2010年1月31日日曜日

神武天皇の熊野迂回 その2

タカクラジ(高倉下)の倉に布都神が降されたのは、天皇が熊野から大和に入るのをニギハヤヒが認めていることを暗示していると述べましたが、『先代旧事本紀』天孫本紀はタカクラジを尾張氏の祖のアメノカゴヤマ(天香語山)の別名と思わせようとしています。

また『日本書記』は尾張氏の祖をホノにニギの子で、ホホデミの兄のホアカリ(天火明)としていますが、『先代旧事本紀』ではホアカリとニギハヤヒは同神とされ・物部氏の祖のウマシマジと尾張氏の祖のアメノカゴヤマは、ニギハヤヒを父とする異母兄弟としています。

『先代旧事本紀』は物部の系譜に尾張氏を取り込でいますが、物部氏と尾張氏がどのような経過で結びついたのか、あるいは尾張氏がホホデミの兄のホアカリを祖とする理由はよく分かりません。

尾張氏は葛城山々麓の高尾張(奈良県御所市)を本拠とする氏族だとされていますが、尾張国にも同族がいます。私は発生したのは尾張国だが、大和朝廷が成立すると大和に本拠を移すのだと考えています。

三遠式銅鐸は大和の隣の伊勢・伊賀・近江以東の東海西部に分布していますが、尾張国には三遠式銅鐸が分布しています。纏向遺跡の外来土器の49%は東海地方のものとされているように、大和朝廷の成立に三遠式銅鐸分布圏が無関係だったとは考えられません。尾張氏は大和朝廷の成立に大きな影響力を持っていたはずです。

『銅鐸関係資料修成』は銅鐸大辞典とも言うべき大著ですが、その著者・田中巽氏は銅鐸を使用した氏族を尾張氏だとしています。それに対する批判もあるようですが、三遠式に関してはそれを尾張氏だとしてもよいと思います。

タカクラジが尾張氏の祖のアメノカゴヤマ(天香語山)の別名であれば、タカクラジは三遠式銅鐸を配布した部族だと考えることができそうです。熊野は近畿4・5式銅鐸と三遠式の分布が接する場所です。神武天皇の熊野迂回ではさらに東に行こうとした形跡がありますが、三遠式銅鐸を配布した部族を意識してのことであったと考えることもできます。

天皇が熊野の山中で道に迷うと、髙木神はヤタガラス(八咫烏)を遣わして天皇の道案内にしますが、八咫烏についても同様のことが言えるようです。『新撰姓氏録』はヤタガラスをカミムスビ(神魂命)の曾孫で、山城の賀茂県主の祖のカモタケツヌミ(賀茂建角身)の化身だとしています。

出雲のオオナムチの国譲りに続いて経津主神がオオモノヌシとコトシロヌシを帰順させますが、神武天皇の大和入りに大和の賀茂氏の祭るコトシロヌシは出てきません。それに代わるように山城の賀茂県主の祖のカモノタケツヌミの化身がヤタガラスだという話が出てきます。

大和の地祇系(事代主系)賀茂氏と山城の天神系賀茂県主との関係もよく分かりませんが、大和の賀茂氏が山城に進出して賀茂県主になるという説や、両者は無関係だとする説があり、また出雲と関係があるとする説もあります。

山城の賀茂県主の祖とされる神魂命は、出雲ではカモス(神魂)と呼ばれていて出雲の指令神として活動ます。ところが高天が原では活動することがなく、呼び方もカミムスヒ(皇産霊、神産巣日)になります。山城の賀茂氏は高天が原ではなく出雲と関係があるのでしょう。

島根県の加茂には、山城の賀茂神社の荘園があったと言われており、カモノタケツヌミを祭る加茂神社があります。その荘園内の岩倉から銅鐸39個が出土しました。山城の賀茂氏は加茂岩倉遺跡の銅鐸39個と関係があると考えられます。

尾張氏が三遠式銅鐸を使用したのと同様に、賀茂氏も近畿式銅鐸を使用した宗族なのでしょう。神武天皇が熊野に迂回したことにより、三遠式銅鐸を配布した部族が神武天皇を認めるようになり、それが近畿式銅鐸を配布した部族にも及んでいったということであろうと思います。

2010年1月28日木曜日

神武天皇の熊野迂回 その1

吉備の高島宮滞在中に船を準備し兵糧を蓄えた神武天皇は、河内の白肩の津(大阪府枚方市)から生駒山を越えて大和に入ろうとして、ナガスネビコ(長髄彦)の妨害を受けます。ナガスネビコは生駒山を源流とする富雄川流域の宗族だと考えられています。

ナガスネビコの妨害を受けた天皇は紀伊の熊野川々口(和歌山県新宮)に迂回しますが、熊野ではで大熊、あるいはニシキトベ(丹敷戸畔)の毒気に当たって失神します。その時、高御産巣日神と天照大神は、タカクラジ(高倉下)の夢の中でタケミカズチ(建御雷神)を向かわせようとします。

タケミカズチはその必要はないとして、神剣をタカクラジのもとに降します。『古事記』では次のようになっています。

「僕は降らずとも、専ら其の国を平げし横刀あれば、是の刀を降すべし〔此の刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)と云ひ、亦の名は甕布都神(みかふつのかみ)と云ひ、亦の名は布都御魂(ふつのみたま)。此の刀は石上神宮に坐す〕此の刀を降さむ状は、高倉下の倉の頂を穿ちて、其れより堕し入れむ」

タカクラジの夢の中で、倉の屋根を破って物部氏の祭る布都神が降されたというのですから、何かを暗示していると考えるのがよいようです。私は天皇が熊野から大和に入ることをニギハヤヒが認めていることを暗示していると考えます。 大和朝廷で祭祀を職掌とした中臣氏の祭るタケミカズチが出てくるのも意味ありげです。

横刀には幾つかの名があるが、共通するのは布津神であり、それは石上神宮に祭られているというのです。石上神宮は物部氏が剣神である布都神を祭っていることで知られていますが、横刀には物部氏が関係しているようです。

