2011年12月25日日曜日

神功皇后伝承を巡って その4

2011年2月投稿の「台予の後の王その4」では遠賀川流域に物部氏の故地と考えられるものがあり、遠賀川流域が奴国であることから物部氏の遠祖は奴国王ではないかと述べました。そして前回の投稿では応神天皇は奴国王の末裔ではないかとも述べました。

仲哀天皇の熊襲討伐については『日本書記』仲哀天皇紀八年条に関門海峡・洞海湾・遠賀川河口部を舞台とする、岡県主の祖の熊鰐や、伊覩県主の祖の五十迹手の物語が見えますが、岡県は遠賀郡であり倭人伝の不弥国だと考えています。また伊覩県は糸島郡ではなく田川郡だと考えます。

前回の投稿では嘉穂郡頴田村(現飯塚市鹿毛馬)、あるいは鞍手郡香井田村(宮若市東部、糸田町)と遠賀川の水運の関係について述べましたが、遠賀川の河口部が岡県です。また遠賀川と洞海湾は水路で繋がっていたとも言われています。

熊鰐や五十迹手は仲哀天皇に対して恭順の意を表していますが、これは反面では水門(みなと、遠賀川河口部)の神である大倉主や菟夫羅媛のような、仲哀天皇を筑前に入らせまいとする勢力が存在したということでもあろうと思います。

岡津から儺県の橿日宮(福岡市香椎)に入った仲哀天皇は熊襲を討伐しようとしますが、神功皇后の降した神示は「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや」というものでした。

私はこの熊襲を肥の国(肥前・肥後)の住民という意味ではなく、仲哀天皇を筑前に入らせまいとする勢力だと考えます。皇后の降した神示はこの熊襲は討伐するに足りないから、それよりも新羅を得るようにというものです。

天皇はこれを信じず熊襲討伐を強行しますが、勝つことができませんでした。天皇は神罰を受けて早死にしたとも、熊襲の矢を受けて死んだともされています。仲哀天皇が筑前に入ったのは朝廷の支配を受けまいとする勢力を一掃するためであって、新羅を得ることとは別問題だったと考えます。

私は律令制の宗像郡を面土国とし、鞍手・嘉麻・穂波・の3郡を奴国とし、田河郡を伊都国とするのがよいと考えますが、図の太い赤線が私の考える伊都国への「東南陸行五百里」の行程です。

赤線上の白い二重丸は吉田東吾編『大日本地名辞書』西国編などによる物部氏の故地ですが、これらは筑紫君磐井の乱以前からあったと考えられているものです。

その中に前回に述べた私が応神天皇の生れた「筑紫の蚊田」だと考えている「粥田の庄」や鞍手郡香井田村、あるいは嘉穂郡頴田村に関係すると思われるものがあります。

筑紫弦田物部 鞍手郡香井田村鶴田  宮若市鶴田
狭竹物部    鞍手郡粥田郷小竹    鞍手郡小竹町小竹
二田物部    鞍手郡二田           鞍手郡小竹町新多
芹田物部    鞍手郡芹田           宮若市芹田
十市物部    鞍手郡都市           宮若市都市

前回に述べた応神天皇の生れた「筑紫の蚊田」が旧嘉穂郡頴田村(飯塚市鹿毛馬)、あるいは鞍手郡香井田村(宮若市東部)であれば、倭人伝の伊都国への「東南陸行五百里」の行程と物部氏の故地、及び応神天皇の生れた場所が重なってきます。

嘉穂郡頴田村、現在の飯塚市鹿毛馬には物部氏の故地と思われるものはありませんが、私にはこれが偶然の一致のようには思えません。応神天皇が奴国王の末裔かどうかは別にしても、即位するについては物部氏が関係しているよう思われます。

欽明・敏達・用明朝に物部・中臣氏は仏教の受容を巡って蘇我氏と対立しますが、応神天皇が即位するについても物部・中臣氏など天神系氏族と蘇我氏など武内宿禰系氏族の対立がすでに始まっていたと考えるのがよさそうです。

武内宿禰系氏族に擁立されていた仲衷天皇は、天神系氏族を支持する筑紫(筑前・筑後)の勢力(熊襲)を平定しようとしたのでしょう。仲衷天皇が筑紫で崩御したので、物部・中臣氏などの天神系氏族は、武内宿禰系氏族にも天神系氏族にも関係がなく、奴国王の末裔でもある応神天皇を迎えようとしたことが考えられます。

2011年12月18日日曜日

神功皇后伝承を巡って その3

仲衷天皇は神功皇后の降した朝鮮半島を得るように、という神示に従わず熊襲討伐を強行したので神罰を受けて早死にしたとも、あるいは熊襲の矢を受けて死んだともされています。熊襲は朝廷の政策を批判する人々なのでしょう。

『日本書記』神功皇后紀三十九年条は、魏の景初3年(239)に卑弥呼が大夫の難斗(升)米を帯方郡に遣わした『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていますが、神功皇后三十九年は大歳干支の己末とされ、その実年代は2運(120年)新しい360年ころであり、神功皇后が死んだとされる六十九年は390年ころだと考えられています。

広開土王碑文には391年に倭人が百済・新羅を臣民にしたとありますから、360~390年ころに朝鮮との関係が問題になっていたことは考えられてもよいことです。九州には朝廷が朝鮮半島に関与するのを批判する人々がいたと思われますが、その中には朝鮮半島からの渡来民と、その子孫がいたことが考えられます。

景行~仁徳の5朝に活動するのは紀・蘇我・巨勢・平郡・葛城など大和とその周辺を出自とする豪族が共通の祖としている武内宿禰(たけしうちのすくね)で、九州を出自の地とする伝承を持ち「天神」に類別される物部・中臣氏などは活動していません。

後の欽明・敏達・用明朝に蘇我氏と物部・中臣氏は仏教の受容を巡って対立しますが、武内宿禰が活動する裏では武内宿禰系氏族と、天神系氏族の間の対立がすでに始まっていたと考えるのがよさそうです。

『古事記』「日本書記」では朝廷の朝鮮半島政策を批判する人々がいたこと、及び武内宿禰系氏族と天神系氏族の間の対立があったために仲衷天皇は殺され、これとは無関係で継体天皇と関係のある神功皇后を仲介にして、やはり関係のない応神天皇が即位したことになっているようです。

『神功皇后摂政前紀』仲哀天皇9年条は応神天皇の誕生の地を宇美(糟屋郡宇美町)としていますが、応神天皇紀には「筑紫の蚊田に生れませり」とあります。蚊田については谷川士清の「日本書記通証」などは筑後国御井郡賀駄郷(小郡市平方)とし、鈴木重胤は筑前国怡土郡長野村蚊田(糸島市長野)としています。

私は「筑紫の蚊田」を嘉麻郡頴田村(飯塚市鹿毛馬)とするのがよいと思っています。頴田という地名は高野山金剛三昧院の荘園だった「粥田の庄」に由来するとされています。

昭和2年に鞍手郡香井田村(宮若市東部)が宮田町に編入されますが、この香井田も粥田の庄に関係があると言われています。

粥田の庄について正応三年(1290)の高野山金剛三昧院文書に次のようにあります。遠賀川の下流は現在の直方付近まで大型船が遡上できたのでしょう。

下 西海道関渡沙汰人
 早く高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人並びに運送船を勘過せしむべき事。右、関々津々、更にその煩いを致すべからず。勘過せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って下知件 の 如 し

鎌倉幕府は粥田の庄を通過する人や船が停滞しないよう配慮せよと命じたようです。当時、元(蒙古)の再度の来襲が噂され、鎌倉幕府はその対応に追われていたようです。「粥田庄上下諸人並びに運送船」とあることから見て、遠賀川を上り下りする水運が停滞すると対応が遅れることが考えられたのでしょう。

粥田の庄はそれだけの価値を持つ地だったようですが、私は伊都国の「陸行五百里」は宗像郡の東郷・土穴から嘉麻・田河郡境の烏尾峠までの距離だと考えています。烏尾峠は頴田と田河郡糸田の境になりますが、大宰府と草野津(行橋市草野)を結ぶ律令制官道の田河道も烏尾峠を越えています。

頴田には鹿毛馬神護石築かれています。私も当初、鹿毛馬神護石の存在理由が分りませんでしたが、地理的に見て響灘と周防灘を結ぶ要所で、九州東北部の中心といえる場所であることを考えるとその理由が分ってきます。

奴国は福岡平野ではなく鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えますが、頴田・香井田は嘉麻郡・鞍手郡に属します。「筑紫の蚊田」が頴田・香井田であれば、応神天皇は57年に遣使した奴国王の末裔であることが考えられるようになってきます。

2011年12月11日日曜日

神功皇后伝承を巡って その2

九州王朝が存在したとする説がありますが、応神天皇や天智天皇の周辺に皇位継承を巡る何らかの問題があり、それを朝鮮半島と大和の朝廷の関係に結び付けると、九州と大和に別個の王朝があったことになるとゆうものだと理解しています。

それには大和朝廷の成立から大化の改新にかけての統治制度が氏姓制だったことが関係していると考えますが、弥生時代は宗族長層が通婚することで、女系(母系)血縁集団である部族を形成する「部族制社会」だったと考えています。

紀元前一世紀には倭人も楽浪郡を介して中国の冊封体制に組み込まれます。冊封体制は有力な氏族長に官位を授け統治を委任するもので、部族連盟国家の首長が中国の王朝から王の官位を与えられると、ここで初めて部族の首長は王になります。

この部族連盟国家が270年ころ統合されて大和朝廷が成立すると考えますが、その統治制度が氏姓制(うじかばねせい)です。氏姓制の大和朝廷は豪族の連合政権で、その統治も氏族の族長の合意によるものだったと考えます。

氏姓制下の天皇は大王・大君と呼ばれていますが、中央集権制の天皇と異なり弥生時代の王や氏姓制の君(きみ)の最高位のものといった位置づけだったのでしょう。

氏姓制では氏族長は土地・人民を私有することが認められ、姓が与えられて朝廷の統治を分担しましたが、律令制になると律令が整備されて姓は廃止され、氏族長の土地・人民の私有は認められなくなり(公地公民)、氏族は貴族や官僚を出すための組織になります。

律令が整備されたことによって天皇の統治権が確立しますが、氏姓制から律令制に変わるきっかけになったのは氏姓制の頂点にいた蘇我蝦夷・入鹿父子が排除された「乙巳の変」です。この事件をきっかけにして翌大化2年(646)に「大化の改新」の詔勅が出され天皇と豪族の支配・被支配の関係が明確になってきます。

しかしに改革が一朝一夕に成るということはなく「大化の改新」の時期を持統天皇の時代までとする考え方もあります。時代が降るに従って天皇の権力が強まってきますが、その初期はどのような状況だったのでしょうか。

図は三世紀に製作された青銅祭器の分布で、九州北部から四国西部にかけて広形の銅矛・銅戈が分布し、近畿・東海・四国西部に銅鐸が分布しています。

中国・四国北部では中広形の段階まで銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸が分布していますが、この時期になると製作されなくなります。そして3世紀の後半にはすべての青銅祭器が埋納され古墳が築造されるようになります。

3世紀後半に大和朝廷が成立して「部族制社会」が終わり「氏姓制社会」に移行すると考えますが、「欠史八代」といわれる時期の朝廷の実質的な支配が及んだのは、銅鐸分布圏の内でも大和とその周辺だけだったでしょう。

祟神天皇紀に北陸・東海・吉備・丹波に「四道将軍」が派遣されたことが記されていますが、祟神天皇のころになると図の銅鐸分布圏が朝廷の実質的支配下に入ったと考えればよいと思います。

次の垂仁天皇紀では物部十千根を出雲に派遣して「出雲の神宝」を検校させたことが見えますが、これは出雲の祭祀権、つまり統治権を得たと言うことで、図の武器形祭器と銅鐸が混在している中国・四国が支配下に入ったと考えるとよいようです。

そして次の景行天皇は日向を拠点として熊襲の討伐を行いますが、これは広形の銅矛・銅戈の分布圏が朝廷の実質的支配下に入ったと考えればよいと思います。この景行天皇の熊襲討伐は豊前・豊後・日向・大隅・肥後・筑後に及んでいますが、それは筑後の浮羽郡で終わっており、筑前に入った形跡がありません。

筑前に入ったのは次の仲衷天皇と神功皇后です。仲衷天皇は神功皇后の降した神示に従わず熊襲討伐を強行したので神罰を受けて死んだとも、熊襲の矢を受けて死んだともされています。この熊襲とは何なのかが問題になりそうです。

2011年12月4日日曜日

神功皇后伝承を巡って その1

狗邪韓国が金海・釜山でないことを述べてきましたが、これも『日本書記』神功皇后紀の編纂者が創作したもののようです。このように九州の古代史を探求していると必ず神功皇后に出くわし、そこで思考が止まってしまいます。

