2世紀末の倭国大乱を境にして、武器形祭器は中広形から広形に変わりますが、それにつれて女王国(稍P)では銅戈が激減し銅矛が増加しています。卑弥呼を女王に擁立したことにより部族の構成が変わり、銅矛を配布した部族が優勢になったことを表しています。
中国・四国地方の稍(稍P)でも同様の現象が見られ、広形の青銅祭器が見られなくなります。北部九州製の銅矛も、近畿製の銅鐸も流入してこなくなり、また自分達で銅剣を造らなくなります。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしました。
これについては青銅祭器の祭祀をやめて山陰側では四隅突出型墳丘墓の、また山陽側では特殊器台を用いた墓の祭祀を行なうようになったと考えられていますが、私は青銅祭器を用いた宗廟祭祀は続いていると見ています。新たな王が立てられたことにより部族の構成が固定されたため、青銅祭器を配布する必要がなくなったのだと考えます。女王国とは 逆の現象が起きたのです。
女王国の大乱は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でしたが、その結果、部族に対して中立の立場の卑弥呼が王に共立されます。大乱は中国・四国地方の稍(稍P)にも波及したようです。前回に述べたように銅矛を配布した部族、すなわちヤマタノオロチ(邪馬台のおろ血)が通婚を強要して勢力を拡大しようとしたようです。
そのため銅矛、銅剣・銅鐸を配布した三部族が鼎立する争乱に発展したようです。神話は斬られたオロチの血で斐伊川が染まったと述べていますが、鳥取県青谷上寺地遺跡では殺傷痕のあるものを含む90数体の人骨が溝の中で見つかっています。その時期は170年ころと見られていますから、倭国大乱が因幡に波及してきたことを考えて見る必要がありそうです。
島根県荒神谷遺跡では銅剣358本、銅矛16個、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が出土しており、その合計は419になります。青銅祭器がこの2遺跡に集中している意味を考える必要がありますが、出雲国内では他でも出土しています。これらの青銅祭器の全てが出雲国内から回収されたようには思えません。
荒神谷遺跡が発見された時、島根大学の山本清氏は358本の銅剣に関連して「山陰地方連合体」という考えを提唱されました。山陰地方は8国52郡387郷だから、1郷に1本が配布されたのであり、「山陰地方連合体」が存在したのだというものです。
マタノオロチの伝承は安芸の可愛川流域や備前の赤坂郡にもありますから、大乱は中国地方一帯に波及したことが考えられます。銅剣には隣接する山陰・山陽や四国、つまり「稍P」の全域から回収されたものもあると考えるのがよいようです。ちなみに荒神谷遺跡のものと同じ中細形銅剣c類が四国でも出土しています。
稍P(出雲)の三部族に対して中立の立場にあるのは銅戈を配布した部族ですが、出雲の銅戈の出土は一本だけで王を立てることができる勢力ではありません。このような場合、銅戈を配布した部族が王をたてることはできませんが、卑弥呼の例のように出雲の王は三部族鼎立のバランスの上に立つ必要があり、こうして王になったのが面土国王の同族で、これが出雲神話のスサノオだと思われます。
出雲大社本殿の背後にスサノオを祀る素鵞神社があります。素鵞神社の東200メートルほどの境外摂社、命主神社境内から中細形銅戈1本と硬玉製の勾玉1個が出土しています。出雲大社の祭神はオオクニヌシですが、中世にはスサノオと考えられた時期がありました。出雲大社の始源にこの中細形銅戈が関係しているようです。
スサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものでもありますが、この銅戈を持っていた宗族がオロチを退治したスサノオとされているようです。このために出雲大社の摂社として素鵞神社が祭られるようになったことが考えられます。
オロチの尾を切ると中から草薙剣が出て来ることになっています。この剣は中細形銅剣c類を配布した部族を象徴しており、この剣を持つことは銅剣を配布した部族を支配している王であることを表すと考えています。それが今では皇位を継承していることを表すようになっています。
荒神谷遺跡の青銅祭器は銅剣が圧倒的に多数ですが、スサノオが草薙剣を得たというのは、中細形銅剣c類を配布した部族が面土国王の一族を王に擁立したということなのでしょう。
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