2010年12月26日日曜日

宇佐説 その1

九州の古代史は神功皇后によって霍乱されているようですが、その顕著なのが玄界灘沿岸の松浦半島から福岡平野にかけての地域と、周防灘沿岸の宇佐神宮だと言えます。宇佐神宮の祭神は一の御殿応神天皇、二の御殿比賣大神三の御殿神功皇后とされています。

宇佐神宮の主祭神は二の御殿の比賣大神だと考えられていますが、この神のことはほとんど知られていません。そこから宇佐を邪馬台国とする説も出てくるようですが、畿内説・九州説を見てきた流れで、推察になりますが宇佐説を考えてみたいと思います。

伊都国は糸島郡ではなく田河郡だと考え、国名のみの21ヶ国の2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までは豊前にあったと考えています。3番目の伊邪国が京都郡であり8番目の沮奴国が宇佐郡で、宇佐が邪馬台国だとは考えていません。

宇佐神宮の二大特殊神事に放生会神事と行幸会神事があり、放生会神事は戦死した大隅・日向の隼人を慰霊する神事として知られ、行幸会神事はマコモ(真薦、苽)で作られた枕が、宇佐郡内各地を巡幸した後に海に流されるというものです。

放生会神事では、神事に先立って田川郡香春町採銅所の古宮八幡宮清祀殿で宇佐神宮の御正体(神体)の銅鏡が鋳造されていました。鋳造に当っては古宮八幡宮神官の鶴賀氏による神事が行なわれ、それには勅使の下向があり大宰府の官人も参加したということです。

清祀殿の中は土間で中央に鍛冶床があり、清祀殿横の長光家が鏡の鋳造に当ったと言われています。鋳造された御正体は輿に乗せられ途中の神社に立ち寄りながら宇佐市和間浜にある、宇佐神宮の浮殿に運ばれ、後に宇佐神宮に納められました。

香春町採銅所には神間歩(かみまぶ)と呼ばれる銅の採掘跡あり、このことから採銅所という地名が生まれました。私はこの神事について、全国に4万はあるといわれている八幡宮の神体の鏡が、かつては香春で鋳造されたことを示していると考えています。

この神事は享保8年(1723)以後途絶えていたが再興され、今では清祀殿で鏡が鋳造されることはなく、出来物の鏡をトラックで運ぶということです。かつての和間浜の浮殿はその名のように寄藻川の水面に浮かぶように建てられていました。

浮殿については宗像大社の浜殿と同様の船が祠になったものだと考えています。宇佐神宮の末社が創建されると、その神体の鏡が香春岳の銅で鋳造されて宇佐に運ばれ、寄藻川の河口で船に積み込まれて各地に送られたことを伝えているのでしょう。

古宮八幡宮と密接な関係を持つ香春町香春の香春神社の祭神は、第一殿辛国息長大姫大目命、第二殿忍骨命、第三殿豐比賣命ですが、第一殿の辛国息長大姫大目命は、赤染氏・鶴賀氏など辛国(新羅)からの渡来民の祭る神と、息長大姫(神功皇后、及び土着民の祭る大目命が合成されたものだと考えます。

香春神社第二殿の忍骨命は天照大御神の子とされる忍穗耳命の別名ですが、このことから天照大神の別名の日靈(おおひるめ)から「ひる」が滑落して「おおめ」となったのが、第一殿の大目命(おおまのみこと)ではないかと考えます。

香春神社第三殿の豐比賣命は空殿で神体がなく、豐比賣命は香春神社の祭礼の時だけ古宮八幡宮から第三殿に来るとされています。このことから古宮八幡宮は香春神社の元宮と言われ、その祭神は豐比咩命、応神天皇、神功皇后です。

『先代旧事本紀』は『日本書記』第一の一書に見える稚日女(わかひるめ)を天照大神の妹としていますが、神功皇后にも豊比売という妹がいるとされています。香春神社第一殿の息長大姫が神功皇后であるのに対し、第三殿の豐比賣命は「息長稚姫」だというのでしょう。

神話に蛭子(ひるこ)という神が登場しますが、ヒルコからルが滑落したものが「彦」で男性を表し、ヒルメからルが滑落したものがヒメ(姫・媛)で女性を表します。大日靈は卑弥呼であり、稚日女が台与で、それが合成されて天照大御神になるようです。

香春で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。五色の着物を着ていて何事でも見通すことができるが、その姿が見えるのは修行を積んだ者だけだというものです。豊前一帯に豐比賣(豐比咩)の信仰があることが考えられます。

香春神社第三殿の豐比賣命が空殿になっていること、及び宇佐神宮の神鏡の鋳造に古宮八幡宮が係わっていることみると、宇佐神宮の比賣大神は香春神社の豐比賣命、及び古宮八幡宮の豐比咩と同神であり、それは台与であることが考えられます。

2010年12月19日日曜日

九州説 その4

前回には女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けてみましたが、さらに国名のみの21ヶ国を「自女王国以東」「自女王国以西」に区分すると、女王国の構造がより明確になってきます。

大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て長峡川河口の草野津(かやのつ)に到る、律令制官道の田河路沿いに奴国と伊都国があると考えていますが、そこは倭人伝のいう「自女王国以北」で、そこは面土国王が「刺史の如く」支配している地域です。

豊後(図の大分県部分)には国名のみの21ヶ国のうちの16番目の邪馬国(日田郡)から21番目の奴国(直入郡)までの6ヶ国がありました。(2010年4月投稿『再考・国名のみの21ヶ国』)これを「自女王国以東」とみるのがよいようです。

肥前を横断する肥前路沿いの地域(図の佐賀県部分)が「自女王国以西」で、ここには9番目の対蘇国(基肄郡)から15番目の鬼奴国(杵島郡)までの7ヶ国があったようです。

また豊前には2番目の巳百支国(企救郡)から8番目の沮奴国(宇佐郡)までの7ヶ国がありました。これは「自女王国以北」とも「自女王国以東」とも見ることができますが、倭人伝は「自女王国以北」を遠賀川流域に限定しており、この7ヶ国は国名のみの21ヶ国の範疇に入れています。

女王国の中央に卑弥呼の王城のある邪馬台国があり、卑弥呼の王城の北が「自女王国以北」であって、東西に国名のみの21ヶ国があることになります。投馬国は卑弥呼の王城の南にある「自女王国以南」の国です。

弥生時代は部族が王を擁立する「部族制社会」だったと考えますが、部族の原形は宗族間の通婚が重なって形成された自然発生的な地縁・血縁集団でしょう。部族が国を形成したものが部族国家で、部族国家は古墳時代になると国造・県主・稲置・君・公などの姓(かばね)を与えられた部族長が支配し、律令時代になると郡になるようです。

部族国家が統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になりますが、紀元前1世紀に倭の百余国が遣使するまで、筑前西半の各郡はそれぞれ部族国家を形成していたでしょうが、百余国の遣使以後には統合が進んだことにより、部族国家と部族連盟国家の中間の形態の邪馬台国が形成されるようです。

戸数二万の奴国は田河路沿いの鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、この場合の郡当たりの戸数は約7千戸になります。伊都国のように千戸程度の国もありますが、平野部の人口密度の高い国の戸数は7千戸になるようです。

戸数七万の邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の、西半の10郡ほどになりそうです。筑前西半には上座・下座・夜須・三笠・糟屋・席田・那珂・早良・怡土・志麻の10郡がありますが、邪馬台国は志麻郡を除く9郡と考えるのがよいようです。

考古学的な面から見ても地政学的な面から見ても、邪馬台国は福岡平野を中心とする筑前西半に在ったと見るのが妥当です。筑前西半が統合されるについては、その中核になったのは春日市の須玖岡本遺跡の周辺(那珂郡)だと見るのがよさそうです。

しかし卑弥呼は倭国大乱を鎮めるために王になりました。卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、福岡平野の中心部を避けて、筑前・筑後だけでなく肥前と豊後にも接している朝倉郡・夜須郡を王城の地としたと考えます。

志麻郡は国名のみの21ヶ国の最初の斯馬国であり、志麻も斯馬もかつて糸島半島が島であったことによる郡名・国名だと考えます。島であったために戸数も少なく対岸の怡土郡との通婚も希薄で、部族国家の状態を脱することができず、邪馬台国に統合されることがなかったのでしょう。

「自女王国以東」の豊前・豊後に13ヶ国、及び「自女王国以西」の肥前の佐賀県部分に7ヶ国があったことになり、その合計は20ヶ国になります。三郡山地以西の筑前に斯馬国以外の国名のみの21ヶ国が存在する余地はないようです。

投馬国は筑後だと考えますが、国の平均戸数を7千戸とすると、戸数五万の投馬国は律令制の7郡ほどになりそうです。筑後は10郡ですが筑後川の沖積や、流域の治水が進んだことなどにより郡数が増したことが考えられ、筑後にも国名のみの21ヶ国はなかったでしょう。

