2009年10月17日土曜日

中期前半

武帝は紀元前141年に即位し、87年までの54年間在位しました。中期前半は紀元前九〇年から西暦紀元までと考えていますが、武帝の死のころが前漢王朝の転換点になっているようです。それに追随する形で弥生時代が前期から中期に移っていくと考えればよいと思います。

武帝は108年に真番・辰国が遣使するのを衛氏朝鮮が妨害しているという、冊封体制の職約(義務)違反を理由にして衛氏朝鮮を滅ぼし、そしてその地に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置します。しかし真番・臨屯・玄菟の3郡は維持していくことができず、紀元前82年に真番・臨屯郡は廃止され玄菟郡も西に後退します。

ただ楽浪郡だけは真番・臨屯郡の果たしていた役割をも合わせ持つ、朝鮮半島経営の拠点になりました。これを大楽浪郡と言っていますが、中期前半は前漢の大楽浪郡時代に並行する時期だと考えるのがよいと思っています。

紀元前七四年に即位した宣帝は下情に通じた名君として知られ、武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝の子の元帝の時代が中期前半二期になりますが、匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。このころ倭人も楽浪郡を通じて前漢王朝と接触したと考えられます。倭人伝に「旧百余国、漢時有朝見者」とあるのはこのころのことでしょう

福岡県春日市須玖岡本遺跡、飯塚市立岩遺跡、前原市三雲南小路遺跡などの出土品が流入してくるのがこの時期だと考えられます。ただこれらの遺跡の副葬品が作られた時と、副葬された時には時間差があると考えなければいけないでしょう。前漢王朝の滅亡が原因になって前漢鏡が価値を失い、王莽の新鏡や後漢初期の鏡が流入してきたことで副葬されるのであり、遺跡の実年代は紀元後一世紀前半以後になると思います。

紀元前三三年に成帝が即位しますが、このころから前漢末の社会不安が広がっていきます。次の哀帝は同性愛の相手を大司馬に任ずる愚帝でした。次の平帝も九歳で即位しましたが、14歳で王莽に毒殺されます。3期は変革期ですが、中期前半3期の中国は王莽による前漢王朝簒奪が準備された時期でした。

この中期前半で特記されなければならことは、儒教が国教として定着したことです。前漢の高祖、劉邦は遊侠の徒から成り上がって皇帝になりましたから、倫理思想とか政治思想には関心を持たず、儒者の勿体ぶった態度を嫌い儒者の冠帽に小便をしたといわれています。

しかし前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、武帝の治世の紀元前一三六年に、菫仲舒の奏上により五経博士が定められて、太学で儒教の経典である五経を講義させるようになります。しかしまだ国教として定着したわけではありません。儒学が国教として定着するのは紀元前四九年に即位した元帝以後のことです。

元帝は熱心な儒学信奉者で、まだ皇太子であったころ父の宣帝の統治を批判して儒教に元づく統治を進言しました。その執着ぶりに宣帝は「国家を乱すのは皇太子であろう」と嘆いたということですが、宣帝の嘆いた通りに元帝の甥の王蒙が儒学を弄して前漢を滅ぼすことになります

元帝が父の宣帝に儒教に元づく統治を進言した時、宣帝は「王道と覇道とは時に応じて使い分けるものだ」と答えています。王道とは儒教に基づく統治であり、覇道とは秦の法治主義などを言っているのでしょう。元帝の統治時代は平穏で覇道は必要のないものでしたので儒教が重視されました。

即位した元帝は儒家を登用して彼らの言う理想的な政治を行おうとしました。孔子は周初期やそれ以前を理想的な社会とし、その時代の道徳を取り戻すことを目標としたが、登用された儒家は周初期やそれ以前の社会を再現すれば、それが理想的な社会だと考えていました。

周初期と前漢時代とでは時代背景が違いますから、当然のこととして矛盾が生じています。また思想には得てして理想論が加わりやすいものです。そのため元帝の政治は孔子の理想を追求するだけの、現実を無視したものになりました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。

こうしたことから孔子の思想に忠実であろうとする儒者を今文派というのに対し、儒教を現実に合うように解釈しようとする一派が生まれ、その一派を古文派と言っています。古文派は秦の始皇帝による「焚書坑儒」で焼け残った儒書をテキストにしていると称したのでこう呼ばれています。これが冊封体制によって倭人に伝わってきたようです。

ただし倭人がこの時に儒教を知ったというのではありません。中国の統治方法が儒教の教理に基づいており、冊封体制の根本原理でもあったので、倭人はこれを部族国家の統治方法として受け入れたのです。換言するとそうとは知らずに儒教を受け入れていたということでしょう。

儒教では宗廟祭祀が重視されていますが、私はそうとは知らずに儒教を受け入れたことが、青銅器を祭器に変えていく原因になっており、また神道が成立する要因にもなっていると考えています。青銅祭器は巨大な部族が同族関係にある宗族に配布しましたが、青銅祭器の配布を受けた宗族は、これを神体とする宗廟祭祀を行ないました。それが後に氏族の行なう氏神の祭りになり、神社の神体の鏡になると考えています。

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