2009年10月22日木曜日

中期後半 その2

105、6年ころからの中国は内政では幼帝が続いて外戚・宦官が実権を握り、外交では異民族の侵犯が続いて、漢王朝は次第に衰退していきます。こうした中国の影響を受けて奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。

帥升についてはこれを奴国王とする説や伊都国王とする説があります。帥升が奴国王なら107年ころに倭の盟主が奴国王から面土国王に交替することはありませんから、男王の統治期間は70~80年間ではなく120~30年以上でなければいけません

また伊都国王とする説も面土国のことが考えられていないだけで根拠はありません。帥升は奴国王でも伊都国王でもなく面土国王なのです。そして西島定生氏は『邪馬台国と倭国』の中で次のように述べています。

倭国王帥升等が一〇七年に朝貢したということの背景には、奴国の没落とか、何か倭人の国々の中に 変動が起こったことを示しているのかもしれません。そうであるとすると、その背後には、その後の倭国大乱をまたずに、すでに倭国が形成されていたのであり、その前夜にも動乱があったのではないかということになるでしょう

帥升が107年に朝貢する直前に、奴国の没落とそれに伴う動乱があったのではないかと述べられています。この動乱のことは中国側の史書には見えません。 通説ではこのことがまったく考慮されていません。

貨泉が流通停止になった四〇年ころは中期前半2期の安定期で、この動乱に留意すれば中期と後期の境を40年ころとする根拠が薄弱であることが分かってきます。その根本的原因は面土国の存在を認めていないことにあり、年代を考える上でも面土国の存在を認めることは重要なようです。

それは青銅祭器を理解することにも繋がるようです。表は岩永省三氏による分類で、時代区分には私の私観が加わっています。この表は造られ期間を示しており、使用期間の終わりはこの表では示すことはできないと考えています。もちろん正確に30年ごとに形式が変化するわけではなく、全体の推移はこのようになるという推定です。

中細形は中期後半に造られ、中広形と広形は後期に造られたと考えられていますが、とすれば中細形が中広形に変わる時と、時代区分の中期が後期に移る時とは一致する可能性があり、中細形が中広形に替わるのは90年ころであることが考えられます。

中細形a類が作られたのは新が滅んで後漢の興る中期後半1期と考えるのがよいように思います。中期前半の百余国体制がどのようなものであったかは分かりませんが、その百余国体制が崩壊し、新たな体制が模索された結果、部族の統合が急速に進んでいく思います。

その結果、部族は新たに同族関係が生じた宗族に中細形a類を配布したのだと考えます。57年の奴国王の遣使のころに中細形b類が配布されますが、銅剣を配布した部族も銅剣b類を配布したでしょう。

中細形c類が配布されたころに奴国王の退位があり、それに伴って銅剣を配布した部族の中枢は北九州から出雲に移っていく考えられます。出雲の荒神谷遺跡では中細形c類が358本出土していますが、奴国王の退位との関係を考えなければならないようです。

剣形祭器が九州に少ないのは、奴国王を擁立した部族が衰退し、面土国王を擁立した部族が優勢になったことを表しているのでしょう。奴国王を擁立した部族が配布したのは銅剣であり、面土国王を擁立した部族が配布したのは銅矛、または銅戈だということになりますが、私は銅戈だと考えています

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