2010年3月29日月曜日

因幡の素兎 その2

因幡の素兎の神話は、因幡の八上郡に住む八上媛を妻問いする途中、苦しんでいる素兎をオオアナムチ(大穴牟遅)が助ける物語として親しまれています。今まで述べてきたように弥生時代には部族間の抗争が頻発しました。

このころ山陰地方には銅矛も銅鐸も流入しなくなりますが、四国西部には銅矛が、また東部には銅鐸が流入していますから、山陰に部族が存在しなかったというのではなさそうです。この神話の背景には銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族の対立がありそうです。

大場磐雄氏は銅鐸を使用したのは「出雲神族」だとしていますが、私は銅鐸を配布した部族が神格化されたものがオオクニヌシだと考えています。とすれば異名同神のオオアナムチも銅鐸を配布した部族だと考えてよいようです。

オオアナムチは山陰地方に多い外縁付鈕式・扁平鈕式などの、比較的に古いタイプの銅鐸を祭っていた宗族でしょう。このタイプの銅鐸が加茂岩倉遺跡で39個出土しています。

兄弟の八十神は八上媛を妻問いするために、連れ立って因幡に向かいます。オオアナムチは八十神の荷物を持たされているので、一行から遅れて追っていきますが、そのような史実があったとは思えません。これは何かを意味しているようです。

図には方言圏が示されていますが、出雲と伯耆西部の方言は中国地方の方言と異なっています。この雲伯方言圏が元来の出雲のようです。ヤマタノオロチに語られている争乱の後、雲伯方言圏(元来の出雲)が伯耆東部や因幡を併合しようとしているのでしょう。

その因幡の併合の焦点になったのが、裸の兎が臥せっていた気多の前(けたのさき)だと考えることができそうです。裸の兎が臥せっていたというのは、争乱の後遺症に苦しんでいる人たちが居ということだと考えています。その場所が「気多の前」なのです。

兄弟の八十神はそれを助長するような酷い仕打ちをしたが、オオアナムチはこれを助けたというのです。兎が八上比売を妻にするのはオオアナムチだと言い、八上比売もそれを承諾するのは、オオアナムチが因幡を支配するようになるということだと考えます。

『吾と汝と競べて、族(うがら)の多き少なきを計(かぞえ)へてむ。故、汝は其の族の在りの随に悉に率(い)て来て、此の島より気多の前まで皆列(な)み伏し度れ。爾に吾其の上を踏みて、走りつつ読み度らむ。是に吾が族と孰(いずれ)か多きを知らむ』といひき。

弥生時代後半は部族が国を形成し王を擁立した時代ですが、同族が多いほど優勢ですから同族の多少が問題になります。兎が鮫にどちらの仲間が多いか較べようと言っているのは、部族の勢力の大小を言っているのでしょう。

推察になりますが兎は銅鐸を配布した部族であり、鮫は銅剣を配布した部族だと思っています。伯耆国八橋郡(東伯郡琴浦町)のイズチガシラから中細形銅剣c類4本が出土し、また同郡の上中山村から1本が出土したと伝えられています。

因幡には銅鐸は見られるものの銅剣は見られません。銅鐸を配布した部族と銅剣を配布した部族との間に抗争が起きたのでしょう。これらの銅剣を持っていた部族が鮫であろうと思います。

それでは「気多の前」はどこでしょうか。兎は鮫に「此の島より気多の前まで皆列(な)み伏し度れ」と言っています。「此の島」を隠岐の島と考えて船の航路のことを言っていると見ると、「地乗り航法」で「気多の前」に至る方法を言っているとすることができます。

これは高草郡についての『風土記』逸文の考察と言われているものから考えられている説ですが、「気多の前」とは「気多の崎」、あるいは「気多の岬」のことだと考えることができます。そうであればそれは鳥取県青谷の長尾鼻のことになりそうです。

白兎海岸は高草郡ですがその東隣が気多郡で、長尾鼻はその気多郡の岬です。このあたりの海岸線は単調で出入りが少なく、近くには高い山もないので「地乗り航法」の目標になる岬といえばこの長尾鼻になります。

別の考え方もできます。伯耆国汗入郡と八橋郡の境の甲川流域が雲伯方言圏の東限になっていますが、その甲川流域に因幡の素兎の神話と同じ内容の伝承があります。このことからの発想ですが、「気多の前」は伯耆国の河村郡と因幡国の気多郡との国境の近くだと考えることができそうです。

気多郡の長尾鼻は伯耆と因幡の国境の近くです。「気多の前」の「前」とは「先」のことで、国境に近いところという意味だと考えるのですが、とかく国境・境界は紛争の種になりやすいものです。

2010年3月26日金曜日

因幡の素兎 その1

『古事記』の神話はオロチ退治に続いて因幡の素兎の物語になりますが、この神話は『日本書紀』にはありません。因幡の白兎の神話は誰でもよく知っていますが、『古事記』では「素兎」となっています。

其の八十神、各、稲羽の八上比売を婚(よば)はむの心有りて、共に稲羽(因幡)に行きし時、大穴牟遅神に袋を負せ、従者(ともびと)と為(し)て率(い)て往きき。是に気多の前(けたのさき)に到りし時、裸の菟伏せりき

