2010年7月29日木曜日

部族 その2

元来の部族は宗族が通婚することによって形成された地縁・血縁的な統一体だと思われますが、三世紀中ごろには中国の妻子・門戸、宗族に相当するものが存在していました。妻子は一つの家屋に住む男の妻とその子供を表していると考えられ、中国ではこれを房と言っています。

房の集まりが家ですが、中国では父母とその子、および既婚の息子とその妻子が集まってできた集団を家と言っており、日本の長男以外が別の家を構えるのと違い、家族の範囲が広いようです。このことを思わせる文が倭人伝に見えます。

「屋室有るも父母・兄弟は臥息処を異にす」

父母と兄弟は寝る場所を別にするというのですが、竪穴式住居だと父母と兄弟は別の竪穴で寝起きしていたことになります。中期の福岡市比恵遺跡では30メートル四方ほどの溝で囲まれた区域内の5基の竪穴式住居のうち、4基が同時に存在していた可能性があるということです。

図は鏡山猛氏の『北九州の古代遺跡』からお借りしたものです。私の素人考えですが、この場合1号竪穴が父母の住居であり、2.4・5号竪穴が既婚の息子とその妻子の住居ということになりそうです。

3号竪穴は父母が最初に建てたものだが、子供が生れて手狭になったので1号竪穴に建て替えられ、1号竪穴にはその後も父母が住んでいたと考えることができそうです。

倭人伝に見える妻子とは一基の竪穴に住む男の妻子と言う意味でしょう。そうした竪穴住居が3~4基集まって「家」を形成していたと考えられます。それは「父母・兄弟は臥息処を異にす」とあるように、親子・兄弟の関係にあったと考えられます。

鳥取県妻木晩田遺跡は総面積170ヘクタールの微高地上の遺跡ですが、今までに1千基に近い建物が発見されています。最盛期の後期には1600~5000平方メートルほどの比較的に平坦な場所に、竪穴住居3~4基と掘建柱建物2~3基で小集落が形成されていることが観察されています。

これを居住単位と呼んでいますが、妻木晩田遺跡では25ほどの居住単位が確認されています。比恵遺跡は妻木晩田遺跡と違い水田地帯の遺跡ですが、溝で囲まれた区域内の5基の竪穴式住居も居住単位なのでしょう。

倭人伝には記述がありませんが、妻子と門戸の間に中国の家に相当するものがあり、これが居住単位であることが考えられます。竪穴住居1基に5人が住んでいたとすると居住単位には15~20人が居たことになります。

比恵遺跡には30メートル四方ほどの溝で囲まれた区域が四ヶ所あり、一つの集落を形成していましたが、単純計算では全体で60~80人が住んでいたと考えることができそうです。妻木晩田遺跡の妻木山地区と呼ばれている区域の居住単位群でも70~80人という数が考えられています。

倭人伝を見ると対馬国は千余戸、末盧国は四千余戸とされているのに対し一大国は三千家、不弥国は千余家とされていますが、この戸と家はどう違うのでしょうか。戸は住居数であり、家は居住単位(家)数ではないでしょうか。
 
倭人伝に見える門戸は、居住単位(家)が結びついた親族集団で、比恵遺跡は比較的に短期間に営まれた門戸の集落のようです。歴史の古い大きな門戸の場合には、いわゆる分村が起きますが、考古学では中心になる大きな集落を母村(母集落)と呼び、小さな集落を子村(子集落)と呼んでいます。

この母村(母集落)と子村(子集落)の関係が、宗族と門戸の関係・形態を表していると考えられます。子村から孫村が派生し、歴史の古い宗族は規模が次第に大きくなっていくのでしょう。この呼称は母系が想定されていますが宗族は父系の始祖が同じであることにより結合したものです。

倭人伝にも見えるように逆に門戸が滅ぼされ宗族が消滅することもありましたが、消滅した門戸・宗族はどうなるのでしょうか。後世の物部氏などの例から見て再興されることもあったが、多くは他の宗族に隷属したのではないかと思っています。

