天孫降臨として語られている侏儒国(日向)の統合の前段階として、肥前の西半や臼杵―八代構造線以南の球磨川流域の統合があったと考えていますが、狗奴国の官の狗古智卑狗が殺されたことにより、統合はさらに人吉盆地から薩摩・大隅・日向の国境地帯へと拡大したと考えます。
時に彼處に一の神有り。名を事勝国勝長狹と曰ふ。故、天孫、其の神に問ひて曰はく「国在りや」とのたまふ。對へて曰さく、「在り」とまうす。因りて曰さく「勅の随に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼處に留住りたまふ。其の事勝国勝神は、是伊奘諾尊の子なり。亦の名は鹽土老翁
事勝国勝長狹は降臨したホノニニギに日向の国譲りをすることになっています。大国主の出雲の国譲りはよく知られていますが、事勝国勝長狹の日向の国譲りはあまり知られていません。これは天孫降臨が有名なためにその陰に隠れてしまっているためでしょう。
出雲神話では国譲り以前の大国主自身の活動があり、またアメノホヒ(天菩比・天穂日)・アメノワカヒコ(天若日子・天稚彦)の国譲りの交渉が失敗し、タケミカヅチ(建御雷之男・武甕槌)の強談判があって、国譲りが実現することになっています。
日向神話にはそのような経過が見られませんが、日向神話で出雲神話における大国主の役割を果たしているのが事勝国勝長狹のようです。事勝国勝長狹は『日本書記』の一書第一・第二・第四・第六に出てきますが、一書第二は国主(国の支配者)だとし、一書第四はイザナギ(伊奘諾)の子であり、またシオツチノオジ(鹽土老翁)の別名だとしています。
シオツチノオジには複雑な性格があって、神話が新たな展開を見せるときに必ず登場し、この神が登場しないと日向神話は薩摩北部・薩摩半島部・大隅北部・大隅半島部・日向南部・日向北部の6つの孤立した物語になって、ホノニニギから神武天皇に至る「日向三代」の神話は成立しなくなります。(2011年4月投稿「二人のヒコホホデミ」)
その名もホノニニギに国を譲るときに限って事勝国勝長狹、または事勝国勝神になっていますが、この事勝国勝長狹の伝承は薩摩北部の薩摩君のものであり、事勝国勝長狹は薩摩君の遠祖ではないかと考えています。そのため薩摩君が支配する川内川流域にホノニニの可愛山稜の伝承があるのでしょう。
同様にオオヤマツミ(大山津見)やカシツヒメ(鹿葦津姫、吾平津媛・木花之佐久夜毘売・神阿多都比売)の伝承は薩摩半島の阿多君のもので、その系譜から神武天皇の妃のアタツヒメ(吾田津媛)や、その兄の吾田君小橋が出てくることが考えられます。しかしこれには奇妙なことがあります。
是に詔りたまはく「此地は韓国に向ひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき。
ホノニニギは立派な宮殿に住み日向を支配するようになったと述べられ、「此地は韓国に向ひ」とされています。「韓国」を唐国・漢国と解釈して中国のことだと見ることもできそうですが、朝鮮半島のことと見るのがよいでしょう。ところが薩摩や日向は「韓国に向ひ」とは言えません。
それにもまして奇妙なことは「高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき」とされていることです。高天ヶ原はホノニニギが高千穂峰に降臨する際の出発地であり、天照大神(卑弥呼・台与)の居る邪馬台国でもありますが、それは筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半分になります。
筑前の西半分が韓国(朝鮮半島)に向いていることは事実で、これだとホノニニギの居るのは高天ヶ原であって日向ではないことになり、ヒコホホデミは高天ヶ原(邪馬台国)に居て日向(侏儒国)の統合を指揮していることになってきます。
事勝国勝長狹・シオツチノオジは出雲神話における大国主とアメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカヅチを合成したような役割を持っているようです。ホノニニギにとってシオツチノオジとその別名の事勝国勝長狹は、言わば古墳時代の名代(なしろ、御名代)に相当し、侏儒国統合の現地司令官だと考えればよいのでしょう。
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