2011年11月27日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その6

伊都国以後の各国を比定するには伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどの条件を満たすこと、あるいは地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないこと求められますが、倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて矛盾の生じない場所を求めるしか方法がありません。

糸島市の周辺を伊都国・奴国とし福岡平野を邪馬台国とする説があります。この説も新井白石以来の通説を改変したもので、同じ糸島郡を問題視するのなら奴国を福岡平野とし伊都国を大宰府付近とすれば、投馬国を筑後とすることができ、邪馬台国は筑後川流域とすることができて面白くなります。

図は私の考える倭国ですが、伊都国以後の諸国は「従郡至倭」の行程には含まれず「自女王国以北」の国だと考えます。そうであれば倭人伝の地理記事は末盧国までの「従郡至倭」の行程、伊都国以後の「自女王国以北」の間で分断されることになります


その分断される部分に面土国があると考えることができます。倭人伝に「刺史の如し」とあるのが面土国王だと考えていますが、図の赤丸で示した筑前宗像郡が面土国だと考えます。「自女王国以北」は遠賀川流域であり伊都国は白丸の豊前田川郡のようです。また卑弥呼の王都は青丸の筑前上座郡(朝倉市)にあったと考えます。

「王城を去ること三百里」、あるい「方六百里」を稍と言いますが、倭人伝の千里は65キロで六百里は260キロになります。以前の投稿で何度か示した稍の図は四千里=280キロとして作図していますが、これは260キロで作図すると隣接する稍との間に20キロほどの空隙が生じるためです。これは図法によるもののようで今回の図は260キロで作図していて稍が以前のものよりも小さくなっています。

稍については諸橋徹次編『大漢和辭典』第七巻1135ページ【畿】の項に説明があり、「王城の外側の三百里以内を稍という」とあり、また【稍】の項には『正字通』を引用して「三百里外為稍地、太夫之所食也」とあります。『大漢和辭典』は名著でどこの図書館にもありますから調べてみてください。

稍は太夫に食封として与えられる面積で、卑弥呼は外臣の王であることから大夫と同格とされ、王城から三百里(130キロ)以内を支配できたようです。狗奴国は肥後だと考えますが面土国の南二千里に位置しているようで、律令制国郡の原形がすでに存在していたようです。

筑前上座郡(朝倉市、図の青丸)を邪馬台国とすると、卑弥呼は王城から二千里以内の狗奴国の北半を支配できることになりますが、狗奴国はこれを認めていなかったようです。

女王国の東千里にある倭種の国は長と考えてよいようです。侏儒国は女王国の南四千里に位置しているとありますが、薩摩・大隅・日向が侏儒国になります。裸国・黒歯国は「東南船行一年」とありますが、これは本州の東端までの日数であり四国西部と考えるのがよさそうです。

伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は誤りです。その根源を辿ると『日本書記』神功皇后紀が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしたことに始まるようで、『日本書記』神功皇后紀は実に巧妙に構成されていています。

2011年11月20日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その5

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わりますが、それは万二千里の終点でもあって、伊都国以後の国は「従郡至倭」の行程に含まれない「自女王国以北」の国になります。その距離も万二千里には含まれず、伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説は成立しません。

通説は正徳6年(1716)に新井白石が著した『古史通或問』に始まります。『古史通或問』では卑弥呼を神功皇后とし邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、筑後山門郡を邪馬台国としています。

白石が大和を邪馬台国とするについては備後の鞆の浦を投馬国としていますが、これは倭人伝の方位・距離が無視されており、方位・距離を重視すれば邪馬台国・投馬国は九州でなければならず、そこで晩年には筑後山門郡を邪馬台国とするのでしょう。当然投馬国は筑後妻郡になります。

倭人伝を学問の対象にした最初の人物が白石ですが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行っており、対馬国を対馬、一支国を壱岐とし、末盧国を松浦郡とし、伊都国を怡土郡とし、奴国を那珂郡としました。これが今日でも通説になっています。

白石は卑弥呼を神功皇后としていますが、倭人伝に出てくる国と実在する地名の比定を行うについては『古事記』神功皇后記の応神天皇の誕生に関係する次の文を根底に置いているようです。白石の判断は当時の史観なら当然のようにも思えますが、今日から見ると矛盾が生じています。

筑紫国に渡りて其の御子は坐れましつ。故、其の御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纏きたまひし石は筑紫国の伊斗村に在り。亦筑紫の末羅県の玉島里に到り坐して、其の河の辺に御食したまひし時、四月の上旬に当りき。

この文から白石は福岡県糟屋郡宇美町を不弥国としました。また伊斗村は糸島郡(旧怡土郡・志麻郡)二丈町で、ここを伊都国としています。末羅県の玉島里は佐賀県東松浦郡浜玉町で玉島川があり、ここを末羅国としています。

『日本書記』神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年冬十月の条)は皇后の対馬から新羅への渡海について「和珥津より發ちたまふ」としていますが、和珥津は対馬上県郡の鰐浦のことで対馬の最北端に位置しています。