この文は先に紹介した『日本書紀』第二の一書の、出雲のオオナムチの国譲りに続いて経津主神岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として、オオモノヌシとコトシロヌシを帰順させたこと関係するようです。

この時、讃岐・阿波・紀伊・伊勢の忌部が定められますが、この忌部は太玉命を祖とする忌部首氏とは別系統で、忌部首氏が中臣氏と共に祭祀を行ったのに対し、祭祀用の物を調達・管理する物部氏の元で祭祀用の物作りを行ったようです。これは四国東部・紀伊半島に物部氏の勢力が及んでいたということでしょう。

オオモノヌシとコトシロヌシを帰順させ、物作りの忌部を定めたのは物部氏の祭る剣神の経津主神ですが、建御雷神がタカクラジの元に降した横刀とは経津主神であると同時に、ニギハヤヒのことでもあることを暗示していると思われます。

オオモノヌシ・コトシロヌシの帰順から、ニギハヤヒがナガスネビコを殺して天皇に帰順するまでの経過を見ていくと、ニギハヤヒはナガスネビコを排除する機会を窺がっているような印象を受けます。それは神武天皇の筑紫の岡田宮に滞在中に結ばれた密約によると考えます。

先に天皇の筑紫の岡田宮滞在の目的の一つは、遠賀川流域のニギハヤヒの一族と接触することだったと述べました。『古事記』『日本書記』にそれを思わせるものはありませんが、この時にナガスネビコを排除する密約が交わされ、ニギハヤヒもそれを承知していたのだと思っています。

ニギハヤヒが大和に入る経過については『大国主の国譲り その4・5』で述べていますが、ニギハヤヒは近畿4・5式銅鐸を配布した部族に迎えられて、大和盆地の東部(天理市周辺)に本拠を置くことになる考えます。ニギハヤヒは近畿4・5式銅鐸の分布圏である讃岐・阿波・紀伊・伊勢から大和南部にかけて地盤を持っていたようです。

大和の銅鐸出土地を見ると西北部の大和盆地に多く、南部には見られません。根拠はありませんが大和盆地の近畿2・3式銅鐸を配布した部族がナガスネビコではないかと思っています。近畿2・3式銅鐸を持っていた宗族は、部族に属していた歴史が永いだけに、天皇の大和入りが受け入れられなかったのでしょう。

神武天皇は生駒山を越えようとして近畿2・3式銅鐸を持っていた宗族の妨害を受けたので、ニギハヤヒの地盤でもあり、部族としての歴史が新しくて天皇を受け入れ易い近畿4・5式銅鐸分布圏の熊野に迂回したのだと考えます。

2010年1月24日日曜日

出雲神在祭 その3

弥生時代後期(2世紀以後)になると、広島・岡山県北部の中国山地では山陰地方と共通性の強い塩町式などの土器を作るようになり、南部の瀬戸内の土器との違いが際立つようになります。このようなことから山間部の人々は日本海沿岸部の人々と積極的に交流を持つようになると考えられています。

また島根県出雲市西谷3号墓などでは吉備南部で作られた特殊器台・特殊壺が、葬祭用の土器として出土しており、山陰・山陽の交流を示すものとして注目されていますが、これについて島根大学の渡辺貞幸氏は首長間に通婚関係があったという考え方を示しています。

このような交流によって出雲と総称される中国地方の部族国家が誕生しますが、その統治方法は合議制統治、つまり白柳秀湖のいう「寄り合い評定」だったようで、それが後に出雲神在祭になると思われます。ですから出雲神在祭の始原は神武天皇の即位以前、つまり大和朝廷成立以前だと考えてよく、おそらくは3世紀になるでしょう。

神在祭で神々が参集する主な目的には縁結びと神議(カミバカリ)がありますが、もっとも重要な目的は縁結だったと思っています。大部族は強引な通婚を行い、同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布して勢力を拡大しようとしましたが、時には武力を用いることもあり争乱も起きました。

先にヤマタノオロチとは強引な通婚によって勢力を拡大しようとした、銅矛を配布した部族であろうと述べましたが、縁結びとは強引な通婚を規制することのようです。縁結びのカミバカリでは勢力を拡大しようとする政略の絡んだ強引な通婚が禁じられました。

すべてが部族中心の時代ですから、部族の思惑があって実現しなかった宗族間の通婚を、参集した宗族長たちが実現してやったこともあったのでしょう。こうしたことから後に出雲大社は縁結びの神とされるようになるようです。

前述のようにスサノオのオロチ退治には、2世紀末の倭国大乱が波及してきて出雲を中心とする部族国家が成立したことが語られています。その後には政略の絡んだ通婚がなくなり、部族の構成が固定したことにより青銅祭器を配布する必要もなくなります

自分たちで銅剣を造らず、銅矛・銅鐸の受け入れも拒否するようになります。通説では青銅祭器の祭祀をやめて四隅突出型墳丘墓の祭祀を行うようになるとされていますが、四国の太平洋側では東から近畿4・5式銅鐸が、西からは広形銅矛が流入してきています。四国の太平洋側は通婚の規制が及ばなかった地域なのでしょう。

図の稍P(出雲)の円から四国の太平洋側を外していますが、これは通婚の規制が及ばなかったことを意識して作図したからです。

円をもっと北にずらし隠岐島を含むようにすれば、このことを強調できると反省していますが、いずれにしても四国の太平洋側に新しいタイプの銅矛・銅鐸が分布していることが説明できます。

卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封されましたが、冊封体制は皇帝を頂点とする中央集権制ですから、卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことで、女王国では卑弥呼を頂点とする中央集権的な統治が行われるようになります。

その統治は、祭事は王の卑弥呼、政治は弟、経済は大倭、軍事・警察は一大率、外交は「刺史の如き者」というように分担されており、それは古墳時代の氏姓制(部民制)に近いものだと言えるようです。

部族に擁立された稍(600里四方)の王の統治形態は白柳秀湖のいう「寄り合い評定」でしたが、卑弥呼が親魏倭王に冊封されたことにより、部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という2重のヘゲモニーが存在するようになります。神武天皇の東遷はそれを統一しようというものです。

