2012年3月11日日曜日

倭面土国を考える その10

通説では王莽の新の時代に鋳造された「貨泉」の流通が停止され、五銖銭が復活した40年ころが中期と後期の境とされていますが、私は貨泉の鋳造が始まった7年ころを中期中葉とし、後漢第四代の和帝が在位した88~105年ころを後期の初めとするのがよいと思っています。

こうすると面土国王の帥升が遣使した107年は後期の初頭になり、倭国大乱以後の3世紀を後期後半とすることができ、後期は部族連盟国家の倭国(後の女王国)の時代であり、3世紀後半に弥生時代が終わると考えることができます。『後漢書』倭伝に次のように記されています。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見

建武中元二年は57年ですが、その前年に後漢の光武帝が功績のあった皇帝(王)だけが行うことのできる「封禅の儀」を挙行しています。57年の遣使は「奉貢朝賀」とされていますから、奴国王が封禅の儀の挙行を祝う使者を送ったのに対し、光武帝は印綬を授与したのでしょう。

107年の面土国王帥升の遣使については「願請見」とあるだけで印綬が授与されたという記述がなく、帥升は倭王に冊封されていないという考え方がありますが、『後漢書』が帥升を倭国王としていることは冊封されて印綬も授与されたということでしょう。

2世紀の中国は幼帝の即位が続いて外戚・宦官が跋扈し、後漢王朝は次第に衰退していきますが、それに連動して倭国でも部族の対立が激化したようで、その結果が中広形の銅矛と銅戈の出土数に表れていると考えます。

中広形銅戈の出土数は銅矛を凌駕しますが、銅戈が多いのは奴国王に代わって面土国王が倭国を統治するようになることを示しているのでしょう。それが広形になると銅戈は3本ほどに激減し銅矛のみが目立つようになりますが、これは面土国王が卑弥呼を共立して倭王位を譲ったために、銅戈を配布した部族が衰退したことを表わしています。

部族が神格化されて神話の神になりますが、その歴史を語り伝えたものが神話です。図は私の考えている神話の神が活動する場所ですが、このことは2011年5月、6月に投稿した「高天が原神話」で述べていますので参照してみてください。

イザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものであると同時に、銅矛を配布した部族に属していた安曇・住吉など博多湾沿岸の海人族でもあり、それに対しイザナミは銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王のようです。

イザナミは火の神カグツチを生んだために焼死し、出雲に葬られていることになっていますが、カグツチについては阿蘇山とその周辺、つまり狗奴国の部族だと考えています..

奴国王は部族国家の奴国の王であって倭王ではなく、狗奴国を統治する権限が無かったのでしょう。中期後半(1世紀)の中広形青銅祭器を見ると、九州には銅剣が殆ど見られなくなり、出雲に中細銅剣C類が、また瀬戸内に平型銅剣が現れますが、これが焼死したイザナミが出雲に葬られる神話になっているようです。

奴国王に代わって倭国を統治するようになるのが帥升ですが、帥升は部族国家の面土国の王でした。しかし奴国王と違って後漢王朝から倭国王に冊封されことにより、部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王になるようです。これが神話のスサノオです。

倭国大乱で卑弥呼(天照大神)を共立したのは面土国王(スサノオ)と、博多湾沿岸の海人族(イザナギ)、すなわち銅戈を配布した部族と銅矛を配布した部族です。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持しており、「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に支配し、女王の行う外交々渉を捜露するようになります。

以前の投稿では触れていませんが、図ではホノニニギ(番能邇邇芸・火瓊瓊杵)の活動する場所を、通説で伊都国とされている糸島郡としています。いささか突飛な発想ですが最近気になっていて、このことについて述べてみたいものだと思っています。

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