私は弥生時代を180年ごとに大区分し、これをさらに90年ごとに中区分し、30年ごとに小区分して実年代を推定することにしています。これは通説に準拠した目安に過ぎませんが、これを元にして今までに述べてきた神話の時期を纏めてみたいと思います。
238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期です。3期は240年から270年までの30年間で台与とその後の男王の時代ですが、 3期初の247年ころが天の岩戸の神話の時期になります。247年にはすでに台与が女王になっていますから、卑弥呼の死はそれ以前です。
3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が遣使した最後の年の266年にほぼ一致することに注意したいと思います。通説では弥生時代の終わりは3世紀後半とされていますが、私はそれを270年としています。その根拠のひとつとして266年の倭人の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思っていることを挙げたいと思います。
266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されると考えています。中国・朝鮮半島の歴史は倭人の歴史と無関係ではありません。中国では倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するようです。
奈良県箸墓古墳の外提から出土した「布留0(ふるゼロ)式土器」は、一説に280~300年ころのものだと言われていますが、270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンだと考えていますが、この間に確実に古墳時代が始まるようです。
239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、『晋書』武帝紀はその後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったとしています。昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年から265年までの7年間でした。
司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。炎が即位すると翌266年にさっそく倭人が遣使していますが、これが神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。
神武天皇は東遷の途中で筑紫の岡田宮(福岡県葦屋とする説が有力)に1年間 (古事記)立ち寄っています。それは東遷コースから外れていますがその理由は何だったのでしょうか。私は266年の倭人の遣使は神武天皇の岡田宮滞在中に行なわれたと考えています。
司馬炎が即位したのは255年12月ですから、遣使の行なわれたのは266年の夏でしょう。そして『神功皇后紀』は使節が洛陽に到着したのは秋の10月だとしていますから、使節の帰国は267年の初夏になったと思います。
267年に大和への移動が始まると考えるのですが、即位するまでに何年間かが経過したとされており、また即位後の在位期間を考えると天皇の死は280年代ころになることが考えられます。これは箸墓古墳の築造時期と重なりますが、私は箸墓古墳は神武天皇の墓ではないかと考えています。
270~80年ころに神武天皇が即位して大和朝廷が成立するようです。大和朝廷の成立、すなわち神武天皇の即位が弥生時代の終わりであり、部族制社会から氏姓制への転換点でもあり、また青銅祭器が姿を消して古墳が出現する原因でもあると考えます。
神武天皇を含めて「欠史八代」と呼ばれている開化天皇までの諸天皇は存在しないとする説がありますが、270年から360年までの90年間が「欠史八代」の時代であり、古墳時代前期でもあるようです。この間に大和朝廷の支配が確立すると考えられます。
そして卑弥呼の死んだ247年から266年までの20年間に、スサノオの追放、オオクニヌシの国譲り、天孫降臨の神話に語られているような、何等かの史実が存在していると考えています。司馬昭が相国だった7年間に行なわれた何度かの遣使にそれが反映しているように思っていますが、残念ながら記録には残っていません。
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