『日本書記』神功皇后紀の編纂者たちは天照大神が卑弥呼・台与であり、高天が原が邪馬台国であることを知っており、神功皇后を卑弥呼・台与とすることで高天が原は天空の彼方に存在するとし、九州から天照大神の痕跡を消したようです。

斉明天皇は661年に朝鮮半島に出兵しますが、この出兵は白村江の戦い大敗し、唐・新羅の侵攻を恐れた天智天皇は、玄界灘沿岸や瀬戸内海沿岸に水城・山城などの防衛施設を設けています。動員された九州や西国の地方豪族の間に、一連の施策を批判する声があったことが考えられています。

天智天皇死後の672年に大海人皇子(天武天皇)と大友皇子の皇位継承に起因する壬申の乱が起きていますが、筑紫師(筑紫太宰)の栗隈王や吉備が、大友皇子を推す近江朝廷軍の参戦要請に応じなかったのはそのためだとも言われています。

天照大神が卑弥呼・台与であることを知っている神功皇后紀の編纂者は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせることによって、壬申の乱、あるいは斉明天皇の朝鮮出兵は天照大神の意志でもあり正当なものであるとしたいようです。

『魏志』倭人伝に「其北岸狗邪韓国」とあり、『後漢書』倭伝に「其西北界狗邪韓国」とあって、卑弥呼の時代にすでに倭国は狗邪韓国を支配していた考えることができますが、これが朝鮮半島出兵の根拠だというのでしょう。

神功皇后の三韓征伐は斉明天皇の朝鮮半島出兵の反映でしょう。神功皇后は実在した人物でしょうが、朝鮮半島に渡ったというのは狗邪韓国を金海・釜山と思わせるために神功皇后紀の編纂者が創作したもので事実ではないと思います。

こうしたことから私は 斉明天皇+天照大神÷2=神功皇后 と思えばよいと考えますが、斉明天皇・天照大神・神功皇后には次のような共通点があります。

① いずれも九州に関係がある
② いずれも朝鮮半島に関係がある(あるとされている)
③ 即位の前後に王位(皇位)の継承を巡る争乱(混乱)があった
④ 異系の人物が後継の王(天皇)になっている

斉明天皇は出兵を指揮するために筑紫の朝倉橘広庭宮に皇宮を移し、ここで崩御しています。中大兄皇子(天智天皇)は斉明天皇の実子であって異系の人物というわけではありませんが、皇位継承までの経過を見ると何等かの問題があったようです。

645年には中大兄皇子・中臣鎌足らによって蘇我入鹿・蝦夷父子が粛清される「乙巳の変」が起き、皇極天皇は翌年に中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、中大兄皇子と中臣鎌足は相談して皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)を即位させます。

白雉4年(653)に中大兄皇子は皇族や臣下を引き連れて孝徳天皇が都としていた難波宮を引き払い飛鳥に帰ってしまいますが、孝徳天皇は憤死したとも言われます。その後も中大兄皇子は即位せず皇極天皇が重祚して斉明天皇になります。

天智天皇(中大兄皇子)の死後には壬申の乱が起きます。これは皇族間に皇位継承を巡る対立があったということでしょう。それは中央豪族間の対立でもあり、中央豪族と地方豪族の立場の差も一因になっているように思います。

神功皇后紀は斉明天皇の朝鮮半島出兵、及び壬申の乱の正当性と共に、応神天皇の誕生・即位の正当性も主張しているようです。応神天皇の誕生、即位について『古事記』神功皇后摂政前記には次のように記されています。

是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ。〔此の時に其の三柱の大神の御名は顕れ給えるなり〕

底筒男・中筒男・上筒男の三神は住吉神社の祭神ですが、朝鮮半島との接点になりその影響が大きかった安曇・住吉など玄界灘沿岸の海人族を表しているのでしょう。『日本書記』は応神天皇の即位や壬申の乱、あるいは斉明天皇の朝鮮出兵は、天照大神や玄界灘沿岸の海人族の意思に適っていると言いたいようです。

2011年11月27日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その6

伊都国以後の各国を比定するには伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどの条件を満たすこと、あるいは地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないこと求められますが、倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて矛盾の生じない場所を求めるしか方法がありません。

糸島市の周辺を伊都国・奴国とし福岡平野を邪馬台国とする説があります。この説も新井白石以来の通説を改変したもので、同じ糸島郡を問題視するのなら奴国を福岡平野とし伊都国を大宰府付近とすれば、投馬国を筑後とすることができ、邪馬台国は筑後川流域とすることができて面白くなります。

図は私の考える倭国ですが、伊都国以後の諸国は「従郡至倭」の行程には含まれず「自女王国以北」の国だと考えます。そうであれば倭人伝の地理記事は末盧国までの「従郡至倭」の行程、伊都国以後の「自女王国以北」の間で分断されることになります


その分断される部分に面土国があると考えることができます。倭人伝に「刺史の如し」とあるのが面土国王だと考えていますが、図の赤丸で示した筑前宗像郡が面土国だと考えます。「自女王国以北」は遠賀川流域であり伊都国は白丸の豊前田川郡のようです。また卑弥呼の王都は青丸の筑前上座郡(朝倉市)にあったと考えます。

「王城を去ること三百里」、あるい「方六百里」を稍と言いますが、倭人伝の千里は65キロで六百里は260キロになります。以前の投稿で何度か示した稍の図は四千里=280キロとして作図していますが、これは260キロで作図すると隣接する稍との間に20キロほどの空隙が生じるためです。これは図法によるもののようで今回の図は260キロで作図していて稍が以前のものよりも小さくなっています。

稍については諸橋徹次編『大漢和辭典』第七巻1135ページ【畿】の項に説明があり、「王城の外側の三百里以内を稍という」とあり、また【稍】の項には『正字通』を引用して「三百里外為稍地、太夫之所食也」とあります。『大漢和辭典』は名著でどこの図書館にもありますから調べてみてください。

稍は太夫に食封として与えられる面積で、卑弥呼は外臣の王であることから大夫と同格とされ、王城から三百里(130キロ)以内を支配できたようです。狗奴国は肥後だと考えますが面土国の南二千里に位置しているようで、律令制国郡の原形がすでに存在していたようです。

筑前上座郡(朝倉市、図の青丸)を邪馬台国とすると、卑弥呼は王城から二千里以内の狗奴国の北半を支配できることになりますが、狗奴国はこれを認めていなかったようです。

女王国の東千里にある倭種の国は長と考えてよいようです。侏儒国は女王国の南四千里に位置しているとありますが、薩摩・大隅・日向が侏儒国になります。裸国・黒歯国は「東南船行一年」とありますが、これは本州の東端までの日数であり四国西部と考えるのがよさそうです。

伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は誤りです。その根源を辿ると『日本書記』神功皇后紀が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしたことに始まるようで、『日本書記』神功皇后紀は実に巧妙に構成されていています。

2011年11月20日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その5

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わりますが、それは万二千里の終点でもあって、伊都国以後の国は「従郡至倭」の行程に含まれない「自女王国以北」の国になります。その距離も万二千里には含まれず、伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は成立しません。

通説は正徳6年(1716)に新井白石が著した『古史通或問』に始まります。『古史通或問』では卑弥呼を神功皇后とし邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、筑後山門郡を邪馬台国としています。

白石が大和を邪馬台国とするについては備後の鞆の浦を投馬国としていますが、これは倭人伝の方位・距離が無視されており、方位・距離を重視すれば邪馬台国・投馬国は九州でなければならず、そこで晩年には筑後山門郡を邪馬台国とするのでしょう。当然投馬国は筑後妻郡になります。

倭人伝を学問の対象にした最初の人物が白石ですが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行っており、対馬国を対馬、一支国を壱岐とし、末盧国を松浦郡とし、伊都国を怡土郡とし、奴国を那珂郡としました。これが今日でも通説になっています。

白石は卑弥呼を神功皇后としていますが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行うについては『古事記』神功皇后記の応神天皇の誕生に関係する次の文を根底に置いているようです。白石の判断は当時の史観なら当然のようにも思えますが、今日から見ると矛盾が生じています。

筑紫国に渡りて其の御子は坐れましつ。故、其の御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纏きたまひし石は筑紫国の伊斗村に在り。亦筑紫の末羅県の玉島里に到り坐して、其の河の辺に御食したまひし時、四月の上旬に当りき。

この文から白石は福岡県糟屋郡宇美町を不弥国としました。また伊斗村は糸島郡(旧怡土郡・志麻郡)二丈町で、ここを伊都国としています。末羅県の玉島里は佐賀県東松浦郡浜玉町で玉島川があり、ここを末羅国としています。

『日本書記』神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年冬十月の条)は皇后の対馬から新羅への渡海について「和珥津より發ちたまふ」としていますが、和珥津は対馬上県郡の鰐浦のことで対馬の最北端に位置しています。

対馬の北端から朝鮮半島に渡るとすると、その行き先は釜山・金海になってきます。こうして狗邪韓国は金海・釜山ということになり、対馬の寄港地は鰐浦だと考えられていたが、鰐浦の知名度が低いことから厳原に変るのでしょう。

狗邪韓国を金海・釜山とする説も神功皇后伝承から生まれたもののようですが、朝鮮の研究者がこれを認めているとは思えません。日本との歴史的な関係から任那を伽耶と言っている朝鮮の研究者が故意に認めないのではなく、金海・釜山は狗邪韓国ではないからだと考えるのがさそうです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりでもありす。伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説を手がかりとして以後の各国を比定しても邪馬台国論争に拍車をかける結果になるでしょう。

それどころか倭人伝には末盧国の方位が示されていません。図の青線は壱岐を中心とする千里(65キロ)圏ですが、東松浦半島が末盧国とは限らず青線上の任意の地点が末盧国になり、糸島郡・ 福岡平野は伊都国・奴国ではなく末盧国かも知れません。

東松浦半島付近を末盧国としたのも白石ですが、松浦という地名も伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野と同様の「創作された地名」であることも考えられます。しかし千里という限界があり末盧国は東松浦半島かその周辺としてよさそうです。

それは伊都国以後の各国を比定するための手がかりにはならないということです。これは私が言うまでもなく誰もが気づいていることで、方位・距離を恣意的に解釈して自分の思う所を邪馬台国にしてもよいという風潮がうまれています。

伊都国以後の各国を比定するには白石以前に立ち返って倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて、矛盾の生じない場所を求めるしか方法がないということでしょう。伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどが条件になってきますが、地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないことが求められます。

2011年11月13日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その4

狗邪韓国は韓伝の弁韓と同じものであり、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えますが、韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺と考え、対馬への渡海地点は金海・釜山ではなく巨済島だと考えています。

対馬への渡海地点が巨済島なら、その寄港地は厳原ではなく浅茅湾だと考えるのがよいようです。対馬には海神の綿津見神を祭る神社が見られ、また130本以上という多数の銅矛が出土していますが、対馬の銅矛は綿津見神を祭る神社が所蔵しているものが多いのが特徴です。

豊玉村の和多津美神社5本・海神神社6本・金子神社13本などが所蔵されています。この対馬の銅矛のように玄界灘沿岸に多数の銅矛が見られることから、銅矛は外洋の祭祀に用いられ、銅剣は内海の祭祀に用いられたとする説があります。

私は青銅祭器について部族の配布した宗廟祭祀の神体だと考え、配布を受けた宗族は同族関係にあったと考えていますが、以前には金海の良洞里遺跡で小型仿製鏡などと共に中広形銅矛が出土したと言われていました。現在ではこの銅矛は日本人が持ち込んだものだとか、偽造されたものだとか言われています。

銅矛を配布した部族は通婚関係の生じた宗族に銅矛1本を配布しましたが、朝鮮半島南部に銅矛を配布した部族と同族関係にあった人々がいたことが考えられます。前回・前々回には「海峡圏」の存在を想定しましたが、それを象徴するのがこの朝鮮半島南部の銅矛だと言えるようです。

銅矛が外洋祭祀に用いられたのであれば、「南北に市糴」する交易船一隻に1本が配布され、今日の船舶に掲揚される国旗のように船籍を表したと考えることもできます。いずれにしても対馬の銅矛は朝鮮半島との交流が関係するようです。

図の赤点が銅矛の出土地ですが島の西側の浅茅湾や三根湾周辺に多く東側は少数です。そして厳原周辺には殆ど見られません。これは対馬の西側を航行する船が多く東側を航行する船は少ないということで、帯方郡使の寄港地も厳原とするよりも浅茅湾か三根湾とするのがよいでしょう。

インチョンから巨文島までが七千余里ですが、巨文島~巨済島間は二千里でインチョンから巨済島までは九千里になります。対馬の浅茅湾までは一万里になり、東松浦半島まではおよそ万二千里になります。つまり帯方郡から倭国までの万二千里の終点は末盧国の海岸になります。

