土した弥生人骨の形質別分布という点からみると、佐賀県の中央部で東の北部九州・山口タイプと、西の西北九州タイプに分かれています。その特徴をみると北部九州・山口タイプは、身長が高く長頭で顔つきはのっぺりとしており、朝鮮半島からの渡来民が流入したことが考えられています。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ考え方があります。

南西諸島と薩摩半島には南九州・南西諸島タイプがみられ、西北九州タイプと南九州・南西諸島タイプは、身長が低く短頭で、目鼻立ちがはっきりしていますが、西北九州と南九州・西南諸島には渡来民の流入がなく縄文時代以来の形質が残ったと考えられていて、これを「縄文系弥生人」と呼んでいます。西北九州と南九州・南西諸島との間にも差異があるそうです。

紀元前1世紀に中国と交渉を持った倭人の百余国は、中国・朝鮮半島製の青銅器を受け入れ、それを祭器に発展させた渡来系弥生人の形成する国であり、それが30ほどに統合されたものが後の女王国なのでしょう。それは臼杵―八代構造線以北であり、壱岐・対馬や松浦半島・糸島郡などの玄界灘・響灘沿岸が中心になっていたと考えます。

それには図に示されているように周防・長門(山口県)の響灘沿岸が含まれる可能性があります。周防灘と響灘の境に位置している宗像市田熊石畑遺で出土した銅剣・銅矛・銅戈15点は全国最多ですが、百余国と響灘沿岸の宗像、および周防・長門の関係を考える上で重要な意味を持っているように思います。

狗奴国は後世に熊襲と呼ばれるようになる西北九州の縄文系弥生人が形成する国で、後に律令制の肥後と肥前の西半分になるようです。肥前の東半は渡来系弥生人と融合し女王国に属していたと考えます。侏儒国は隼人と呼ばれるようになる南九州・西南諸島の縄文系弥生人の形成する国で、薩摩・大隅・日向になると考えています。

卑弥呼は天照大神であり、その卑弥呼を共立したのは面土国王(スサノオ)博多湾沿岸の海人族(イザナギ)だと考えますが、博多湾沿岸にはイザナギに関係する福岡市の住吉神社や志賀島の志賀海神社があり、また福岡平野には須玖岡本遺跡などが、早良平野には吉武高木遺跡などがあります。

イザナギ・イザナミや天照大神・スサノオの神話、つまり高天ヶ原神話は博多湾を中心とする玄界灘・響灘沿岸で起きた、実際にあった渡来系弥生人の歴史であり、それに対しホノニニギの天孫降臨以後の日向神話は、渡来系弥生人の女王国が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の熊襲・隼人の国である狗奴国・侏儒国を統合したことが語られているようです。

2012年3月11日日曜日

倭面土国を考える その10

通説では王莽の新の時代に鋳造された「貨泉」の流通が停止され、五銖銭が復活した40年ころが中期と後期の境とされていますが、私は貨泉の鋳造が始まった7年ころを中期中葉とし、後漢第四代の和帝が在位した88~105年ころを後期の初めとするのがよいと思っています。

こうすると面土国王の帥升が遣使した107年は後期の初頭になり、倭国大乱以後の3世紀を後期後半とすることができ、後期は部族連盟国家の倭国(後の女王国)の時代であり、3世紀後半に弥生時代が終わると考えることができます。『後漢書』倭伝に次のように記されています。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見

建武中元二年は57年ですが、その前年に後漢の光武帝が功績のあった皇帝(王)だけが行うことのできる「封禅の儀」を挙行しています。57年の遣使は「奉貢朝賀」とされていますから、奴国王が封禅の儀の挙行を祝う使者を送ったのに対し、光武帝は印綬を授与したのでしょう。

107年の面土国王帥升の遣使については「願請見」とあるだけで印綬が授与されたという記述がなく、帥升は倭王に冊封されていないという考え方がありますが、『後漢書』が帥升を倭国王としていることは冊封されて印綬も授与されたということでしょう。

2世紀の中国は幼帝の即位が続いて外戚・宦官が跋扈し、後漢王朝は次第に衰退していきますが、それに連動して倭国でも部族の対立が激化したようで、その結果が中広形の銅矛と銅戈の出土数に表れていると考えます。

中広形銅戈の出土数は銅矛を凌駕しますが、銅戈が多いのは奴国王に代わって面土国王が倭国を統治するようになることを示しているのでしょう。それが広形になると銅戈は3本ほどに激減し銅矛のみが目立つようになりますが、これは面土国王が卑弥呼を共立して倭王位を譲ったために、銅戈を配布した部族が衰退したことを表わしています。

部族が神格化されて神話の神になりますが、その歴史を語り伝えたものが神話です。図は私の考えている神話の神が活動する場所ですが、このことは2011年5月、6月に投稿した「高天が原神話」で述べていますので参照してみてください。

イザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものであると同時に、銅矛を配布した部族に属していた安曇・住吉など博多湾沿岸の海人族でもあり、それに対しイザナミは銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王のようです。

イザナミは火の神カグツチを生んだために焼死し、出雲に葬られていることになっていますが、カグツチについては阿蘇山とその周辺、つまり狗奴国の部族だと考えています..

