2009年9月18日金曜日

思金神 その3

難升米(思金神)が政治家としてデビューしたころには卑弥呼は王になっていたでしょう。私は難升米の類いまれな政治家、外交官としての感性は、卑弥呼が優れたシャーマンとして倭国を統率したのと同じで、三国時代という中国の歴史の中でも特異な時代に対応して育まれていったと考えています。

このような時代に対処するには、時代に応じた方法があったことが考えられますが、難升米は中国、朝鮮半島はもとより、倭国内にも情報網を持っていたことが考えられます。難升米は阿曇、住吉、宗像など玄界灘沿岸の海人を使って情報収集しており、事態に的確に対応することができた人物だったようです。

238年8月に公孫淵が殺されると翌年6月には難升米が帯方郡に行っていますが、その結果卑弥呼は親魏倭王に、また難升米自身も率善中朗将に任ぜられています。外交の成果は外交官の腕の如何によって変わってくるものですが、卑弥呼が親魏倭王に、また自身も率善中朗将に任じられたのは、難升米の外交手腕がなみなみならないものであったことを表しています。

泰始元年(265)12月には司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位し晋が成立しますが、その翌年の10月か11月に倭人が遣使しています。とすれば使者が倭国を出発したのは気候の安定している5、6六月ころでしょう。それは難升米が66歳ころのことで、この遣使を画策したのも難升であることが考えられます。

この対応の素早さは景初3年(239)と泰始2年(266)に共通しており、時宜を見逃さない難升米の政治感覚の鋭敏さが表われているように思われます。倭人伝の記事は正始8年で終わっており、その後の難升米の消息は不明ですが、難升米が思金神なら卑弥呼死後には台与や大倭を補佐したことが考えられます。

思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し、主導したことになります。私は神武天皇の東遷、すなわち大和朝廷の成立も難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えています。それは民族統一であり、倭民族の自立ということでした。

魏王朝は敵対する大勢力が出現するのを警戒して、稍、つまり六百里四方以上を支配することを認めませんでした。卑弥呼には親魏倭王という高位を与えましたが、これとても女王国の支配は認めても周辺の稍(国)を支配することは認めていません。

難升米は中国・朝鮮半島の政情や倭人社会の構造を見るにつけ、倭人は冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えていたと思います。幸か不幸か倭人は島国に住んでいるので、高句麗・韓のように緊迫したものではありませんでしたが、倭人だけが特別というわけにはいきません。

正始10年に司馬懿がクーデターを決行し曹爽(そうそう)一派を追い落としますが、難升米はいずれ司馬氏か魏を乗っ取り、やがては中国を再統一するであろうと判断していたと考えています。それは倭国の内政においては、部族が対立したことで共立された女王は不必要になることを味します

難升米のシナリオには、中国が再統一された後のことも考えられていたはずで、それが倭国の統一でした。中国の動きに並行して間もなく台与に換わって男子が王になり統一が進められていきますが、それを発案したのも難升米だったと考えます。

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