通説では倭人伝の地理記事に見える方位・距離の起点・終点は、共に郡冶(郡役所)や国都などの中心地だと考えられており、大和の纏向遺跡や九州の吉野ヶ里遺跡などのような著名遺跡を邪馬台国だと喧伝することが行われていますが、倭人伝の地理記事は国都の位置を示してはいません。

起点は郡冶や国都などの中心地ですが、終点は中心地ではなく郡境・国境・海岸などの境界です。帯方郡から狗邪韓国までの七千余里の終点は狗邪韓国の国境でなければならず、それは巨文島付近になります。万二千里の終点、つまり「従郡至倭」の行程の終点は邪馬台国ではなく末盧国の海岸でなければいけません。

通説では万二千里の終点は邪馬台国だと考えられていて、九州説では福岡県糸島市付近までが万五百里であり、残りの千五百里が糸島と邪馬台国の間の距離だとされています。畿内説は伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野でよいが、この千五百里を無視し、奴国以後の方位も無視しようというものです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりですからこの通説は成立しません。この誤った通説を根拠としているために、邪馬台国の位置論は倭人伝の方位・距離を無視して語られるようになっています。

私の参加した講演会でも講演者は質問に対し、邪馬台国はキャッチフレーズであって方位や距離とは関係がないと応答していました。講演者はアマチュアの方でしたが自分の考えを正直に言っているようです。プロなら答え方を工夫するでしょうがアマチュアもプロも同じことをしています。

2011年11月6日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その3


倭人伝の記事の多くは正始8年(247)に黄幢・詔書を届けに来た、帯方郡使の張政の見聞記録でしょう。その見聞記録では倭人伝の地理記事は「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたと思います。

「倭国圏」を表す呼称には倭人・倭国・倭種・倭地・女王国などがありますが、倭人は今日で言う日本人と思えばよいでしょう。その日本人の国が日本国ですが倭国は日本国に相当し、これは外交関係に用いられる呼称のようです。

女王国は女王が支配している国ということですが、中国が冊封体制によって日本国として認めているのは首都(東京)のある関東地方だけで、北海道・九州地方は日本国として認めていないのだと思えばよいようです。

そこで関東地方の日本人と同じ日本人が北海道・九州地方にも居るという意味で、北海道や九州が倭地とされ、そこに住む人々が倭種とされていると思えばよいでしょう。この譬えの関東地方が女王国であり、女王国は北部九州にありました。

卑弥呼・台与は邪馬台国の女王だという人もいますが、この譬えで言えば卑弥呼・台与は東京都知事だと言っているようなものです。ここで仮定している「倭国圏」とは今日で言う日本人の居る圏内を言います。

正始8年の張政の見聞記録では「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたものを、『三国志』の編纂者の陳寿が「暦韓国圏」と「海峡圏」を「従郡至倭」の行程に変えたのでしょう。

「倭国圏」は「従郡至倭」の行程には含まれないようです。伊都国以後が「倭国圏」であり、それには対馬国・一支国・末盧国を含まず、この3国は狗邪韓国と共に「海峡圏」になります。しかし「海峡圏」の存在が考えられていないので、通説ではこの3国も「倭国圏」の国のように思われています。

「従郡至倭」の行程に「倭国圏」は含まれていないのであれば、伊都国以後の国々の距離も万二千余里には含まれないことになり、倭人伝の地理記事に対する考え方を根本的に変えなければならなくなります。

金海・釜山が狗邪韓国とされ、対馬国への渡海地点とされていますが、検討してきたように千里=65キロであればインチョンから金海・釜山までは一万里になるでしょう。そうであれば対馬の厳原までは万二千里になり、壱岐(一支国)は万三千里になってしまいます。狗邪韓国は金海・釜山ではないのです。

狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる、韓伝の弁韓と同じもので、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えます。また韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島付近だと考えます

狗邪韓国と末盧国の間は三千里だとされていますが、インチョンから巨済島までは九千里になり、インチョンから巨済島・対馬を経由して東松浦半島(末盧国)までは万二千余里になります。

これは末盧国の海岸が万二千里の終点であり、「従郡至倭」の行程の終点だということです。それは「倭国圏」の始まりが末盧国の海岸であることを意味しています。

対馬国への渡海コースは金海・釜山からではなく、対馬海峡西水道(朝鮮海峡)が最も狭隘な巨済島と対馬の浅茅湾の間だと考えます。金海・釜山まで行くと三千里ほどの遠回りになりますが、帯方郡使の張政に金海・釜山まで行く必要があったでしょうか。

渡海地点の巨済島は鎌倉時代の元寇・応永の外寇では朝鮮半島から九州に向かう元軍の結集地になりました。元軍に3千里も遠回りして金海・釜山で結集する必要がないのと同じで、張政にも金海・釜山まで行く必要はありません。

南北朝後半から室町前半の倭寇が巨済島を侵犯したことも知られています。また豊臣秀吉の文禄・慶長の役ではこの島を日本軍が足掛かりとし、今も倭城の遺跡が残るなど日本と深い関係があります。

金海・釜山から対馬に渡ると朝鮮海峡の東流する強い潮流に流されて日本海を漂流する危険性がありますが、巨済島からだと潮流に流されても対馬に着ことができます。巨済島が渡海地点になったのはこうした点も考慮されているのでしょう。

2011年10月30日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その2

韓の広さの「方四千里」は260キロのようですが、馬韓の海岸を南下する距離は六千里ほどになりそうです。狗邪韓国までの七千余里は馬韓56ヶ国の沿岸を通過する距離に過ぎず、金海・釜山までだと一万里になってしまいます。

金海・釜山を狗邪韓国とすることはできません。インチョンから狗邪韓国に至る距離は南行六千里+東行千里の合計七千里であり、狗邪韓国は4・5世紀(三国時代)の百済と任那(伽耶)の国境付近にあった国だと考えるのがよいようです。

馬韓(百済)と弁韓(任那・伽耶)の国境は全羅南道中部の巨文島付近と考え、弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺だと考えます。巨文島と馬山・巨済島の間の二千里が倭人伝の狗邪韓国であり、狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる地域のようです。

私は倭人伝の地理記事を「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」とでも言える3圏に分けて考えるのがよいと思っています。「暦韓国圏」は韓の全域を言うのではなく、帯方郡から狗邪韓国の西境までを言い、検討してきたようにその距離が七千余里になります。

韓は馬韓56国、弁韓12国、辰韓12国で構成されていましたが、倭人伝に見える「暦韓国」は馬韓のみで弁韓・辰韓は含まれていないようです。弁韓と辰韓は一括して弁辰と呼ばれており、「暦韓国圏」の馬韓と弁辰が対比されているようです。

「暦韓国圏」は紀元前108年に楽浪郡が設置されるとその影響を受け、また黄海を渡ってくる山東半島の文化の影響を受けた地域のようです。韓伝には両者に言語の違いなど相違点があることが述べられており、弁韓・辰韓とでは異なった文化があったことが考えられています。

「海峡圏」は朝鮮海峡・対馬海峡・及び壱岐海峡に面した国を言い、狗邪韓国・対馬国・一支国・末盧国がこれに属します。狗邪韓国と弁韓とは同じものだと考えますが、辰韓の南部も「海峡圏」に加えるのがよいようです。この「海峡圏」は通説では全く考えられていない概念です。

弁韓の風俗について韓伝に「男女近倭、亦文身」とあり、その風俗に倭人と共通するものがあるようです。また倭人伝の対馬国の記事に「良田無く海物を食して自活し、船に乗り南北に市糴す」とありますが、このを馬韓(暦韓国圏)と、その影響を受けている弁辰と考え、を「倭国圏」と考えれば理解しやすいでしょう。

「海峡圏」には海路による交流があり「暦韓国圏」や「倭国圏」とは異質の文化が存在していることが考えられますが、韓伝に「倭と界を接す」と見える弁辰瀆盧国斉州島と見て、これを「海峡圏」に加えるとその性格がよく理解できるようです。

『魏志』倭人伝の「其北岸狗邪韓国」や『後漢書』倭伝の「其西北界狗邪韓国」の「其」の文字についてはこれを倭国のこととし、倭国が狗邪韓国を支配しているのだと解釈して、これを問題視する向きもあるようです。狗邪韓国は倭国の領土だと考えられているのですが、『日本書記』神功皇后紀の三韓征伐もこれを強調しているのでしょう。

倭人伝の「従郡至倭」の行程記事からは「海峡圏」の存在を考えることはできませんが、『後漢書』倭伝にみえる西北界は狗邪韓国が「海峡圏」の西北界であることを表しています。金海・釜山は「海峡圏」の東北界であって西北界ではありません。このことからも狗邪韓国が金海・釜山ではないことが分かります。

「倭国圏」には伊都国・奴国・不弥国や邪馬台国などがあり、その東方にも倭人の国があって、それを表す呼称に倭国・女王国・倭人・倭種・倭地がありますが、「倭国圏」は伊都国以後の国であり対馬国・一支国・末盧国は「海峡圏」になります。

2011年10月23日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その1

種々述べてきて取り留めが無くなってきました。ここで原点に戻って帯方郡から邪馬台国までの行程について考えてみます。通説では狗邪韓国は金海・釜山付近とされ、対馬国は対馬であり一大国(一支国の誤り)は壱岐だとされています。

佐賀県東松浦半島が末盧国でありその距離は一万里になるが、帯方郡から末盧国までの方位・距離には矛盾する点はないと考えられています。筑前怡土郡(現在の糸島市)が伊都国だが、その方位の南は東か東南の誤りだと考えられています。

そして奴国は福岡平野で、その方位の南もやはり東か東南の誤りだとされています。次の不弥国は宇美とする説や宗像とする説があって、これも方位に誤りがあるとされていて、ここで邪馬台国=畿内説と北部九州説が分かれます。

私もかつては対馬国が対馬であり一支国が壱岐であることは間違いないので、金海・釜山付近を狗邪韓国とする矛盾をさして重要とは思っていませんでした。しかし最近になって狗邪韓国が金海・釜山付近とされているために、邪馬台国の位置が分からなくなっていることに気が付きました。

これを無視することができないので検証してみます。まず帯方郡の位置ですが一般にソウル(京城)周辺とされています。那珂通世・白鳥庫吉・榎一雄らは黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡冶(郡役所)としています。

この説は1912年に近くの古墳群で「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が発見されたことから有力視されていますが、帯方太守が帯方郡の出身者とは限らず、その墓が必ずしも帯方郡内にあるとは限りません。

帯方郡は楽浪郡を分割して設置されましたが、楽浪郡冶(平城付近)と沙里院の距離は南50キロほどに過ぎず、これでは近すぎて分置された意味がないと言われており、また韓の広さの「方四千里」と整合しないとも言われています。

私は沙里院と楽浪郡冶の距離が近すぎること、及び韓が「方四千里」とされていることから、ソウル(京城)かその周辺を帯方郡冶とする説に従いたいと思っています。

韓伝・倭人伝の千里は魏里の150里(65キロ)だと考えますが、図のように韓は忠清北道・忠清南道・慶尚北道以南になって、帯方郡は京畿道になり、濊は江原道の日本海沿岸になります。

韓は黄海側の56ヶ国が馬韓を形成しており、これが後に百済になります。日本海側の12ヶ国が辰韓を形成ししており、これが新羅になります。対馬西水道側の12ヶ国が弁韓を形成しており、これが任那(伽耶)になります。この三韓の広さが「方四千里」ですが、四千里は260キロになります。

七千余里の起点と終点はどこかという点も問題になります。帯方郡冶がソウル付近なら、水行の起点は仁川(インチョン)と考えて問題はなさそうですが、通説の終点は金海(キムヘ)または釜山(プサン)だと考えられています。

『三国史記』地理志に「金海小京、古、金官国<一云伽落、一云伽耶>」とあり、金海は金官国とされています。金官国(語呂合わせですが金韓国?)と金海、および金官国の別名の伽耶・伽落と狗邪の音が似ていることから、狗邪韓国は金海・釜山付近ということになったのでしょう。また弁韓12ヶ国の中の弁辰狗邪国が金海・釜山の近くとされていることにも関係するのでしょう。

これは伊都国と糸島郡、奴国と那珂郡、不弥国と宇美の音が似ているのと共通しますが、この地名は『日本書記』神功皇后紀に見える応神天皇の誕生説話から生れたものです。伽耶・伽落と狗邪の音が似ているとしたのは神功皇后紀の編纂者で、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしているのでしょう。

倭人伝は帯方郡から狗邪韓国に到る七千余里について「暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里」としています。これは馬韓の海岸線に沿って南下し、さらに弁韓の海岸線に沿って東に方向を変えて狗邪韓国に到る距離が七千余里であることを表しています。