対馬の北端から朝鮮半島に渡るとすると、その行き先は釜山・金海になってきます。こうして狗邪韓国は金海・釜山ということになり、対馬の寄港地は鰐浦だと考えられていたが、鰐浦の知名度が低いことから厳原に変るのでしょう。

狗邪韓国を金海・釜山とする説も神功皇后伝承から生まれたもののようですが、朝鮮の研究者がこれを認めているとは思えません。日本との歴史的な関係から任那を伽耶と言っている朝鮮の研究者が故意に認めないのではなく、金海・釜山は狗邪韓国ではないからだと考えるのがさそうです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりでもありす。伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野という通説を手がかりとして以後の各国を比定しても邪馬台国論争に拍車をかける結果になるでしょう。

それどころか倭人伝には末盧国の方位が示されていません。図の青線は壱岐を中心とする千里(65キロ)圏ですが、東松浦半島が末盧国とは限らず青線上の任意の地点が末盧国になり、糸島郡・ 福岡平野は伊都国・奴国ではなく末盧国かも知れません。

東松浦半島付近を末盧国としたのも白石ですが、松浦という地名も伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野と同様の「創作された地名」であることも考えられます。しかし千里という限界があり末盧国は東松浦半島かその周辺としてよさそうです。

それは伊都国以後の各国を比定するための手がかりにはならないということです。これは私が言うまでもなく誰もが気づいていることで、方位・距離を恣意的に解釈して自分の思う所を邪馬台国にしてもよいという風潮がうまれています。

伊都国以後の各国を比定するには白石以前に立ち返って倭人伝の地理記事と実際の地理とを対比させて、矛盾の生じない場所を求めるしか方法がないということでしょう。伊都国以後は陸行になることや侏儒国が女王国の南四千里であることなどが条件になってきますが、地理的な条件だけでなく歴史的にも矛盾のないことが求められます。

2011年11月13日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その4

狗邪韓国は韓伝の弁韓と同じものであり、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えますが、韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺と考え、対馬への渡海地点は金海・釜山ではなく巨済島だと考えています。

対馬への渡海地点が巨済島なら、その寄港地は厳原ではなく浅茅湾だと考えるのがよいようです。対馬には海神の綿津見神を祭る神社が見られ、また130本以上という多数の銅矛が出土していますが、対馬の銅矛は綿津見神を祭る神社が所蔵しているものが多いのが特徴です。

豊玉村の和多津美神社5本・海神神社6本・金子神社13本などが所蔵されています。この対馬の銅矛のように玄界灘沿岸に多数の銅矛が見られることから、銅矛は外洋の祭祀に用いられ、銅剣は内海の祭祀に用いられたとする説があります。

私は青銅祭器について部族の配布した宗廟祭祀の神体だと考え、配布を受けた宗族は同族関係にあったと考えていますが、以前には金海の良洞里遺跡で小型仿製鏡などと共に中広形銅矛が出土したと言われていました。現在ではこの銅矛は日本人が持ち込んだものだとか、偽造されたものだとか言われています。

銅矛を配布した部族は通婚関係の生じた宗族に銅矛1本を配布しましたが、朝鮮半島南部に銅矛を配布した部族と同族関係にあった人々がいたことが考えられます。前回・前々回には「海峡圏」の存在を想定しましたが、それを象徴するのがこの朝鮮半島南部の銅矛だと言えるようです。

銅矛が外洋祭祀に用いられたのであれば、「南北に市糴」する交易船一隻に1本が配布され、今日の船舶に掲揚される国旗のように船籍を表したと考えることもできます。いずれにしても対馬の銅矛は朝鮮半島との交流が関係するようです。

図の赤点が銅矛の出土地ですが島の西側の浅茅湾や三根湾周辺に多く東側は少数です。そして厳原周辺には殆ど見られません。これは対馬の西側を航行する船が多く東側を航行する船は少ないということで、帯方郡使の寄港地も厳原とするよりも浅茅湾か三根湾とするのがよいでしょう。

インチョンから巨文島までが七千余里ですが、巨文島~巨済島間は二千里でインチョンから巨済島までは九千里になります。対馬の浅茅湾までは一万里になり、東松浦半島まではおよそ万二千里になります。つまり帯方郡から倭国までの万二千里の終点は末盧国の海岸になります。

通説では倭人伝の地理記事に見える方位・距離の起点・終点は、共に郡冶(郡役所)や国都などの中心地だと考えられており、大和の纏向遺跡や九州の吉野ヶ里遺跡などのような著名遺跡を邪馬台国だと喧伝することが行われていますが、倭人伝の地理記事は国都の位置を示してはいません。