この神話は鳥取市白兎海岸にある兎に似た小島から生まれました。この小島を「淤岐島」(おきのしま)と呼び、対岸を「気多の前」(けたのさき)と呼んでいます。

神話では淤岐島は兎が以前に居た所とされ、日本海の隠岐の島のことではないかとも言われています。気多の前は裸の兎が臥せっていたところです。

小島の周囲には鮫のように見える波蝕棚がありますが、写真は干潮時に東側から見たもので、水平線上の黒い筋のように見えるのが波蝕棚です。これが和邇(わに)です。和邇については爬虫類の鰐のことだとする説もありますが、それはこの蝕棚を見たことのない人の言い出したことで、山陰地方では鮫のことを「わに」と言っています。

今地に下(お)りむとせし時、吾云はく、『汝は我に欺(あざむ)かえつ』と言ひ竟(お)はる即(すなわ)ち、最端(いやはし)に伏せりし和邇(わに)、我を捕へて悉に我が衣服を剥ぎき。

この小島を満潮時に南側から見ると、波蝕棚が遊泳している鮫のように見えます。それを見ていると、対岸に飛び移ろうとした兎が、最端に居る鮫に向かって「汝は我に欺かえつ」(お前は私に騙されたのだ)と言っているように見えます。

いかにも最端に居る鮫に向かって言っているように見えて、その発想のリアルさに驚かされますが、次のシーンでは兎は皮を剥がれることになっています。この小島と周囲の波蝕棚がなかったら因幡の素兎の神話は生まれなかったし、因幡の八上媛という神も忘れられていたでしょう。

それではこの神話の核になっている史実はどのようなものでしょうか。それには時代を特定する必要がありますが、それはスサノオがヤマタノオロチを退治して間もない時であり、オオクニヌシが国譲りをするよりも以前のことのようです。

ヤマタノオロチは倭国大乱が出雲に波及してきたことが語られているようですから、それは200年の前後になります。またオオクニヌシの国譲りは250~260年ごろのことですから、私の考える倭国大乱以後の後期後半1期(210~240)と考えてよいようです。

『古事記』はスサノオの6世孫がオオクニヌシだとしており、スサノオとオオクニヌシの間に四代が経過することになっていますが、その初期がオオアナムチの活動する時期なのでしょう。その後にオオクニヌシとされている出雲の王が出現してくると思われます。

この神話の主人公は一般にはオオクニヌシと考えられていますが、オオクニヌシではなくオオアナムチ(大穴牟遅神)です。高志(越)の国の沼河比売を妻問いする物語のオオクニヌシは「八千矛神」になります。

オオクニヌシの名前が始めて出てくるのは紀伊のスセリビメ(須勢理毘売)を妻問いする物語です。この時に宇都志国玉・葦原色許男と共に大国主が出てきます。オオアナムジは山陰と紀伊に関係する時の名前です。

そして大穴牟遅にしても八千矛にしても、オオクニヌシになる以前の名前とされていることに注意したいと思います。それは因幡の素兎の神話に語られている時期が、オオクニヌシが活動するようになるよりも以前のことだということです。

先にヤマタノオロチの神話は倭国大乱が中国・四国地方に波及してきたことが語られていると述べました。因幡の素兎の神話には倭国大乱以後のこと、つまり出雲の神話ではヤマタノオロチの神話以後のことが語られているようです。

北部九州では卑弥呼が共立され、面土国王は『自女王国以北』を刺史の如く支配するようになります。山陰では青銅祭器の流入が止まり、四隅突出型墳丘墓が大型化します。

四隅突出型墳丘墓が大型化するのは支配者と被支配者の差が大きくなり、支配者の権力が強くなったということであり、山陰に有力な支配者が出現したということでしょう。オオアナムチや兄弟の八十神はそうした支配者層だと考えられます。

2010年3月22日月曜日

ウケヒの勝負

イザナギに追放されたスサノオは高天が原にいる天照大神を訪れますが、それとは別に出雲に降ってヤマタノオロチを退治するスサノオもいます。高天が原のスサノオと出雲のスサノオとは別個のものですが、どちらも倭国大乱のできごとです

これは神話が編年体でなく紀事本末体であるためで、年代とは無関係に複数の史実が物語風に纏められています。そのために天照大神の孫のホノニニギに、スサノオの6世孫のオオクニヌシが国譲りをするというややこしい関係になっています。

高天が原に昇ったスサノオは卑弥呼を共立して、「自女王国以北」の国々(筑前東半)を、あたかも「刺史の如く」に支配するようになり、また津では女王の使者を捜露するようになる面土国王です。

天照大神とスサノオはウケヒ(誓約)の勝負をしますが、ウケヒはあらかじめ神に事の結果を誓っておいて、そのとおりになったかどうかで神意を占う卜占の一種です。ウケヒではスサノオが男を生めば勝ということになっています。