馬韓56ヶ国を通過する方向が南であり、弁韓12ヶ国の沿岸を通過する方向が東ですが、では馬韓56ヶ国の沿岸を南下する距離は何里になるでしょうか。韓の広さが「方四千里」であることを考慮して試算してみてください。

2011年10月16日日曜日

大山津見神 その5

出雲神話に触れてきましたが倭人伝には出雲に関係する記述が殆どないので、神話と青銅祭器だけで話を進めなければならず、取り留めのないものになりました。いずれにしても出雲神話の出雲は、単に律令制出雲国だけでなくその周辺の中国・四国地方と考えなければならないようです。

左図は9月18日の「その1」に掲載したものですが、青銅祭器の出土が見られないことから、黄色に塗り潰した地域が出雲神在祭の原形の「寄り合い評定」に参集した有力者の居る地域だと推定しました。

この図は別の意図があって作図したもので、前回には神話と出雲の関係を述べたために意図するところを述べることができませんでしたので追加します。

1984年に荒神谷遺跡で358本の銅剣が発見された時、島根大学の山本清氏は山陰道が8国・52郡・387郷であることから、1郡に平均7本を分与するために用意されたと考え、「山陰地方共同体」いう構想を提示されました。

土器の分布が示す山陰道が一つの生活圏の様相を示すことが考えられ、邪馬台国のような共同体が想定できるというものです。私はこの共同体を部族連盟国家だと考えますが、部族連盟国家は複数の部族が連合して国家を形成しているもので、その統治方法が出雲神在祭の原形になった「寄り合い評定」だと考えます。

そして山陰道8ヶ国のうちの但馬・丹波・丹後を除外して、安芸・備後・備中・備前の中国山地部と美作を加えるのがよいと考えます。つまり四隅突出型墳丘墓を墓制とし中細形銅剣C類を祭祀とする部族が、部族連盟国家を形成していたと考えるのです。

但馬・丹波・丹後は山陰の文化圏というよりも近畿地方の文化圏考えるのがよいと思います。山陰道・山陽道という行政区分は律令制以後のものであって、弥生時代の中国山地部は山陰の文化圏だったと考えなければならないようです。

後漢・魏・晋など中国の諸王朝は冊封体制を形成していましたが、その職約(義務)で異民族の王の支配領域を「王城を去ること三百里」、あるいは「方六百里」に制限していました。これは今まで全く知られていなかったことです。

魏の一里は434メートルですから三百里は130キロになり、六百里は260キロになります。これを「稍」と言いますが、図の青色の方形が一辺六百里260キロ)の「稍」になっています。

韓伝は韓の広さを「方四千里」としていますが千里は65キロになります。山陽新幹線(新大阪~新下関)の営業キロ数は455キロだということですが、千里=65キロとすると、それは倭人伝に見える帯方郡から狗邪韓国までと同じ七千里になります。

帯方郡から倭国までの距離は万二千里とされていますが、畿内大和までは二万二千里になりそうで、邪馬台国=畿内説が成立する余地はまったくありません。中国・四国地方についても山陰説・吉備説・阿波説がありますが、これらの説も成立することは有りえません。

南九州説も同様であり、成立するのは図で筑紫としている北部九州のみということになりますが、図は倭人伝の地理記事と神話圏を対比させたものでもあります。図で筑紫としている「稍」が女王国であり「筑紫神話圏」になります。筑紫神話圏には肥後の北半や壱岐・対馬が含まれています。

中国・四国地方の「稍」が「出雲神話圏」になりますが、それは中国山地を含む日本海側と瀬戸内、そして中央構造線以南の太平洋側に分かれるようです。中央構造線以南の四国を「出雲神話圏」に含めてよいのか疑問ですが、少なくとも瀬戸内を含むと見てよいと思っています。

2011年10月9日日曜日

大山津見神 その4

四国の中央構造線以南(土佐と仮称)では西からは広形銅矛が、東からはⅣ-2式以後の近畿式銅鐸が流入してきますが平形銅剣が見られません。銅矛・銅鐸が平形銅剣の分布圏を避けて流入していることは明らかで、九州の場合もそうですが中央構造線が弥生文化を南北に分断しています。

図の赤線が中央構造線ですが、私は中央構造線以北には朝鮮半島から渡来してきた渡来民の子孫の、いわゆる「渡来系弥生人」が居り、中央構造線以南には「縄文系弥生人」が居たと考えるのがよいと思っています。

南九州の熊襲・隼人の文化も縄文系弥生人のものだと考えています。柳田國男は東南アジア・江南の文化が沖縄・西南諸島を経由する「海上の道」によって伝播してきたとしていますが、そこには沖縄・南西諸島の「ニライカナイ」に見られるような「海と山」の文化があります。

中央構造線以北の「渡来系弥生人」の文化は華北・朝鮮半島の影響が強く、文化に相違が生じる中央構造線付近でオオヤマツミの伝承が生まれるように思われます。九州の場合、中央構造線以南は肥後の南半分と日向になります。

そこは「日向神話」の世界で、薩摩半島の加世田市周辺にオオヤマツミ・コノハナノサクヤヒメの伝承があり海幸彦・山幸彦の伝承があります。海幸彦の行く「綿津見の宮」には海の彼方に人間界とは隔絶された「異界」が存在するという、縄文系弥生人の「海と山」の文化が感じられます。

紀伊半島にはオオヤマツミの伝承はありませんが、熊野灘沿岸に縄文系弥生人の「海と山」の文化を思わせるものが見られます。「熊野信仰」は縄文系弥生人の海の彼方の「異界」と、仏教の「西方浄土」の思想が融合したもので、大和が政治の中心になっったことで生まれるのでしょう。

四国の中央構造線以南にオオヤマツミの伝承はありませんが、黒潮の分流は瀬戸内海に流入していて、そこにはオオヤマツミを祭る愛媛県今治市大三島の大山祇神社があります。弥生時代に広形銅矛やⅣ-2式以後の銅鐸が流入したことで、オオヤマツミの伝承は瀬戸内沿岸に後退したと考えることができそうです。

後期終末から古墳時代初頭にかけて、北部九州(高天が原・女王国)による中央構造線以南の政治的統合が進むようです。2月に投稿した「宇佐説」では台与の即位以後、政治の中心が玄界灘沿岸から豊後灘・周防灘の周辺に移ると述べました。

また4月の「2人のヒコホホデミ」では、南九州(日向)を統合したのは2人のヒコホホデミの内の神武天皇であろうことを述べました。日向北部や豊後灘沿岸が統合の中心になったことが考えられ、四国西部の広形銅矛分布圏も、この時に神武天皇によって統合されたと考えます。

『日本書紀』第二の一書ではオオナムチ(大己貴)の出雲の国譲りに続いて、フツヌシ(経津主神)が岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として、オオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)を帰順させます。

『古事記』で国譲りをするのは大国主ですが、大己貴も大物主も大国主の別名と考えられています。しかしこの一書では大己貴と大物主が明確に区別されており、大己貴の出雲の国譲大物主の服属とは別の物語になっています。

第二の一書はオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順した時に、出雲・筑紫・讃岐・阿波・紀伊・伊勢の忌部が定められたとしています。この忌部は祭祀氏族の忌部首氏とではなく物部氏と関係があるようです。

出雲・筑紫以外は三遠式銅鐸・Ⅳ-2式以後の近畿式銅鐸の分布圏であり、讃岐は平形銅剣の分布圏です。ここには中央構造線以南の「土佐」が出てきません。

西側の広形銅矛分布圏は250年代に神武天皇によって統合されますが、東側の銅鐸分布圏は第二の一書が述べるフツヌシ(経津主)によってオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順した時に統合されるのでしょう。そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の東遷が始まると考えます。

2011年10月2日日曜日

大山津見神 その3

私は銅剣を配布した部族の神話・伝説上の始祖が神話のイザナミだと考えていますが、山陰の出雲形銅剣(中細形銅剣C類)や、瀬戸内の平形銅剣を配布した部族の場合にはオヤマツミ(大山津見・大山積・大山祇)になるようです。

出雲ではスサノオやクシナタヒメ、アシナツチ・テナツチを祀る神社をよく見かけますが、オオヤマツミを主祭神とする神社はあまり見かけません。しかし合祀されているものはあるようです。

広島県安芸高田市吉田の清神社は毛利氏の氏神として知られていますが、『日本書記』の一書に見える、スサノオが降った「安芸国の可愛之河上」の伝承のある神社です。祭神はスサノオ・クシナタヒメ・アシナツチ・テナツチですが、ここでもオオヤマツミは祀られていません。

詳しくは調べていませんがオヤマツミは、出雲ではイザナミ・スサノオやクシナタヒメ、アシナツチ・テナツチ陰に隠れて影が薄ものの、美作など中国山地の各地では、相当数がさりげなく祀られているようです。

オヤマツミはいたって地味な神ですが、その神統上の位置付けは以外に重要で、日向神話でコノハナノサクヤヒメの父とされ、出雲神話ではクシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫)の祖父ということになっています。

コノハナノサクヤヒメの系譜は神武天皇に連なり、クシナタヒメの系譜は大国主に連なります。この神には天つ神(高天原系の神)と国つ神(土着神)を結びつける役割があるようで、出雲神話でも天つ神のイザナミと国つ神のアシナツチ・テナツチを結びつけています。

オオヤマツミと言えば山の神のように思われますが、海の神としての性格を併せ持っています。日向神話の「海幸彦・山幸彦」の海幸彦は、鹿児島県薩摩半島の海人のようですが、加世田市付近の大山積・コノハナノサクヤヒメの伝承には、海幸彦の子孫の「吾田君」が絡んできます。 

オオヤマツミを祭る神社といえば愛媛県今治市大三島の大山祇神社(図の赤角印)と、静岡県三島市の三島神社が有名です。大山祇神社は全国の「三島神社」「山神社」の総本宮とされ、別名を「和多志大神」と呼ばれています。「和多志大神」とは「渡しの大神」という意味だと考えられており、瀬戸内海の海路を守護する神で「三島水軍」の守護神ともされました。

前々回には荒神谷遺跡の358本の中細形銅剣C類は、図の緑色、黄色に塗り潰した地域に配布されていたものが回収されたと述べましたが、その南の大山祇神社を中心とする40キロ圏内の瀬戸内海沿岸に平形銅剣が分布しています。

周辺には大山祇神社の末社でオオヤマツミを祭る三島神社が相当数ありますが、平形銅剣を配布したのは瀬戸内海を活動の場とする海人の部族であり、その部族の神話・伝説上の始祖が大山祇神社の祭神のオオヤマツミなのでしょう。

それに対して中細形銅剣C類を配布した部族がアシナツチ・テナツチやクシナタヒメの祖のオオヤマツミだと考えます。図の緑色に塗り潰した地域が中細形銅剣C類の分布の中心になっていますが、同時にこの地域は『出雲国風土記』に見える出雲神話の舞台でもあります。

吉備内陸部の黄色に塗り潰した地域にも三島神社が見られると推察していますが、この地域では中細形銅剣C類を配布した部族としてのオオヤマツミと、平形銅剣を配布した部族としてのオオヤマツミが並存していると考えています。

図で四国を横断している赤線は地学上の中央構造線ですが、その南側には平形銅剣が見られず、西から広形銅矛が流入し東からはⅣ-2式以後の近畿式銅鐸が流入しています。このために中央構造線以南にはオオヤマツミの伝承がみられないようです。四国には物部氏が勢力を拡大した兆候がみられますが、これが関係しているのかもしれません。

2011年9月25日日曜日

大山津見神 その2

「出雲形銅剣」とも言われている山陰の中細形銅剣C類の祭祀は弥生時代後期後半(3世紀)にも続き、瀬戸内の平形銅剣の祭祀も続いていたと考えていますが「出雲形銅剣」の分布圏を神話の「出雲」とし、平形銅剣の分布圏を神話の「吉備」とするのがよさそうです。

図はこのことを表していますが、赤線で示した四国の太平洋側には西から広形銅矛が流入し、東からはⅣ-1式以後の新しいタイプの近畿式銅鐸が流入してきます。

広形銅矛・Ⅳ-1式以後の近畿式銅鐸が銅剣の分布圏を避けて流入していることは明らかですが、少数ながら中広形銅剣も見られ、四国の太平洋側では出雲・吉備とは異なる銅剣の祭祀も行われたようです。四国の瀬戸内側を神話の「吉備」とするのに対し、太平洋側を「土佐」と仮称してみました。

神話のイザナミについては銅剣を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあると述べてきましたが、イザナミは火の神・カグツチを生んだことにより「神避り」して「根之堅洲国、或いは「黄泉の国」に居ることになっています。

「根之堅洲国」は倭人伝の奴国であり、それは筑前の遠賀川中・上流域だと考えていますが、それに対し「黄泉の国」は出雲とされています。2世紀初頭に奴国王家が滅ぶと、銅剣の分布の中心は中国・四国地方に移り、山陰では中細形銅剣C類(出雲形銅剣)が、また瀬戸内では平形銅剣が鋳造されます。