2010年12月12日日曜日

九州説 その3

前回には「第3の読み方」が可能であることを述べましたが、面土国は3世紀にも実在していました。それは筑前宗像郡であり、方位・距離の起点は宗像市田熊・土穴付近です。そして面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しています。

1、従郡至倭、循海岸水行、暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国
2、始度一海千余里、至対海国
3、又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国
4、又渡一海千余里、至末盧国

末盧国までは「循海岸水行」「暦韓国」「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」の文字や文が示しているように明らかに直線行程ですが、伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られなくなります。

5、南陸行五百里、到伊都国
6、東南至奴国百里
7、東行至不弥国百里
8、南至投馬国、水行二十日
9、南至邪馬台国、女王之所都、水行十日水行一月

倭人伝の地理記事には末盧国と伊都国の間に断絶がありますが、この断絶について高橋善太郎氏は伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られないことから、末盧国を起点とする放射行程だとしています。

全体を直線行程とする説がありこれもやはり微妙ですが、私は女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けるのがよいと考えています。

国名のみの21ヶ国のグループ分けには異論はないでしょうが、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする放射行程説に従うと、末盧国までが「従郡至倭」の行程の国であり、少なくとも伊都・奴・不弥の3ヶ国「自女王国以北」の国になります。

「自女王国以北」があるのであれば「自女王国以南」や「自女王国以西」「自女王国以東」もなければいけませんが、倭人伝には「自女王国以南」という記述はありません。実はこの「自女王国以南」という観念がないために混乱が生じています。

倭人伝に「自女王国以北、其戸数道里、可得略載、其余傍国遠絶、不可得詳」とあります。中国人が地理を示す場合には王城が中心になりますが、「自」は起点のことで倭国の王城、すなわち卑弥呼の王城が「自」になります。

伊都国・奴国、不弥国の距離は示されていますが、邪馬台国・投馬国の距離は示されていません。卑弥呼の王城よりも北が「自女王国以北」で、そこに伊都・奴、不弥の3ヶ国があり、戸数と道里を略載することができるというのです。

邪馬台国は女王国の中央にある「自」そのものであり、投馬国は「自女王国以南」の国になります。倭人伝の記述目的からすれば投馬国・邪馬台国は「自女王国以南」にある「其の余の傍国」なのです。

しかし戸数7万・5万の大国を国名のみの21ヶ国と同一視することはできず、方位と戸数は記しているものの道里は省略しています。倭人伝は邪馬台国や投馬国の位置を述べようとはしていません。私たちがそう思っているだけなのです。

直線行程説には「自女王国以南」という認識がなく、伊都国~投馬国間が「水行二十日」とされ、投馬国~邪馬台国間が「水行十日陸行一月」とされています。放射行程説も同様で投馬国の位置が定まらず、恣意的に決められています。

前回の投稿では「於国中有如刺史」は仮定条件を伴っている文で、「於」は「自女王国以北」に懸かる文字であることを述べました。「自女王国以北」が卑弥呼の王城のある邪馬台国や「自女王国以南」の投馬国に対して、中国の州のように半ば独立した状態にある仮定されています。「半ば独立した状態」であることに留意する必要があるようです。

「有」の文字は伊都国とは別に「刺史の如き者」のいる国が有ることを表していますが、その国が面土国であり、面土国も「自女王国以北」の国に含まれます。九州説にも説得力がないのは面土国の存在が考えられていないからです。

2010年12月5日日曜日

九州説 その2

宇美を不弥国とし糸島郡を伊都国とし、那珂郡を奴国とする通説を肯定すると邪馬台国の位置論は混迷しますが、それは現状を見れば明らかで「神功皇后の呪縛」が横行しているようです。九州説も通説から離れないと事実は見えてこないように思われます。

伊都国・奴国を佐賀平野・筑後平野方面とする説がありますが、これらの説は南を東の誤りとし、糸島郡を伊都国とする通説を否定することから生れたもので、結論はどうであれ通説から離れる姿勢は評価されるべきだと思います。

私は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半を邪馬台国とし、東半には面土国・伊都国・奴国・不弥国があったと考えていますが、古田武彦氏も邪馬台国を福岡平野とされていて、筑前西半に伊都・奴・不弥・邪馬台の4ヶ国があったとされています。

伊都国は糸島郡の半島部分、奴国は糸島郡の平野部分、不弥国は福岡平野東部の海岸地帯、邪馬台国は福岡平野とされています。古田氏の立論は難解で私には理解ができないのですが、投馬国は九州南端の薩摩・大隈とされています。

推察になりますが古田氏も通説から離れることができず、通説で奴国とされている福岡平野を戸数七万の邪馬台国としたために、二万の奴国を糸島郡の平野部分としなければならず、五万の投馬国を薩摩・大隈としなければならなかったのでしょう。

このような状況は通説に囚われたことにより生じていますが、これを打破する考え方はあるでしょうか。しつこく述べるのでうんざりされるでしょうが、新しい解釈が出てきたのでまた繰り返します。

租賦を収めるに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易す。大倭をして之を監す。女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

「国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り」と訳した部分の原文は「於国中有如刺史」ですが、『大辞泉』によると「於」の文字が用いられるのは 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うとき、だということです。

時間を表すときには「の時に」という意味になり、場所を表す場合には「で」「にて」という意味になるということですが、場合や事柄を表すときには「に関して」「について」「にあって」という意味になるのだそうです。

一大率があたかも刺史のようだという通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味になるようです。しかし「に関して」「について」では意味が不明瞭になります。通説は「伊都国中にあって刺史の如し」という意味に解釈されているようです。

この「にあって」は「に有って」という意味ではなく、国の中での「刺史の如き者の立場」が述べられています。この場合、一大率は常に伊都国にいるから、国は伊都国に限定され他の国の存在は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。

「於国中有」の文字が見られるのは4の、仮定条件の伴う場合だということのようです。その場合には係助詞の「は」が付随して意味が変わり、「国中に於いては刺史の如き有り」となり、この文には何かが仮定されており、条件が伴っています

倭人伝中の各国には官と副(官)が置かれており、官は中国の郡太守に相当するようです。その郡太守よりも上位に「州刺史」がいますが、魏・晋代の刺史は前漢代のそれとは違い最高位の地方行政官で、州の長官です。その仮定条件は「中国の州」のようです。

通説の解釈との違いは微妙ですが、伊都国は中国の郡に相当し、州に相当するとは思えません。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定されているのです。それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になっています。

「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「州刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというのです。私はこれを「第3の読み方」と言っています。

この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということで、漢文でも「於」の文字は仮定条件の伴う時に使用されるようです。「第3の読み方」は可能のようで、「自女王国以北」に面土国が存在したと考えてよいようです。

2010年11月28日日曜日

九州説 その1

「三角縁神獣鏡」「纒向遺跡」を考察するつもりでしたが、いつの間にか畿内説批判になってしまいました。いずれにしても三角縁神獣鏡・纒向遺跡は邪馬台国・卑弥呼と関係はなく、初期大和朝廷との関連を考えるのがよさそうです。

では九州説はどうかというと九州説も諸説乱立で、一つにまとめたらどうかと揶揄されて今一つ説得力がありません。一般に方位では九州説が、距離では畿内説が有利だとされていますが問題点は幾つもあります。

1、通説では伊都国は糸島郡とされ、奴国は福岡平野とされている
2、通説では南は東の誤りとされている
3、邪馬台国は「水行十日・陸行一月」、投馬国は「水行二十日」とされている
4、直線行程説と放射行程説がある
5、一里が何メートルになるのか分からない

これではどのような恣意的解釈も可能で、自分の思うところが邪馬台国になります。こうした矛盾の根本的な原因は『日本書記』神功皇后紀が三十九年・四十年・四十三年条に『魏志』の文を引用し、また六十六年条に『晋起居注』の文を引用して皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることにありそうです。

また『古事記』は三韓を征伐した後の皇后が筑紫で応神天皇を出産する時の状景を次のように述べています。いわゆる「鎮懐石伝承」ですが、これにも皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする目的があるようです。

即ち御腹を鎮めようとされて、石を御裳の腰に纏いて、筑紫国に渡りその御子を産まれた。故、その御子の生れた地を名付けて宇美(うみ)という。またその御裳に纏いた石は筑紫の伊斗村(いとのむらにある。また筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り、その河辺で食事をされた時・・・

また『日本書記』には皇后が筑後山門縣の土蜘蛛の田油津媛を誅殺した記事もあります。これらの地名が倭人伝中の国を意識したものであることはいうまでもないでしょう。このことから新井白石は神功皇后を卑弥呼だと考えて、1716年に著した『古史通或問』で、応神天皇の生まれた宇美を不弥国に比定し、鎮懐石のある伊斗村を伊都国に比定し、末羅県を末盧国に比定しました。

