2011年12月25日日曜日

神功皇后伝承を巡って その4

2011年2月投稿の「台予の後の王その4」では遠賀川流域に物部氏の故地と考えられるものがあり、遠賀川流域が奴国であることから物部氏の遠祖は奴国王ではないかと述べました。そして前回の投稿では応神天皇は奴国王の末裔ではないかとも述べました。

仲哀天皇の熊襲討伐については『日本書記』仲哀天皇紀八年条に関門海峡・洞海湾・遠賀川河口部を舞台とする、岡県主の祖の熊鰐や、伊覩県主の祖の五十迹手の物語が見えますが、岡県は遠賀郡であり倭人伝の不弥国だと考えています。また伊覩県は糸島郡ではなく田川郡だと考えます。

前回の投稿では嘉穂郡頴田村(現飯塚市鹿毛馬)、あるいは鞍手郡香井田村(宮若市東部、糸田町)と遠賀川の水運の関係について述べましたが、遠賀川の河口部が岡県です。また遠賀川と洞海湾は水路で繋がっていたとも言われています。

熊鰐や五十迹手は仲哀天皇に対して恭順の意を表していますが、これは反面では水門(みなと、遠賀川河口部)の神である大倉主や菟夫羅媛のような、仲哀天皇を筑前に入らせまいとする勢力が存在したということでもあろうと思います。

岡津から儺県の橿日宮(福岡市香椎)に入った仲哀天皇は熊襲を討伐しようとしますが、神功皇后の降した神示は「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや」というものでした。

私はこの熊襲を肥の国(肥前・肥後)の住民という意味ではなく、仲哀天皇を筑前に入らせまいとする勢力だと考えます。皇后の降した神示はこの熊襲は討伐するに足りないから、それよりも新羅を得るようにというものです。

天皇はこれを信じず熊襲討伐を強行しますが、勝つことができませんでした。天皇は神罰を受けて早死にしたとも、熊襲の矢を受けて死んだともされています。仲哀天皇が筑前に入ったのは朝廷の支配を受けまいとする勢力を一掃するためであって、新羅を得ることとは別問題だったと考えます。

私は律令制の宗像郡を面土国とし、鞍手・嘉麻・穂波・の3郡を奴国とし、田河郡を伊都国とするのがよいと考えますが、図の太い赤線が私の考える伊都国への「東南陸行五百里」の行程です。

赤線上の白い二重丸は吉田東吾編『大日本地名辞書』西国編などによる物部氏の故地ですが、これらは筑紫君磐井の乱以前からあったと考えられているものです。

その中に前回に述べた私が応神天皇の生れた「筑紫の蚊田」だと考えている「粥田の庄」や鞍手郡香井田村、あるいは嘉穂郡頴田村に関係すると思われるものがあります。

筑紫弦田物部 鞍手郡香井田村鶴田  宮若市鶴田
狭竹物部    鞍手郡粥田郷小竹    鞍手郡小竹町小竹
二田物部    鞍手郡二田           鞍手郡小竹町新多
芹田物部    鞍手郡芹田           宮若市芹田
十市物部    鞍手郡都市           宮若市都市

前回に述べた応神天皇の生れた「筑紫の蚊田」が旧嘉穂郡頴田村(飯塚市鹿毛馬)、あるいは鞍手郡香井田村(宮若市東部)であれば、倭人伝の伊都国への「東南陸行五百里」の行程と物部氏の故地、及び応神天皇の生れた場所が重なってきます。

嘉穂郡頴田村、現在の飯塚市鹿毛馬には物部氏の故地と思われるものはありませんが、私にはこれが偶然の一致のようには思えません。応神天皇が奴国王の末裔かどうかは別にしても、即位するについては物部氏が関係しているよう思われます。

欽明・敏達・用明朝に物部・中臣氏は仏教の受容を巡って蘇我氏と対立しますが、応神天皇が即位するについても物部・中臣氏など天神系氏族と蘇我氏など武内宿禰系氏族の対立がすでに始まっていたと考えるのがよさそうです。

武内宿禰系氏族に擁立されていた仲衷天皇は、天神系氏族を支持する筑紫(筑前・筑後)の勢力(熊襲)を平定しようとしたのでしょう。仲衷天皇が筑紫で崩御したので、物部・中臣氏などの天神系氏族は、武内宿禰系氏族にも天神系氏族にも関係がなく、奴国王の末裔でもある応神天皇を迎えようとしたことが考えられます。