出雲が「黄泉の国」とされるのは、出雲が銅剣祭祀の中心になるということでしょう。前々回の投稿では2世紀末の倭国大乱以後、それに出雲市西谷墳墓群3号墓の被葬者が結び付けられて、出雲神話のスサノオになるのではないかという仮定を述べました。

弥生時代後半の部族は、男系(父系)血縁集団である宗族の族長階層が通婚することによって形成されていました。従って宗族の系譜は男系(父系)で辿ることになり、部族の系譜は女系(母系)で辿ることになります。

弥生時代は男系社会でしたから部族の始祖も男性でなければならず、神話・伝説上の男性始祖が創作されました。イザナギは銅矛を配布した部族の、また大国主は銅鐸を配布した部族の、スサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の男性始祖です。しかしイザナミは女性とされています。

そのスサノオの出雲神話での女系の神統を辿ってみると、クシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫)、アシナツチ・テナツチ(足名槌・手名槌、脚摩乳・手摩乳)、及びオオヤマツミ(大山津見・大山積・大山祇)を介してイザナミに結びついてきます。

部族は女系(母系)血縁集団ですが、イザナギの生んだ児とされているスサノオが、出雲神話ではオオヤマツミの神統に「入り婿」の形で加わっています。

スサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖ですが、そのスサノオがオオヤマツミからクシナタヒメに至る女系(母系)の神統に加わることにより、同時に銅剣を配布した部族の男性始祖でもある、ということになっているようです。

このことが高天が原を追放されたスサノオがクシナタヒメを妻とし、オロチを退治して草薙剣を入手するというオロチ退治の神話になっているようです。草薙剣は銅剣を配布した部族を象徴しており、アシナツチ・テナツチやクシナタヒメは、出雲形銅剣(中細形銅剣C類)を祀っていた宗族なのでしょう。

イザナミは「黄泉の国」の出雲に居ることになっていて、死後のイザナミには子孫がありません。そこで銅剣を配布した部族の始祖はイザナミからオオヤマツミに代わり、その神統にスサノオが「入り婿」の形で加わり、さらにはその神統から銅鐸を配布した部族の始祖の大国主が出てくることになっているのでしょう。

2011年9月18日日曜日

大山津見神 その1

「出雲神在祭」の原形の「寄り合い評定」は出雲だけでなく北部九州(女王国)・大和・北陸(越)など各地で行われていたと思われますが、旧暦10月になると神々が会議に参加するために居なくなるという伝承が日本全国にあったようです。

それが何時しか神々は出雲にということになり、現在では出雲大社や佐田神社など、出雲の特定の神社に行くと考えられるようになっています。それでは「出雲神在祭」の祖形である「寄り合い評定」に参加した有力者たちは何処から集まってきたのでしょうか。

それは「出雲神在祭」で言われているように日本全国の各地から集まるというのではなさそうで、上図はそれを推察してみようというものです。

上図の赤点は青銅祭器の出土地で、それを青線結んでいますが、緑色に塗り潰した斐伊川流域・宍道湖周辺に青銅祭器の大部分が集まっていて、それを象徴しているのが荒神谷遺跡であり賀茂岩倉遺跡だと言えそうです。
下図は四隅突出型墳丘墓の分布で、この墳墓は広島県の江の川流域で築造されるようになり、山陰に広まったと考えられていますが、中国山地の四隅突出型墳丘墓の分布圏には青銅祭器が見られません。

出雲の斐伊川流域や宍道湖の周辺では荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡を始めとする諸遺跡で大量の青銅祭器が出土していますが、その周辺の70~80キロ以内には全く見られなくなります。

備前の旭川、備中の高梁川、備後の沼田川、安芸の太田川の下流域には多数の平形銅剣や銅鐸が見られるのに、上流部には全く見られません。出雲東部の飯梨川・伯太川流域の安来平野は四隅突出型墳丘墓が見られながら、なぜか青銅祭器がまったく見られません。

伯耆の日野川流域では銅鐸が出土したと言われていますが、現存しているものはありません。黄色で塗り潰した地域では他にも出土している可能性がありますが、上図では出土したことの明らかなもののみ示しています。

江の川は広島・島根県を流域とする中国地方第一の大河で、広島県の古墳の3分の1が見られ、四隅突出型墳丘墓もこの地域で造られるようになったと言われていますが、流域の青銅祭器はわずか3個だけで、それも支流の最上流部での出土で中心部には全く見られません

島根県石見町の銅鐸2個は江の川流域の文化圏というよりも、日本海沿岸の出雲の文化圏に属するものと見るのがよく、広島県西世羅町の銅鐸1個の場合も瀬戸内海に流入する芦田川・沼田川流域の文化圏に属すと見るのがよさそうです。

荒神谷遺跡の銅剣358本、賀茂岩倉遺跡の銅鐸39個を始めとし、現在の出雲国の青銅祭器は合計434口以上になりますが、この数は異常といえます。ところが斐伊川流域の周辺70~80キロ圏内に青銅祭器が全く見られません。

これらのことを考え合わせると、銅剣358本は斐伊川流域周辺の70~80キロ圏内から回収されたことが考えられます。上図の黄色に塗りつぶした地域に青銅祭器が見られないのは、回収が極めて整然と行われたということのようです。

前々回には荒神谷・賀茂岩倉遺跡に多数の青銅祭器が集まったのは「出雲神在祭」の原形の「寄り合い評定」の合意によるものであり、それには強制力があったと述べましたが、斐伊川流域を中心とする70~80キロ圏内の神(有力者)が出雲神在祭に参集した考えることができそうです。

吉備(備前・備中・備後・美作)の中国山地部分を「神話の出雲」とする認識はないようですが、神話で出雲という場合、単に律令制の出雲国だけを言うのではなく、その周辺が含まれていると考えるのがよさそうです。

2011年9月11日日曜日

西谷墳墓群 その6

弥生時代には出雲だけでなく全国各地で「寄り合い評定」が行われていたようです。大和の纒向遺跡は卑弥呼の都であったと喧伝されていますが、初期の纒向遺跡もやはりそうした「寄り合い評定」の場だったと考えています。

そして出雲では西谷墳墓群の北2キロにある万九千神社付近が「寄り合い評定」の場になったと考えます。西谷墳墓群の2号墓・3号墓は復元されていて墳丘上に登ることができ、墳丘上からは斐伊川下流域を見渡すことができます。

その視界の中央に、万九千神社と立虫神社の2社が同じ境内で祭られています。万九千神社から斐伊川を渡った対岸の出雲市大津は、中世に陸路の山陰道と斐伊川による河川交通交差する港町として栄えた所です。

立虫神社は元は大津に近い所にあったが斐伊川の洪水で川筋が変わり現在地に移ったと言われています。大津の地名が示しているように万九千神社・立虫神社の付近は、弥生時代にあっても斐伊川流域の交通の要所になっていたようです。

そこが「寄り合い評定」の場になっていたようで、付近の地名を「神立」と言っています。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が万九千神社に集まって饗宴を催し、その後に各地に帰って行くのでこのように呼ぶと言われています。

仮に「寄り合い評定」に集まってきた人々が「寄り合い評定」の経てきた歴史を語り伝えたとしたら、その舞台は万九千神社周辺や、その南2キロにある西谷墳墓群が中心になるはずですが、事実、出雲平野や斐伊川流域・神戸川流域が神話の中心になっていると言えるようです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の年代は1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になりますが、1号墓・3号墓は後期後半の初頭倭国大乱のころになるそうです。私は倭国大乱が中国地方に波及してきたことが、スサノオのオロチ退治として語られていると考えています。

2号墓・4号墓は後期後半の中葉で、布波能母遅久奴須奴神、深淵之水夜礼花神・淤美豆奴神の活動する時期になりそうですが、八島士奴美・布波能母遅久奴須奴については具体的な活動が見られません。深淵之水夜礼花も水の神格であり斐伊川との関係を感じさせますが、この地との直接の関係を示すものがありません。

淤美豆奴については『出雲国風土記』の八束水臣津野と同神とする説があり、国引きについては意宇郡に伝承がありますが、万九千神社に近い斐川町富村の富神社には、国引きを終えた八束水臣津野がこの地に住んだという伝承があります。

『出雲国風土記』杵築郷の条、伊努郷の条にも八束水臣津野に関する記述が見え、少なくとも八束水臣津野については斐伊川の下流部や出雲大社の周辺が活動の場になっています。

6号墓・9号墓は後期後半末期~古墳時代初頭で、出雲神話では天之冬衣・大国主の活動する時期になりそうです。天之冬衣には日御碕神社の宮司家の祖という伝承があり、大国主は出雲大社の祭神になっています。

4号墓と6号墓の間に位置している5号墓は、四隅突出型墳丘墓ではなく詳細が不明ですが、4号墓・6号墓との位置関係から弥生終末期のものと考えられています。このように考えると3号墓の被葬者はスサノオであり、最大の9号墓の被葬者は大国主だということになってきそうです。

しかしスサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、一面では銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になった面土国王でもあります。また大国主は銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、大和盆地の支配者という一面を持っています。

『出雲国風土記』にはスサノオのオロチ退治が見られませんが、7代に亘る西谷墳墓群の被葬者の王統に、筑紫のスサノオや大和の大国主の事跡、或いは青銅祭器を配布した部族が結び付けられ、『古事記』『日本書記』の出雲神話が形成されたと見るのがよさそうです。

2011年9月4日日曜日

西谷墳墓群 その5

出雲市青木遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、青銅祭器の祭祀は後期後半も続いていたということでしょう。祭祀が終わるのは他の地域と同様に弥生時代の終わりになるようですが、四国の太平洋側では大型化した銅矛や銅鐸を受け入れているのに、瀬戸内や山陰はなぜ受け入れなかったのでしょうか。

この謎を解く鍵は出雲の特殊神事「出雲神在祭」にありそうです。旧暦の10月を「神無月」と言いますが、全国の神々が出雲に参集するために神々が居なくなるのでこのように呼ばれるとされ、出雲では逆に神在月になります。

宇佐神宮の放生会神事も規模の大きいことや、全国の八幡宮で行われることなど似ている点がありますが、「出雲神在祭」のように祭神の異なる神社が同じ神事を行うのではなく、全国から神々が集まるということも言われていません。

私は「出雲神在祭」の始原は部族の統治形態が「合議制統治」であったことによると考えています。小説家・思想家の白柳秀湖(1884~1950)は『民族歴史建国編』(昭和17年、千倉書房)で、出雲神有在祭がツングース族の「ムニャック」という「寄り合い評定」に似ていると述べています。

鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり、国政の得失を論じ、それは巨帥(統領)の任免にまで及んだということです。「出雲神在祭」で神々が出雲に参集するのは宗族の族長など有力者が召集され、いわば今日の「通常国会」に相当するものが開かれたということで、異常時には「臨時国会」に相当するものも召集されたようです。

江上波夫氏は『騎馬民族』(中公新書)で、匈奴の国家運営形態を蒙古族のクリュリタイに似たものであったとしています。匈奴は遊牧生活の変わり目に国家的な祭典を行い、国事を議定し人民・家畜数を調査し、租税の徴収を計画したと述べられています。

それには匈奴国家を形成する全部族(宗族)が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺された言います。匈奴も鮮卑と同様に部族連合国家で巨帥(統領)が統治しており、一般の族長は大会に参加する義務があったようです。

鮮卑・匈奴の例などから見て、部族に擁立された倭人の王の支配権は極めて弱く、鮮卑の巨帥(統領)のようなものだったでしょう。出雲神有在祭の原形は有力者を招集して行われる、白柳秀湖のいう「寄り合い評定」だと思われます。

出雲の場合にも匈奴の例のように「寄り合い評定」に強制力があり、故意に出席しないと国に対する敵意・謀反と受止められて抹殺されることもあったでしょう。荒神谷遺跡・賀茂岩倉遺跡にこれだけ多数の青銅祭器が集まったのは「寄り合い評定」の合意によるものであり、それに強制力があったからでしょう。

出雲神在祭で神々が参集する目的には縁結びや会議の他に 、酒作りや料理のためとするものもありますが、第一の目的は「縁結び」だったと思います。出雲大社が「縁結びの神」とされるのは祭神の大国主に多数の妻が居ることから艶福の神とされ、良縁に恵まれるからだと言われています。

これは俗説であって、「縁結び」とは部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、それが争乱に発展したことから、強引な通婚と青銅祭器の配布を規制するものであったと考えます。余談ですが出雲の神は縁を結ぶ神であると同時に、道ならぬ縁を戒める神でもあるということになりそうです。

通婚を国家権力で規制すれば、部族は勢力を拡大することができず争乱も起きなくなります。これは部族の構成が固定されるということであり、青銅祭器を配布する必要がなくなるということです。