この神話の根底には魏・蜀正閠論がありそうです。魏・蜀正閠論とは後漢の後継王朝として魏・蜀のどちらが正統かというものですが、魏が正統なら魏から「親魏倭王」に冊封された卑弥呼が正統の倭王ということになります。

蜀が正統だというのであれば後漢から倭王に冊封された面土国王が正統な倭王ということになります。面土国王の側から見れば卑弥呼は大乱を終結させるために妥協して立てた仮の王ということになります。

ウケヒの物語は魏・蜀正閠論に立脚した「幸替え」の物語でしょう。「幸替え」は持ち物を交換することによって幸を得るというものですが、スサノオは天照大神の持ち物の玉から五男神を生み、天照大神はスサノオの持ち物の剣から三女神を生みます。

是に天照大神、須佐之男命に告りたまはく「是の後に生れし五柱の男子は、物実(ものざね)我が物に因りて成れり。故、自から吾が子なり。先に生れし三柱の女子は、物実汝が物に因りて成れり。故、乃ち汝の子なり」と、如此(かく)詔り別けたまいき。

生まれてきた8柱の神はいずれも倭王の後継者として正統であるというのでしょう。スサノオが天照大神の玉から生んだ五男神は銅矛を配布した部族に属している有力な宗族のようで、最初に生れるのがオシホミミです。

オシホミミは卑弥呼死後の男王ですが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になります。ウケヒではオシホミミも倭王の後継者として正統だとされていることになりますが、実際にはそうではなかったということになります。

オシホミミが倭王の後継者として正統ではないのであれば、その子のホノニニギも正統ではないことになります。ホノニニギの正統性を認めるには、オシホミミも正統でなければいけません。

ウケヒの神話は天照大神がスサノオの剣から生んだ三柱の女神も「幸替え」によって倭王の後継者として正統とすることで、オシホミミから神武天皇に至る系譜の正統性を主張していると考えることができます。

天照大神がスサノオの剣から生んだのが宗像三女神ですが、この三女神は銅戈を配布した部族に属していた、有力な宗族のようです。『古事記』は三女神を祭る氏族として筑紫の胸形君をあげ、『日本書記』第三の一書は筑紫の水沼君をあげています。

前述のように豊後の大神氏も宇佐神宮で三女神を祭ったと考えています。宇佐と3女神の関係については様々なことが考えられて、私も纏めあぐねていますが、要は宇佐周辺に銅戈が非常に多ことで説明できると思っています。

ウケヒで勝ったスサノオは勝ちに乗じて乱暴、狼藉を働き、ために追放されます。倭人伝の記述は正始八年で終わっていますが、間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理がおこなわれ、面土国王やそれに加担した者が処罰され面土国王家が滅ぶようです。

同時に中国では司馬氏が魏の実権を握り、やがて晋が成立します。魏・蜀正閠論は意味を持たなくなるのですが、それに連動して部族を統合しようとする動きが出てきます。その結果が出雲の国譲りとなって表れてきます。

2010年3月19日金曜日

3貴子の誕生 その3

卑弥呼と面土国王との関係については魏・蜀正閏論が問題になるようです。このことについては9月21日に投稿した『須佐之男 その3』で述べていますが、改めて見てみたいと思います。

魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)されて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。

三国鼎立では三国再統一が大義名分になっていましたが、具体的には魏・蜀のどちらが後漢王朝の後継王朝として正統かということが問題になっていました。これが魏・蜀正閏論です。

後漢王朝は57年に奴国王を、また107年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。それでは両者は後漢王朝の後継王朝として魏と蜀のどちらを正統としたのでしょうか。

当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。

銅戈を配布した部族の側から見ると、蜀こそ正統な後漢の後継王朝であり、後漢の冊封を受けた奴国王と面土国王こそ正統の倭王だということになります。この奴国王と面土国王の関係が「妣(はは)の国、根之堅州国に罷(まか)らむ」と表現されていると考えることができます。

魏は後漢王朝を奪取したのであり、魏の冊封を受けた卑弥呼は大乱で王が立てられないので共立したに過ぎない、仮の王だというのです。そのため卑弥呼の死後に男王が立ちますが、千余人が殺される争乱が起きました。

スサノオが根之堅州国に行きたいと思って泣く原因の一つとして、出雲との関係を考えなければならないでしょう。中細形銅剣c類が配布されていたと考えられる地域がイザナミのいる黄泉の国でもあり、根之堅州国でもあるようです。

前回にも述べましたが57年に奴国王が遣使するについては、中国・四国地方の銅剣を配布した部族との関係が考えられます。その結果、山陰では中細形銅剣c類が、瀬戸内では平形銅剣が配布されます。

そこに高天が原を追放されたスサノオが行って、ヤマタノオロチを退治することになっています。このこともスサノオが母のいる根之堅州国に行きたいと言う原因になっているようです。オロチを退治するスサノオは面土国王そのものではありません。

出雲のイザナギ・スサノオにも魏・蜀正閏論が絡んでいるようです。魏・蜀正閏論は中国の問題であって倭人には関係がないようにも思えますが、それは魏・蜀の正閠論としてではなく、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化しています。
 