投馬国は備後鞆の浦、邪馬台国は大和としていましたが、晩年の『外国之事調書』では九州説に転じ、投馬国は肥後玉名郡、または託麻郡に、邪馬台国は筑後山門郡に変えています。

最近では邪馬台国問題に考古学が参入したこともあり、卑弥呼を神功皇后とする説は影が薄くなっていますが、倭人伝の地理記事に関しては新井白石の考えが通説になっています。畿内説も投馬国を備後鞆の浦、邪馬台国を大和とする新井白石の考えをほぼ継承しています。

しかしこの通説はそれ以外には考えようがないので通説になってはいるものの、「鎮懐石伝承」は明らかに創作されたものです。そこから導き出された通説に矛盾のあるのは当然のことです。神功皇后紀は卑弥呼・台与を合成したものが天照大御神であることを知っています。

私は九州王朝が存在したとは考えませんが、大和朝廷と九州土着勢力との間に感情的な対立があり、時には反乱に至ったと思っています。九州土着勢力が卑弥呼・台与を天照大神とするのに対し、大和朝廷内部には神功皇后とする考え方があったようです。それには14代仲哀天皇の九州での死や、15代応神天皇の即位が関係しているようです。

仲哀天皇と応神天皇との間に空位期間があり、その間に神功皇后が摂政として政務に当ったのは事実でしょうが、皇后の三韓征伐はなかったと思います。三韓征伐には斉明天皇の朝鮮半島出兵のための筑紫遷都が反映しているようです。

九州には斉明天皇の朝鮮半島出兵を批判する声があり、出兵を正当化するために神功皇后の三韓征伐の前例があるとされているように思われます。斉明天皇と天照大神(卑弥呼・台与)を合成して神功皇后の事績が創られたようですが、その三韓征伐と応神天皇の出自が結び付けられているようです。

応神天皇は招請されて筑紫から大和に来た天皇で、香坂王・忍熊王の反乱に見られるように応神天皇の即位に反対する者がいたようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与を天照大神ではなく神功皇后とすることで、応神天皇の即位を正当化しようとしているようです。それは越前三国から招請された継体天皇の前例になっていとされているようです。

今日の宇美を不弥国とし、糸島郡を伊都国とし、松浦郡を末盧国とする通説は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする地名説話から生れたものに過ぎず、それは創作されたものであり、そこから導き出された通説に依拠すると矛盾が生じます。

2010年11月21日日曜日

纒向遺跡 その4

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡に、北部九州では出土せず近畿とその周辺で出土するものがあり、北部九州と近畿とその周辺を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」があるとされています

畿内説では二世紀末の倭国大乱の時点で九州と畿内はすでに統合されており、西日本一帯を支配する統治機構が存在していることになって、終末期~古墳時代初頭の「二つの地域社会」が説明できません。3世紀後半に「二つの地域社会」が統合されたことが考えられます。

弥生時代終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が存在していたか、あるいはそれ以前に統合された民族国家の倭国になっていたのかが、畿内説と九州説の分かれ目になると思っています「二つの地域社会」が存在していたとするのが九州説であり、すでに統合されていたとするのが畿内説になります。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものです。北部九州の部族は銅矛・銅戈を配布し、近畿を中心にした地域の部族は銅鐸を配布しました。

上の図は後期前半の分布状態で、中国・四国地方に銅剣・銅鐸が分布していることが示されています。下の図は後期後半の分布状態で中国・四国北部から青銅祭器が姿を消し、四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しています。

私は上図と下図の境を180年ころだと考えています。つまり倭国大乱の結果、中国・四国地方から青銅祭器が姿を消し、四国東南部で銅矛と銅鐸の分布が交錯するようになる考えます。

四国で銅矛と銅鐸の分布が交錯しているのは、終末期~古墳時代初頭に「二つの地域社会」が四国で対峙していたことを表しているようです。全ての青銅祭器が姿を消すのは270年ころに部族が統合され大和朝廷が成立したことで、対峙が解消したということでしょう。
銅鐸の分布圏が統合されるについては2段階があり、第Ⅰ段階は投稿「その2」で紹介した『日本書紀』第二の一書の三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属する物語になっています。

私は神話の神は青銅祭器を用いた部族・宗族だと考えていますが、大国主を中国地方に多い古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島などに多い近畿4・5式など新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族だと考えています。

「大和の国譲り」の神話では讃岐・紀伊・筑紫・伊勢・阿波・出雲の忌部が定められたとされていますが、筑紫と出雲以外は近畿4・5式銅鐸の分布圏です。「大和の国譲り」で下図の近畿4・5式銅鐸が分布している四国東部から紀伊半島、及び大和の南部が、北部九州で発生した物部・中臣氏の統治下に入るようです。

第2段階は投稿「その3」で述べた神武天皇の東遷で、大和盆地南部の葛城山、畝傍山・三輪山周辺を中心にして、近畿式銅鐸の分布圏が統合されたことが語られています。また東海の尾張氏や近江との接触もあり三遠式銅鐸の分布圏も統合されるようです。

卑弥呼の死、台与の即位は247年ころですが、大和朝廷の成立は倭人が遣使した266年の直後の270年ころになると思っています。その差は20~30年ですが、その間に大物主の「大和の国譲り」や神武天皇の東遷があったようです。

この20~30年の年代差を考古学で立証するのは不可能かもしれませんが、3世紀の後半に弥生時代が終わり古墳時代になるとされていますし、青銅祭器が姿を消すのもこのころです。『日本書記』は266年の倭人の遣使を台与が行なったと思わせようとしていますが、これも大和朝廷の成立に何等かの関連があると考えるのがよさそうです。

畿内説は神武天皇の東遷や初期天皇の存在を、三角縁神獣鏡や古墳、あるいは年代の操作で摩り替える「神話の否定論」でもあるようです。考古学は実証を重んじる学問で、神話や初期の天皇の存在を否定するので説明できず、あえて避けられているような感じを受けます。

2010年11月14日日曜日

纒向遺跡 その3

『日本書紀』綏靖天皇紀の紀年を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間があります。この空位期間は、東征以前から神武天皇に従ってきた中臣・忌部・猿女など天神系氏族と、東征後に服属するようになった大神・賀茂など地祇系氏族との間に大王位(天皇位)を巡る抗争があったためでしょう。

沼河耳(ぬなかわみみ、綏靖天皇)の異母兄の当芸志美美は、神武天皇の東遷に九州から同行して朝政を自由にしていましたが、神武天皇が死ぬと沼河耳を殺そうと計画します。このことを母から聞いた沼河耳は葬儀が終わるのを待って逆に当芸志美美を殺します。

大和朝廷が成立しても、その初期の大王位(天皇位)はまだ安定しておらず、後継争いで神武天皇の殯(もがり)が三年間に及んだのでしょう。『日本書紀』はこの殯を「山陵の事」と記していますが、この三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが推察されます。

死者が埋葬されるまでの殯の期間に後継者が決まり墓(古墳)が築かれますが、古墳を築いた者が後継者として認められます。箸墓古墳が造られる間に弔問した者の間に定型化された墓、つまり前方後円墳が築造されるようになるようです。

綏靖天皇の母は美和(三輪、大神神社)の大物主の孫娘で、賀茂氏の祭る事代主の娘の伊須気余理比売(古事記)とされています。綏靖天皇と大神・賀茂氏との関係が強調されていますが、これは神武天皇との関係でもあります。

7人の乙女が高佐士野(たかさじの)で遊行しているのを見た神武天皇は、先頭の伊須気余理比売を妻にすることにします。高佐士野が何を表し、その場所が何処なのかは分かっていませんが、綏靖天皇の誕生について『古事記』が次のように記しています。

是に其の伊須気余理比売の家、狭井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして一宿御寝座しき。・・・然してあれ坐しし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱

7人の乙女は大神氏・賀茂氏・磯城県主など、大和盆地の土着豪族を表していると見ることができそうです。神沼河耳命が綏靖天皇ですが、狭井河は大神神社の摂社、狭井神社の北側を流れる川で、母の伊須気余理比売の家は大神神社の東北の台地にあったと伝えられています。

狭井神社と箸墓古墳は二キロほどしか離れておらず、箸墓古墳は綏靖天皇の母の家の庭のような場所です。私は高佐士野を「高い桟敷のような野」と解釈し、三輪山西麓の「山の辺の道」の光景と見るのがよいと思っていますが、伊須気余理比売の家が狭井河の川上にあるということからのイメージで根拠はありません。

いずれにしてもこの物語には神武天皇と大神氏・賀茂氏など大和土着の勢力との間に縁戚関係が生じたことが語られているようです。2代綏靖・3代安寧・4代懿徳天皇の妃を出した磯城県主は磯城郡の支配者ですが、この時に神武天皇と磯城県主との関係も生じるのでしょう。

