此ノ御名の須久那は、只少の意のみとも聞こえ、又名の字を添えて書けるは、大名持の大名に対へるか
スクナとは一寸法師のような小さな神という意味か、あるいはオオクニヌシの別名であるオオナモチ(大名持)のオオナに対してスクナ(少名)というのであろうとしています。また両者の双生児的な関係が述べられているとする説や、スクナヒコナにオオクニヌシの「第2の自我」を見ることができるとする説もあります。
私はこれらの説に概ね同意したいと思いますが、青銅祭器と神話は相関々係にあると考えるので、「少」については「小さな銅鐸」のことだと理解しています。オオクニヌシは銅鐸を配布した部族ですから、スクナヒコナは銅鐸を祀っていた宗族だと考えるのです。
初期の菱環鈕式銅鐸が24センチ程度であるのに対して、滋賀県小篠原出土の突線鈕5式銅鐸は135センチもあり、その差は110センチにもなります。図は同縮尺で比較したものですが、とても同じ銅鐸とは思えないほどの違いで、その違いを小さな神だと語り伝えていると考えます。
その小さな銅鐸の中に「福田形」という特殊な形態を持つ一群がありますが、この福田形銅鐸を持っていた宗族がスクナヒコナのようです。その福田形銅鐸は5個が出土しています。図は私の想定している福田形銅鐸の移動経路です。
②佐賀県吉野ヶ里銅鐸
④広島県福田木の宗山銅鐸
⑤島根県木幡家銅鐸
⑥伝伯耆出土銅鐸
⑦岡山県足守銅鐸
佐賀県吉野ヶ里銅鐸を除く4個が中国地方の中央部で出土していることに注意が必要で、付近はヤマタノオロチやスクナヒコナの伝承地になっています。私は『風土記』に見えるスクナヒコナの伝承から、播磨国神前郡(兵庫県神前郡)と③の伊予国温泉郡(愛媛県松山市付近)にも福田形銅鐸があると見ています。
その中間の40センチ前後の大きさの近畿2式、近畿3式銅鐸を持っていた宗族がオオモノヌシのようで、これが書によってはコトシロヌシ(事代主)になることもあるようです。大神氏(大三輪氏)の伝承の場合にはオオモノヌシになり、加茂氏の伝承の場合にはコトシロヌシになるようです。
福田形銅鐸は佐賀県吉野ヶ里でも出土しており、その鋳型は九州以外では出土せず佐賀県安永田、福岡県赤穂ノ浦(図の①)で出土していますから、福田形銅鐸は九州で造られ中国地方に運ばれてきたと考えてよいでしょう。
④広島県福田木の宗山銅鐸
⑤島根県木幡家銅鐸
⑥伝伯耆出土銅鐸
⑦岡山県足守銅鐸
佐賀県吉野ヶ里銅鐸を除く4個が中国地方の中央部で出土していることに注意が必要で、付近はヤマタノオロチやスクナヒコナの伝承地になっています。私は『風土記』に見えるスクナヒコナの伝承から、播磨国神前郡(兵庫県神前郡)と③の伊予国温泉郡(愛媛県松山市付近)にも福田形銅鐸があると見ています。
その中間の40センチ前後の大きさの近畿2式、近畿3式銅鐸を持っていた宗族がオオモノヌシのようで、これが書によってはコトシロヌシ(事代主)になることもあるようです。大神氏(大三輪氏)の伝承の場合にはオオモノヌシになり、加茂氏の伝承の場合にはコトシロヌシになるようです。
福田形銅鐸は佐賀県吉野ヶ里でも出土しており、その鋳型は九州以外では出土せず佐賀県安永田、福岡県赤穂ノ浦(図の①)で出土していますから、福田形銅鐸は九州で造られ中国地方に運ばれてきたと考えてよいでしょう。
そして『古事記』はスクナヒコナを神産巣日神の子とし、『日本書紀』第六の一書は高皇産霊尊の子だとしていますが、先述のように神産巣日神も高皇産霊尊も高天が原の神です。高天が原は邪馬台国ですが、最古式銅鐸と邪馬台国が結びつきます。
考えられることは福田形銅鐸を持っていた宗族は北部九州(女王国)の宗族と同族関係にあったということです。それに対し近畿式銅鐸は近畿地方で造られたものであり、これを持っていた宗族は近畿地方の宗族と同族関係があったようです。つまり青銅祭器を配布した部族には幾つもの分派があったのであり、銅鐸の場合には東海地方西部にも三遠式銅鐸を持っていた分派がありました。
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