2010年7月24日土曜日

部族 その1

今回もまたすでに述べたことの繰り返しになります。私は『魏志』倭人伝・青銅祭器・神話・部族は相関々係にあると考えています。さらに部族との関係から六百里四方の「稍」や、中国の冊封体制を考えてみる必要があるとも思っています。

ところが「部族」のことがほとんど問題にされていません。寺沢薫氏の著作『王権誕生』は分かりやすくて説得力があります。度々引用して恐縮ですが、また『王権誕生』から引用させていただきます。

寺沢氏は大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとし、イト倭国の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められ、卑弥呼を王とする新生倭国(ヤマト王権)が誕生したとされています。

この「部族的な国家」とはどのような国家を言うのでしょうか。別の深い意味もあるようですが、卑弥呼の時代と比較して未開、ないしは遅れている状態を「部族的」と表現されているように思われます。

部族という場合、こうした意味で使用される例が多く、アメリカ・アフリカ・オーストラリア原住民などの未開な社会が思い起こされます。これが定着しているために部族は差別用語であり、日本に部族が存在したなどとは思いたくないという先入観があるように感じます。

しかし東夷諸国には部族が存在していました。『魏志』高句麗伝によると、高句麗の有力な部族には桂婁部、消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部の五部族があり、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主だったが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていったということです。

夫余では有力な部族長は馬加・牛加・猪加・狗加などと家畜名で呼ばれていました。加とは部族長を意味しその下に宗族長がいます。辰韓では土着の金と流移民の朴、昔などの宗族が結合した斯盧族が優勢でしたし馬韓では伯済族が知られています。

日本でも弥生時代に部族が存在したことは考えられてよく、その痕跡も見られます。社会人類学では部族をトライブと言っていますが、その定義では部族は共通の言語や祭神を持ち、一共通領域を占有し、同質の文化、伝統を持つ人々の集団とされています。

定義を持ち出すと分かりにくいのですが、通婚することで形成された地縁・血縁的な統一体が、擬制された共通の祖先を持ち、その祭祀を行い、方言で会話すると、それが部族だと考えればよいのでしょう。

少しニュアンスが違うようですが「首長制社会」に近いと考えればよいとも思っていますが、ここで言う部族は宗族(氏族)と民族の中間に位置する「擬制された血縁集団」であって、文化の遅れた集団という意味ではありません。
 
中国の氏族はクランと呼ばれるものでトライブ(部族)ではありませんが、よく似ていて氏族統一の象徴として神話・伝説上の始祖を持ち、また祖先を祭る宗廟を持っており、宗廟には「神主」と呼ばれる日本仏教の位牌に相当するものを安置して厳格な宗廟祭祀を行っていました。

神話や伝説で同族とされているのではなく、実際に血縁関係のたどれる集団がリネージですが、中国の宗族はリネージに当たります。姓の異なる宗族が連宗(宗族が合流すること)することもありますが、そうした宗族はリネージを擬制したクランであり、形態は宗族でありながら、実態は氏族という巨大な宗族が存在していました。

『魏志』倭人伝は倭人社会にも宗族(リネージ)が存在していることを述べています。

其の法を犯すに軽い者は其の妻子を没し、重い者は其の門戸を滅し宗族に及ぶ。

文中に親族関係を表す妻子、門戸、宗族が出てきますが、三世紀中ごろの倭人社会に、中国の門戸、宗族に相当するものが存在していました。倭人社会には中国の氏族に相当するものは存在していなかったようですが、それに代わるものが部族です。

紀元前108年に前漢の武帝が楽浪など4郡を設置して以後、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれますが、弥生時代後半には中国の氏族の影響を受けた部族が出現してくるようです。

2010年7月18日日曜日

倭面土国 その4

前々回に述べた「第3の読み方」が可能であれば、一大率のいる伊都国とは別に、「刺史の如き」者のいる国があことが考えられます。西嶋定生氏は面土国の存在を疑いつつも「倭面土国」という記載が存在する以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになる」とされていました。