橿原市大字洞にある現在の神武天皇陵は、神武田(じんぶでん、ミサンザイ)と呼ばれていた、田の中にある高さ3~4尺(1メートル程度)の小さな丘だったようです。それが文久3年(1863)に神武天皇陵とされ、その後拡大・整備されたということですが、綏靖天皇紀から考えられるような盛大な葬儀は想像できません。

通説では箸墓古墳の築造は260~280年ころとされていますが、これは私の考える神武天皇の即位時期、つまり大和朝廷の成立時期と一致します。大和朝廷が成立したことにより「氏姓制社会」になり、古墳が築造されるようになるのでしょう。

箸墓古墳は大神氏、賀茂氏など伊須気余理比売に関係する氏族や、磯城県主の祖が、当芸志美美を擁立しようとする中臣・忌部・猿女氏など天神系氏族に対抗して、綏靖天皇を大王に擁立するために造った神武天皇の墓だと考えるのがよさそうです。

『日本書記』は神武天皇の別名を「神日本磐余彦天皇」としていますが、これは「磐余の男」という意味で磐余は箸墓古墳のある磯城郡の地名です。大和朝廷の成立に纒向遺跡が係わっていることが考えられます。

2010年11月8日月曜日

纒向遺跡 その2

『日本書紀』第二の一書は大国主の出雲の国譲りの後に、三輪山の神である大物主とその子の事代主が服属したとし、この時に「天の高市」に八十万神(やそよろずのかみ)が集められ、大物主は八十万神を率いて天(高天が原)に昇り、高皇産霊尊に誠意を示したと述べられています。

このことは『古事記』にも『日本書記』の他の一書にも見えませんが、大国主と大物主が別神になっています。大国主の出雲の国譲りの神話はよく知られていますが、大物主の「大和の国譲り」のことはあまり知られていません。

この神話は畿内説では完全に無視されていますが、八十万神が集まったという「天の高市」は律令制大和国高市郡に由来すると考えられています。高市郡には式内社が54坐ありますが、そのうちに高市を冠したものが3坐あります。

高市御縣坐鴨事代主神社 橿原市雲梯町
高市御縣神社        橿原市四条町
天高市神社          橿原市曽我町

橿原市雲梯町の高市御縣坐鴨事代主神社のように、高市郡は賀茂氏の祭る事代主に関係する土地のようですが、賀茂氏は葛城郡を本貫の地とする氏族です。高市郡の北隣りの磯城郡に纒向遺跡や箸墓古墳があり、近くの三輪山は大神氏の祭る大物主の神体とされており、磯城郡は大物主に関係する土地です。

9代開化天皇までの皇宮は高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり、鳥越憲三郎氏はこれを葛城王朝と言っています。10代祟神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇の3代の皇宮は磯城郡の三輪山周辺にあり、これを三輪王朝と言っています。

「天の高市」に集まった八十万神とは葛城山、畝傍山・三輪山周辺の宗族であり、後に大和盆地の南部が初期天皇の皇宮・陵墓の所在地になることを示唆しているのでしょう。纒向遺跡・箸墓古墳周辺は城上郡大市郷ですが、飛鳥・奈良時代には市場がありました。

高市もまた市場があったことに由来するのでしょう。「天の高市」は大和盆地の東南部に市場があったということで、単に高市郡のことだけでなく桜井市金屋の海柘榴市や、隣の磯城郡にある大市(纒向遺跡)の記憶も含まれていると考えます。

纒向遺跡は大和朝廷成立以前には市場や「寄り合い評定」を行なう広場になっていたが、葛城王朝・三輪王朝の政治の場に変わるのでしょう。纒向遺跡で出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもの、西日本の各地から人が集まったことが考えられています。

その土器は研究者によって古墳時代初頭のものとされたり、弥生時代終末期のものとされたりする、庄内式と呼ばれている土器と並行する時期のもののようです。私はこの庄内式期の始まりを通説よりも20~30年新しく見て270年ころとし、このころ大和朝廷が成立すると考えています。

高倉洋彰氏は第三段階(終末期~古墳時代初頭)の小形仿製鏡には北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土する小形重圏文仿製鏡などがあるとされています。そしてこれを北部九州と畿内を中心とする「大きな範囲の二つの地域社会」が成立していたとされています。

畿内説は北部九州と畿内が統合されていることが前提になりますから「二つの地域社会」は説明できません。「二つの地域社会」が併合されて大和朝廷が成立し、纒向遺跡が最盛期に入っていくと考えるのがよいようです。

場所によっては30%にもなるという纒向遺跡の外来土器は、纒向遺跡が大和朝廷の基礎の固まった葛城王朝の政治の場になったことを示していると考えるのがよさそうです。その始まりが大物主・事代主の「大和の国譲り」の物語になっているようです。

私は大国主を島根県加茂岩倉遺跡の39個など、中国地方に多い近畿2・3式などの古いタイプの銅鐸を祭っていた部族と考え、大物主は四国東部や紀伊半島に多い近畿4・5式などの新しいタイプの銅鐸を祭っていた部族と考えるのがよいと思っています。

神話は史実ではないとも言われますが、台与が即位した247年から間もないころ、「倭の種」の諸国を統一する動きが出てきます。その結果大国主の出雲の国譲りに続いて、大物主の「大和の国譲り」、あるいは神武東遷に語られているような史実があったと考えます。

2010年11月1日月曜日

纒向遺跡 その1

三角縁神獣鏡が畿内を中心して分布しているのは、初期の大和朝廷(葛城王朝)がその統治が及んだ地域に配布したからで、邪馬台国が畿内にあったということではないようです。纒向遺跡も邪馬台国や卑弥呼とは関係がなさそうです。

纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して出現すると考えますが、北部九州に女王を中心とする統治機構ができ、その影響を受けて大和盆地の東南部を中心とする新たな統治機構が出現するのでしょう。初期の纒向遺跡の性格については「出雲神在祭」が参考になると考えています。

小説家・思想家の白柳秀湖は出雲神有在祭がツングース族の「ムニャーク」という「寄り合い評定」、つまり有力者を招集して行なう「合議制統治」に似ているとしています。鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり国政論じ、それは統領の任免にまで及んだということです。

江上波夫氏は匈奴では遊牧生活の変わり目に特定の場所で大会が開かれ、それには匈奴国家を形成する全部族が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたとしています。

島根県荒神谷遺跡の380、加茂岩倉遺跡の39個という大量の青銅祭器については、匈奴の例のように強制力のある「寄り合い評定」で埋納が決定され実行されたと考えていますが、青銅祭器は宗族ごとに1本(1個)が配布されたようです。

そうすると出雲の「寄り合い評定」には419人、あるいはそれ以上の宗族長が参集したことになりますが、これだけの人数が集まるには相当に広い場所が必要です。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が宴を催すという伝承のある万九千神社は、その地勢から見て斐伊川の河原だったでしょう。

ツングース族の「ムニャーク」で族長がシラムレン河の河畔に集ったように、この河原が族長の集まる広場になっていたことが考えられます。ムニャークは毎年一定の場所で開催され、その場所には多くの天幕が張られたということです

纒向遺跡も巻向川・烏田川の扇状地にありますが、大和朝廷成立以前にはこの扇状地に通常は市場で、非常時には「寄り合い評定」を行なう広場があったと考えます。纒向遺跡の位置は律令制の城上郡大市郷に当たりますが、大市は飛鳥・奈良時代に市場があったことに由来すると言われています。

古墳時代に入ると纒向遺跡は初期大和朝廷の政治の場になり、後に政治の場は南の飛鳥に移るようです。市場としての機能も、より政治性の強いものは飛鳥に近く紀伊や伊勢との交通に便利な桜井市金屋の海柘榴市に移り、生活に密着したものが纒向に残って、大市郷という郷名が生れると考えます。

石野博信・関川尚功氏は纒向遺跡の土器を1類~5類に類別されていますが、1類は「畿内第Ⅴ様式」に、2~4類は「庄内式」に、5類は「布留Ⅰ式」に並行するとされ、石野氏は1類を180~210年ころとされています。

石野氏は纒向遺跡を「2世紀末に突然あらわれ4世紀中ごろに突然消滅した大集落遺跡」と言っていますが、畿内の年代は20~30年程度古く見られていると感じています。纒向遺跡は後漢の滅亡、倭国大乱に連動して現れ、4世紀後半以後の天皇(13代成務天皇以後)が近江や河内など、大和以外の土地に本拠を移したために消滅するのでしょう

纒向遺跡では初期の遺構は少なく、集落も環濠もなく出土したのは銅鐸片と二つの土坑のみとされ、その最盛期は3世紀終り~4世紀初めとされていますが、最盛期は20~30年程度新しく見て、4世紀前半とみるのがよいと思っています。