神武天皇の埃宮滞在の目的は、出雲の合議制統治を氏姓制統治に変えることだったでしょう。オオクニヌシに国譲りを説得したアメノホヒ(天菩比)が出雲国造の祖とされるようになるのはこの時でしょ。部族は解体され、青銅祭器は回収されて荒神谷に埋納されたと思います。それは吉備や大和の部族を氏姓制に再編成する前例になるものであったと思います。

先に荒神谷に青銅祭器が埋納されたのはオオクニヌシの国譲りの時だと述べましたが、埃宮のある江の川流域に青銅祭器が見られないことを考えると、神武天皇の埃宮滞在中に臨時に宗族長が召集され、青銅祭器の回収・埋納が決定され実行されたと見ることが可能になってきます。両者の年代差は10年以内ほどで、大きな差はないと思っています。

2010年1月21日木曜日

出雲神在祭 その2

小説家・思想家の白柳秀湖は『民族歴史建国編』(昭和17年、千倉書房)で、出雲神在祭がツングース族の「ムニャーク」という寄り合い評定に似ている述べています。鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり、国政の得失を論じ、それは巨帥(統領)の任免にまで及んだということです

ムニャークは毎年一定の場所で開催され、その場所には多くの天幕が張られ、会議期間中は盛大な歌舞宴飲が行なわれたということです。ムニャークは重大な会議ではあるが、一年に一度の大舞踏会でもあったといいます。

出雲神在祭で神々が参集する目的には縁結びや会議のほかに、酒作りや料理のためとするものがあります。図は島根県教育委員会編『出雲古代文化展』からお借りしましたが、黄色丸印が酒作りです。出雲に近い日本海側に多いことが注目されています。

また簸川郡斐川町の万九千神社では神等去出(からさで、祭礼の最終日)の晩に同社で神々が饗宴を催し、その後帰途に就くと伝えられていて、両者には共通性が見られます。

江上波夫氏は『騎馬民族』(中公新書)で、匈奴の国家運営形態を蒙古族のクリュリタイに似たものであったとしています。匈奴は正月のほかに春5月と秋に、つまり遊牧生活の変わり目に特定の場所で大会を開いて国家的な祭典を行い、国事を議定し人民・家畜数を調査し、租税の徴収を計画したと述べられています。

それには匈奴国家を形成する全部族が集合する(神集い)義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたと言います。匈奴も鮮卑と同様の部族連合国家で巨帥(統領)が統治しており、一般の族長は大会に参加する義務があったようです。

匈奴では遊牧生活の変わり目に大会が開かれたようですが、出雲神在祭は旧暦10月(太陽暦の11月後半)に行なわれますから、倭人の場合には稲の収穫の終わるのを待って開かれたのでしょう。米の収穫量に応じて租税の徴収が計画されたことが考えられます。

このような鮮卑・匈奴の例から見て、部族に擁立された倭人の王の支配権は極めて弱く、鮮卑の巨帥(統領)のようなものだったようです。出雲神在祭の原形は有力者を招集して行われる合議制統治、つまり白柳秀湖のいう「寄り合い評定」であったことが考えられます。これが本来の部族の統治方法なのでしょう

それに参加しないと国に対する敵意・謀反と見なされたことが考えられます。江上氏の言われる匈奴の部族は倭人伝の宗族に当たると思われますが、青銅祭器は宗族に1本が配布されたようです。荒神谷の青銅祭器を持っていた380の宗族の族長にも参集する義務が課せられていたでしょう

加茂岩倉の39個という多数の銅鐸についても同様のことが考えられます。その総数は419になりますが、そうすると500人、あるいはそれ以上が参集したことが考えられます。これだけの人数が集まるには相当に広い場所が必要です。

神等去出(祭礼の最終日)の晩に神々が宴を催すという伝承のある万九千神社は、その地勢から見て斐伊川の河原だったと思われますが、鮮卑がシラムレン河の河畔に集ったように、この河原が族長の集まる広場になっていたでしょう。鮮卑は広場に天幕を張りましたが、農耕民の倭人には天幕という発想はありませんから掘立柱建物を建てた思います。

奈良県纒向遺跡は巻向川の河原といってよい所ですが、3世紀前半の纒向遺跡もそうした広場だったと思われます。纒向遺跡は日常生活の場とは考えられないことから、卑弥呼の王都ではないかとされています。しかし初期の天皇の皇宮が1代ごとに違っていることでも分かるように、弥生時代に平城京や平安京のような王都があったとは考えられません。

また卑弥呼の宮殿ではないかと話題になっている大型の掘立柱建物は、周辺からの出土品などから見て、広場に設けられた宴会場であり、また会議場でもあったでしょう。周辺にはまだ多数の建物があると考えられていますが、それらは会議場に付属する建物でしょう。

出雲大社本殿の東と西に出雲神在祭に参集する「八百万の神」の宿舎だとされる、「十九社」と呼ばれる細長い社殿があります。纒向遺跡の大型の掘立柱建物は出雲大社の本殿に相当し、周辺の多数の建物は「十九社」に相当する考えることができそうです。

2010年1月19日火曜日

出雲神在祭 その1

神武天皇の埃宮滞在中に出雲で何等かの動きがあったのではないかと述べました。話が横道に逸れますが、出雲神在祭に触れてみたいと思います。それは直接ではないにしても埃宮滞在中の出雲の動きを知る手懸かりになりそうです。

旧暦10月を神無月と言いますが、神々が出雲に行ってしまうのでこのように呼ばれるとされ、出雲地方は逆に神々が集まるので神有月になります。治承元年(1177)に死亡した藤原清輔の『奥義抄』にも神有月のことが見え、神事も12世紀以前から行われていたと考えられています。

神社の特殊神事は祭神が異なると変わりますし、また神社ごとの特殊神事もありますが、出雲神在祭は出雲国内一円だけではなく、全国に広がりを見せています。一つの祭礼でこれほどの広がりを見せる例はありません。 図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。

