中区分の90年間を30年ごとに3期に小区分していますが、1期には草創期という性格があるようです。2期は1期の延長で比較的に平穏で大きな動きがありません。そして3期は変革期になっています。3期の変革が次の90年間の1期の草創に繋がっていて、それが繰替えされていくのですが、人間のバイオリズムがそうさせているとしか思えません。
前期前半を紀元前270年から180年までをとし、前期後半を180年から90年までとしますが、その前期前半3期の202年に劉邦が前漢皇帝として即位します。前期前半3期は中国を統一した秦が短期間で滅び、前漢が誕生するという、統一中国への変革期になっています。
劉邦は建国の功臣を王に冊封しますが、政権が安定するとこの王を排除し、国内の王は劉姓の同族に限定するようになります。劉邦の少年時代からの友人で燕王に冊封されていた廬綰も、匈奴と内通しているという嫌疑を受けて匈奴に亡命します。
廬綰が匈奴に亡命すると燕人の衛満も千余人をひきいて朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準(じゅん)を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定め、朝鮮王と称するようになります。
衛満は紀元前180年に前漢から朝鮮王に冊封されます。建国間もない前漢が国内政策と匈奴対策に腐心していたころ、衛氏朝鮮は周辺の部族国家を統合していき、紀元前150年ころには真番・辰国を支配下に置きます。
前期後半は倭人が衛氏朝鮮の影響を受けた時期で、朝鮮半島では銅矛、BⅡ式銅剣、銅戈、銅鐸が造られ、また多鈕細文鏡が作られ、それが倭国に流入してきます。玄界灘・響灘沿岸、あるいは日本海沿岸で、衛氏朝鮮に追われた渡来民を中心にした部族国家が生まれ、それが衛氏朝鮮と接触していたことが考えられます。
ただこれらの朝鮮半島製の青銅器が製作された時期と、日本で墓に副葬された時期とに年代差があることを考えなければならないようです。銅鏡の場合、その差は100年を最長として限りなくゼロに近づける説まで諸説がありますが、概して数値の設定は恣意的で、発表年が新しくなるに従ってゼロに近づく傾向があります。
しかし近いとは言ってもその差がゼロということはあり得ません。柳田康雄氏は当時の平均寿命を4~50年と考えて王の在位期間を2~30年とし、鏡が作られた時に2~30年をプラスしたものが副葬された時期とされていますが、最短でもそれくらいの経過を見込まなければならないでしょう。
私は鏡は威信財であり、鏡が造られた時に、鏡としての価値がなくなるまでの期間をプラスしたものが副葬された時だと考えます。鏡が副葬される時期についての問題点は、鏡に備わっている威信を一代限りのものと見るか、それとも威信は子孫が継承したと見るかの違いにあるように思います。
威信を自分の子や孫に伝えたいと思うのが古今を問わない人情であろうと思います。鏡に威信財としての価値がある間は子、孫へと伝世され、同時に鏡によって顕示されることになる威信も子孫に伝えられていくが、その価値がなくなった時に所有者が死ぬと副葬されるのだと思います。
多鈕細文鏡が造られたのは衛氏朝鮮時代ですが、紀元前108年に楽浪郡が設置されて倭人が中国の冊封体制に組み込まれ、前漢後半の鏡が流入して来たことにより多鈕細文鏡が価値を失い副葬されたことが考えられます。
製作時期と埋納時期の差をゼロに近づけることが進歩的だとは言えないように思います。朝鮮半島製の青銅器を副葬している墓の年代は紀元前108年以後だと考えなければならないでしょう。
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