大和朝廷が成立するのは270年ころで、それは纒向式2類のころだと思っています。纒向式1類の時期の纒向遺跡は平常時には市場だが、非常時には有力者が集まって「寄り合い評定」をするための広場だったと考えます。

卑弥呼の宮殿ではないかといわれている纒向遺跡の大型掘立柱建物の柱の間には、南北方向に床を支えるための細い束柱があり、建坪以上に多人数を収容する構造になっていたようです。その建物は平城京の大極殿に相当する施設でしょう。

初期の天皇は地方豪族の棟梁に過ぎず、その皇宮も粗末で大型の建物が必要になり、纒向式1類の時期には市場や「寄り合い評定」の場になっていた纒向に大型の建物が建てられ、その建物は今の国会議事堂のような役割を果たしていたと考えます。

2010年10月26日火曜日

三角縁神獣鏡 その4

前回の投稿では画文帯神獣鏡は魏の滅亡、大和朝廷の成立以後にも威信財としての価値があり、同じ時期に三角縁神獣鏡が国産されたと述べました。銅鏡は古墳時代になると大和朝廷から姓(かばね、身分)を与えられた氏族長であることを示す威信財になるようです。

初期の天皇の皇宮・陵墓は9代開化天皇までは大和の高市郡・葛城郡など葛城山・畝傍山の周辺にあり葛城王朝と呼ばれ、10代祟神、11代垂仁、12代景行の3代の皇宮・陵墓は磯城郡の三輪山周辺にあり三輪王朝と呼ばれています。

ところが13代成務天皇以後の皇宮は大和盆地から離れています。成務天皇は近江の高穴穂宮、14代仲哀天皇は長門の豊浦宮、あるいは筑紫の香椎宮を皇宮としています。15代が応神天皇ですが応神以後は河内王朝と呼ばれています。

仲哀天皇と応神天皇の間には何年間かの空位期間があり、その間は神功皇后が摂政として政務に当ったとされていますが、『日本書記』神功皇后紀の記年によれば、皇后は169年に生まれ269年に100歳で死んだことになっています。

これについては神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるために、干支2運、120年が繰上げられている考えられています。義煕9年(413)に東晋の安帝に方物を献じた「倭の五王」の「讃」を16代仁徳・17代履中のいずれかとすると神功皇后の時代は4世紀の終わりごろでなければいけません。

干支2運、120年を繰下げると皇后の死は389年になり、実態に近くなります。安本美典氏は古代天皇の平均在位年数を10、3年とされていますが、仮に応神即位を390年とし、仲哀即位を380年とすると、景行・垂仁・祟神の三代の三輪王朝は360~340年になり、開化~神武の葛城王朝は330~250年になります。

私は神武天皇の即位を270年ころ、また祟神天皇の即位を360年ころと考えていて20年ほどの差がありますが、いずれにしても古墳時代の始まる3世紀後半に大和朝廷が成立し、葛城王朝は4世紀前半までで、三輪王朝は4世紀後半の早い時期と考えることができます。

5世紀が近くなると天皇の皇宮・陵墓は大和盆地から離れますが、三角縁神獣鏡を副葬する古墳の多くは4世紀中葉から後半のもので、これは三輪王朝期以後に当ります。三角縁神獣鏡に威信財としての価値があったのは葛城王朝期であり、三輪王朝期になると威信財としての価値がなくなるようです。

開化天皇までの8代は「欠史八代」と呼ばれ事績がほとんどありませんが、これが葛城王朝です。三輪王朝になると祟神朝の四道将軍の派遣や、景行朝の倭建命の熊曾・出雲・東国征伐に語られているように、大和朝廷の支配は全国に及びます。

三輪王朝では「氏姓制」が定着して天皇の統治は絶対的なものになり、『古事記』は祟神天皇を「初国知らしし天皇」と称えています。葛城王朝は存在してはいるものの弱体だったが、三輪王朝になると大和朝廷の支配が確立したというのでしょう。

天照大御神は卑弥呼・台与が合成されたものですが、その5世孫が神武天皇とされており、葛城王朝は卑弥呼の「親魏倭王」の王統を継承していると考えられていたようです。それを象徴するのが画文帯神獣鏡であり、三角縁神獣鏡は存在感の薄かった葛城王朝が存在を誇示するために画文帯神獣鏡をモデルにして鋳造し配布したものでしょう。

天理市黒塚古墳では棺内の遺骸の頭部に画文帯神獣鏡が立てて置かれ、棺外の石室の壁面に33面の三角縁神獣鏡が並べて置かれており、その価値は画文帯神獣鏡のほうが高いのではないかと話題になりましたが、葛城王朝が卑弥呼・台与(天照大御神)の王権を継承していることを大義名分にしていたことを表しているようです。

三角縁神獣鏡の記年銘はすべて卑弥呼の時代のものです。記年銘は「親魏倭王」の称号が魏から与えられたもので、葛城王朝がそれを継承していることを表し、呉の年号の赤烏の銘を持つ平縁神獣鏡は、晋による中国再統一以後には呉も卑弥呼が倭国王であることを認めていたとされるようになることを表しているのでしょう。

『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていますが、『古事記』『日本書記』の記述からみると、応神天皇は天照大神(卑弥呼・台与の統治)に連なる皇統とは別系の、継体天皇の出自と関係する天皇のように思われます。

皇宮・陵墓が大和を離れる13代成務天皇以後には、葛城王朝が大義名分にしていた天照大神(卑弥呼・台与の統治)の王権を継承しているとする考えが否定されるようです。三角縁神獣鏡の威信財としての価値は三輪王朝以後にはなくなり、河内王朝期には大半が副葬されていたと考えます。

2010年10月18日月曜日

三角縁神獣鏡 その3

三角縁神獣鏡に見える記年と副葬された時とには100年程度の差がありますが、柳田康雄氏は当時の平均寿命を40~50年と見て王の在位期間を20~30年間とし、銅鏡が鋳造された時に20~30年をプラスしたものが副葬された時になるとされています。

これには銅鏡が威信財として伝世されたことが考えられていませんが、畿内説の年代論は鋳造と副葬の年代差をゼロに近づけることに腐心しているような印象を受けます。しかし年代差がゼロ、あるいは副葬されるのが先になることはあり得ません。

現時点の「年輪年代測定法」や「放射性炭素(C14)年代測定法」の精度では主観・主張が先行すれば副葬されるのが先ということにもなりかねません。銅鏡が副葬されるのは威信財としての価値なくなるからで、年代差をいくらゼロに近づけても三角縁神獣鏡の問題点は解決しないようです。

中国・朝鮮半島の銅鏡は私財であり一代限りで副葬されるのかもしれませんが、それが日本に渡ってくると威信財になり伝世されるようです。弥生時代の銅鏡は中国の王朝と冊封関係にあることを表す威信財でしたが、古墳時代になると大和朝廷から姓(かばね、身分)を与えられた氏族長であることを表す威信財になるようです。

卑弥呼・台与は魏から「親魏倭王」に冊封されて「邑君」「邑長」のような魏の官職を与えることができ、印綬の代わりに銅鏡を配布したと考えています。そのために大量の銅鏡が必要になり、魏から与えられた銅鏡だけでは絶対数が不足し、小形仿製鏡や後漢鏡を数個に分割した「分割鏡」が造られるようです。

高倉洋彰氏によると(『三世紀の考古学』、学生社、昭和56年)、小型仿製鏡の時期は3段階に分かれ、第一段階(後期初頭~前半)と第二段階(後期中頃~後半)には北部九州で鋳造され、分布も北部九州を中心にしているということです。

ところが第三段階(終末期~古墳時代初頭)になると、小形重圏文仿製鏡などのように北部九州では出土せず、近畿とその周辺で出土するものがあり、第三段階には北部九州と近畿とその周辺の両方で鋳造されたということです。そして次のように述べられています。

仿製鏡の第三段階に北部九州と近畿を中心する地域との二つの製作地がみられることは、取りも直さず、他の資料からも知られるように大きな範囲の二つの地域社会が成立していたことを示すにほかならない。この点の検討はもはや鏡の分析を超えたところにある。

「この点の検討はもはや鏡の分析を超えたところにある」とされていますが、検討方法の一つが畿内説・九州説の分析であり、青銅祭器の分布の分析と見ることができます。しかし畿内説では仿製鏡の第三段階に「二つの地域社会」が並存することにはなりません。

畿内説の寺沢薫氏は2世紀末の倭国大乱によって、北部九州を中心とする「イト倭国」から、大和を中心とする「新生倭国」(ヤマト王権とも)へ転換したとされていますが、この説では二世紀末にはすでに九州と畿内は統一されていることになり、「二つの地域社会」が説明できません。これは寺沢氏の説に限らず畿内説全般に言えることです。