「刺史の如き」者のいる国が面土国であることが考えられます。西嶋氏は「倭面土国王」の記事のある『翰苑』は唐初期に成立し、『通典』は唐中期以後に成立していることなどから、唐代初期に倭国をヤマト国と言うようになり、それに「倭面土」の文字を当てたとされるようになります。

それが誤記されて倭国王帥升が「倭面土国王」とされるようになっのであり、2世紀に面土国という国が存在したというのではないとされます。西嶋氏は帥升を伊都国王だと考えられていたようですが、西嶋氏は文献史学界の重鎮であり、一般通念では権威者が言ったことはそれだけで正しいと受け取られます。

現在では寺沢薫氏がこの考えを継承されていますが、寺沢氏も現在の考古学会の権威です。そうした中で私などがいくら面土国の実在を主張してみても認められることはないでしょう。「第3の読み方」は私が考えているだけの独自の読み方ですが、この読み方が可能なら帥升を伊都国王ではなく面土国王とすることができます。

倭人伝は伊都国について「世有王、皆統属女王国」と記していますが、これが帥升を伊都国王だとする根拠にはなりそうもありません。帥升を伊都国王とする説は「そう考えることもできる」という程度の仮定に過ぎず、何等の根拠もありません。

倭人伝に面土国の名があれば問題はないのですが、伊都国の名は見えるものの面土国の名は見えません。しかし国名こそ見えませんが「第3の読み方」が示すように、倭人伝の記事の多くは、正始8年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞です。

倭人伝の対馬国から邪馬台国までの8ヶ国については全体を直線行程と見る説と、伊都国以後は放射行程とする説があります。伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文字・文が見えないことから、高橋善太郎氏は末盧国までが直線行程で、伊都国以後は末盧国を起点とする放射行程だとしています。

これは張政は末盧国までは来ているが未だ伊都国には至っていないということであり、末盧国と伊都国との間に張政の現在地があるということです。対馬国から末盧国までは「従郡至倭」の行程中の国であり、伊都・奴、不弥の3ヶ国は「自女王国以北」の国です。正始8年の張政の現在地はその接点になります。

それは「従郡至倭」の行程中の国でもなく、かといって「自女王国以北」の国でもないという、地理記事の中では中途半端な位置づけになっています。このために倭人伝に面土国という国名を記す場所がなく倭人伝にその名が見えません。

このことは倭人伝だけに限ったことではなく、東夷伝の地理記事全体について言えることです。先に「稍」という考え方に絡めて各国の地理記事を考察してみましたが、参考にしてみてください。方位・距離の起点は郡冶所や国都などの「中心地」ですが、その起点が明示されている例はまったくありません

ことに挹婁伝の「夫余の東北千里に在り」などは正始6年の毌丘倹による高句麗再討伐の際の、玄菟郡太守・王頎の行動経路が分からないと、その方位・距離の起点が分かりません。挹婁伝の「東北千里」は、夫余王の国とその季夫父子の国とが別の国だと考えないと理解できません。

倭人伝の場合も同様で伊都国以後の諸国の方位・距離の起点になっている場所の名が書かれていません。その張政の現在地が面土国であり、それは筑前宗像郡です。捜露が行われたのは宗像市田島の宗像大社辺津宮の位置だと考えています。

宗像大社神宝館前の駐車場にある万葉歌碑付近に浜殿があったことが伝えられていますが、浜殿は船が祠になったもののようで、張政の乗った船もこのあたりに着岸したのでしょう。その捜露が行われた場所に、後に宗像大社の辺津宮が創建されるようです。

2・3世紀に面土国が存在したのであれば、このようなことも考えられるようになりますが、それは宗像大社に係わる神話や、北部九州に見られる銅矛・銅戈などの青銅祭器にも関係してくるようです。