2011年12月18日日曜日

神功皇后伝承を巡って その3

仲衷天皇は神功皇后の降した朝鮮半島を得るように、という神示に従わず熊襲討伐を強行したので神罰を受けて早死にしたとも、あるいは熊襲の矢を受けて死んだともされています。熊襲は朝廷の政策を批判する人々なのでしょう。

『日本書記』神功皇后紀三十九年条は、魏の景初3年(239)に卑弥呼が大夫の難斗(升)米を帯方郡に遣わした『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていますが、神功皇后三十九年は大歳干支の己末とされ、その実年代は2運(120年)新しい360年ころであり、神功皇后が死んだとされる六十九年は390年ころだと考えられています。

広開土王碑文には391年に倭人が百済・新羅を臣民にしたとありますから、360~390年ころに朝鮮との関係が問題になっていたことは考えられてもよいことです。九州には朝廷が朝鮮半島に関与するのを批判する人々がいたと思われますが、その中には朝鮮半島からの渡来民と、その子孫がいたことが考えられます。

景行~仁徳の5朝に活動するのは紀・蘇我・巨勢・平郡・葛城など大和とその周辺を出自とする豪族が共通の祖としている武内宿禰(たけしうちのすくね)で、九州を出自の地とする伝承を持ち「天神」に類別される物部・中臣氏などは活動していません。

後の欽明・敏達・用明朝に蘇我氏と物部・中臣氏は仏教の受容を巡って対立しますが、武内宿禰が活動する裏では武内宿禰系氏族と、天神系氏族の間の対立がすでに始まっていたと考えるのがよさそうです。

『古事記』「日本書記」では朝廷の朝鮮半島政策を批判する人々がいたこと、及び武内宿禰系氏族と天神系氏族の間の対立があったために仲衷天皇は殺され、これとは無関係で継体天皇と関係のある神功皇后を仲介にして、やはり関係のない応神天皇が即位したことになっているようです。

『神功皇后摂政前紀』仲哀天皇9年条は応神天皇の誕生の地を宇美(糟屋郡宇美町)としていますが、応神天皇紀には「筑紫の蚊田に生れませり」とあります。蚊田については谷川士清の「日本書記通証」などは筑後国御井郡賀駄郷(小郡市平方)とし、鈴木重胤は筑前国怡土郡長野村蚊田(糸島市長野)としています。

私は「筑紫の蚊田」を嘉麻郡頴田村(飯塚市鹿毛馬)とするのがよいと思っています。頴田という地名は高野山金剛三昧院の荘園だった「粥田の庄」に由来するとされています。

昭和2年に鞍手郡香井田村(宮若市東部)が宮田町に編入されますが、この香井田も粥田の庄に関係があると言われています。

粥田の庄について正応三年(1290)の高野山金剛三昧院文書に次のようにあります。遠賀川の下流は現在の直方付近まで大型船が遡上できたのでしょう。

下 西海道関渡沙汰人
 早く高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人並びに運送船を勘過せしむべき事。右、関々津々、更にその煩いを致すべからず。勘過せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って下知件 の 如 し

鎌倉幕府は粥田の庄を通過する人や船が停滞しないよう配慮せよと命じたようです。当時、元(蒙古)の再度の来襲が噂され、鎌倉幕府はその対応に追われていたようです。「粥田庄上下諸人並びに運送船」とあることから見て、遠賀川を上り下りする水運が停滞すると対応が遅れることが考えられたのでしょう。

粥田の庄はそれだけの価値を持つ地だったようですが、私は伊都国の「陸行五百里」は宗像郡の東郷・土穴から嘉麻・田河郡境の烏尾峠までの距離だと考えています。烏尾峠は頴田と田河郡糸田の境になりますが、大宰府と草野津(行橋市草野)を結ぶ律令制官道の田河道も烏尾峠を越えています。

頴田には鹿毛馬神護石築かれています。私も当初、鹿毛馬神護石の存在理由が分りませんでしたが、地理的に見て響灘と周防灘を結ぶ要所で、九州東北部の中心といえる場所であることを考えるとその理由が分ってきます。