815年に成立した『新撰姓氏録』は氏族を応神天皇以前の天皇の子孫の皇別、神話の神の子孫の神別、渡来系の諸蕃、その他の氏族の未定雑姓に区別し、皇別、神別、諸蕃を三体と言っています。

また神別には天神と地祇がありますが、天神は高天が原で活動する神の子孫であり、地祇は葦原中国で活動する神の子孫です。神話は筑紫を舞台にして皇別・天神をイザナギ・天照大神に結びつけています。

また出雲を舞台にして地祇・諸蕃をイザナミ・スサノオに結び付けています。スサノオが出雲に行ったとされるのは、皇別・天神と地祇・諸蕃が対立するのを回避するためでしょう。対立の始まりは卑弥呼と面土国王のどちらが正統の倭王かということであり、さらには魏・蜀の正閏論に至ります。

天神は銅矛を配布した部族に属していた宗族であり、地祇は銅鐸・銅剣を配布した部族に属していた宗族です。銅戈を配布した部族に属していた宗族は地祇とされています。銅戈を配布した部族に擁立された面土国王が、地祇の筆頭のスサノオというわけです。その母のイザナギも、言外に天神ではなく地祇とされていることになります。

2010年3月17日水曜日

3貴子の誕生 その2

イザナギは天照大神に高天が原の統治を、ツキヨミには夜之食国の統治を命じ、スサノオには海原を統治するように命じますが、海原は面土国と考えてよいようです。面土とは港のことであり、港は海原の始まる所ですからぴったりのネーミングです。

神話には面土国王が7~80年間に渡って倭国を支配したと思われる部分がありません。本来ならスサノオが天照大神・ツキヨミよりも先に生まれて活動したことになるはずですが、生まれたのは同時とされています。

イザナギに追放されたスサノオは高天が原に居る天照大神を訪れます、ここからが倭国大乱以後、つまり卑弥呼が共立されて以後の面土国王と卑弥呼の関係になります。それは後期後半1期で、青銅祭器は広形に変わります。

高天が原に昇っていくまでが、面土国王が倭王として統治した7~80年間に相当しますが、面土国王と邪馬台国、あるいは銅矛を配布した部族とは、あまり良い関係ではなかったようです。この関係は面土国王と卑弥呼の関係に続いていきます。

倭人伝は津で捜露が行われたことを記しています。通説では捜露を行ったのは一大率だとされていますが、私は「刺史の如き」者、すなわち面土国王だと考えています。面土国王は女王の行う外交を監視しており、面土国王と女王の関係は、捜露する者とそれ受ける者という関係にあったと考えます。

中期後半3期(150~180)には大量の中広形銅戈b類が配布されています。それに対抗して中広形銅矛b類も大量に作られており、両部族の間に対立・緊張が見られたことを思わせます。

その部族の緊張の表れが2世紀末の倭国大乱ですが、これがスサノオの追放に繋がっていきます。『古事記』は次のように記しています。

其の泣く状(さま)は青山は枯山如(からやまな)す泣き枯らし、河海は悉く泣き乾しき。是を以って悪しき神の音、狭蠅如(さばえな)す皆満ち、万の物の妖悉(わざわいことごと)に発りき。故、伊耶那岐大御神、速須佐之命に詔りたまはく、「何の由以(ゆえ)にか汝は事依(ことよ)させし国を治めずて、哭きいさちる」とのりたまいき。爾に答へて曰さく「僕は妣(はは)の国、根之堅州国に罷(まか)らむと欲が故に哭く」とまおしき。

スサノオが青山を泣き枯らし河海を泣き乾したので、悪い神が現れさまざまな災いが起きたというのですが、倭国大乱のことが述べられています。そこでイザナギが泣く理由を聞くと、死んだ母の住む根之堅州国に行きたいと思って泣くのだと答えます。怒ったイザナギはスサノオを追放します。

九州の中細形銅剣は遠賀川流域・豊後など北部九州の東部に分布しています。これがイザナミであり、銅剣を配布した部族を中心にして形成された国が遠賀川流域の奴国だと考えています。奴国がイザナミの住む「根之堅洲国」です。

投稿の『淤能碁呂島』で述べたように銅剣を配布した部族と銅矛を配布した部族は、対立する関係にあったと考えています。イザナギ・イザナミの島生みで再度柱を回りイザナギが先に声をかけたのは、両部族間に合意があって奴国王の統治が認められたということでしょう。

スサノオがイザナミを「妣(はは)」と言っているのは、イザナギとの関係がイザナミと同じであったということでしょう。2世紀末の大乱は銅矛を配布した部族(イザナギ)と銅戈を配布した部族(スサノオ)の対立ですが、その結果、投馬国の王族で中立の立場にある卑弥呼が王に共立されるようです。

卑弥呼を共立した面土国王は、あたかも中国の刺史が州を支配するように「自女王国以北」を支配するようになりますが、面土国王が「自女王国以北」を支配するについても、卑弥呼と対立するような関係にあったようです。

「自女王国以北」には奴・面土・不弥・伊都などの国がありました。スサノヲが根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王がこれらの国を女王に対して半ば独立したような状態で支配していたということでもあるようです。

