倭人伝の記事は正始八年(二四七)で終わりますが、その正始八年の記事には台与が掖邪狗ら二〇人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。帯方郡使の張政の送還を兼ねての遣使でしたが、使節には復命の義務があり任務が終了すればすみやかに復命しなければいけません。
張政の復命のことを考えると掖邪狗らが洛陽に行ったのは、正始八年か翌九年と考えなければならないでしょう。ところが通説では晋の武帝の泰始二年(二六六)だとされています。これは『日本書紀』神功皇后紀六十六年条に次のように記されているためです。
六十六年 この年は晋の武帝の泰初二年。晋の起居注に云う。晋の武帝の泰初二年十月、倭の女王が遣わして譯を重ねて貢献す。
神功皇后紀は『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼、台与と思わせようとしていますが、卑弥呼は二四七年ころに死んでいるので、この女王は台与ということになります。しかしどこか不自然で、この引用部分は後世に書き加えられたとして削除する考え方もあります。
神功皇后紀三十九年条と六十六年条を比較してみると、文の構成が非常によく似ていて、明らかに四十年条、四十三年条とは構成が違います。これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されているということのようです。
三十九年 是の年は太歳己未なり。 魏志に云はく、明帝景初三年六月に倭女王は大夫難升米等を遣わして、郡に詣でて朝献を求める。
六十六年 是の年は晋の武帝の泰初二年。晋起居注に云はく、晋の武帝の泰初二年十月に倭女王は遣わして、譯を重ねて貢献する。
四十年条と四十三年条の書き出しは「魏志云」となっていますが、三十九年条も「魏志云」で始めればよさそうなのに「是年也」で始まっています。六十六年条も同じで「晋起居注云」で始めればよさそうなものなのに「是年」で始まっていますが、これは三十九年条をベースにして六十六年条が創作されたということでしょう。
三十九年条に「是年也太歳己未」とあるのは、六十九年条の神功皇后の崩年が「是年也太歳己丑」とされていることによるのでしょう。太歳の文字は天皇の即位年や崩年など、『日本書紀』の紀年の基準になる重要な年に付けられますが、六十九年条の「是年也大歳己丑」を設定する根拠が『魏志』の明帝景初三年六月の記事なので、そのことを表すために三十九年条では『魏志』の文に「是年也太歳己未」が加えられたことが考えられます。
そうすると三十九年条と六十九年条との中間の、泰初二年の遣使は女王が行ったとしなければならず、こうして六十六年条が創作されたと考えられます。三十九年条の「是年也太歳己未」が「是年晋武帝泰初二年」に書き換えられ、また「魏志云」が「晋起居注云」に書き換えられたのです。
「明帝景初三年六月」は「晋の武帝の泰初二年十月」に書き換えられ、「大夫難升米等」を削除して六十六年条の女王遣使記事が完成しました。『魏志』の記事と『晋書』武帝紀や『晋書』四夷伝の記事が合成されたのです。こうして創作すると『魏志』の「倭女王」の文字が、六十六年条にコピーされます。
神功皇后紀の編纂者にとっての神功皇后は半神半人の神聖な存在ですが、その神功皇后を東夷の野蛮人のような倭人と書くわけにはいきません。そこで六十六年条に倭女王という表記がコピーされたのでしょう。こうして神功皇后は卑弥呼・台与だと思われるようになるのですが、これは神功皇后紀の創作であって、266年の遣使は台与が行なったのではないようです。
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