神々が参会するとされる神社
斐川郡大社町 日御埼神社
斐川郡大社町 出雲大社、
八束郡鹿島町 佐田神社

神々が立ち寄るとされる神社
出雲市朝山町 朝山神社
簸川郡斐川町 万九千神社
大原郡加茂町 神原神社
松江市大庭町 神魂神社
松江市雑賀町 売豆紀神社
松江市朝酌町 多賀神社

祭礼期間中は集まった神々の邪魔をしてはいけないということで「お忌みさん」といわれ、大声を出すな、歌舞音曲はつつしめ、障子貼りをするな、などと言われていました。今でも出雲大社や佐田神社、日御埼神社など関係する神社では厳重に忌みが守られ、神事が行われています。

神在祭で神々が出雲に集まる目的には縁結びのため、会議のためのほかに、里帰りのためとか母神であるイザナミの法事のために行くというものもあり、酒造りや料理、あるいは奉公のために行くというものもあります。 出雲に近ずくにつれて酒造り・料理のためとする神社が多くなると言われています。

参集した神々が出雲から去ることを神等去出(からさで)と言い、その日にも神事が行われますが、簸川郡斐川町併川の万九千神社では、その晩に同社で神々が宴を催し、その後各地への帰途につくと伝えられていて、神々が帰途につく場所を「神立」と言うとされています。

神立は国道9号線斐伊川付近の地名ですが、南1、5キロほどには7基の四隅突出墳丘墓の在ることで知られている西谷墳墓群があって、復元された3号墓を遠望することができます。

西谷墳墓群は3世紀ころのものと考えられていて、神立と西谷墳墓群の関係は、奈良県纒向遺跡と、そこに見られる初期のものとされる古墳の関係によく似ています。 この古墳も3世紀のものと考えられています。

神話では天照大神が岩戸にこもったために天地が暗黒になり、そこで八百万の神々が「天の安の河原」に集まって善後策を協議したとされています。また『日本書紀』第2の一書ではオオモノヌシ・コトシロヌシが従属した時に「天の高市」に八十万(やそよろず)の神が集められたとされています。

奈良県纒向遺跡では出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもので、西日本の各地から人が集まったことが考えられています。そして出雲神有在祭では全国から神々が参集すとされています。このように人々が集まるための広場が国ごとにあっようです

出雲神在祭は部族国家の時代(弥生時代後半)に、今の通常国会に相当するものが開かれていたが、それが後に神事になるようです。毎年秋の五穀の収穫が終わると宗族長が招集され、翌年の収穫までの一年間の議案が協議されたのでしょう。これが神在祭を行う神社で言われている神議(カミバカリ)なのでしょう

2010年1月17日日曜日

安芸の埃宮

筑紫の岡田宮を出立した天皇は『古事記』では安芸の多祁里宮(たけりのみや)に7年、『日本書紀』では埃宮(えのみや)に2ヶ月強滞在したとされています。吉備の高島宮の滞在は船を準備し兵糧を蓄えるためだとされていますが、安芸滞在の目的がよく分かりません。

多祁里宮は安芸郡府中町の多家神社付近とされていますが、それとは別に埃宮(えのみや)の在ることが考えられます。広島県北部と島根県を流域とする江の川(ごうのかわ)は、古くはエノカワと呼ばれており、現在でも上流部の広島県内では可愛川(えのかわ)と呼ばれています。

『日本書紀』の一書はヤマタノオロチを退治したスサノオは「安芸の国の可愛の川上」に下ったとしていますが、可愛川沿いの安芸高田市吉田・清神社がその伝承地になっていて、スサノオ・クシイナダビメ、テナズチ・アシナズチなどを祭神にしています。これも埃宮と関係が有りそうです。

埃宮は可愛川のほとりにあった宮と考えることができそうです。現に埃宮は高田郡可愛村(現安芸高田市)の吉田、山手付近にあったとされています。吉田には毛利氏の居城の吉田郡山城が在り、出雲の尼子氏と覇権を争ったことで知られていますが、出雲と安芸を結ぶ出雲街道(現国道54号線)の要衛になっています。

その江の川流域にはなぜか青銅祭器が見られません。島根県内の出雲では荒神谷・加茂岩倉を始めとする大量の青銅器が見られるのに、そのそばの江の川流域にはほとんど見られません。広島県内でも瀬戸内海に流入する河川流域には平形銅剣が見られるのに、その中間の江の川流域には見られないのです。

江の川は流長では全国8位、流域面積では10位の大河ですが、その上流の可愛川流域は備後・出雲国境を越える出雲街道で荒神谷・加茂岩倉遺跡に直結しています。そのような場所に青銅祭器がないのには何らかの理由がありそうです。このことは備中(岡山県)の高梁川 上流域についても言えることです。

島根大学の山本清氏は山陰は8国52郡387郷だから、荒神谷遺跡の銅剣358本は郷ごとに1本が配布されたと考えて「山陰地方連合体」存在したという考えを提示しました。広島県内の江の川流域は行政区画上では山陰ではありませんが、土器の形式や四隅突出型墳丘墓が存在するなどその文化は明らかに山陰に属しています

今まで全く考えられていなかったことですが、神谷・加茂岩倉遺跡の青銅祭器には江の川流域から回収されたものがあると考えなければならないようです。16本の銅矛についても、中・四国の銅矛の分布の中心は四国西部ですから、江の川流域でも瀬戸内に近い場所から回収されたと考えるのがよいでしょう。

青銅祭器が存在していることは倭人社会に部族が存在しているということですが、部族は部族国家を形成していました。先に荒神谷・加茂岩倉遺跡の青銅祭器はオオクニヌシの国譲りで埋納されたと述べましたが、私は最近、国譲りがそのまま埋納と結びつくとは限らないと思うようになっています。

神武天皇の即位で部族国家が解体され氏姓制度に移行するのであれば、荒神谷・加茂岩倉遺跡に青銅祭器が埋納されたのはオオクニヌシの国譲りの時とするよりも、神武天皇の埃宮滞在中に氏姓制に変わったことによる考えたほうがよいと思うようになってきています。