奴国王は部族国家の奴国の王であって倭王ではなく、狗奴国を統治する権限が無かったのでしょう。中期後半(1世紀)の中広形青銅祭器を見ると、九州には銅剣が殆ど見られなくなり、出雲に中細銅剣C類が、また瀬戸内に平型銅剣が現れますが、これが焼死したイザナミが出雲に葬られる神話になっているようです。

奴国王に代わって倭国を統治するようになるのが帥升ですが、帥升は部族国家の面土国の王でした。しかし奴国王と違って後漢王朝から倭国王に冊封されことにより、部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王になるようです。これが神話のスサノオです。

倭国大乱で卑弥呼(天照大神)を共立したのは面土国王(スサノオ)と、博多湾沿岸の海人族(イザナギ)、すなわち銅戈を配布した部族と銅矛を配布した部族です。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持しており、「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に支配し、女王の行う外交々渉を捜露するようになります。

以前の投稿では触れていませんが、図ではホノニニギ(番能邇邇芸・火瓊瓊杵)の活動する場所を、通説で伊都国とされている糸島郡としています。いささか突飛な発想ですが最近気になっていて、このことについて述べてみたいものだと思っています。

2012年3月4日日曜日

倭面土国を考える その9

西嶋定生氏は倭面土国を古墳時代のヤマト国のことだとされているようですが、弥生時代が「部族制社会」であるのに対して古墳時代は「氏姓制社会」であり、更には「律令制社会」に変るという変遷が考えられていないように思います。

私は倭人が中国の冊封体制に組み込まれる紀元前1世紀以前には、律令制の郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、3世紀にはそれが統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になると考えています。(1910年8月投稿「部族 その4」)

「倭面土国王帥升等」の「等」は複数の倭人が遣使したことを表わすと考えられていますが、「等」は帥升が部族国家の面土国の王に過ぎないことを表わしており、『後漢書』などが帥升を倭国王とするのは帥升が部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王でもあるということでしょう

通説では奴国は福岡平野とされていますが、遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、それが統合されて戸数2万の奴国になると考えます。


同様に筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半にある10郡(10国)ほどが統合されて、戸数7万の邪馬台国が形成されたと考え、また筑後の7郡(7国)ほどが統合されて戸数5万の投馬国が形成されたと考えています。

奴・ 邪馬台・投馬の3国は20ほどの部族国家の統合された部族連盟国家だが、女王国は更に大きな部族連盟国家で、この3国は部族国家と女王国の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。

筑前を三郡山地で東西に2分した時の東半には面土国(宗像郡)と不弥国(遠賀郡)もあって、五つの部族国家が存在したと考えていますが、これに対馬国・一支国、および国名のみの21ヶ国を加えると約55ヶ国になりそうです。

55ほどの部族国家は筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の佐賀県部分にあったと考えていますが、図に示しているようにそれが30国に統合されたものが女王国だと考えます。(2010年4月投稿「再考 国名のみの21ヶ国」)

紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置しますが、後に4郡は楽浪郡を残して廃止されます。残された楽浪郡は朝鮮半島経営の拠点になり、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます。

冊封体制では支配権の強弱に応じて授与される称号が異なり、支配地が広いことや支配する人民の多いことが高位の称号を得るための条件になります。そのため部族が形勢する部族国家は統合され、規模の大きな部族連盟国家を形成するようです。

倭人伝に「旧百余国、漢の時に朝見する者有り。今使譯の通じる所三十国」とありますが、中国の冊封体制に組み込まれたことにより、紀元前1世紀の百余国が1世紀には55国ほどに統合され、2世紀~3世紀にはさらに統合が進んで三十になると考えます。

帥升が倭面土国王とされるのは、57年の奴国王と同様に55ほどの部族国家のうちの一国の王という意味であり、倭国王とされるのは30ほどに統合された部族連盟国家の王という意味だと考えています。

換言すると面土国王の帥升が後漢から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国が誕生したと言えると思います。これが弥生時代中期から後期への転換点であり、青銅祭器が中細形から中広形に変わる原因になっていると考えます。