魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)を受けて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。どちらが後漢王朝の後継王朝として正統かという論争が「正閠論」です。
正閠論は中国でも問題にされており『三国志』を素材にした羅貫中の小説『三国志演義』は劉備を正統とする立場で書かれており、曹操は悪役にされています。判官贔屓ということもあるでしょうが、『三国志演義』にとっては宦官の養子の子の曹操よりも、中山王劉勝の子孫の劉備が正統でなければならなかったのです。
呉は地方豪族の連合政権で「正閠論」の面では不利でしたが、呉の孫氏と蜀の劉氏は「二帝並尊」と呼ばれる盟約を結んでいました。それは呉と蜀の皇帝が対等の立場で同盟し協力して魏を討つというもので、魏の滅亡後の領域まで決めていました。
蜀には大きな国力はありませんでしたが二帝並尊でそれなりの影響力を持っており、魏は呉・蜀と対峙することになります。三国鼎立で中国を中心とする東アジア世界が、魏と呉・蜀という二つの核を持つことになりましたが、それが端的に表れたのが遼東の公孫氏の立場です。
二二八年に呉の孫権が皇帝と称するようになり、そのことを公孫氏に伝えました.呉は魏の背後に位置する公孫氏と連携することが、魏に対する圧力になると考えたのですが、公孫氏の方も保身を図ろうとして呉に服属しようとします。
これが倭国にも大きな影響を与えているようです。二三八年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、卑弥呼が魏に遣使しています。これは女王国が魏を後漢王朝の後継王朝と認めたということですが、ここで考えなければならないのは、卑弥呼と対立する立場にある者の中には、蜀を正統として呉と連携しようとする者もいたであろうということです。
二世紀末には倭国に大乱が起きて男王を立てることができず、卑弥呼の死後にも男王が立つが争乱が起きています。女王国内には対立する二つの勢力が存在していると見てよいのですが、今まで述べてきたように対立する二つの勢力とは、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族です。
銅戈を配布した部族の側から見ると面土国王こそ正統の倭国王であり、卑弥呼は大乱で男王が立てられないので共立された仮の王ということになります。卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱が起きますが、この争乱は銅戈を配布した部族が面土国王を正統の倭国王と見たことに起因しているようです。
争乱は13歳の台与を共立することで結着しますが、神話の語るところによれば台与の共立を画策したのが難升米(思金神)であり、それを実行に移したのが掖邪狗(手力男神)ということになります。 二人を中心にして台与の共立が進められたのでしょう。
後漢王朝は五七年に奴国王を、また一〇七年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。
最終的に魏は晋の武帝に禅譲し、呉・蜀も晋に降伏していますから、倭人にとっては魏・蜀の「正閠論」は意味がないようにも思えますが、倭人にも影響を与えており、正閠論はスサノオ(面土国王)の6世孫のオオクニヌシが、天照大神(卑弥呼)の孫のニニギに国譲りをすることで決着したとされているようです。
しかしそれは後にも応神天皇以前と以後とを区別するために、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化していくようです。
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