国譲りの説得に遣わされたアメノホヒ(天菩比)は出雲国造の祖とされていますが、これも神武天皇の埃宮滞在中に氏姓制に移行したことによる考えるのがよいようです。その延長線上に大和のニギハヤヒの服属があり、その前提として筑紫の岡田の宮滞在中の遣使があるように思います。

ここで述べていることは、江の川流域に青銅祭器がないのは荒神谷・加茂岩倉遺跡に埋納されたからだという仮定によるものですが、そうであればこの地方、ことに出雲に部族を統治するための、相当にしっかりとした統治制度があったことが考えられます。

2010年1月14日木曜日

筑紫の岡田宮

『日本書記』の一書の多くは神武天皇の別名をホホデミとしていますが、日向にはホノニニギの子のホホデミを神武天皇とする伝承があったようです。ホノニニギは『梁書』『北史』に見える台与の後の男王ですが、神武天皇がその後継者なら、その活動時期は260年代見ることが可能になってきます。

『晋書』四夷伝 倭人条によると司馬昭が相国だった7年間に何度かの倭人の遣使がありましたが、それは神武天皇の東遷が急がれていたからでしょう。しかし魏は滅亡寸前でしたから、神武天皇が冊封を受けたのは晋が成立した翌年の266年になりました。

「東に美しい土地が有り、青山が四周をめぐっている。その中にまた、天磐船に乗って飛び降る者がいる」と言われた。「自分が思うのにその土地は大業を開き、天下を支配するにふさわしい場所であろう。そこがまことの国の中心である。その飛び降るという者は饒速日だという。行って都を造らなければなるまい」と言われた。

晋が成立したことを知った天皇は東征を開始します。途中宇佐に立ち寄よった後、遠賀川々口の芦屋(不弥国)の岡田宮に入りますが、ここに『日本書紀』では1年間、『古事記』では2ヶ月弱滞在したとされています。私は遣使が行われたのは岡田宮滞在中だと考えています。

晋の成立が265年12月ですから、季節風のことを考えると使者の出発は266年初夏、帰国は晩秋だったでしょう。『日本書紀』の岡田宮での1年間の滞在は、遣使に宗像・阿曇・那珂などの海人の協力必要だったことと、遠賀川流域のニギハヤヒの一族と接触することに目的があったと考えます。

大和にはすでに物部氏の祖のニギハヤヒ(饒速日)が入っていましたが、その経過については『大国主の国譲り』で述べました。ニギハヤヒについては遠賀川流域から大和に移ったという説が有力ですが、遠賀川流域には同族が居たようです。遠賀川流域の ニギハヤヒの同族が東遷に同意したことが、その後を決定したと思っています。 

このころ倭人伝に見える大夫の難升米(神話の思金神)がまだ生きていた可能性があります。60歳台にはなっていたでしょうが(『思金神』9月投稿)、司馬昭の7年間の倭人の遣使を発案したのは難升米だと思っています。

彼は卑弥呼時代の経験から冊封体制の利点を熟知しており、倭王の称号がなければ神武天皇の東遷が成功しないことを知っていたでしょう。このことを表しているのが、大和入りした天皇に対するナガスネビコ(長髄彦)の対応です。

天神の子だと言って国を奪うつもりだろうとなじるナガスネビコに対し天皇は「天神の子は多い。お前が主君とする者が本当に天神の子なら、表物(しるしのもの)があるはずである。それを見せ合おう」と答えています。

天神の子であることを表すのが「表物」だとされていますが、倭王であることを証明する品物ということでしょう。神武天皇の持っている「表物」の天羽々矢と歩靫(弓矢と矢入れ)を見たナガスネビコは、天皇が本当の天神の子であることを知ったとされています

私は天皇がナガスネビコに見せたのは天羽羽矢と歩靫ではなく、266年の遣使で授与された金印と詔書だったと考えています。司馬昭が相国だった7年間に何度かの遣使が行なわれたのは、ナガスネビコに見せた「表物」を入手するためだったと考えます。

後世にはそれは「三種の神器」の鏡、剣、瓊になりますが、「三種の神器」という観念が生じるのは大王位(天皇位)が世襲されるようになって以後で、それまでは奴国王や卑弥呼の例のように中国に遣使して金印と詔書を授与される必要があったと考えます。
 
神武天皇の東遷はなぜかニギハヤヒを中心にして展開していきます。ナガスネビコはニギハヤヒを主君として仕えていると言っていますが、ニギハヤヒは倭王になれませんでした。それは大和に居て「表物」を入手する手段がなかったらです。東遷の成否が決まったのが266年の岡田宮での一年間だったと考えます。

2010年1月12日火曜日

海幸彦・山幸彦 その2

前回には壱岐(一支国)・対馬(対馬国)・玄界灘沿岸の交易が南九州にも及んでおり、それに伴って帯方郡や魏との外交関係が有ったのではないかと述べました。このように考えるのは志布志湾沿岸の鹿児島県曾於郡有明町野井倉で南九州唯一の中広形銅矛が出土しているからです。出土地は地図に見える野井倉神社か、その付近でしょう。

大場磐雄氏は銅矛を配布したのは阿曇氏だとしますが、私は銅矛を配布した部族が神格化されてイザナギになると考えています。また銅矛を配布したのは阿曇・那珂海人などの北部九州の部族だと考えます。

前回には安曇氏がトヨタマヒコ(豊玉彦)を祖としていること、および那珂海人もその可能性があることを述べました。ただ一本ではあるけれど、この中広形銅矛を介して志布志湾沿岸と玄界灘の阿曇・那珂海人とが結びついてきます。

日向神話ではシオツチノオジ(塩土老翁、塩筒老翁)がしばしば登場してきますが、『日本書紀』第四の一書はシオツチノオジのまたの名を事勝国勝神とし、イザナギの子だとしています。シオツチノオジもまた銅矛と関係があることになります。