2010年3月14日日曜日

3貴子の誕生 その1

黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊払いをして22柱の神を生みます。私の年代観では後期前半1期(90~120)になりますが、イザナギが神を生むのは中広形銅矛のa類が作られ、配布されたということでしょう。

この小戸の阿波岐原については「筑紫の日向」とあることから、宮崎市阿波岐ヶ原町・江田神社、宮崎市住吉町・住吉神社などに伝承がありますが、イザナギは銅矛を配布した部族ですから、青銅祭器のない日向が神話の舞台になることはないでしょう。

直日・禍津日神を祭る福岡市警固町の警固神社、筒之男3神を祭る福岡市住吉町の住吉神社、綿津見3神を祭る糟屋郡志賀島の志賀海神社などのある、博多湾周辺と考えるのがよいようです。これは貝原益軒や宗祇法師も言っていることで、ほとんど定説になっています。

私は須玖岡本遺跡で銅鏡35面以上と共に葬られていた人物も、イザナギのモデルになっていると見てよいと思っています。周辺に小戸や橘といった地名があることを指摘する人もいます。

禊払いで22柱の神が生まれますが、その多くは銅矛を使用した宗族と考えてよいようですが、天照大神・ツキヨミ・スサノヲの3神は銅矛を使用した宗族ではありません。何度も述べてきたように天照大神は卑弥呼であり、ツキヨミは卑弥呼の弟であり、スサノヲは面土国王です。

3神の誕生以後、神話は部族の歴史・系譜ではなく、古墳時代に活動する氏族の前史になってきます。そこに登場してくるのは古墳時代の氏族の祖であり、その中には卑弥呼のような特定の個人の場合もあります。しかしこの3神は次の高天が原神話の主人公なので禊払いで生まれたとされています。

ただしイザナギ・イザナミに応対する時のスサノヲは銅戈を配布した部族ですが、天照大神・ツキヨミに応対する時のスサノヲは面土国王と考えなければならないようです。倭国大乱で卑弥呼が共立される以前と以後とでは神話の内容が変わってきます

イザナギは天照大神に首飾りの玉を与えて高天が原の統治を命じますが、その玉の名を御倉板拳之神(みくらたなのかみ)と言っています。倉の棚の上に安置して崇めたことによる神名ですが、天照大神とスサノヲとのウケヒでも天照大神の玉から五男神が生まれていて、玉は倭王である卑弥呼を象徴しているように思われます。

卑弥呼は倭国大乱で銅矛・銅戈を配布した部族によって共立されますが、イザナギが天照大神に玉を与えたのは、卑弥呼擁立を主導したのが銅矛を配布した部族であることを表しているのでしょう。

ツキヨミには夜之食国の統治が命ぜられますが、天照大神が昼を表し、ツキヨミは夜を表しており、弟が卑弥呼を補佐したことが語られていると考えることができます。私は夜之食国を投馬国と考えることができると思っています。

太陽が東から昇ると朝になり、西に沈むと夜になりますが、高天が原は東にあり、夜之食国は西にあったことが語られているようです。それは広大な筑紫平野(筑後平野・甘木平野・佐賀平野)の光景のように思われます。

太陽は朝は日田(邪馬国)の山並みから顔を出し、夕方には有明海の彼方に没するというような光景が浮かんできます。日の昇るところに高天が原(邪馬台国)があり、日が沈むところに夜之食国(投馬国)があると説明されているようです。私は投馬国は八女郡を中心にした筑後だと考えています。

スサノヲは面土国であり銅戈を配布した部族でもあります。またイザナミは奴国、あるいは銅剣を配布した部族のようです。イザナギに海原を統治するように命ぜられたスサノヲは、妣(死んだ母)の住む根の堅洲国に行きたいと言って泣き続けます。

面土国王は戸数二万の奴国に支持されており、七万の邪馬台国とは対立していたことを表していると思われます。その対立が倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているようです。

対立関係にある奴国・面土国と邪馬台国を、統一国家として纏めることができたのは投馬国だけだったでしょう。卑弥呼姉弟は投馬国の王族だったのではないかと考えていますが、その故に卑弥呼が倭王になり、それを弟が補佐したと考えます。

イザナギが天照大神に首飾りの玉を与えたのは、銅矛を配布した部族が投馬国の王族の卑弥呼を倭王に擁立したが、それを奴国・面土国や銅剣・銅戈を配布した部族が認めたということでもあるようです。

2010年3月10日水曜日

黄泉の国 その2

銅矛を配布した部族はイザナギであり、銅剣を配布した部族はイザナミですが、イザナギの子孫は大和に東遷して大和朝廷を創建します。では黄泉の国に行ったイザナミの子孫はどうなるのでしょうか。私はオオヤマツミ(大山祗・大山積・大山津見)になると思っています。

オオヤマツミは祭られている地方によって大山祗・大山積・大山津見と変わってきます。 大山津見は薩摩半島の加世田市周辺で祭られている神で、コノハナノサクヤビメ(木之花佐久夜毘売)の父とされていますが、加世田市周辺には青銅祭器が全く見られません。