それに伴って「寄り合い評定」を召集する王(巨帥・統領)や、それに参加する宗族長など有力者個人の権威が高まり、四隅突出型墳丘墓が急に大型化する考えられます。青銅祭器を製作・配布するエネルギーが、墳墓を巨大化させる方向に向かったとも言えるでしょう。

それが青銅祭器の祭祀が行われなくなったと考えられているのですが、「寄り合い評定」は合意があって初めて機能します。女王国では部族間の対立があり卑弥呼の下した神意が合意と見なされたようですが、出雲の場合には通婚を規制して部族の対立を防止する「根回し」が行われていたようです。

2011年8月28日日曜日

西谷墳墓群 その4

図は予想される弥生・古墳時代の出雲平野ですが、斐伊川は西流して「神門水海旧神在湖)に流入しており、宍道湖の西岸も現在よりも5キロほど西にあり、斐川町直江付近であったことが考えられています。

出雲平野の象徴とも言える仏経山を中心とする5~6キロ以内には、西出雲の重要な遺跡が集中しています。

図では割愛していますが仏経山の北北西14キロに出雲大社があり、出雲大社を除外しての出雲神話は存在しないと言ってよいでしょう。

それを端的に表しているのが寛文5年(1665)に、出雲大社の境外摂社・命主神社背後の真名井遺跡で銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本・勾玉1個が出土したという記録が残っていることでしょう。

現存しているのは銅戈1本と勾玉1個だけで、当時、正確に銅剣・銅矛・銅戈の区別がされていたようには思えません。銅剣・銅矛が現存していたらこの地に出雲大社が存在するようになった理由を解明する格好の手懸りになりそうですが、現存していないのが残念です。

東南東5キロの神原神社古墳は卑弥呼に賜与された百枚の銅鏡ではないかとされる、景初3年銘のある三角縁神獣鏡が出土したことで知られています。しかしこの古墳は4世紀のもので卑弥呼と関係があるようには思えません。

西5キロには出雲市の今市大念寺古墳があります。付近は上塩治築山古墳など古墳の密集地帯になっており、西谷墳墓群に続く古墳時代の出雲の中心であったことが考えられています。この密集する古墳の被葬者については神門川流域の神門郡を本貫とする神門臣の一族が考えられています。

神門臣の一族に出雲郡健部郷の健部臣がありますが、言うまでもなく健部郷には荒神谷遺跡があります。荒神谷遺跡に青銅祭器が集まったについては神門臣やその一族の遠祖が関与したことを考える必要もありそうです。

律令制出雲国の中心は東部の意宇郡ですが、出雲国出雲郡の郡衙(郡役所)は出雲郷(斐川町求院付近)にありました。図で言えば仏経山と西谷墳墓群の間の、斐伊川沿いの地域になりますが、国名・郡名・郷名までもが「出雲」だということは、かつてはこの地が出雲国の中心であったということでしょう。

出雲郡神戸郷は出雲郷の北の平野部になりますが、出雲大社の神戸(神領)だということでしょう。神戸から出される租・庸・調(税)は神社の造営費用や供神料に当てられましたが、その名残が斐川町の「千家」という地名のようです。

千家は出雲大社の祭祀者で出雲国造とも称される千家氏のことでもあるようで、古く出雲国造は松江市大庭の神魂神社の祭祀を行っており、神魂神社付近に「国造館」という建物がありました。

斐川町の千家という地名については神魂神社や熊野大社の祭祀と関係があると言われていますが、詳しいことは分かっていないようです。斐川町千家付近が神戸郷であることから見て、出雲国造が神魂神社や熊野大社の祭祀を行うための費用・労務を負担していたようにも思われます。

出雲国造は『類聚三代格』に「慶雲三年以来令国造帯郡領」とあり、慶雲3年(706)から延暦17年(798)まで出雲国造と意宇郡の郡司を兼帯しており、神魂神社のある大庭で意宇郡司として執務したことが考えられます。

その後の出雲国造は意宇郡の郡司職を一族の者に譲り、出雲大社の祭祀に専念するようになると言われています。国造の代替わりの儀式である「火継式」が熊野大社と神魂神社で行われるのは、かつては意宇郡司を世襲していたことを表していると考えることもできそうです。

弥生時代後期後半(180~270年ころ)の出雲の中心は仏経山の周辺のようですが、それを支配していたのが西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者だと考えることができそうです。それがスサノオから大国主に至る7代の出雲の神になることが考えられ、それらの神を祀る立場にあるのがアメノホヒ(天穂日)の子孫とされている出雲国造だということになってきそうです。

2011年8月21日日曜日

西谷墳墓群 その3

山陰・吉備の青銅祭器の祭祀は倭国大乱以後も続いていた考えていますが、その時期に吉備では盾築墳丘墓に代表される特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が急に巨大化します。

四隅突出型墳丘墓のビッグ5を挙げると次のようになります。これらは古墳時代の墓である古墳ならそう大きいとは言えませんが、弥生時代のものとしては岡山の盾築墳丘墓を除くと全国でも最大で、そのうちの4基が西谷墳墓群にあります。

① 出雲市西谷墳墓群9号墓  61m×55m×5m
② 鳥取市西桂見墳丘墓    約60m 消失
③ 出雲市西谷墳墓群3号墓  52m×42m×4、5m
④ 出雲市西谷墳墓群4号墓  47m×45m×3、5m
⑤ 出雲市西谷墳墓群2号墓  46m×29m×3、5m

西谷墳墓群は6基の四隅突出型墳丘墓、21基の円墳・方墳、3つの横穴墓群から成りますが、その立地から見て斐伊川下流域を勢力基盤とし、出雲平野や斐伊川流域に影響力を持っていた一族の墓域であることが考えられます。

6基の四隅突出型墳丘墓の年代は倭国大乱から古墳時代初頭と考えられており、1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になるということです。それは前回・前々回に述べた、他地域に先立って山陰や吉備から青銅祭器が「姿を消した」とされている時期に当たります。

2号墓は当初小規模なものだと考えられていましたが、発掘調査の結果意外に大きな墓であることが分かってきました。そして南に隣接する3号墓とは、極めて近い時期のものであることも分かり、6基の四隅突出型墳丘墓ごく短期間に築造された考えられています。

私は90年間隔で時代が変転していると考え、倭国大乱を180年ころとし、古墳時代の始まりを270年ころとするのが良いと思っていますが、その間に6基が順次に築造されたと仮定すると15年間隔で築造されていることになります。

3号墓では中央の墓壙上で260点にも上る大量の土器が出土しましたが、その出土状況から神社の神事で行われる「直会、なおらい」のような「共飲共食」の葬送儀礼が行われたことが考えられています。

3号墓から出土した土器の3分の1は吉備や北陸~丹波地方のものだということで、山陰と吉備、そして山陰と北陸~丹波地方の間には様々な共通点があり、首長間に交流があったことが考えられています。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたもので一部省略していますが、西谷墳墓群に吉備や北陸~丹波地方の土器が集まっていることが説明されています。赤色が吉備の特殊器台・特殊壷の分布です。

これは西谷墳墓群だけでなく、青谷上寺地遺跡を始めとして山陰各地で確認されており、密接な関係があったと考えられています。四隅突出型墳丘墓の分布と特殊器台・特殊壷の分布が中国山地で接触していることに注意が必要なようです。

大国主の神話は一面で因幡の八上比売、越(北陸地方)の沼河比売、紀伊と関係の有りそうな須勢理比売を「妻問い」(つまどい、求婚)する物語だと言えますが、倭人伝は大人と呼ばれる階層が四・五婦を持っていると記しています。多くの妻を持つことはそれだけ女系(母系)の同族が多いということで、勢力の強いことを表します。

西谷墳墓群の被葬者の通婚圏は吉備や北陸~丹波地方にまで及んでいたのでしょう。私は大国主について銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖だと考えていますが、図には大国主の妻問いの物語の時代背景が説明されているとも言えそうです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の時期とスサノオから大国主に至る6代の神の活動時期とは、共に倭国大乱から古墳時代初頭だと考えています。西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の被葬者が、6代の神のモデルになっていると考えることができそうです。


2011年8月14日日曜日

西谷墳墓群 その2

青銅祭器が埋納される時期ついての通説では、中広形の武器形祭器と「聞く銅鐸」の段階で一度埋納され、さらに広形の武器形祭器と「見る銅鐸」の段階でもう一度埋納されて、2度の埋納時期があるとされています。

荒神谷遺跡でも中広形銅剣b類と最古形式の近畿Ⅰ式銅鐸が隣り合わせで出土していて、中国・四国地方の青銅祭器は第一段階で埋納されたように思えます。しかし私は中国・四国地方の青銅祭器の祭祀その後も続く考えています。

その根拠は多くは有りませんが、出雲平野の北部に位置する出雲市青木遺跡で銅鐸の「飾耳」と言われている部分が副葬品として出土しています。通説では銅鐸片は鋳造の原材料だと考えられています。

青木遺跡の場合には埋葬された若い女性の頭部から出土しており、被葬者のアクセサリーではないかと言われています。銅鐸片が鋳造とは無関係の場所から出土していますが、銅鐸片には同時期の銅鏡片と共通する点があります。

福岡県平原遺跡の直径46,5センチの大鏡は当初4面だと考えられていましたが、成分々析の結果5面であることが分かりました。副葬された時点ですでに破砕されており大部分が無かったのですが、銅鏡片として配布されたとも言われます。

巨大な鏡が造られる一方で、この時期には直径5センチ程度の小型仿製鏡や、後漢鏡などを数個に分割した「分割鏡」が造られています。これらの銅鏡は絶対数の不足した大型鏡を補うために造られたとされています。

銅鐸にも同じ傾向が見られ、滋賀県小篠原1号鐸は135センチにもなりますが、その一方では三遠式銅鐸分布圏の東側の東海・関東を中心に10センチ以下の小銅鐸が見られるようになり、また各地に銅鐸片が現れてきます。

小銅鐸は中期に朝鮮半島からもたらされた「朝鮮式小銅鐸」とは別系統のもので、中には副葬されたものもあって一般の銅鐸とは性格が異なると言われていますが、通常の銅鐸とは異質の祭祀が行われたことが考えられます。

銅鏡は有力者の個人的な所有物であり銅鐸は宗族の共有物なので、銅鐸が副葬されることはありませんが、この時期には小銅鐸・銅鐸片を小型仿製鏡・分割鏡のように個人的に祀る者があり、銅鐸の絶対数が不足したことが考えられます。

中国では宗族が合流することを「連宗」と言い、連宗した宗族には一つの社会を形成できるほど巨大なものがありました。倭人の部族は中国の冊封体制に組み込まれたことにより王を擁立するための組織になり、宗族も連宗することによって規模が大きくなって、後に古墳時代の氏族になることが考えられます。

中国の宗族には特に族長を出す家系は無く、族長は年長者の中から選ばれるということですが、倭人伝には「尊卑各差序有り、相臣服するに足る」とあります。後期後半から終末期の倭人の宗族の場合には族長を出す家系が存在したと考えてよいように思います。

青銅祭器が大型化することは、部族が巨大化すると共に配布を受ける側の宗族の規模も時代が下ると共に大きくなるということでしょう。それに伴って身分差が大きくなり、それに応じた役割の分担があったことが考えられます。

族長を出す家系、あるいは祭祀を担当する家系が、本来は宗族の共有物である銅鐸を個人的に祀るようになることが考えられます。また青銅祭器の製作には宗族も相応の費用・労力を負担したでしょうから、規模の小さな宗族は巨大な銅鐸を入手することができなかったでしょう。

そこで10センチにも満たない小銅鐸が造られ、また一方では銅鐸片が造られ、特定の家系が個人的に祀るようになることが考えられます。大津遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、倭国大乱以後にも青銅祭器の祭祀は続いていたということだと考えます。

銅鐸片には銅鐸の「鰭」「飾耳」と呼ばれている、剥離し易すく原形をあまり損なわない部分が利用されることが多かったのではないかと思います。剥離された銅鐸片と元の銅鐸は一個の銅鐸と見なされており、「連宗」があったと考えると面白くなってきます。

2011年8月7日日曜日

西谷墳墓群 その1

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたものですが、私はこの図に出雲神話が集約されていると思っています。右下に図の説明がされていますが、字が小さくて読み難いので右側に書き出してみます。

神庭荒神谷遺跡に青銅器を埋めて青銅の神と決別した出雲は、全国にも先駆けて吉備とともに大きな墓を作ることによる「王」の神格化に成功した。しかし、ほかの地域は青銅器そのものをさらに巨大化させることによって、青銅の神をまつり続けようとしていた

図には山陰や吉備で銅剣・銅鐸が姿を消した弥生時代後期後半の状態が示されていますが、北部九州と四国西部に広形銅矛が分布し、近畿と四国東部にⅣ式・Ⅴ式の近畿式銅鐸が分布し、東海西部に三遠式銅鐸が分布するようになります。