有明町野井倉の中広形銅矛を祀っていた宗族が、ホホデミに海神の宮に行く方法を教えるシオツチノオジでもあると考えることができます。前回に述べた南九州と玄界灘沿岸の交易商人との接触は、すなわち銅矛を配布した部族との接触でもあるということになりそうです。

対馬の大量の銅矛に注意する必要があります。銅矛は宗族ごとに1本が配布されたようですが、「筑前5ヶ浦」の一つで博多湾頭の唐泊で、海底から1本が引き上げられています。対馬の商船一隻の経済力は一つの宗族に相当すると考えられて、一隻に一本が配布されており、その商船が日向・大隅地方まで来ていたと考えます。

大隈の志布志湾に流入する肝属川流域は、狭い平野の多い鹿児島県下では最大の穀倉地帯になっていて、唐仁古墳群、塚崎古墳群などがあり大隅直、曽君(曽県主)など、大きな勢力がこの地に形成されていたことが考えられています。

肝属川流域にウガヤフキアエズの吾平山上陵とされるものがあり、『陵墓要覧』は肝属郡吾平町字上名に比定しています。ウガヤフキアエズの神話の舞台は志布志湾沿岸だと考えることができますが、それは大隅直・曽君などが伝えていた侏儒国の歴史であることが考えられます。

ホホデミとトヨタマビメの間にフガヤフキアエズが生まれますが、そのウガヤフキアエズとトヨタマビメの妹のタマヨリビメの子が神武天皇です。銅矛を配布した部族は、神武天皇を海神の娘に結び付けて同族だとしていのですが、私はそうした史実が存在したと考えています。

確証はありませんが、これは『晋書』四夷伝 倭人条に見える「文帝の相に及ぶに、又、數至(かずいた)る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す」の文と関係すると思っています。文帝は司馬昭のことで、昭が相国になってからも何度かの遣使・入貢があったというのです。

昭が相国だったのは258年から265年までの7年間ですから、卑弥呼の例から考えて遣使は2~3度だったでしょう。昭が死んで炎が晋の武帝として即位すると翌266年に倭人がさっそく遣使しますが、司馬昭が相国だった7年間に倭国で何らかの動きがあったように思われます。

私はそれを神武天皇の東遷が急がれていたからだと考えています。大和に入った神武天皇に対し、ナガスネビコ(長髄彦)は「天神の子、饒速日命を主君として仕えている。天神の子が二人もいるはずがない。天神の子だと言って国を奪うつもりだろう」となじっていますが、こうした事態が起きることが事前に予測されていたのでしょう。

司馬昭が相国だった間の倭人の何度かの遣使は、こうした事態に対処するために倭王に冊封される必要があったからでしょう。しかし当時の魏は実態のない国になっていましたし、まだ晋が成立していないので司馬氏には倭王を冊封する権限がありませんでした。結局神武天皇が冊封を受けたのは晋が成立した翌年になったと考えます。

2010年1月10日日曜日

海幸彦・山幸彦 その1

ホホデミ(山幸彦)はシオツチノオジに教えられて海神の宮に行きます。その宮の場所について、藤原貞幹は1781年に発表した『衝口発』で奄美大島とし、薩摩の国学者、白尾国柱も『神代山陵考』で「世の人の多くは今の南琉球であると言っている」としています。

しかしその伝承は奄美や琉球(沖縄)には無く、なぜか玄界灘沿岸、ことに対馬に有ります。対馬の和多都美神を祭る式内社は上県郡2座、下県郡2座の4座があり、祭神はトヨタマビメ・ホホデミ・ウガヤフキアエズです。

対馬には和多都美神社や和多都美御子神社があり、海の神の母子をセットで祭る信仰が見られます。和多都美神を祀る神社として峰町木坂の海神神社、厳原町中村の厳原八幡神社、豊玉町仁位の和多都美神社などがあって、どれが式内社の和多都美神社かという論争があります。

また『新撰姓氏録』は志賀島の海紳を祭る阿曇氏を「綿積豊玉彦神之子、穂高見命』の子孫だとし、『古事記』は「綿津見神の子、宇都志日金拆命の子なり」としています。阿曇氏の祀る綿積神なら阿曇三神のように思われますが、なぜか豊玉彦が始祖とされています。

壱岐の海神社(石田町筒城)の祭神、豊玉彦も阿曇氏の祖神の豊玉彦ではなく、日向神話のトヨタマビメ・タマヨリビメの父の豊玉彦だと考えられていて、この神には天照大神やタカミムスビと同等の格が与えられています。

同様のことが摂津の住吉神社にも見られます。摂津住吉神社の四つの摂社のなかに大海神社があり、延喜式神名帳には「大海神社二座、元名津守氏人神」とあって、大海神社は津守氏が氏神として奉祭しています。津守氏は尾張氏の一族と言われていますから、祭神は火明命のはずですが豊玉彦・豊玉姫になっています。

津守氏は住吉神社で住吉三神を祭り、大海神社で氏神として豊玉彦、豊玉姫を祭るという、二重の祭祀を行っています。津守氏が奉祭していたのは摂津の住吉神社だけで、筑前の住吉神社には関係がみられませんが、筑前の住吉神社も豊玉彦、豊玉姫と何等かの関係があるのかも知れません。

筑前の住吉神社は住吉3神を祭っていますが、これを祭る有力な氏族がみられません。博多湾を根拠地とする那珂海人が、阿曇氏や津守氏のように海神を祖とする伝承をもっていた可能性があります。

和多都美神社の社伝でも和多都美神社は山幸彦神話の海神の宮だとされていますが、このように見てくると海神の宮が在ったのは沖縄とするよりも玄界灘沿岸、ことに対馬とするほうがよいようです。なぜ北部九州に伝承があるのでしょうか。

このことについては倭人伝の対馬国・一支国の記事との関係を考慮する必要があるように思います。

(対馬国)良田無く海物を食して自活する。乗船して南北に市糴す 
(一支国)田地に差有り耕田すれども猶食に不足。亦南北に市糴す

どちらも良田が無く米が不足しており、南北に交易して米を得ているというのですが、壱岐の原の辻遺跡では立派な船着場が見つかっており、交易が盛んに行なわれていたことが分かります。ゆうまでもなく北とは朝鮮半島であり南は九州本島です。