それに対し大山祗は愛媛県伊予大三島の大山祗神社を中心にした西瀬戸内で祭られており、大山積は山陰や中国地方の山間部で祭られています。平形銅剣を配布した部族の末裔が大山祗を祭るようになるのに対し、中細形銅剣c類(出雲形銅剣)を配布した部族の末裔は大山積を祭るようになるようです。

淡路島の西淡町古津路で中細形銅剣b類14本が出土していますが、中細形銅剣c類・平形銅剣の前段階に作られたものです。その淡路の一の宮は伊弉諾神社で、祭神は『日本書記』本文によればイザナギですが、合殿の祭神がイザナミです。

平成16年の改修工事で、祓殿神座床下の唐櫃に小さめの女神像7体が保管されているのが見つかり、翌年には本殿の封印された木箱に男神像・女神像各1体が保管されているのが見つかりました。

神像は鎌倉時代(一部平安後期)に造られたもので明治4年の神仏分離令で隠されたと考えられています。この女神像がイザナミであることは言うまでもありませんが、イザナミを祭ることは鎌倉・平安後期以前から行われていたようです。

古津路の銅剣は中細形銅剣b類ですが、14本は荒神谷遺跡以外では最多です。奴国王が遣使した57年ころ(中期後半2期)には、中細形銅剣b類の祭祀が淡路や瀬戸内を中心にして行われていたが、奴国が衰退したために瀬戸内では平形銅剣が、山陰で中細形銅剣c類が作られるようになると考えられます。

平形銅剣は岡山・広島・香川・愛媛の瀬戸内海沿岸に見られますが、その大部分が伊予大三島の大山祗神社を中心にした60キロ圏内で出土しています。大山祗神社は「和多志(渡し)の大神」とも言われていますが、大三島から瀬戸内海の潮流に乗って往来できる所が平形銅剣の分布地になっています。

その大山祗神社の祭神が大山祗なのです。私は平形銅剣を配布したのは戸内海の海人の部族だと考えています。このように考えると平形銅剣が瀬戸海沿岸に限って分布する理由が説明できます。その部族が後に大山祗を祭るようになると考えられます。

オオヤマツミは山陰地方では大山積になりますが、クシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田比売)の父のアシナツチが大山積の子とされています。言うまでもなくこの2神はヤマタノオロチの神話に登場してきます。

大山積を祭る神社は中国地方の山間部に多く見られますが、これはヤマタノオロチの神話が中国地方の山間部で生まれたことによるのでしょう。それと中細形銅剣c類の分布とが重なると思われます。

先に江の川流域に青銅祭器が見られないことについて、回収されて荒神谷に埋納されからだと述べましたが、これは備中の高梁川上流域、伯耆の日野川流域についても言えるようです。この中細形銅剣c類が配布されていたと考えられる地域がイザナミのいる黄泉の国であり、大山積の活動する場でもあるようです。

大山積の系譜は尋常ではありません。図に示したようにスサノオの女系を辿っていくと大山積に行き着き、その系譜はオオクニヌシに連なっていきます。つまり黄泉の国に葬られたイザナミの子孫のオオクニヌシが、イザナギの子孫のホノニニギに国譲りをするということになりそうです。

オオクニヌシに至る系譜については銅鐸を配布した部族との関係を考える必要がありそうですが、大意はこのようになるでしょう。大山積の系譜にスサノオが入ることについては、投稿の『八岐大蛇 その3』で述べていますので参考にして下さい。

2010年3月6日土曜日

黄泉の国 その1

神避りしたイザナミは出雲と伯耆(備後とも)の境の「比婆の山」に葬られたとされていて、ここで神話の舞台は筑紫から出雲に移ってきます。総数三七〇本に近い中細形銅剣c類(出雲形銅剣)が造られ配布されており、銅剣を配布した部族の中枢が出雲に移動したことを表しています。

銅剣の分布から見て、劣勢の奴国が優勢の邪馬台国を支配するについては、中国、四国地方の銅剣を配布した部族の思惑が絡んでいたことが考えられますが、奴国が衰退したことにより、その部族は自立するようになったのでしょう。その結果、山陰で中細形銅剣c類が、瀬戸内では平形銅剣が配布されると思われます。

イザナギは神避りしたイザナミに会いたいと黄泉の国に行きますが、その黄泉の国は死後の世界として語られていて、イザナミの体から八柱の雷神が生まれます。雷神は中細形銅剣c類(出雲型銅剣)の配布を受けた宗族を表しているのでしょう。

黄泉の国の神話には荒神谷遺跡の358本の銅剣を使用した部族と、16本の銅矛を使用した部族のことが語られていることになります。銅矛16本の内の2本は中細形ですが、この2本が黄泉の国のイザナギにあたります。

昨年12月2日に投稿した『八岐大蛇』で、ヤマタノオロチとは「邪馬台のおろ血」であり、それは銅矛を配布した部族だと述べましたが、2本の中細形が黄泉の国のイザナギであり、これがヤマタノオロチの神話の伏線になっています。