2010年7月10日土曜日

倭面土国 その3

通説では国々に市場がありそれを大倭が管理しており、また女王国の北部には一大率が置かれ諸国を検察しているが、諸国はこれを畏憚しており、一大率が諸国を検察している様子が、あたか中国の刺史のようだというふうに解釈されています。

最初にこのように解釈したのは誰なのかは知りませんが、これはたいへんな誤解です。私見では東洋史の植村清二氏が同様のことを述べています。(『東方学』「魏志倭人伝の一説について」一九六一年)

植村氏は大和にいた大倭が、北九州の伊都国に一大率を派遣して「自女王国以北」の諸国を検察させており、その有様があたかも刺史のようだとしています。この解釈は現在でも通説として罷り通っていますがこの解釈はおかしいと言わざるを得ません。

前漢の武帝が設置した刺史の秩禄は六百石で、主として担当する州内の土着豪族と郡県の官吏の癒着を巡視・検察し中央政府に報告することを任務としていました。そのような意味では前漢代の刺史と一大率は似ているといえます

前漢時代の刺史は司察官で行政権も軍事権も持っていませんでした、任務の性格が中央政府と結び付いていたので権力が強まり、前漢末の成帝の時代には「州牧」と呼ばれるようになり郡太守よりも上位になります。

魏・晋時代の刺史は最高位の地方行政官で、二千石の大夫が任命される州の長官になり、都督諸軍事の資格を持ち軍事権を持つ者もいました。ちなみに幽州刺史の毋丘倹は、公孫淵を討伐するについて度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の武官位を加えられています。

確かに前漢時代の刺史は皇帝に直属して郡県を検察していたので郡県が畏憚したかもしれません。しかし毋丘倹の例にも見られるように魏・晋時代の刺史は州の長官であり、強大な軍事権を付与されることもあります。

前漢時代の刺史と魏・晋時代の刺史の性格は全く違います。このことは『三国志』の編纂者の陳寿自身が『魏志』巻十五の評語で、後漢時代以後の刺史は諸郡を総統する行政官であって、前漢時代の監察だけを行っていた司察官の刺史と同じではないと述べています。

その陳寿が2~300年も前の前漢時代の刺史を引き合いに出して一大率を説明することはあり得ません。魏・晋時代の刺史は行政権も軍事権も持っていますから郡・県を検察することはなく、郡・県が畏憚することはありません。魏・晋代に郡・県を畏憚させる刺史がいたらそれは余程の酷吏でしょう。

今までに実際に刺史の如き者が居るとしたのは小説家の松本清張氏だけです。松本氏は一大率を魏の派遣官だとし、伊都国、邪馬台国以外の28ヶ国にそれぞれ刺史のような役人がいて国内を検察しており、それを伊都国にいる一大率に報告しているのだとしています

刺史の如き者が伊都国以外の国にいるとしたことは正しいと思いますが、前漢代の刺史が州内を検察していたことに気を取られて、魏・晋時代の刺史が州の長官であることに気付いていません。このことは通説についても言えることです。

28ヶ国は中国の郡・県に相当すると思われ、少なくとも州には相当しません。魏・晋時代の刺史は中国にあった14の州の内、首都圏以外の13の州の長官で、前漢代のそれとは全く性格が違います。28ヶ国に州の長官である刺史の如き者がいるはおかしなことです。

「於国中有如刺史」とは国内に刺史の如き者が居るということですが、国中とはどの国のことをいうのでしょうか。一大率のいる伊都国とは別に国があり、その国に州の長官のような刺史の如き者がいると考えないといけません。西嶋氏がかつて述べられていたように、この国こそ面土国と考えるのがよいでしょう。

「於国中有」の国を女王国と見ることも可能です。その場合には女王支配下の30ヶ国に何人かの刺史の如き者が居ることになります。しかしこの部分は「自女王国以北」の諸国のことが述べられ、津で捜露がおこなわれているのですから、刺史の如き者が居るのも「自女王国以北」だけだと考えるのがよさそうです。

