2009年9月24日木曜日

蛭児 その2

卑弥呼の鬼道とは神憑りして神の託宣を伝えるシャーマニズムのようです。律令が整備されていない時代には慣習や前例が法になっていました。後の大和朝廷でこれを職掌としたのが中臣氏(藤原氏)です。しかし慣習や前例がない場合にはシャーマンの下す託宣が法になりました。

今のイギリス憲法も形式的にはそうなっているようで、シャーマンの役割はイングランド王になるようです。また日本では国会で討議して新しい法律を決議し、天皇が認証するという形になります。卑弥呼の場合には討議は重臣たちが行なっていたでしょうが、決議案の採択の部分を神の託宣とすることのできる立場にいたと思います。

卑弥呼の鬼道については当時中国で流行していた道教と関係付ける説があり、他にも奇妙な説を見かけますが、その重臣と卑弥呼を結び付けるのがサニハ(審神者)なのです。

名を卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年巳に長大。夫婿無し。男弟有りて国を冶むるを佐く。王と為りて自り見る有る者少なし。婢千人を以って自ずから侍らしむ。唯男子一人有りて飲食を給し辞を伝えて出入りす

女王になってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子が飲食を給仕し、辞(じ)を伝(つた)えるために出入りしているだけだというのです。この男子については卑弥呼の弟と見る説がありますが、文脈上からみて弟とするのには無理があります。

卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよいようで、ヒルコはサニハ(審神者)のようです。『日本書紀』本文は蛭兒について次のように記しています

次ぎに蛭兒を生まれた。すでに三歳になるのに脚が立たなかった。そこで天磐樟船に乗せて、風のままに放ち捨てた。

『古事記』にもイザナギ・イザナミ2神が水蛭子を生んだという同じような記事がありますが、『古事記』の神話は島を生む物語ですから両者は無関係と考えるのがよいようです。

卑弥呼の元に出入りする男子については魏には内緒にされた影の夫であろうとか、情人だという穿ったことが言われています。孝謙天皇と弓削道鏡との関係にも同じようなことがいわれていますが、それは俗世間から見た邪推です。巫女やサニハは神のお告げに誤りが生じないように俗事に係わることを避けますから、独身であることが求められていました。

神に仕える女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのです。『先代旧事本記』は天照大神を大日靈女貴尊(おおひるめむちのみこと)とし、蛭子を大日靈子貴尊(おおひるこむちのみこと)としていますが、換言すると女性の大蛭女(おおひるめ)に相対する男性が蛭子(ひるこ)ということになります。

巫女にしてもサニハにしても霊感が働かなければならずそれには修行も必要で、子供が三歳くらいになると自我が芽生えてきて、能力の有無が判ってきます。能力の有る子供は俗世間から隔離されて、巫女なりサニハなりの修行をしました。

私は伊都国は福岡県田川郡だと考えていますが、田川郡で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。ヒメは五色の着物を着ていて、何事でも見通す力を持っているが、その姿は修行を積んだ者だけに見えるということです。

修行を積んだ者だけに姿が見えるということから見て香春神社の祭神の豊比売神か、宇佐神宮の比売大神のことを言っているのでしょうが、巫女にしてもサニハにしても修行が必要であり、ヒルコが三歳になるまで脚が立たなかったので船に乗せて捨てたというのは、サニハとして俗世間とは隔絶した社会にいることを表しているようです。

福岡県朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の背後の山は御陵山と呼ばれていて、朝倉で病死した斉明天皇の殯陵という伝説のある古墳があります。「邪馬台国その6」で卑弥呼の墓ではないかと述べましたが、6世紀の古墳に2基を接合した例を知りません。

卑弥呼の元に出入りする男子は飲食の給仕までしていました。卑弥呼はその男子に全面的に依存した生活を送っていたようです。二人は神事に携わる者として男女の間柄を超えた強い絆でばれていたようです。卑弥呼が死んで墓が造られた時、人々はそばにこの男子(蛭児)の墓を造ってやったのでしょう

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