言ってみればヤマタノオロチのご先祖はイザナギだということですが、14本の中広形銅矛はオロチに呑まれた娘ということになります。少々話が複雑になりますが、ちゃんと辻褄が合っています。神話には史実が語られているのです。

同じころに358本の銅剣も造られましたが、これが黄泉の国のイザナミです。それまでの出雲の銅剣は多くはありませんが、その出雲に急に400に近い銅剣を配布した大部族が出現したのです。

銅矛を配布した部族にとって出雲に銅剣を配布する大部族が出現したことは、奴国の背後で蠢く、見てはならないもの、おぞましいものが出現したと感じられたのでしょう。それが出雲をイザナミの葬られている黄泉の国とする原因になっているようです。

イザナミが銅剣を配布した部族であれば、銅剣が分布している地域にイザナミを祭る神社があるはずですが、出雲のイザナミの伝承は出雲東部に集中しています。オオクニヌシの伝承は出雲西部に多く、山間部にスサノオの伝承が見られます。

出雲の銅剣を配布した部族の中枢は出雲東部であったと思われます。松江市大庭の神魂神社、東出雲町の揖夜神社、松江市八雲の熊野神社がイザナミを祭神にしています。東出雲町 の揖夜神社の近くには「黄泉比良坂」の伝承地があります。

熊野神社の主祭神はスサノオとされていますが、熊野神社は明治39年の「一村一社」の制の制定まで上の宮と下の宮の二社に分かれていました。上の宮にはイザナミを祭る伊邪那美神社と、8柱の雷神(大雷・火雷・土雷・稚雷・黒雷・山雷・野雷・烈雷)を祭る八所社がありました。

イザナギは黄泉の国のイザナミの姿を見て逃げ帰りますが、上の宮にはその時に生まれた神を祭る五所社(岐神・長道磐神・煩神・開囓神・千敷神)と、久米社(菊理媛・泉守道者)もありました。上の宮は黄泉の国の神話に元づいて祭られています。

イザナミを祭る神社として松江市大庭の神魂神社もよく知られていて、近くにはイザナミの神陵とされているものがあります。出雲国造は古くは大庭に住んで神魂神社を祀っていましたが、この神社は延喜式には見えず、出雲国造が私的に祭っていたのではないかと言われています。

国造はその後、現在地の出雲大社に移ったと言われています。神魂神社の祭神はイザナミであり、出雲大社の祭神はオオクニヌシですが、出雲国造は神魂神社で銅剣の祭祀を継承し、出雲大社で銅鐸の祭祀を継承していると考えることができそうです。

出雲国造はスサノオを主祭神とする熊野神社下の宮で国造交代の儀式を行う慣例になっていましたが、これは銅戈の祭祀を継承していると考えることができそうです。出雲国造は銅矛以外の青銅祭器の祭祀を継承しているとされているのでしょう。

2010年3月4日木曜日

火の神、迦具土 その3

イザナギがカグツチを斬殺するのは、阿蘇(狗奴国)の統治に失敗して争乱が起き、その争乱を収拾したのは銅矛を配布した部族だということのようです。九州に銅剣が少ないことから見て、銅剣を配布した部族には争乱を収拾するだけの力がなかったことが考えられます。

肥前は佐賀県と長崎県に分かれますが、佐賀県部分には青銅祭器が多いのに、長崎県部分にはなぜか見られません。また肥後でも緑川以北には多いのに、以南には全く見られなくなります。

青銅祭器を使用したのは「渡来系弥生人」であり、3世紀の彼らの国が女王国だと考えていますが、青銅祭器の受け入れを拒否したのが「縄文系弥生人」の熊襲であり、彼らの国が狗奴国です。

『日本書記』ではツキヨミ(月読)がウケモチノカミ(保食神)を殺し、『古事記』では高天が原を追放されたスサノオがオオゲツヒメ(大宜都比売・大気都比売)を殺すという、牛馬・蚕・穀物の化成する物語があります。

私はオオゲツヒメ・ウケモチノカミが殺されるのは、狗奴国の官の狗古智卑狗が殺されたことが語られていると考えています。(10月2日投稿『大気都比売』)また保食神を殺したツキヨミは卑弥呼の弟ですが、卑弥呼姉弟は投馬国(筑後八女郡)の王族ではなかったかと考えています。

筑後八女郡の南は肥後の菊池川流域の菊池・山鹿郡です。狗奴国の官の狗古智卑狗はその名から見て菊池郡と関係があるようですが、国境を接しているために卑弥呼姉弟と狗古智卑狗の間に不和の関係が生じたことが考えられます。

スサノオは銅戈を配布した部族でもありますが、肥後の銅戈の分布を見ると菊池・飽田・託麻・阿蘇の諸郡に見られます。これらは阿蘇の火口原・外輪山を源流とする白川流域と菊池川流域の郡です。『古事記』ではオオゲツヒメに続いてカグツチが生まれたとされていますが、カグツチもオオゲツヒメも白川流域の熊襲だと考えるのがよさそうです。

カグツチの神話はイザナギがカグツチを斬殺することで終っていて、カグツチとスサノオの関係は語られていません。またスサノオがオオゲツヒメを殺すのは高天が原を追放されたころとされていますが時期が特定できません。