3世紀後半にすべての青銅祭器が姿を消して古墳が出現しますが、山陰や吉備では古墳の出現に先立って青銅祭器の祭祀をやめて墳墓の祭祀に変えた、周囲ではその後も青銅祭器の祭祀は続いていたと説明されています。

青銅祭器の祭祀に替えて吉備では特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が特に大型化しますが、それが「王の神格化に成功した」と述べられています。

荒神谷遺跡の銅剣358本は岩永省三氏の分類による中細形c類で、中期末~後期初頭のものと言われています。銅矛16本は2本が中細形で、2本が中広形a類、12本は中広形b類だそうですが、中細形は中期後半のものであり、中広形は後期前半のものだとされています。

銅鐸6個は最古形式のⅠ式が2個、古形式のⅡ式が4個ということで、中期のものとされています。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個には荒神谷の銅鐸に続くⅡ式・Ⅲ式が多く、Ⅳ-1式も3個あるということですが、Ⅳ-1式以後の新形式の銅鐸が見られなくなります。

出雲国の青銅祭器は荒神谷の12本の中広形銅剣b類、加茂岩倉のⅣ-1式銅鐸を最後として姿を消しています。瀬戸内海沿岸に分布する平形銅剣もⅠ式とⅡ式に分類され、Ⅱ式は広形銅矛に平行する時期のものではないかとも言われていますが、やはり同じころに姿を消すようです。

荒神谷遺跡の中広形銅矛b類は後期前半の末期に鋳造されたとされていますから、それが埋納されるのは後期後半でなければいけません。上図には後期後半の状態が示されていることになります。

通説では後期の始まりは1世紀中葉とされていますが、私は107年に面土国王の帥升が遣使したことが原因になって中期から後期に移っていくと考えています。しかし後期の終わりは270~80年ころと考えるので、後期中葉は通説と大差はなく2世紀末の倭国大乱、卑弥呼が共立されたころになると考えます。

九州の銅戈は中広形の段階では銅矛を凌駕する数が鋳造されていますが、広形になると激減しています。その原因については倭国に大乱が起きて面土国王から卑弥呼に倭王位が移り、面土国王を擁立した銅戈を配布した部族が衰退したことによると考えています。

九州の大乱に連動して中国・四国地方でも争乱が起きるようです。九州の争乱は銅矛と銅戈を配布した部族の対立ですが、中国・四国地方では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立する関係にあったが、その対立に銅矛を配布した部族が介入したことで争乱に発展したようです。

神話では中国・四国地方の争乱がスサノオのオロチ退治として語られているようです。オロチが娘を呑むというのは、銅矛を配布した部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、荒神谷遺跡の中広形銅矛を配布したことが語られているようです。(2009年12月投稿)

上図の解説では倭国大乱以後、出雲や吉備では青銅祭器の祭祀は行なわれなくなるとされていますが、強引な通婚が規制されて、青銅祭器を鋳造することやそれを受け入れることはなくなるものの、祭祀そのものはその後も続くと思っています。

2011年7月31日日曜日

出雲神話 その4

倭人伝の記事で出雲に関係すると思われるのは「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあるだけですが、「海を渡ること千余里」については二つの解釈ができます。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡の東郷・土穴付近であり、千里は65キロですが、そうすると東の海は関門海峡になり、倭種の国は下関市付近にあったことになります。

もう一つの考え方はこの海を周防灘と考え、豊前の草野津(行橋市草野)から周防灘を渡ること65キロに倭種の国が有ると解釈するものです。

その場合には周防の佐波付近に国があることになりますが、これだと周防・長門の西半分は女王国に属していることになります。倭人伝の地理記事だと九州の東海岸までが女王国であり、海を渡ると女王国ではないように思えます。

どちらを選択したらよいのか迷っていますが、土器の分布状況などから周防灘・豊後灘沿岸に、「西瀬戸内文化圏」とでも呼ぶべきものを想定し、女王の主権下にはあるけれども半ば独立した国がある、と解釈するのも一案かと思っています。いずれにしても周防・長門を除いた中国・四国地方が稍を形成していると考えてよいようです。

この中国・四国地方の「稍」を、神話の出雲とするのがよいと考えますが、その中心になっていたのが律令制の出雲国を中心とする山陰地方だと考えます。神話には吉備や四国があまり登場してきませんが、その場合、吉備や四国を「出雲」の範疇に入れてよいのかという問題が出てきます。

島根半島はかつて島でしたが、斐伊川・神戸川の土砂による沖積で半島になりました。今の斐伊川は東流して宍道湖に流入していますが、『出雲国風土記』では西流して大社湾(神門水海)に流入しています。

江戸時代の寛永12年、16年の洪水で東流するようになったとも言われていますが、出雲平野の弥生遺跡は東流・西流を繰り返す斐伊川が残した自然堤防の上に営まれています。弥生時代には小型の川船なら大社湾から宍道湖に渡ることができたかもしれません。

この想定される水道をスサノオが活動する所と言う意味で「素尊水道」と呼ぶ人もいます。「素尊水道」周辺の出雲と伯耆西部の方言を「雲伯方言」と言いますが、雲伯地方に共通する文化が存在したことを表しているようです。

今では宍道湖・中海と、これに流入する河川を一括して「斐伊川水系」と言っていますが、そこに対馬海流に乗って朝鮮半島や北部九州の文化が伝わってきたことが考えられます。

それには北部九州の文化、ことに宗像(面土国)や周防など、対馬海流の影響を受ける響灘沿岸との関係が考えられています。、また神話や出土品などから、この地は九州と近畿北部・北陸との中継地になっていたことが考えられています。

その文化は出雲の斐伊川・神戸川、伯耆の日野川沿いに中国山地を越えて、美作や備中の高梁川、備後・安芸の江の川流域などに伝えられたことが考えられます。さらには瀬戸内海を渡って四国に伝わったことを考える必要もありそうです。

もちろん瀬戸内や四国には瀬戸内海航路による文化の流入があり、瀬戸内沿岸部の平形銅剣はこのことを表していると考えることができます。しかし備後北部の塩町式土器は吉備の上東式よりも山陰の青木Ⅱ式に近いということで、中国山地は山陰の文化圏に属していたことが考えられています。

大和朝廷が成立し大和が政治・文化の中心になると、逆に大和の文化が瀬戸内海を渡り、吉備から中国山地を越えて出雲に流入するようです。同時に山陰の文化圏に属していた吉備北部の山間部は山陽の文化圏に属すようになるようです。

とかく出雲と吉備は対比され、吉備と出雲とは別のものと思われがちですが、少なくとも弥生時代の吉備北部と山陰とは一体だと考えなければならないようです。それは吉備・安芸の平野部に及んでいたようです。

2011年7月24日日曜日

出雲神話 その3

出雲は地理的に筑紫と大和の中間に位置していますが、このことは必然的に神話や青銅祭器の分布に影響してきます。イザナギ・イザナミやスサノオは主として筑紫で活動する神ですが、突如として活動の場を出雲に移します。

青銅祭器を見ると中細形の段階で銅剣が九州から姿を消し、山陰に中細形銅剣c類が、また瀬戸内に平形銅剣が分布するようになります。度々述べてきたように銅剣が九州から姿を消すのは2世紀初頭に奴国王が滅んだことによります。

また大国主は出雲の神のように思えますが、名前が大物主やオオナムチに変わると大和や紀伊で活動します。これは大国主が中国・四国から東海・北陸にかけて分布する銅鐸を配布した部族の、神話・伝説上の始祖であることによります。

その内容の破天荒なことと共に、出雲神話では神話の舞台が目まぐるしく変わるので史実と思ってよいのか途惑いますが、これは史書に次のような形式があることにもよるようです。

紀事本末体  ストーリーの展開を、事件の筋が分かり易いように纏め直したもの
編年体     『春秋』に代表されるように年代順に記述を進めるもの
紀伝体     『三国志』のように本紀・列伝・志などの項目を立てて記述を進めるもの
国史体     日本独自のもので特定の個人を中心にして記述を進めるもの

私たちの関心を持っている『三国志』魏書・東夷伝・倭人条は紀伝体ですが、『古事記』の中・下巻は国史体であり、『日本書記』は国史体でありながら編年体でもあるようです。そして『古事記』、および『日本書記』の神話は「紀事本末体」のようです。

神話は時代も場所も異なる別の事件が、ひとつのストーリーに纏められています。4月投稿の「二人のヒコホホデミ」ではヒコホホデミが二人いることを述べましたが、侏儒国(日向)が統合される過程で起きた6つの事件が、神武天皇を天照大神(卑弥呼)の6世孫(ホノニニギの4世孫)とするために纏め直されているようです。

出雲神話にも紀事本末体の特徴が現れています。高天が原を追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治し「草薙の剣」を得ますが、これは2世紀末の倭国大乱が中国・四国地方に波及したことや、その結果スサノオに相当する王が立てられたことが語られているようです。

紀事本末体の出雲神話が伝えようとしているテーマは、天照大神(卑弥呼・台与)の王権が大和の大王(天皇)に継承されているのに対し、奴国王の王権は出雲の王に継承されているということであり、同様にスサノオが出雲でヤマタノオロチを退治するのは、面土国王の王権も出雲の王に継承されているということのようです。

紀事本末体の神話では事件の起きた年代が分かりませんが、これも私たちを途惑わせます。『古事記』は和銅5年(712)に成立しますが、翌和銅6年(713)には諸国に『風土記』の編纂が命じられ、養老4年(720)に『日本書紀』が成立します。

和銅6年から養老4年の間に国史体の『古事記』を、編年体併用の『日本書記』に変える作業が行われことが考えられます。神功皇后紀39年条には「是年、太歳己末」として倭人伝の記事が引用されており、太歳紀年法による編年が行われたことを表しているようです。

その結果、実際には4世紀末ころと考えられる神功皇后の活動時期は、木星の運行の2運(120年)古い3世紀とされ、神功皇后が卑弥呼・台与とされています。倭人伝に次の文があります。

魏略曰。其俗不知正歳四節。但計春耕秋収。為年紀・・(略)・・其人壽。或百年。或八九十年

この文については春と秋をそれぞれ1年とする「2倍年暦」が存在したとする説がありますが、寿命と平均壽命は違います。平均壽命は医療や食生活など生活環境によって異なりますが、人間の寿命は80~90年で、まれに100歳まで生きる人もいますがこれは不変です。

紀事本末体の神話で事件の起きた年代が分からないことと長寿の者が多いことには関係はなさそうです。倭人は生活環境が良く長寿の者が多いと述べられているのであって、暦がないから年代は伝えられなかったのであり、年代が創作されたことを表しているというのではないようです。

2011年7月17日日曜日

出雲神話 その2

青銅祭器は部族が通婚によって同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、青銅祭器を配布した部族の部族長と、配布を受けた宗族長の間に「擬似冊封体制」ともいうべき関係があったと考えるのがよいようです。

北部九州では青銅器は中細形になるまで副葬されますが、他の地方では中細形はすでに祭器になっており、中国地方で祭器になったことが考えられています。最近では九州で最古式の銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。

冊封体制については貢物を献上するという名目の貿易だと言う考え方もあるようですが、倭人伝では賜与の品を国中の人に示して国家(魏)が、汝(卑弥呼、及び倭人)を哀れむ(慈しむ)ことを知らしめよと命じられています。

これは貢納品に対する返礼の品が分与されたことを示していますが、分与する者とそれを受ける者との間には、魏の皇帝と卑弥呼の関係のような主従関係が存在したことが考えられます。

紀元前194年~180年に衛満が朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定めて朝鮮王と称するようになります。このころ朝鮮半島では多鈕細文鏡が作られています。

また銅矛、BⅡ式銅剣・銅戈・銅鐸が造られそれが倭国に流入してきます。これが朝鮮式銅鐸や、細形に分類される利器だと考えられますが、これは衛氏朝鮮と倭人の交流を示すものでしょう。

紀元前108年には武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪など四郡を設置しますが、前82年に真番、臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。

倭国は楽浪郡を通じて前漢の冊封体制に組み込まれて百余国が遣使し、前漢鏡や前漢製の青銅利器が流入してきます。百余国が遣使したのは前漢時代の後半で政情の最も安定していた宣帝・元帝(紀元前74~33)の時代でしょう。

王莽の時代に鋳造された貨泉が流入するのを最後に、鏡以外の青銅器の流入は止まるようですが、その後も青銅器を尊重する風習は残り祭器に変わっていくと考えます。つまり青銅器が祭器に変わるのは王莽の時代だと考えるのです。

それは王莽の時代に儒教の「礼」が国家教学として確立したことと関係がありそうです。儒教の礼に「君臣の礼」があり、君主と下臣の間の秩序を守ることが要求されましたが、それは冊封を受けた倭人の王にも適用されたでしょう。