卑弥呼は倭国に大乱が起きて共立されますが、大乱以前の70~80年間、面土国王は倭国王として君臨しました。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持していたようです。それが 「自女王国以北」の諸国(筑前の遠賀川流域)を州刺史の如く支配し、女王の行なう中国・朝鮮半島との外交を捜露することに現れているようです。

2010年7月4日日曜日

倭面土国 その2

西島定生氏は「倭面土国」という記載が存在する以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされていましたが、後にこの考えを否定されるようになります。しかし、面土国の存在を否定しても倭国王帥升の遣使は否定できません。そこで帥升を伊都国王・奴国王とする考えが登場してきます。

倭人伝に見える大倭とは大倭王のことで、大倭王は奴国王であり、帥升を奴国王だとする説があります。また最近では寺沢薫氏が畿内説の立場から帥升を伊都国王とする説を発表されています。

面土国という国が存在したということと、その国が伊都国、奴国だというのではまったく意味が違ってきます。2・3世紀の倭国、換言するなら卑弥呼前後の倭国を考える上で、面土国を徹底して解明する必要があります。

租賦を収むるに邸閣あり。国国に市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ける?)刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に至り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王にいたらしめ、差錯するを得ず

この文は何処までを一節と見るかで意味が変わってきます。

第1の読み方
「収租賦邸閣、国国有市交易有無」までを一節と見て、以後の「使大倭監之、自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚、常治伊都国、於国中有如刺(以後略)」を別の節とするもの

第2の読み方
「租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之」までを一節と見て、以後の「自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚、常治伊都国、於国中有如刺史(以後略)」を別の節とするもの

第3の読み方
「収租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之」までを一節と見て、以後の「自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚、常治伊都国」までを別の節と見る。さらに「於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露(以後略)」は前の2節とは別の節とするもの、

第1の読み方と第2の読み方の違いは、「使大倭監之」の「之」を市や交易にかかる文字と見るか、あるいは一大率にかかる文字と見るかの違いす。第1の読み方は東洋史の植村清二氏の説で、大倭は一大率を統括しているのであって、租賦を収めるための邸閣や交易と大倭とは関係がないと解釈されています。

一般的には第2の読み方がされており、大倭は市場や交易を管理しており、一大率は「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に検察していると解釈されています。しかし面土国が存在しているのであれば、第3の読み方を考えなければならなくなります。この点についてはすでに昨年の7月10日と27日の「邪馬台国と面土国 その6」に投稿しています。

文中に「於国中有、如刺史」とありますが、「於国中有」は「国中に於いて有り」あるいは「国中に於ける有り」と読み下され、通説になっている第2の読み方ではその国は伊都国だとされています。一大率は伊都国で「常冶」しているのですから、第2の読み方では伊都国以外には考えようがありません。

ここで発想の転換が必要なようです。そうだとすると「於国中有」の4文字は必要がなく「常治伊都国。如刺史」でよいはずであり、特に「有」の一字は全く必要がありません。「於国中有」の4文字が無ければその国を通説のように伊都国とすることができそうですが、有れば刺史の如き者のいる国と一大率のいる伊都国とは別の国ということになります。

このように考えると第3の読み方が可能になってきます。「有」は一大率のいる伊都国とは別に国が存在しているという意味だと考えなければいけません。つまり一大率は伊都国にいて諸国を検察しており、刺史の如き者は伊都国以外の国にいて女王の行う外交々渉を捜露しているのです。通説は「於国中有」を完全に無視しています。

帥升を奴国王とする説もありますが、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるという、以前の西島氏の考えに従うと、その国は奴国ではなく面土国ということになります。「津に臨みて捜露し」とありますが、津とは港のことだと考えてよいでしょう。この津が面土(ミナト)という国名の起源の港であることが考えられてきます。

