2012年3月4日日曜日

倭面土国を考える その9

西嶋定生氏は倭面土国を古墳時代のヤマト国のことだとされているようですが、弥生時代が「部族制社会」であるのに対して古墳時代は「氏姓制社会」であり、更には「律令制社会」に変るという変遷が考えられていないように思います。

私は倭人が中国の冊封体制に組み込まれる紀元前1世紀以前には、律令制の郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、3世紀にはそれが統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になると考えています。(1910年8月投稿「部族 その4」)

「倭面土国王帥升等」の「等」は複数の倭人が遣使したことを表わすと考えられていますが、「等」は帥升が部族国家の面土国の王に過ぎないことを表わしており、『後漢書』などが帥升を倭国王とするのは帥升が部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王でもあるということでしょう

通説では奴国は福岡平野とされていますが、遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、それが統合されて戸数2万の奴国になると考えます。


同様に筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半にある10郡(10国)ほどが統合されて、戸数7万の邪馬台国が形成されたと考え、また筑後の7郡(7国)ほどが統合されて戸数5万の投馬国が形成されたと考えています。

奴・ 邪馬台・投馬の3国は20ほどの部族国家の統合された部族連盟国家だが、女王国は更に大きな部族連盟国家で、この3国は部族国家と女王国の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。

筑前を三郡山地で東西に2分した時の東半には面土国(宗像郡)と不弥国(遠賀郡)もあって、五つの部族国家が存在したと考えていますが、これに対馬国・一支国、および国名のみの21ヶ国を加えると約55ヶ国になりそうです。

55ほどの部族国家は筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の佐賀県部分にあったと考えていますが、図に示しているようにそれが30国に統合されたものが女王国だと考えます。(2010年4月投稿「再考 国名のみの21ヶ国」)

紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置しますが、後に4郡は楽浪郡を残して廃止されます。残された楽浪郡は朝鮮半島経営の拠点になり、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます。

冊封体制では支配権の強弱に応じて授与される称号が異なり、支配地が広いことや支配する人民の多いことが高位の称号を得るための条件になります。そのため部族が形勢する部族国家は統合され、規模の大きな部族連盟国家を形成するようです。

倭人伝に「旧百余国、漢の時に朝見する者有り。今使譯の通じる所三十国」とありますが、中国の冊封体制に組み込まれたことにより、紀元前1世紀の百余国が1世紀には55国ほどに統合され、2世紀~3世紀にはさらに統合が進んで三十になると考えます。

帥升が倭面土国王とされるのは、57年の奴国王と同様に55ほどの部族国家のうちの一国の王という意味であり、倭国王とされるのは30ほどに統合された部族連盟国家の王という意味だと考えています。

換言すると面土国王の帥升が後漢から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国が誕生したと言えると思います。これが弥生時代中期から後期への転換点であり、青銅祭器が中細形から中広形に変わる原因になっていると考えます。

0 件のコメント:

コメントを投稿