高倉氏は第三段階の小形仿製鏡の時期を弥生時代終末期~古墳時代初頭とされていますが、これは古墳時代初頭に「大きな範囲の二つの地域社会」が一つの民族国家に統合されたということで、大和朝廷が成立し古墳が築造されるようになることを表しているようです。

大和朝廷の成立は3世紀後半の270年ころだと考えています。第三段階の小形仿製鏡の鋳造が始まるのは、卑弥呼の時代に印綬の代用として銅鏡が配布され大量の鏡が必要だったからですが、大和朝廷も大量の鏡を必要としたので三角縁神獣鏡の鋳造が始まると考えます。

高倉氏は小形仿製鏡・分割鏡について、「仿製され、鏡片化される要因はこのような中国鏡、おそらくは長宜子孫内行花文鏡の絶対数の不足にある」とされていますが、長宜子孫内行花文鏡は後漢の滅亡ですでに価値を失っており、絶対数が不足したのは画文帯神獣鏡などの魏鏡だと考えます。

画文帯神獣鏡も265年の魏の滅亡で、冊封関係を表す威信財としての価値は無くなるようです。しかし間もなく成立する大和朝廷が卑弥呼の王権を継承していると称しので卑弥呼の王権を象徴する威信財としての新たな価値が生じるようです。

画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も副葬されるのは4世紀中葉~後半になるようです。三角縁神獣鏡は初期の大和朝廷が画文帯神獣鏡などをモデルにして鋳造させたもので、景初3年・正始元年などの記年銘は画文帯神獣鏡などの記年をコピーしたものだと考えます。

呉の年号の赤烏の銘を持つ平縁神獣鏡がありますが、中国が晋によって再統一された280年以後に大和朝廷が鋳造させた国産鏡だと考えるのがよさそうです。

2010年10月11日月曜日

三角縁神獣鏡 その2

三角縁神獣鏡を副葬している古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされ、記年銘と副葬されている古墳の年代には100年、あるいはそれ以上の差があります。また箸墓古墳の築造年代は通説では260~280年ころとされていますが、これにも卑弥呼の時代との間に30年ほどの差があります。

そこで「年輪年代測定法」「放射性炭素(C14)年代測定法」などの方法で、この100年、あるいは30年の差を縮める試みが行なわれていますが、その精度には問題があり研究者の間でも疑問視する考えがあります。この差については次のように考えています。

三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で鋳造されたと推定されている画文帯神獣鏡には3世紀前半の年代が与えられており、三角縁神獣鏡よりも画文帯神獣鏡を重視すべきだという考え方があります。三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡をモデルにした国産鏡であり、景初3年・正始元年などの記年銘は画文帯神獣鏡の銘をコピーしたものだと考えます。

天皇位を象徴する「三種神器」に「八咫鏡」がありますが、この鏡を継承することは天皇の権威・威信を継承していることを表しています。「八咫鏡」が副葬されてしまえば権威・威信を伝えるものとしての意義がありません。

倭人伝に「悉可以示汝国中人、使知国家哀汝」とありますが、弥生時代の銅鏡も単に私財だから副葬されるのではなく、公的な権威を象徴する「威信財」で伝世されていたと考えます。威信は銅鏡と共にその後継者に伝えられますが、威信が消滅すると鏡の威信財としての価値もなくなり副葬されるようです。

つまり三角縁神獣鏡に見られる記年とそれを副葬している古墳の年代の100年ほどの差は、鋳造された時とは無関係の、威信財としての価値があると思われていた期間だと考えます。中国の諸王朝は周辺の異民族と冊封関係を結んでいましたが、冊封を受けた者には倭国王などの称号が与えられ、銅鏡などの賜与の品が与えられます。

賜与の品は分配されますが、分配された銅鏡は中国の王朝と冊封関係にあることを表す威信財になります。その王朝が断絶すると与えられていた威信が消滅しますが、同時に銅鏡の威信財としての価値も無くなり、単なる私財になって副葬されます。100年の差は 中国の王朝によって威信が保障されていたと想定されている期間のようです。

三角縁神獣鏡に威信財としての価値が有ったのは100年間ほどとされていたようですが、杉原荘介氏(1913~1983)も理由を明らかしていませんが、銅鏡が鋳造されてから副葬されるまでを100年とし、このことから1960年に100年ごとに区分する編年を発表し、一時期それが定説になっていました。

私はそれを10年短縮して90年ごとの編年考えています。卑弥呼が王に擁立されたのは西暦180年ころに倭国に大乱が起きたためでしたが、90~180年を後期の前半とするのがよいと思っています。180年ころの中国は後漢の霊帝の時代で、後漢は220年に滅亡します。

90~180年ころに威信財としての価値があったのは長宜子孫内行花文鏡など後漢鏡で、その時期は倭人伝に見える卑弥呼以前の70~80年間の男王の時代と一致し、面土国王が倭国王だった時代に当ります。後漢鏡が副葬されるようになるのは後漢の滅亡や、卑弥呼の共立で面土国王の倭王としての権威・威信が消滅したからでしょう。

その90年後の270年ころ(3世紀後半)に女王の時代が終わり、大和朝廷が成立し古墳時代が始まると考えています。魏が滅んだ翌年の266年に倭人が遣使したのは、神武天皇の東遷に「倭国王」の称号が必要だったからだと考えていますが、魏鏡に威信財としての価値なくなるのは魏の滅亡や大和朝廷の成立が原因でしょう。

その鏡は三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと考えられている画文帯神獣鏡だと考えます。景初3年(239)の銘を持つ画文帯神獣鏡が大阪府和泉黄金塚古墳などで出土しており、青龍3年(235)の銘を持つ方格規矩四神鏡が大阪府安萬宮山古墳などで2面が出土しています。

魏が卑弥呼に与えた銅鏡百枚は三角縁神獣鏡ではなく画文帯神獣鏡ではないでしょうか。方格規矩四神鏡は新(王莽)・後漢時代前半のものとされていますが、220年の後漢の滅亡まで威信財としての価値があったのではないでしょうか。青龍3年の銘を持つ方格規矩四神鏡は卑弥呼の時代以後に鋳造された国産鏡でしょう。

270年ころの大和朝廷の成立から90年後の360年ころまでが、綏靖天皇から開化天皇に至る、いわゆる「欠史八代」の時代だと考えています。この時期が古墳時代前期にあたり、三角縁神獣鏡に威信財としての価値の有ったのが「欠史八代」の時代だと考えます。

台与の即位以後、東晋の義煕9年(413)までの間の遣使は266年だけで、時代が下るにつれて中国からの銅鏡の流入は減少するようです。卑弥呼がそうであったように成立後間もない大和朝廷は服属してきた者に銅境を与えなければならず、大量の三角縁神獣鏡を鋳造したと考えます。

2010年10月4日月曜日

三角縁神獣鏡 その1

邪馬台国の所在については九州説と畿内説が対立していると言えますが、畿内説では奈良県纒向遺跡を邪馬台国の王都とし、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力です。その他にも多くの説がありますが、方位・距離を無視すれば邪馬台国はどこにでも比定できます。

その中には博多の梓書院前社長、田村明美氏をして「おらが邪馬台国原稿」と言わしめるものも出てくることになります。邪馬台国や卑弥呼の墓は歴史愛好家にとってはロマンですが、同時に史学の一分野でもあり事実を追及する姿勢も必要です。

畿内説は方位・距離を考慮に入れないことを前提にしています。通説では伊都国は糸島郡とされ奴国は福岡平野とされていますが、この通説自体が倭人伝の地理記事と合いませんから、邪馬台国の位置についても方位・距離を考慮する必要はないとも言えます。しかし方位・距離を無視することは邪馬台国の存在そのものを否定することにならないでしょうか。

以下は私の考えている九州説ですが、面土国が3世紀にも実在しており、それは筑前宗像郡であることを前提にしています。面土国は倭人伝の地理記事の末盧国と伊都国の中間に位置していると考えていますが、これは通説の南を東と見る考えを無視したもので、「同じ穴の狢」だと言えなくもありません。

しかし方位・距離を無視しているわけではありません。その起点は宗像市田熊・土穴付近であり、一里は65メートルだと考えています。付近は宗像大社の「根本神領」とされ、一昨年には田熊石畑遺跡で15本の青銅器が出土して話題になりました。畿内説と比較してみてください。

倭国(女王国)は律令制の筑前・筑後・豊前・豊後・肥前東半と考えています。これは現在の福岡・佐賀・大分の3県になりますが、朝鮮半島から渡来してきた「渡来系弥生人」の形成する国です。

邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半の10郡ほどであり、東半には「自女王国以北」の国である面土国・奴国・不弥国がありました。投馬国は筑後の10郡ほどであり、豊前・豊後・肥前東半には国名のみの21ヶ国がありました。

