2009年9月19日土曜日

須佐之男命 その1

白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男命・素戔嗚尊)を狗奴国の男王としていますが、前に述べたように狗奴国は肥後であり、肥後とスサノオには全く関係がありません。その点では宗像大社の祭神の三女神がスサノオの所持する剣から生まれたとされていて、宗像と深い関係があります。

高天が原を追放されたスサノオは出雲に下り、ヤマタノオロチを退治するなど大活躍しますが、肥後と出雲には何等の関係も見られません。その点においても宗像と出雲には密接な関係が見られます。筑紫神話のスサノオは宗像と関係がある考えてよいでしょう。倭人伝の記事の多くは宗像での見聞ですが、宗像は面土国であり素戔嗚尊は面土国王なのです。

後漢王朝は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期を迎えますが、4代和帝の治世からふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになり、彼らの専横によって後漢王朝は統治能力を失います。184年に黄巾の乱が起きた時には、もはや反乱を鎮圧するだけの軍事力はありませんでした。

220年、14代献帝は曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ漢王朝は滅亡し、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代に入っていきます。島国の倭国もこうした中国の動きと無関係ではいられません。面土国王が倭王として君臨したのは4代和帝の死の直後から、黄巾の乱が起きた184年頃までの7~80年間でした。

後漢末の中国の混乱が倭国にも波及してきて大乱が起き卑弥呼が共立されますが、大乱の一方の当事者が面土国王で、これが神話のスサノオです。卑弥呼を共立した面土国王は「自女王国以北」、つまり遠賀川流域を、あたかも中国の州刺史の如くに支配するようになります。

その初代の王が107年に後漢に遣使した帥升ですが、帥升の北京官話音は shuai-shengです。『後漢書』には帥升が師升と記されていますが、この場合にはshuo-shengになります。一方、須佐hsu-tsuoであり、素戔はsu-chienとなります。帥升(師升)の音と須佐(素戔)は非常によく似ていますが、須佐、あるいは素戔とは帥升(師升)のことなのです。

『日本書紀』の「嗚=u」、『古事記』の「之男=no―o」とは「緒=o」のことで、細くて長い高まりが「緒」で、これが「鼻緒」「尾根」などの語源になっています。「緒」には「はじめ・おこり・いとぐち・すぢ」という意味もあります。ホノニニギの天孫降臨に随伴する五柱の神を「五伴緒(いつのとものお)」とする使用例がありますが、ニニギを基点にしてそれに連なる者が五伴緒です。

「緒」は血筋や系譜が連なっていることを表し、素戔嗚(須佐之男)とは帥升の子孫、あるいは系譜が連なっている者のことをいいます。スサは固有名詞ですがスサノヲはスサの複数形です。卑弥呼が王になる以前の七、八〇年間の男王はすべてスサノヲ(帥升の緒)であり、倭人伝の刺史の如き者は、天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノヲです。

「帥升の緒」は宗像だけではなく、出雲や大阪湾沿岸・紀伊半島にも居ました。私は面土国王は銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になったと考えていますが、大阪湾沿岸の「帥升の緒」は大阪湾形と呼ばれている銅戈を配布しています。紀伊のスサノオは大阪湾形銅戈を祀っていた部でしよう。

スサノオが面土国王であるのなら宗像郡にスサノオを祀る神社があってもよさそうなものですが、スサノオ自身ではなくスサノオの物実(ものざね)である剣から生まれたとされる3女神が祀られています。このことは天照大神も同様で、大和朝廷が成立したことにより祭祀の中心が東方に移動したことによるようです。

宗像3女神は天照大神が生んだとされていますが、これには後に述べる魏・蜀の正閠論が絡んでくるようです。概略を言うと卑弥呼と面土国王のどちらが倭王として正統かということですが、宗像の「帥升の緒」は天照大神との関係が強調されているようです

スサノオを祀る神社として出雲では出雲市の須佐神社や松江市の八重垣神社・熊野大社が知られており、また紀伊では熊野本宮大社でもスサノオが祀られています。 それに重なるようにイザナミとオオクニヌシを祭る神社があり、その伝承があることに注意する必要がありそうです。

出雲の熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名とし、紀伊の熊野本宮大社では家都美御子大神がスサノオとされています。

白鳥庫吉・津田左右吉の師弟間に論争がありましたが、白鳥は津田を説得できませんでした。それは白鳥が三世紀に面土国が存在したこと、素戔嗚尊が面土国王であることに気づいていないこと原因があります。もしも白鳥庫吉がその存在に気づいていたら津田左右吉を説得できたでしょうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかったでしょう

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