そこで南北の範囲を考えてみる必要があります。狭く考えると北は朝鮮半島の南岸、南は玄界灘沿岸と見ることができますが、広く考えると北は遼東半島や中国まで、南は九州本島だけでなく瀬戸内や大阪湾までを考えてもよいでしょう。

玄界灘沿岸の交易商人が南海産の物資を求めたので、交易圏は南九州にも及んでいたことが考えられます。それと共に朝鮮半島(帯方郡)や中国(魏)との外交関係があり、私はこのことが山幸彦が海神の宮に行ったとされていると考えています。

2010年1月7日木曜日

天孫降臨 その4

前回は日向神話に薩摩の伝承と大隈・日向との2系統があり、日向には神武天皇をホホデミとする伝承があったと述べました。両者は区別して考えなければならないようですが、具体的には「火神系」の伝承と「海神系」の伝承になるようです。

弥生時代の後半は部族が強引に宗族を同族として取り込んで青銅祭器を配布した時代でしたが、日向神話も父系が母系を取り込む「妻問い」の形式になっています。神武天皇の出自を父系で辿るとホノニニギに行き着きますが、母系を辿るとコノハナノサクヤビメに至る系譜と、海神の娘に至る系譜の2系統の国つ神(土着神)に行き着くと見ることができます。

青銅祭器の裏付けが極めて少ないないのが残念ですが、コノハナノサクヤビメに至る系譜を「火神系」と呼んで見ました。神武天皇の妻、アヒラヒメ(阿比良比売、吾平津媛とも)の出自はホデリ(火照)を介してコノハナノサクヤビメに行き着きます

海神の娘に至る系譜を「海神系」と呼んでみました。ホホデミの妻は海神の娘のトヨタマヒメ(豊玉毘売)であり、ウガヤフキアエズの妻はトヨタマヒメの妹のタマヨリヒメ(玉依毘売)で、ウガヤフキアエズとタマヨリヒメの子が神武天皇です。

『古事記』はホノニニギとコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売、阿多都比売とも)との間に生まれた3柱の子神について次のように記しています。

「佐久夜毘売は一宿にして孕んだ。これは我が子ではない。必ず国つ神の子であろう」と言われた。そこで答えて、「私が孕んだ子がもしも国つ神の子なら、産む時に祝福されることはないでしょう。もし天つ神の御子ならば祝福されるでしょう」

ホノニニギは生まれた3神を、あからさまに我が子ではなく国つ神の子だろうと言っています。このこと自体が子神のホホデミに様々な性格のあることを示しています。本来は「火神系」のはずのホオリが書によって「海神系」のホホデミになったり山幸彦になったりします。

本来の薩摩の伝承のホオリと日向の伝承のホホデミは別個のものでしたが、そこには「火神系」と「海神系」の対立があったのでしょう。それが山幸彦と海幸彦の対立として語り伝えられているようです。この神話が薩摩の伝承と日向の伝承を結び付けています。

ホオリを山幸彦として「海神系」に取り込むのがシオツチノオジ(盬土老翁)ですが、ホオリ(ホホデミ、山幸彦)に海神の宮に行く方法を教えています。神話の場面の転換点で必ずシオツチノオジが出てきますが、その介在がないと日向神話全体が別個の物語になります。

シオツチノオジはホノニニギには 国土を献上し、またコノハナノサクヤビメの存在を教え、山幸彦には海神の宮に行く方法を教え、神武天皇には大和にニギハヤヒの居ることを教えています。シオツチノオジが2系統の伝承をホノニニギから神武天皇に至る系譜に結びつけていると見ることができます。

そのシオツチノオジも「海神系」の伝承ではシオツチノオジですが「火神系」の伝承では事勝国勝長狭となっています。このように名前が違うのはシオツチノオジにも「火神系」と「海神系」の2つの伝承があるということでしょう。

このように見てくるとホオリとホホデミ、及び山幸彦の3者は同じではないということになります。ホオリは薩摩の川内川流域の、山幸彦は大隈の姶良郡の、ホホデミは日向の臼杵郡の伝承ということになりそうです。

日向臼杵郡の伝承では臼杵郡の高千穂が天孫降臨の地とされ、ホホデミは神武天皇だとされているようです。神武天皇東遷の出発地は耳川々口の美々津とされていますが、その耳川の源流は高千穂付近です。

ホノニニギは台与の後の男王です。神武天皇が台与の後の男王の実の子だとは思えませんが、ごく近い世代の人物で侏儒国の併合に功績があったのでしょう。具体的な記録がないので推測ですが、彼が侏儒国と女王国を結び付けていたと思われます。そうであるからこそ東遷という重責を担うことになるのでしょう。

2010年1月5日火曜日

天孫降臨 その3

降臨したホノニニギは阿多(鹿児島県加世田市)のコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売、阿多都比売とも)を妻問い(求婚)し、ホオリ(火遠理)など3柱の子神を得ます。そのホオリ(ホホデミ)と神武天皇との間にウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合)が入ることについて、津田左右吉は次のような指摘をしています。

その第一はコノハナノサクヤビメのとの間に生まれた、ホデリ(火照)・ホスセリ(火須勢理)・ホオリ(火遠理)のうち、最初の二柱には「またの名」はないのに、ホオリだけには「またの名を日子穂穂出見命」と言っていることです。

ホデリ、ホスセリ、ホオリは火の神格であって、それは燃えさかる火のなかから生まれたのにふさわしいが、ホホデミのほうは火ではなくて稲穂であり、稲穂と関係の深いホノニニギとは結びつくが、これらの火の神格とは質が異なるとしています。

ホホデミはホノニニギの子としてふさわしいが、火の神格とは本来無関係であり、海幸彦、山幸彦の物語とはもともと関係のないものだというのです。

第二はこのホホデミが、この物語では孫にあたるはずの神倭伊波礼毘古命(神武天皇)と同一人物であったと考えられるふしが有るとしていることです。これは『日本書紀』のみに見られることで、『古事記』には見えません。