こうした矛盾点はありますが、菊池川・白川流域は一世紀にはイザナギ(銅矛を配布した部族)と、2世紀にはスサノオ(面土国王)と、3世紀にあっては天照大神・ツキヨミ(女王国)と不和の関係にあったと考えるのがよさそうです。

そしてカグツチの物語には、スサノオ、すなわち銅戈を配布した部族の介入を考えてみる必要があると感じています。豊後の青銅祭器を見ると筑後川上流域の日田・玖珠郡には銅矛はみられるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域の大野・直入郡には銅戈が見られるものの銅矛は見られません

筑後川沿いに銅矛を配布した部族が介入し、大野川沿いに銅戈を配布した部族が介入して争乱が決着したと考えるのです。スサノオは母の居る根之堅洲国に行きたいといって泣いたために追放されますが、争乱が結着すると銅剣・銅戈を配布した部族は、連携して面土国王の帥升を倭王に擁立するようです。そして107年に帥升が遣使することになります。

こうしたことから大野川流域に面土国王との結び付きができるようです。『新撰姓氏録』に「宗像氏・大神氏同祖、吾田片隅命之後也」と見えますが、この大神氏については一般に大和の大神氏(大三輪氏)のことだとされています。

宗像氏は三女神を祭っていますが、『日本書記』に宗像三女神が「宇佐島」に降ったとあることから、宇佐神宮のヒメ大神を宗像三女神とする考えがあります。私は宇佐神宮で宗像三女神を祭ったのは、大野川流域を勢力基盤とするの大神氏だと考えています。

2010年3月1日月曜日

火の神、迦具土 その2

『後漢書』に「倭國の極南界なり」とあるのは大夫と自称した奴国王の使人の国ですが、それは豊後の直入郡です。直入郡は一世紀にあっては倭國の極南界であり、三世紀にあっては「女王の境界の尽きる所」でした。

イザナギに斬殺されたカグツチの体や血潮から神々が生まれます。その多くは山の神であり、その神名からは磐・根・石など大地が連想され、イザナギが禊をして生んだ子神のような、海を思わせるものが全くありません。

これはイザナギの神話が海岸部で生まれたのに対し、カグツチの神話は山岳部で生まれたということでしょう。特に『古事記』に見えるカグツチの体から生まれる八柱の山津見神についてはこのことが言えます。小学館編の日本古典文学全集『古事記』は次のように解説しています。

正鹿山津見神 = 坂の神
淤縢山津見神 = 下る所の神
奥山津見神   = 奥山の神
闇山津見神   = 谷の神
志芸山津見神 = 繁山の神
羽山津見神   = 麓の山の神
原山津見神   = 高原の神
戸山津見神   = 外山の神

これらの山の神が全てカグツチの身体から生まれたとされているのは、この神話が相当に大きな山を舞台にして生まれたことを思わせます。私は『後漢書』に見える奴国王の使人の国である豊後の直入郡が、阿蘇の外輪山の裾野に位置していることから、その山を阿蘇山だと考えています。

小学館編日本古典文学全集『古事記』が言うように、原山津見が高原の神なら、それは阿蘇の火口原の宗族だと考えることができます。戸山津見は阿蘇の外輪山の宗族だと考えることができ、羽山津見は外輪山の麓の宗族だと考えることができます。

カグツチは「肥の国」の神でもあり、火の山・阿蘇の神でもあって阿蘇地方の部族だと考えることができそうです。前述のように私は狗奴国は肥後だと考えていますが、カグツチは狗奴国の部族のようです。とすると倭人伝の次の文との関連が考えられてきます。

倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王の卑弥弓呼と素より不和。倭は載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く

倭人伝は女王国と狗奴国は元来から不和の関係にあったとしています。「卑弥弓呼素」については五文字全体を人名とする説もありますが、「素」は「もとより」という意味で、狗奴国と女王国の不和の関係は以前から続いていたとする説に従いたいと思います。

それでは何時ごろから不和の関係が始まるのでしょうか。私は紀元前180年の箕氏朝鮮、108年の衛氏朝鮮の滅亡で、玄界灘・響灘沿岸に渡来人の流入があった時以来だと考えています。女王国と狗奴国の不和の原因は「渡来系弥生人」と土着の「縄文系弥生人」の対立であり、対立は紀元以前にすでに始まっていたと考えます。

「縄文系弥生人」を換言すると後世に「熊襲」と呼ばれるようになる人々です。3世紀の女王国は魏から黄幢・詔書を授けられたことを大義名分にして狗古智卑狗を殺すようですが、カグツチを生んだことによりイザナミが神避りするのは、狗奴国(熊襲)との争いで奴国が滅んだということのようです。

大夫と自称した奴国王の使人が阿蘇の統治に失敗して争乱が起きますが、銅剣を配布した部族にはこれを収拾する力がなかったようです。イザナギがカグツチを斬殺するのは、争乱を収拾したのは銅矛を配布した部族だということでしょう。それは二世紀初頭のことです。