2009年10月19日月曜日

中期中葉

紀元前四九年に即位した元帝は熱心な儒学信奉者でしたが、その甥の王莽もまた儒学に傾倒しました。若いころの王莽は儒学の実践者として知られ、聖人とまで言われましたが、その彼が教理に反して主家を滅ぼすのです。前期前半の3期という人間のバイオリズムが、王莽を狂わせたのでしょうか。

儒教は仁・義・礼・智・信という徳性を養うことにより父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の序列や、その関係を維持することを教えていますが、元帝から王莽の時代には周時代以前への回帰が盛んに言われ、春秋・戦国時代に失われた周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活した時代でした。礼とは人間の上下関係で守るべきことを言います。

しかしその政治は「託古改制」と言われている、孔子の思想をそのまま政治に持ち込んだ現実を無視したものでした。皇帝になった王莽の統治も託古改制そのもので、現実に合わず矛盾が生じ、その矛盾を訂正しなかったため社会は大混乱に陥ります。それを批判するように讖緯思想が盛んになります。

この時期には元帝の皇后だった元后と、その外戚の王氏が実権を握っていました。中期前半三期は成帝、哀帝、平帝という暗君と、王氏という愚臣が前漢王朝を崩壊へ導いた時期でした。紀元後八年、元后の甥の王莽が「天人感応説」を巧に利用して、前漢王朝を滅ぼして新を建国します。

九年、王莽は『周官』に基づいて前漢王朝の制度を廃止する、官制、官名、地名の改革を断行し、「天に二日無く、地に二王無し」ということで王を諸侯に降格します。周時代以前には王は一人だけで他はすべて諸侯でしたから、これに習って王という呼称を廃止しようとしたのですが、理由はそれだけでまさに暴挙としか言いようがありません。

これは外臣の王にも及び、外臣の王も諸侯に降格されました。これに反発したのが匈奴で、王莽は離反した匈奴を討伐するために高句麗に出兵を命じます。しかし高句麗も降格されていたのでこれに応じませんでした王莽は高句麗候を殺し、布告を出して国名を下句麗に変えさせています。

子供が駄々をこねているような話ですが、それが大真面目で行なわれたのです。王莽の政治は一事が万事で社会を混乱に陥れ、各地で大規模な反乱が起き、農民反乱軍の赤眉、緑林をはじめ、各種各様の反乱軍が蜂起し、大地主たちも自衛のために武装集団を抱えるようになります。こうした中で南陽(河南省南陽市)の豪族、劉秀兄弟が出てきますが、劉秀が後漢初代の光武帝です。

弥生時代は前漢200年と後漢200年に、その前後の先秦・秦時代と三国時代を加えた時期に並行します。そのちょうど中間が王莽の新時代ですが、王莽が前漢王朝の簒奪を図った平帝の時代、つまり紀元前後を中期中葉とするのがよいようです。

中期前半には倭の百余国が遣使していますが、玄界灘・響灘沿岸を中心にした「百余国体制」とでもいうべきものが存在していたことが考えられますが、その内容の詳しいことは分かっていません。しかし前漢王朝の滅亡と王莽の失政で、その体制が崩壊したことが考えられます。

冊封体制によって儒教の「礼」という考え方が流入してきたことや、百余国体制が崩壊したことにより、新しい社会体制が摸索されたことが青銅器を祭器に変えていくと考えられます。新しい社会体制とは巨大な部族が出現し、その巨大な部族が王を擁立しするようになるということのようです。

紀元前後の中国では仏教が定着し、儒教では讖緯思想が現れています。キリストの誕生もこのころですが、世界全体がそうした変動期であったようです。私は神道の成立もこのころであり、神道の成立と同時に青銅祭器が出現 すると考えています。

北部九州は冊封体制に直接に組み込まれていたので、青銅器を入手する機会が多く、中国、朝鮮半島の風習をまねて青銅器(銅鏡、細形の剣、矛、戈など)を副葬することが行われていますが、北部九州以外では青銅器の流入量が少ない上に、特定の個人が青銅器を独占することはなかったと考えられています。

北部九州以外では青銅器は個人の持つものではなく、集団(宗族)の共有物とされ、宗族の祖先祭祀に用いられるようになると考えられます。青銅器を祭器に変えたのは中国・四国地方の宗族であったことが考えられています。

中国の氏族には姓がありますが、倭人の部族には姓はなかったでしょう。北アメリカインディアンの部族は動物、植物を象徴物(トーテム)とし、扶余の部族は牛、馬、豚、犬などをトーテムにしていました。青銅祭器は部族、あるいは宗族の祖先祭祀の神体であると同時に、姓に相当するトーテムでもあったでしょう。

宗族が所有している青銅祭器を見れば、その宗族がどの部族に所属しているかが解り、その形式から所有している宗族が置かれている、部族内部でのランクさえも解ったと考えられます。福田形銅鐸と近畿式銅鐸を比較すれば福田形が古く近畿式が新しいことが分かり、それを所有していた宗族の新旧が分かりますが、こうしたことから宗族のランク付けも可能だったのでしょう。

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