八段一書   第六  是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす
十段一書   第二  亦は神日本磐余彦火火出見尊と號す
          第三  次に神日本磐余彦火火出見尊              
         第四  次に彦火火出見尊
神武紀     始め  神日本j磐余彦天皇、ただの御名は彦火火出見
          元年  神日本磐余彦火火出見天皇と曰す

『日本書紀』の一書の多くが神武天皇の別名を彦火火出見としています。 この二点から津田左右吉はホノニニギを中心とする物語は高千穂の峰に下ったことと、国つ神の娘をめとってホホデミを生んだことであり、その子のホホデミは、もともとは海幸彦、山幸彦とは関係がなく、ヤマトへの東征の主人公であったとしています。

言い換えると、大和へ東征するのはホホデミだったが、後に物語の構成が変わりホホデミの次にウガヤフキアエズをおくことになり、ホホデミのかわりに新たに東征物語の主人公として神武天皇が創作されたというのです。

私は日向神話には肥後から南下して薩摩に至る伝承と、大隈から北上して日向に至る伝承の2つの伝承があり、その延長線上に神武天皇の東遷があると考えます。薩摩の伝承と大隈・日向の伝承は区別して考えなければならないようです。その原因として薩摩には多分に海洋民的な性格があり、大隈・日向には農耕民・狩猟民的な性格があるように思っています。 
        
薩摩の伝承ではホノニニギが阿多のコノハナノサクヤビメを妻問いすることが語られており、大隈・日向の伝承では大隈のウガヤフキアエズ、日向の神武天皇のことが語られていて、薩摩と日向を結び付けているのが海幸彦・山幸彦です。山幸彦は狩猟民として語られていることに注意したいと思います。

日向神話ではこれらが一体化されていますが、津田左右吉はこの一体化された日向神話を考察しています。その結果、津田左右吉はホホデミのかわりに東征物語の主人公として神武天皇が創作されたとしています。

私は宮崎県臼杵郡の高千穂の峰の伝承は日向の神話であり、日向には薩摩のホホデミとは別の、神武天皇をホホデミとする伝承があったと考えます。日向神話を一体化するために、ホデミの次にウガヤフキアエズが入れられ、それを結びつけるために、薩摩と日向の中間の大隈にあった海幸彦・山幸彦の伝承が入れられて神武天皇はホノニニギの孫ということになった考えます

これを津田左右吉の言うように創作されたものだと考える必要はないと思います。薩摩・大隈・日向のそれぞれ別の伝承が、一体化された日向神話にするために整理され、このような形になったと思います。

2010年1月1日金曜日

天孫降臨 その2

ホノニニギ(火之邇邇芸)は威風堂々と高千穂の峰に降臨しますが、徳川時代の儒学者・林羅山は天孫の降臨先が大和ではなく、西の草深い僻地の日向であるのはおかしいといぶかしんでいます。

日向は後世の薩摩・大隈・日向の3ヶ国の総称ですが、私はこの3ヶ国を倭人伝の侏儒国だと考えています。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡(面土国)の土穴・東郷付近ですが、その南四千里(260キロ)といえば肥後と薩摩の国境になります。天孫降臨では侏儒国に女王国の支配が及んだこと語られています。

オオクニヌシの国譲りで銅鐸の分布圏が併合されました。また先の投稿の『大気津比売』で述べたように、スサノオのオオゲツヒメ殺し、あるいはツキヨミの保食神殺しは狗奴国が併合されたことが語られています。そうすると残るのは南九州の侏儒国だけですが、天孫降臨とはその侏儒国が併合されたということです。

ホノニニギは「筑紫の日向の高千穂峰」に降臨したとされていて、高千穂の峰については様々な説がありますが、本居宣長(1730~1801)は『古事記伝』で高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと述べています。

「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。

その他にも大分県の九重山(久住山)とする説もあります。神の降臨する山はその地方の主要河川の源流なっていて、複数の国の国境にあります。ニギハヤヒの下った河内の哮が峰、スサノオの下った出雲と伯耆の境の船通山、イザナミの下った出雲と備後の境の比婆山などはその例です。

高千穂の峰もそのような場所が選ばれています。換言するとそうした条件を備えていれば何処でも高千穂の峰になり得るのです。霧島山の場合には薩摩・大隈・日向3ヶ国の国境地帯に位置していることから降臨の地とされています。宮崎県臼杵郡の場合も豊後・日向・肥後の国境地帯に位置しています。

日向神話は霧島山を中心にして展開していきます。ホノニニギの物語は薩摩の女性を妻問い(求婚)した物語であり、ホホデミ(穂々出見)の物語は大隈の女性を妻問いした物語のようです。神武天皇の東遷は日向が出発地になっています。

しかし宮崎県臼杵郡の高千穂も無視できません。私は豊後は女王国であり日向は侏儒国だと考えていますが、天孫降臨が侏儒国の統合を意味するのであれば、臼杵郡が真っ先に統合の対象になるはずです。その場合には臼杵郡が降臨の地になってもおかしくありません。

熊本県八代と大分県臼杵を結ぶ臼杵ー八代構造線(九州山地)は、九州を南北に分けていて、西の八代側では「三太郎の険」と呼ばれる難路が肥後を南北に分断し、東の臼杵側では豊後と日向の国境山地を形成しています。その中央には阿蘇山があります。

臼杵郡の高千穂はその臼杵ー八代構造線上の交通の要衝で、豊後・日向・肥後の3国を結び付ける場所に位置しています。この地を確保すれば熊襲・隼人の国である侏儒国を統合するための前進基地になります。

私は天孫降臨には肥後を南下して薩摩に至るものと、日向を南下して大隅に至るものとの2つのルートがあったと考えています。肥後を南下するルートでは霧島山が高千穂の峰とされていますが、日向を南下するルートでは臼杵郡の高千穂とされているのでしょう。