後漢は25年に成立しますが、57年に奴国王に金印を授与したのはその現われであろうと思います。それは倭人の王と下臣の関係にも影響し、部族を構成している宗族の族長には王との間だけでなく、さらに部族長との間にも「君臣の礼」が要求されるようになったということでしょう。

中国と冊封関係にあった王は皇帝から下賜された銅鏡を分与することが可能ですが、冊封関係のない王にはそれができません。それができたのは奴国王・面土国王、そして卑弥呼・台与だけです。おそらく銅鏡には皇帝が下賜した印綬のような性格があるのでしょう。

そこで王を擁立する可能性のある大部族が考え出したのが、銅鏡以外の青銅器を鋳造して配布することで「擬似冊封体制」を構築すことだったと考えます。銅剣・銅矛・銅戈が利器から祭器に変わる経過は分かりませんが、九州で最古式の福田形銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。

私は福田形銅鐸を青銅器が祭器に変わる最初の時期のものだと考えます。銅鐸を祭器に変えたのは楽浪郡に対抗した朝鮮半島からの渡来民の子孫だと考えるのも面白そうです。福田形銅鐸が中国地方に配布されたことで、中国地方では銅剣も祭器になっていくと考えます。

そして青銅器の鋳造技術を持っていた九州でも銅矛・銅戈が祭器に変わるのでしょう。九州では北方遊牧民の風習を始原とする銅鐸が早い時期に姿を消しますが、九州では中国の青銅器を副葬する風習の影響を受けて、中細形の段階になっても副葬されるものがあると考えます。

2011年7月10日日曜日

出雲神話 その1

日向神話・高天原神話に触れてきましたが、当然のこととして出雲神話にも触れないわけにはいきません。一昨年6月に投稿を始めて今回で202回目になりますが、その間には小さな修正はしましたが大筋の考えは一貫しているつもりです。それを再確認しつつ出雲神話に挑戦してみようと思います。

今まで述べてきたことを大別すると、①面土国に関するもの ②「稍」と冊封体制に関するもの ③面土国王とスサノオに関するもの ④部族と青銅祭器に関するものになりますが、それぞれは独立しているのではなく相関々係にあると考えています。

①面土国に関するもの
倭人伝の記事の多くは正始8(247)年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞ですが、面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。方位が南とされている邪馬台国・投馬国は宗像郡の南に位置しているはずです。

倭人伝・韓伝以外の諸伝の千里は魏里の300里(130キロ)ですが、倭人伝・韓伝だけは150里(65キロ)になっており、倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡(面土国)の土穴・東郷付近です。現在の宗像市役所の周辺ですが、「自女王国以北」は遠賀川流域になります。

②「稍」と冊封体制に関するもの
弥生時代後半(紀元前後以降)の倭人は朝鮮半島に在った楽浪郡・帯方郡を介して、後漢・魏の冊封体制に組み込まれますが、冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないというものがありました。

冊封を受けた国の領域は「王城を去ること三百里」、或いは「方六百里」に制限されていましたが、それより以遠は隣国になります。これを「稍」と言い「稍」は260キロ四方になります。

魏と冊封関係にあったのは北部九州の女王国(筑紫)だけでしたが、冊封体制は職約(義務)によって自動的に南九州(侏儒国、日向)や中国・四国地方(女王国の東の国、出雲、或いは近畿・北陸(越)地方に及ぶようになっていました。東海東部や関東にも及んでいたことが考えられますが、神話はこれに言及しておらず、青銅祭器の分布も希薄です。

「稍」にはそれぞれ部族によって擁立された首長(王)がいますが、筑紫の王が卑弥呼・台与(天照大神)であり、出雲の王が大国主です。邪馬台国が筑紫・畿内のいずれにあったにせよ、南九州や中国・四国地方は独立した国であり女王の統治下にはありませんでした。

③神話に関するもの
天照大神が卑弥呼・台与であるとはよく言われていることですが、白鳥庫吉はスサノオについて狗奴国の男王であろうと言っています。しかし面土国が宗像郡だというのであれば、宗像三女神との関係などからスサノオは面土国王だと考えることができるようになります。

北部九州の「稍」、つまり筑紫の歴史が「高天原神話」であり、南九州の「稍」の歴史が「日向神話」になります。中国・四国地方の「稍」の歴史が「出雲神話」ということになりますが、そうであれば「大和神話」や「越神話」もあるはずです。しかしこれは「出雲神話」の中に含まれています。

神話の主テーマは北部九州勢力が「稍」を統合して統一国家の倭国を出現させたことですが、大和や越の神話が出雲神話の中に含まれるのは、北部九州から見て出雲を統合することと、出雲以東を統合することとが同義だからです。出雲ではなく大和が中心になってもよさそうなものですが、これは「稍」の地理的な位置関係があり無理なことです。

④部族と青銅祭器に関するもの
倭人が中国の冊封体制に組み込まれたことにより部族は地縁・血縁的な文化的結合体から、支配者階層が通婚することによって結合した政治的結合体に変質し、王を擁立するための組織になっていくようです。

部族は通婚によって同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布しますが、「稍」によって分布する青銅祭器の器種が異なり、北部九州には銅矛・銅戈が、中国・四国には銅剣・銅鐸が、また近畿・東海西部には銅鐸が分布しています。

部族は王を擁立しますが王の擁立を巡って対立しました。倭人伝に見える倭国大乱や卑弥呼死後の争乱は、北部九州の銅矛と銅戈を配布した部族が対立したものですが、中国・四国地方の「稍」では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立したことが考えられます。

2011年7月2日土曜日

高天が原神話 その6

弥生時代の人物と言えば卑弥呼・台与ということになってきますが、難升米あっての卑弥呼・台与と言えるようで、その後の倭国は難升米の予想した通りに女王制が有名無実になり、やがて倭人の統一国家、つまり大和朝廷の統治する倭国が誕生するようです。

図は私の考える思金神に関わる『古事記』の神統と、それに対応する倭人伝中の人物を推定したものです。台与が天照大神であり大倭が高木神であるのなら、高木神の子とされホノニニギの叔父とされている思金神を難升米とするのがよさそうです。

思金神は書によっては「思兼神」「八意思兼神」とも書かれていて深謀・遠慮する神だと考えられています。天照大神・高木神が他の神に指令を下す「指令神」であるのに対し、思金神はその指令を(ことに高木神の指令を)具体化して進言する神として描かれています。

思金神と難升米は性格が似ていますが、図の系譜を倭人伝中の人物の血縁関係が示されていると考える必要はないようで、言わば247年ころの女王国内のパワーバランスが示されていると考えればよさそうです。

安本美典氏は台与を万幡豊秋津師比売だとされていますが、オシホミミが卑弥呼死後の男王であり、ホノニニギが台与の後の王だと考えられますから、その可能性もあるように思います。

とすれば神統上では難升米は台与の兄か弟ということになってきますが、これも血縁関係が示されていると考える必要はなさそうです

『日本書記』は神の尊称の「命」と「尊」を明確に使い分けており、天皇の祖には「尊」が用いられています。このことから『日本書紀』の一書に見える稚日女尊(台与)と大孁貴(卑弥呼)を合成したものが天照大神だと考えていますが、これは伝承した氏族が違うことによるのでしょう。

万幡豊秋津師比売と稚日女尊がどのような関係になるのかは資料にありませんが、図では台与の後の男王(ホノニニギ)は大倭と卑弥呼の孫と言うことになってきます。高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)と天照大神・ツキヨミ・スサノオが同格の位置付けになっています。

これは天照大神を「皇祖」とする考え方があるのに対して、元来の邪馬台国の支配者(首長、王)である高木神を「皇祖」とする考えもあるということで、そのため神話の冒頭に高天が原にいる「別天つ神」の1柱として高木神が登場してくることになるようです。

『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に、何度かの倭人の遣使があり、泰始の初め(266年)にも遣使したとしています。司馬昭が相国だった7年間の、何度かの倭人の遣使も難升米の発案によることでしょう。

銅矛を配布した部族の神話・伝説上の始祖がイザナギだと考えますが、難升米は3世紀の銅矛を配布した部族の族長、ないしは有力者だと考えるのがよいと思っています。難升米は安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ており、また倭人社会の動向も把握していたように感じられます。

思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し主導したのが難升米だということになります。それは250年代のことであり、難升米が50歳代のことになります。

5月に投稿した『二人のヒコホホデミ』ではシオツチノオジは銅矛を配布した部族であろうと述べましたが、シオツチノオジに具体的な指示を出していたのも難升米であったと思います。そして神話の語るところからみて大国主の国譲りを発案するのも難升米のようのです。

難升米は249年の司馬懿のクーデターを、いずれ司馬氏か魏を乗っ取ることだと判断したと考えます。難升米は司馬懿のクーデターで台与の親魏倭王は価値のないものになったことを知り、また中国・朝鮮半島の政情を見るにつけ、冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えたと思います。

それは卑弥呼以来の女王体制が維持できなくなるということで、難升米のシナリオには、魏の消滅以後のことも考えられていたでしょう。三世紀後半に大和朝廷が成立し古墳時代が到来することも、難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えます。

2011年6月26日日曜日

高天原神話 その5

卑弥呼の死後には銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になります。その結果台与が共立されますが、台与は13歳の少女で名目だけの女王だったようです。

天岩戸にこもる以前の天照大神は自身で活動しますが、天岩戸以後には単なる指令神であったり、高木神とペアで指令を下したりしていて、女王国の実権は大倭(高木神)が掌握していたようです。その大倭の参謀総長、兼台与の官房長官難升米のようです。(2009年9月16日投稿)

卑弥呼は弟が補佐しましたが台与を補佐したのが難升米のようです。私は高木神が大倭だと考えていますが、そうであれば台与を補佐したのは大倭のようにも思えます。しかし大倭はキングメーカー(陰の実力者)のようです

238年には卑弥呼が「親魏倭王」に、また難升米は率善中朗将に冊封されています。「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる地位ですが、難升米の中朗将は比二千石(実質では千二百石)が任命される中央政府の官職です。

中央政府の官職には「中二千石」や「万石」もありますが、地方行政官では州刺史が最高位の二千石であり、大郡の太守が千石、小郡の太守が六百石ですから、比二千石の難升米は州刺史と大郡太守の中間の地位になり、地方行政官としては相当な高位です。因みに帯方郡使の張政の塞曹掾史は百石です。

難升米に黄幢が授与されたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に報告したからですが、行政官が軍事行動を起こす際には武官位が追送されます。黄幢は比二千石の武官が軍事行動を決行する時に授与されるもののようです。比二千石の武官には校尉がありますが、難升米は「護狗奴校尉」のような魏の武官位を追与されて狗奴国討伐を指揮したのでしょう。

このような活動のできた難升米はどのような背景を持つ人物なのか気になるところですが、倭人伝の記述するところから見て安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ていて外交を熟知していることが考えられます。

魏皇帝の黄幢・詔書を利用して狗奴国を討伐するという発想は、いかにも外交を熟知した難升米らしいと言えます。狗奴国討伐が『古事記』のスサノオによる保食神殺しや、『日本書紀』のツキヨミによる大気津比売殺しの神話になったと考えていますが、保食神・大気津比売は食物の神であることが共通しています。

247年ころに台与が遣使していますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたのであれば、難升米の官位も認められたことが考えられます。このころスサノオの高天が原追放で語られている、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、銅戈を配布した部族が消滅します。

銅戈を配布した部族が消滅したことで王位を巡る部族間の対立はなくなり、女王制は有名無実になってきますが、そこで台与を退位させ男王を立てて、倭人を統一する動きが出てくるようです。その一環がホノニニギの天孫降臨ですが、それを画策したのは大倭(高木神)であり、魏の率善中朗将にして狗奴国討伐の指揮官でもある難升米のようです。

黄幢・詔書は247年に届きますが、届けた張政は台与と難升米に「檄を為して告喩」したと書かれています。台与と共に難升米が「告喩」されていることを見ると、難升米は内政においても的確な判断の下せる人物だったようです。

倭人伝の記事は正始8年で終わっており、難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間ですが、239年に卑弥呼の使者になり率善中朗将に任ぜられたのが40歳だったと仮定すると、黄幢、詔書が届いた時には40歳代の後半だったことになります。

2009年9月の投稿では神武天皇の年代を明らかにできませんでしたが、5月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べたように266年の倭人の遣使が神武天皇の行ったものであれば、ホノニニギの天孫降臨は250年代であることが考えられ、これも難升米の発案であり難升米が50歳代のころであったことが考えられます。

266年の倭人の遣使が契機になって270~80年代に大和朝廷が成立すると考えますが、難升米が生きていれば70~80歳のころのことになりそうで、難升米の生涯は大和朝廷の成立に賭けたものであったということになりそうです。