起点は郡冶や国都などの中心地ですが、終点は中心地ではなく郡境・国境・海岸などの境界です。帯方郡から狗邪韓国までの七千余里の終点は狗邪韓国の国境でなければならず、それは巨文島付近になります。万二千里の終点、つまり「従郡至倭」の行程の終点は邪馬台国ではなく末盧国の海岸でなければいけません。

通説では万二千里の終点は邪馬台国だと考えられていて、九州説では福岡県糸島市付近までが万五百里であり、残りの千五百里が糸島と邪馬台国の間の距離だとされています。畿内説は伊都国=糸島市周辺、奴国=福岡平野でよいが、この千五百里を無視し、奴国以後の方位も無視しようというものです。

「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっており、それは万二千里の終点であり「倭国圏」の始まりですからこの通説は成立しません。この誤った通説を根拠としているために、邪馬台国の位置論は倭人伝の方位・距離を無視して語られるようになっています。

私の参加した講演会でも講演者は質問に対し、邪馬台国はキャッチフレーズであって方位や距離とは関係がないと応答していました。講演者はアマチュアの方でしたが自分の考えを正直に言っているようです。プロなら答え方を工夫するでしょうがアマチュアもプロも同じことをしています。

2011年11月6日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その3


倭人伝の記事の多くは正始8年(247)に黄幢・詔書を届けに来た、帯方郡使の張政の見聞記録でしょう。その見聞記録では倭人伝の地理記事は「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたと思います。

「倭国圏」を表す呼称には倭人・倭国・倭種・倭地・女王国などがありますが、倭人は今日で言う日本人と思えばよいでしょう。その日本人の国が日本国ですが倭国は日本国に相当し、これは外交関係に用いられる呼称のようです。

女王国は女王が支配している国ということですが、中国が冊封体制によって日本国として認めているのは首都(東京)のある関東地方だけで、北海道・九州地方は日本国として認めていないのだと思えばよいようです。

そこで関東地方の日本人と同じ日本人が北海道・九州地方にも居るという意味で、北海道や九州が倭地とされ、そこに住む人々が倭種とされていると思えばよいでしょう。この譬えの関東地方が女王国であり、女王国は北部九州にありました。

卑弥呼・台与は邪馬台国の女王だという人もいますが、この譬えで言えば卑弥呼・台与は東京都知事だと言っているようなものです。ここで仮定している「倭国圏」とは今日で言う日本人の居る圏内を言います。

正始8年の張政の見聞記録では「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたものを、『三国志』の編纂者の陳寿が「暦韓国圏」と「海峡圏」を「従郡至倭」の行程に変えたのでしょう。

「倭国圏」は「従郡至倭」の行程には含まれないようです。伊都国以後が「倭国圏」であり、それには対馬国・一支国・末盧国を含まず、この3国は狗邪韓国と共に「海峡圏」になります。しかし「海峡圏」の存在が考えられていないので、通説ではこの3国も「倭国圏」の国のように思われています。

「従郡至倭」の行程に「倭国圏」は含まれていないのであれば、伊都国以後の国々の距離も万二千余里には含まれないことになり、倭人伝の地理記事に対する考え方を根本的に変えなければならなくなります。

金海・釜山が狗邪韓国とされ、対馬国への渡海地点とされていますが、検討してきたように千里=65キロであればインチョンから金海・釜山までは一万里になるでしょう。そうであれば対馬の厳原までは万二千里になり、壱岐(一支国)は万三千里になってしまいます。狗邪韓国は金海・釜山ではないのです。

狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる、韓伝の弁韓と同じもので、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えます。また韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島付近だと考えます

狗邪韓国と末盧国の間は三千里だとされていますが、インチョンから巨済島までは九千里になり、インチョンから巨済島・対馬を経由して東松浦半島(末盧国)までは万二千余里になります。

これは末盧国の海岸が万二千里の終点であり、「従郡至倭」の行程の終点だということです。それは「倭国圏」の始まりが末盧国の海岸であることを意味しています。

対馬国への渡海コースは金海・釜山からではなく、対馬海峡西水道(朝鮮海峡)が最も狭隘な巨済島と対馬の浅茅湾の間だと考えます。金海・釜山まで行くと三千里ほどの遠回りになりますが、帯方郡使の張政に金海・釜山まで行く必要があったでしょうか。

渡海地点の巨済島は鎌倉時代の元寇・応永の外寇では朝鮮半島から九州に向かう元軍の結集地になりました。元軍に3千里も遠回りして金海・釜山で結集する必要がないのと同じで、張政にも金海・釜山まで行く必要はありません。

南北朝後半から室町前半の倭寇が巨済島を侵犯したことも知られています。また豊臣秀吉の文禄・慶長の役ではこの島を日本軍が足掛かりとし、今も倭城の遺跡が残るなど日本と深い関係があります。

金海・釜山から対馬に渡ると朝鮮海峡の東流する強い潮流に流されて日本海を漂流する危険性がありますが、巨済島からだと潮流に流されても対馬に着ことができます。巨済島が渡海地点になったのはこうした点も考慮されているのでしょう。