奴国は福岡平野ではなく鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えますが、頴田・香井田は嘉麻郡・鞍手郡に属します。「筑紫の蚊田」が頴田・香井田であれば、応神天皇は57年に遣使した奴国王の末裔であることが考えられるようになってきます。

2011年12月11日日曜日

神功皇后伝承を巡って その2

九州王朝が存在したとする説がありますが、応神天皇や天智天皇の周辺に皇位継承を巡る何らかの問題があり、それを朝鮮半島と大和の朝廷の関係に結び付けると、九州と大和に別個の王朝があったことになるとゆうものだと理解しています。

それには大和朝廷の成立から大化の改新にかけての統治制度が氏姓制だったことが関係していると考えますが、弥生時代は宗族長層が通婚することで、女系(母系)血縁集団である部族を形成する「部族制社会」だったと考えています。

紀元前一世紀には倭人も楽浪郡を介して中国の冊封体制に組み込まれます。冊封体制は有力な氏族長に官位を授け統治を委任するもので、部族連盟国家の首長が中国の王朝から王の官位を与えられると、ここで初めて部族の首長は王になります。

この部族連盟国家が270年ころ統合されて大和朝廷が成立すると考えますが、その統治制度が氏姓制(うじかばねせい)です。氏姓制の大和朝廷は豪族の連合政権で、その統治も氏族の族長の合意によるものだったと考えます。

氏姓制下の天皇は大王・大君と呼ばれていますが、中央集権制の天皇と異なり弥生時代の王や氏姓制の君(きみ)の最高位のものといった位置づけだったのでしょう。

氏姓制では氏族長は土地・人民を私有することが認められ、姓が与えられて朝廷の統治を分担しましたが、律令制になると律令が整備されて姓は廃止され、氏族長の土地・人民の私有は認められなくなり(公地公民)、氏族は貴族や官僚を出すための組織になります。

律令が整備されたことによって天皇の統治権が確立しますが、氏姓制から律令制に変わるきっかけになったのは氏姓制の頂点にいた蘇我蝦夷・入鹿父子が排除された「乙巳の変」です。この事件をきっかけにして翌大化2年(646)に「大化の改新」の詔勅が出され天皇と豪族の支配・被支配の関係が明確になってきます。

しかしに改革が一朝一夕に成るということはなく「大化の改新」の時期を持統天皇の時代までとする考え方もあります。時代が降るに従って天皇の権力が強まってきますが、その初期はどのような状況だったのでしょうか。

図は三世紀に製作された青銅祭器の分布で、九州北部から四国西部にかけて広形の銅矛・銅戈が分布し、近畿・東海・四国西部に銅鐸が分布しています。

中国・四国北部では中広形の段階まで銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸が分布していますが、この時期になると製作されなくなります。そして3世紀の後半にはすべての青銅祭器が埋納され古墳が築造されるようになります。

3世紀後半に大和朝廷が成立して「部族制社会」が終わり「氏姓制社会」に移行すると考えますが、「欠史八代」といわれる時期の朝廷の実質的な支配が及んだのは、銅鐸分布圏の内でも大和とその周辺だけだったでしょう。

祟神天皇紀に北陸・東海・吉備・丹波に「四道将軍」が派遣されたことが記されていますが、祟神天皇のころになると図の銅鐸分布圏が朝廷の実質的支配下に入ったと考えればよいと思います。

次の垂仁天皇紀では物部十千根を出雲に派遣して「出雲の神宝」を検校させたことが見えますが、これは出雲の祭祀権、つまり統治権を得たと言うことで、図の武器形祭器と銅鐸が混在している中国・四国が支配下に入ったと考えるとよいようです。

そして次の景行天皇は日向を拠点として熊襲の討伐を行いますが、これは広形の銅矛・銅戈の分布圏が朝廷の実質的支配下に入ったと考えればよいと思います。この景行天皇の熊襲討伐は豊前・豊後・日向・大隅・肥後・筑後に及んでいますが、それは筑後の浮羽郡で終わっており、筑前に入った形跡がありません。

筑前に入ったのは次の仲衷天皇と神功皇后です。仲衷天皇は神功皇后の降した神示に従わず熊襲討伐を強行したので神罰を受けて死んだとも、熊襲の矢を受けて死んだともされています。この熊襲とは何なのかが問題になりそうです。