2010年7月1日木曜日

倭面土国 その1

昨年6月に投稿を始めて今回で149回目になります。さすがに書き尽くしたようで同じことの繰り返しになりそうです。しかし強調すべきことは強調しなければならないと思い直して、倭面土国(倭の面土国)のことを、繰り返しになりますが述べてみます。

内藤湖南は「倭面土国」を「ヤマト国」と読み、大和国のことだとしましたが、それに対し白鳥庫吉は「倭の面土国」と読んで伊都国のことだとしました。面は回の古字の誤りで「回土国」が正しいとし、その音が伊都に似ているというのです。

また橋本増吉はやはり「倭の面土国」と読んで末盧国のことだとしました。通説では末盧国は佐賀県東松浦半島付近とされていますが、『日本書記』に神功皇后が松浦郡の玉島川で鮎を釣って「珍しいものだ」と言ったので「梅豆羅国」と呼ばれるようになり、それが訛って松浦になったという地名説話があります。

橋本増吉は「梅豆羅」と「面土」の音が似ているとしていますが、白鳥庫吉の伊都国のことだとする説と同様に語呂合わせに過ぎないようです。

問題は「倭面土国」と読むのがよいのか、「倭の面土国」と読むのがよいのかということですが、57年に遣使した「漢委奴国王」については「漢の倭の奴国王」と読むのが一般的です。倭人伝などに奴国の名が見えるので「委奴国」などと読む必要がないからです。

それでは「倭面土国」も「倭の面土国」と読んでもよさそうなものですが、内藤湖南の「倭面土国」を「ヤマト国」と読み、大和国のことだとする説が有力です。確かに「倭面土」と「ヤマト」は音がよく似ていますし、倭人伝にも面土国という国名は見えません。

面土国について東洋史に造詣の深い西島定生氏は次のように述べておられます。(『邪馬台国と倭国』、吉川弘文館、平成6年)

私はこの面土国については、いまでも疑問をもっています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができない限り、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。

倭国に大乱が起きたのは後漢の霊帝の光和年中(178~183)だとされています。倭人伝は卑弥呼が女王になる以前の70~80年間は男子が王だったと述べていますが、光和年中から70~80年を遡ると面土国王の帥升が遣使した107年ころになります。

帥升については奴国王だとする説もありますが、帥升が奴国王なら男子が王だった期間は120~130年以上でなければならず、帥升は奴国王ではありません。そこで西嶋氏は奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされています。

この西嶋氏の考えを受けて寺沢薫氏は面土国の存在を否定した上で、帥升を伊都国王だとされています。(『王権誕生』、講談社、2000年)そして卑弥呼共立以前の70~80年間を「イト倭国」と呼び、卑弥呼の時代を「新生倭国」と呼んでいます。

大乱以前の倭国は伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体だったが、その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められて、ヤマト(大和)に中枢を置く卑弥呼を王とする新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでいます。

寺沢氏は邪馬台国=畿内説を取り、纏向遺跡を卑弥呼の王都とされています。それでは九州説だとどうなるでしょうか。伊都国が中心だったと考えられなくもありませんが、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるという、以前の西島氏の考えに従うと、倭国大乱以前の男王は帥升の孫か曾孫の面土国王だと考えるのがごく自然です。

後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなり、面土国王の倭王としての権威が失墜し大乱が起きたことが考えられます。面土国王は倭国大乱・卑弥呼共立の一方の当事者であり、その最大の当事者だと考えるのが自然です。

西嶋氏は『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)では面土国の存在を完全に否定されるようになり、「ヤマト国」と読む考えに転換されています。そして「面土国は何処に求めるべきであるかなどという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか」と述べられています。

今では面土国の存在を認めようとする専門家はいません。西嶋氏の考えの転換が残念ですが、肝心の倭人伝に面土国の名がないので無理もないことです。(実際には倭人伝の記事の多くは面土国での見聞です)

西嶋氏が奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされていることは認められなければならないでしょう。これはその一例ですが、その他にも面土国が3世紀に存在していることを前提にしないと理解できないことが幾つもあります。