狗奴国は肥後と肥前西半で、熊本・長崎の2県になりますが、「熊襲」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。元来の熊襲は肥(肥前・肥後)の住民のようですが、青銅祭器の分布から見て、肥後の北半と肥前東半の熊襲は「渡来系弥生人」と融合するようです。その結果、肥前東半(佐賀県部分)は女王国に属することになると思われます。

侏儒国は薩摩・大隅・日向で、後に「隼人」と呼ばれることになる「縄文系弥生人」の国です。侏儒とは住民が低身長であることを表していますが、現代でも成人男性平均身長が160,7センチと低身長であることが観察されています。

倭人伝の記述している「女王国」や「倭」あるいは「倭地」は現在の九州であり、それよりも以東は「船行一年」でその東端に至ることのできる、「倭の種」の住むところとして区別して考えるのがよいと思っています。

その「倭の種」の国には出雲(中国・四国)や(北陸)の国があり、固有の呼び方はありませんが大和や尾張を中心とする国もありました。出雲は銅剣・銅鐸を宗廟祭祀の神体とする部族の国ですが、大和や尾張は近畿式・三遠式の銅鐸を神体とする部族の国です。

九州説と畿内説とは「水掛け論」になりそうです。その原因の一つに畿内説がその論拠を初期古墳の存在と、古墳に副葬されている三角縁神獣鏡に求めていることにありそうです。畿内説では方位・距離は考慮されていませんが、これも原因の一つでしょう。

三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に遣使して銅鏡百枚を賜与された景初3年(239)の記年銘を持つ島根県神原神社古墳出土鏡や、その翌年の正始元年の記年銘を持つ3面などがありますが、三角縁神獣鏡は畿内を中心にして400面以上が出土しています。

三角縁神獣鏡の出現する直前に中国で造られたと推定される画文帯神獣鏡も60面ほどが出土していますが、景初3年の銘を持つものが大阪府泉黄金塚古墳などから出土しています。これも三角縁神獣鏡と同様に畿内とその周辺で出土することが多いとされています。

畿内やその周辺に三角縁神獣鏡の多いことは畿内説に有利ですが、副葬されている古墳の多くは4世紀中葉から後半のものとされています。記年銘とそれが副葬されている古墳の年代の間には100年かそれ以上の差がありますが、この差は何を意味するのでしょうか。

箸墓古墳が卑弥呼の墓とされるのは、 三角縁神獣鏡に景初・正始などの記年銘を持つものがある ⇔  三角縁神獣鏡は畿内に多い  ⇔  箸墓古墳の築造は古墳時代初頭  ⇔  箸墓古墳は卑弥呼の墓、 という論法のようですが、箸墓古墳から三角縁神獣鏡が出土したわけではありませんし100年もの年代差があると、この論法は成立しないと考えるのがよさそうです。

2010年9月26日日曜日

神社 その6

天武天皇は「八色の姓」を制定して氏族を最編成しますが、さらに『古事記』編纂の発端になった帝紀・旧辞の撰録を命じています。『古事記』は天神とされている猿女君の伝えたものであるために、地祇・諸蕃が軽視されているようです。地祇・諸蕃の軽視が672年に起きた壬申の乱の遠因にもなっており、また神社・神道が今の形になる転機になるようです。

『古事記』の編纂は中断され『日本書紀』が先に成立しますが、『日本書紀』には「一書に云う」という形で地祇・諸蕃の歴史が加えられ、以後『古事記』『日本書紀』は大和朝廷と、それを取り巻く氏族の存在する由来が述べられた神道の「聖典」になるようです。

私は弥生時代に宗族が連宗(宗族が合流すること)した、事実上の氏族は存在したと思っていますが、その例として物部氏・中臣氏を挙げることができるように思います。両氏は保守的な氏族で日本の神(換言すると神道)を敬うことを主張して仏教を受容しようとする蘇我氏と対立しますが、そのことも遠因になって物部氏は一時期断絶しています。

古墳時代の物部氏には「八十物部」と言われる多数の支族がありましたが、その始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされています。物部本宗氏は奈良県石上神宮で剣神の布都神を祭り、支族はニギハヤヒを遠祖とする個々の始祖を持っています。

布都神は『古事記』ではイザナミが火の神カグツチを産んで「神避り」(神が死ぬこと)した時に生れる神で、建布都神・豊布都神とも呼ばれ、建御雷之男神の別名だとしています。私はこの神話を2世紀初頭に奴国が滅び面土国王の帥升が倭王になることが語られていると考えていますが、建御雷之男神は中臣氏の祭る神で物部氏の祭る神ではありません。

物部氏・中臣氏の弥生時代の遠祖が連合して中国の氏族のような集団を形成していたことが想像されます。これは神話上の物語で史実であることを証明できるわけではありませんが、政略上の宗族の連合はあり得ることです。

『日本書記』では布都神は経津主神となっており、武甕槌神(『古事記』の建御雷之男神)と共にオオクニヌシに国譲りをさせます。物部氏の神話・伝説上の始祖が建布都神・豊布都神であり、中臣氏の神話・伝説上の始祖が建御雷之男神とされているようです。

それが大和朝廷の成立で、大和朝廷に最初に服属した者がその氏族の始祖とされるようになり、物部氏の始祖はニギハヤヒとされ、中臣氏の始祖はアメノコヤネとされるようになります。いずれにしても宗族も氏族も血縁集団であると同時に政治的な集団であり、それには始祖があり、始祖を神として祭る宗廟祭祀が行なわれていたと思われます。

最近では神殿ではないかと言われる大型の建物の発見が続いています。神殿であれば祭られている神があるはずですが、具体的なその神の性格はどのようなものでしょうか。考古学ではこの神を神話の神と結び付けることはタブーになっていると言ってよいでしょう。

倭人伝に宗族の存在することが記されています。神殿は始祖や祖先を祭る宗廟祭祀の場、すなわち神社だと考えるのが穏当でしょう。このことと山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤の言う天皇を絶対化する神道とを同一視する必要はないように思います。

弥生時代に神社が存在したと考えると、弥生時代に対する認識が大きく変わってくるように思います。度々触れますが卑弥呼の鬼道は古神道のシャーマニズムだと考えなければならず、神話には史実が形を変えて伝えられていることが考えられてきます。

これは青銅祭器についても言えるでしょう。青銅祭器がどのように祭られていたのかについては諸説がありますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれている集落中心部の大型建物の床下から中広形銅戈が出土しており、建物を造る際に地鎮祭が行なわれたとされています。

これは現在の地鎮祭からの発想でしょうが、私はこの銅戈は倭国に大乱が起きる直前に造られて大型建物の祭壇に安置されていたが、大乱が起きて急遽、床下に隠されたと想像しています。それは終戦直後の駐留軍進駐の際の神社の神体に似たものだったように思います。

島根県加茂岩倉遺跡と神原神社古墳、あるいは滋賀県小篠原遺跡と野洲古墳群・御上神社のように、青銅祭器の埋納地点から谷を下った2~3キロ以内に、延喜式内社かそれに順ずる古い神社があり古墳があることがあります。このような例は以外に多く、青銅祭器が神社の境内から出土した例も少なくありません。

これは古墳・神社を祭っていた人々と青銅祭器を祭祀具とし埋納した人々が、共に埋納地点の2~3キロ以内を日常生活圏とする、時代の異なる同族だということでしょう。古墳・神社は祖先を祭るための施設ですが、青銅祭器もまた宗廟祭祀の神体であり、弥生時代に神社が存在したことを表しているようです。

2010年9月20日月曜日

神社 その5

古墳時代の大和朝廷は有力な氏族長に君、直、首、公などの姓(かばね、身分)を与え、人民と土地の私有を認めましたが、定形化された前方後円墳は大和朝廷の統治に服属して姓を与えられた氏族長の墓なのでしょう。その墓の祭祀を継承することが姓を継承し氏族を支配していることを表し、その祭祀の場が神社になると思われます。

弥生時代の青銅祭器を神体とする祭祀では、部族から青銅祭器を配布された人物が始祖とされ、その始祖を基点とする父系出自集団が形成されていましたが、氏姓制に移行すると大和朝廷から姓(かばね)を与えられた人物を始祖とする父系出自集団を形成するようです。

前回に紹介した兵庫県川西市加茂遺跡の場合、中期後半の大型建物でも銅鐸の祭祀が行なわれていたかどうかが問題ですが、後期末には確実に銅鐸の祭祀が行なわれ、そして古墳時代にはこの地方がカモ氏の支配下にあったことが考えられます。

加茂遺跡の東の崖下に銅鐸が埋納されると、近くにある勝福寺古墳、万籟山古墳などが祭祀の対象になったようです。大庭磐雄氏によると大和朝廷がこれらの古墳の被葬者に与えた姓は祝(ほうり)ですが、鴨神社を祭っていたことを思わせる姓です。