2011年12月4日日曜日

神功皇后伝承を巡って その1

狗邪韓国が金海・釜山でないことを述べてきましたが、これも『日本書記』神功皇后紀の編纂者が創作したもののようです。このように九州の古代史を探求していると必ず神功皇后に出くわし、そこで思考が止まってしまいます。

『日本書記』神功皇后紀の編纂者たちは天照大神が卑弥呼・台与であり、高天が原が邪馬台国であることを知っており、神功皇后を卑弥呼・台与とすることで高天が原は天空の彼方に存在するとし、九州から天照大神の痕跡を消したようです。

斉明天皇は661年に朝鮮半島に出兵しますが、この出兵は白村江の戦い大敗し、唐・新羅の侵攻を恐れた天智天皇は、玄界灘沿岸や瀬戸内海沿岸に水城・山城などの防衛施設を設けています。動員された九州や西国の地方豪族の間に、一連の施策を批判する声があったことが考えられています。

天智天皇死後の672年に大海人皇子(天武天皇)と大友皇子の皇位継承に起因する壬申の乱が起きていますが、筑紫師(筑紫太宰)の栗隈王や吉備が、大友皇子を推す近江朝廷軍の参戦要請に応じなかったのはそのためだとも言われています。

天照大神が卑弥呼・台与であることを知っている神功皇后紀の編纂者は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせることによって、壬申の乱、あるいは斉明天皇の朝鮮出兵は天照大神の意志でもあり正当なものであるとしたいようです。

『魏志』倭人伝に「其北岸狗邪韓国」とあり、『後漢書』倭伝に「其西北界狗邪韓国」とあって、卑弥呼の時代にすでに倭国は狗邪韓国を支配していた考えることができますが、これが朝鮮半島出兵の根拠だというのでしょう。

神功皇后の三韓征伐は斉明天皇の朝鮮半島出兵の反映でしょう。神功皇后は実在した人物でしょうが、朝鮮半島に渡ったというのは狗邪韓国を金海・釜山と思わせるために神功皇后紀の編纂者が創作したもので事実ではないと思います。

こうしたことから私は 斉明天皇+天照大神÷2=神功皇后 と思えばよいと考えますが、斉明天皇・天照大神・神功皇后には次のような共通点があります。

① いずれも九州に関係がある
② いずれも朝鮮半島に関係がある(あるとされている)
③ 即位の前後に王位(皇位)の継承を巡る争乱(混乱)があった
④ 異系の人物が後継の王(天皇)になっている

斉明天皇は出兵を指揮するために筑紫の朝倉橘広庭宮に皇宮を移し、ここで崩御しています。中大兄皇子(天智天皇)は斉明天皇の実子であって異系の人物というわけではありませんが、皇位継承までの経過を見ると何等かの問題があったようです。

645年には中大兄皇子・中臣鎌足らによって蘇我入鹿・蝦夷父子が粛清される「乙巳の変」が起き、皇極天皇は翌年に中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、中大兄皇子と中臣鎌足は相談して皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)を即位させます。

白雉4年(653)に中大兄皇子は皇族や臣下を引き連れて孝徳天皇が都としていた難波宮を引き払い飛鳥に帰ってしまいますが、孝徳天皇は憤死したとも言われます。その後も中大兄皇子は即位せず皇極天皇が重祚して斉明天皇になります。

天智天皇(中大兄皇子)の死後には壬申の乱が起きます。これは皇族間に皇位継承を巡る対立があったということでしょう。それは中央豪族間の対立でもあり、中央豪族と地方豪族の立場の差も一因になっているように思います。

神功皇后紀は斉明天皇の朝鮮半島出兵、及び壬申の乱の正当性と共に、応神天皇の誕生・即位の正当性も主張しているようです。応神天皇の誕生、即位について『古事記』神功皇后摂政前記には次のように記されています。

是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ。〔此の時に其の三柱の大神の御名は顕れ給えるなり〕

底筒男・中筒男・上筒男の三神は住吉神社の祭神ですが、朝鮮半島との接点になりその影響が大きかった安曇・住吉など玄界灘沿岸の海人族を表しているのでしょう。『日本書記』は応神天皇の即位や壬申の乱、あるいは斉明天皇の朝鮮出兵は、天照大神や玄界灘沿岸の海人族の意思に適っていると言いたいようです。