弥生時代から古墳時代に移る時、部族が消滅し宗族は氏族へと再編成されていくようです。弥生時代の宗族が大和朝廷の成立で政治性をおびて、古墳時代の氏族になるのですが、それと共に宗廟祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に移っていくようです

『古事記」『日本書紀』に見える氏族の祀る神は、例えば賀茂氏の祭るコトシロヌシのように、この時期の遠祖が氏族の始祖とされ、鏡を神体とする神として祭られる例が多いようです。私はその接点に卑弥呼・台与がいると考えていますが、卑弥呼と台与が合成されたものが天照大御神のようです。

卑弥呼・台与は「親魏倭王」として邑君・邑長のような魏の官職を授ける特権を持っており、印綬に代わるものとして銅鏡を配布していたと考えています。その銅鏡を神体とすることが行なわれるようになり、それが古墳時代の氏姓制度に引き継がれて、祭祀の神体は青銅祭器から銅鏡に変わり、神社の神体も銅鏡になると考えます。

ひとつの考え方として銅鏡を配布した部族が倭国を統一したことにより、神社の神体が銅鏡になると考えることもできそうです。神話からみるとその部族は天照大神を中心とする「高天が原」で活動する神ということになりますが、青銅祭器と銅鏡とでは性質が違うようです。

律令時代になると大和朝廷は土地と人民の支配権を氏族長から取り上げ(公地公民)それに代えて有力な氏族に属している者に高い官位が与えられるようになります。氏族は官僚を生み出すための組織になりますが、その格付けは『古事記』『日本書記』の記録するところとほぼ一致します。

『古事記』には猿女君の一族の稗田氏の伝えた氏族の歴史が語られており、その多くは天神・皇別と呼ばれる氏族のもので、地祇・諸蕃に関するものは多くありません。天神・皇別は「高天が原」で活動する神の子孫であり、地祇は「葦原中国」で活動する神の子孫で、諸蕃は渡来系氏族です。

氏族の格付けを天神・皇別だけに行い、地祇・諸蕃をないがしろにすれば地祇・諸蕃から反発が来ます。『古事記』よりも『日本書記』が先に成立するのは地祇・諸蕃の諸氏族の歴史を加える必要があったからでしょう。格付けは大和朝廷(天皇)への貢献度で決まりますが、それは氏族の始祖や祖先の功績によるところが大きかったようです。

672年に起きた壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子に対する、天皇の弟の大海人皇子の反乱でしたが、大友皇子を支持したのは天智天皇の側近であった中臣(藤原)氏などの中央豪族(氏族)であり、大海人皇子を支持したのは地方豪族でした。

この乱については諸説がありますが、私はその主因は皇極天皇が斉明天皇として再度即位した理由や、その後の朝廷の施策に対する地方豪族の不満であろうと思っています。天智天皇を補佐した側近の中央豪族には天神・皇別が多く、地祇の地方豪族、ことに東国の豪族不満を募らせていたところに、皇位継承問題が起き大海人皇子の反乱に至ったと考えます。

大海人皇子が即位し天武天皇になりますが、初期の天武天皇は中央豪族を遠ざけて下級役人の舎人(とねり)に補佐されて政治に当ります。壬申の乱の原因になった氏族は「八色の姓」を制定して真人(まひと、応神天皇以後の皇族の子孫)、朝臣(あそみ、皇別・天神・及び天神に順ずる地祇クラス)・宿禰すくね、地祇クラス)、忌寸(いみき、諸蕃クラス)などに最編成されます。

2010年9月12日日曜日

神社 その4

武帝の時代に儒教が国教になったことにより、儒教の礼が外交儀礼の礼式として流入してきますが、やがて神道の原形と儒教が融合し冊封体制下の倭人の王も儒教の礼に基づく統治を行なうようになると考えます。日本の神道と儒教には類似する点が多いのです。

儒教では「礼」と共に「楽」が重視されています。儀式や祭礼の際の奏楽のことですが、神社の祭礼と言えば笛・太鼓のにぎやかな奏楽が付きものです。楽器としては鳥取県青谷上寺地遺跡などで琴の出土例があります。 本来の銅鐸も奏楽のための楽器だったのかもしれません。

本居宣長は『神代正語』で神道家が儒教に惑わされていると考えて「漢意を排して大和魂を堅固にすべき」と言っていますが、「漢意」とは儒教・仏教のことであり「大和魂」とは神道のことのようです。儒教は朝鮮半島までストレートに及んでいますが、日本には神道があり儒教の影響が希薄です。儒教は海を渡ると元来の神道と融合するようです

神道と仏教は6世紀以後に融合するようですが、神道と儒教は紀元前1世紀中葉の元帝の時代から、1世紀の王莽の時代には融合すると考えます。このころ倭の百余国が遣使し、57年には奴国王が遣使するなど、中国との冊封関係が成立します。

青銅器が祭器になるのもこのころだと考えます。それは儒教の礼の中心になっている、宗廟祭祀を重視する思想が冊封関係と共に流入してきたことによるものであり、それに楽(奏楽)が加わり、にぎやかで盛大な祭祀になったと想像します。

私たちは儒教といえば道徳を説いたもののように思いますが、中国のそれは思想大系のようです。神道には特に教義はありませんが、日本の神道は中国の儒教に相当する思想大系でもあるようです。そして両者に共通することは氏族の宗廟祭祀を行なうことです

今日では宗廟祭祀は仏式で行なうのが一般的になっていますが、これは儒教と神道・仏教が融合したことによるようです。今の神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖先を神として祭る宗廟祭祀の場でした。

その宗廟祭祀を主催することで中国を統治していたのが周王でした。姫姓の諸侯は宗廟祭祀を主宰することはできず、そのほかには周王と諸侯の間の差はありませんでした。孔子は周王の統治を理想としましたが、このことと倭王、つまり天皇の統治とが重複して考えられるようになって、現在にみられるような神道なり神社になるのでしょう。

兵庫県川西市加茂遺跡は猪名川右岸の台地上の中期を中心とする集落遺跡で、東と北は高さ20メートルの崖、西と南は数条の壕で囲まれており、集落中心域は8ヘクタールに及びます。集落中心部には延喜式内社の鴨神社が鎮座し、そばで中期後半の大型建物の部分遺構(10,5×4,5メートル)が発見されています。

遺構は神社の敷地に連なっていて、遺構の上に社殿が建てられています。建物遺構から3メートル離れて厚さ5センチ、幅30センチほどの板がならべられた、竪板塀が囲んでいた痕跡があり、神社の玉垣のような構造が考えられています。

遺構の上に社殿が建てられているのは、弥生時代中期以来現在に至るまで、この地で祖先祭祀が行なわれ続けたということであり、神社が中期後半に存在していたということでしょう。最近では神殿と考えられる大型の建物が相次いでいますが、中期後半以前にはこのような大型の建物は造られていないようです。

加茂遺跡の東の崖下からは明治44年に銅鐸が出土していますが、栄根銅鐸と呼ばれているその銅鐸は高さ3尺5寸(約106センチ)の袈裟襷文で、最終末期の突線鈕Ⅴ式です。この銅鐸については大場磐雄氏の『銅鐸私考』に見解が述べられています。

大場氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神之後也」とあり、この地に鴨神社が鎮座していることから、この銅鐸を使用した人々は賀茂氏の一族で、祭祀に携わった「鴨部祝」だったとしています。

銅鐸は最終末期の突線鈕Ⅴ式で、大型建物跡は中期後半のものとされていて時期が合いませんが、銅鐸は現在の本殿の下にあるであろう、中期後半のものとは別の建物に安置されて、賀茂氏の遠祖が宗廟祭祀を行っていたと考えることができそうです。

ここでは鴨神社を例にしていますが、神社の境内から出土した青銅祭器は意外に多く、神社が所蔵するようになった由来の分からないものもあります。その中には記録が残っていないのではなく、埋納されることなく伝世されてきたものもありそうです

2010年9月6日月曜日

神社 その3

弥生中期後半(1世紀)になると江南から流入してきた神道の原形に儒教が融合するようです。周王の姓は姫氏ですが周王は姫氏の宗廟祭祀を主宰する特権を持っていました。姫姓の諸侯は宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主宰することはできません。

周王と諸侯の違いはそれだけで他には差はなく、時代が下るにつれて宗廟祭祀よりも実力が重視されるようになり諸侯の力が強まっていきます。こうした時代に生きたのが儒学の創始者、孔子でした。

孔子は周王朝による支配が崩れ時代が戦国へと向かう中で、周初期やそれ以前は誰もが自分の立場と義務をわきまえた理想的な社会だったと考え、その時代の道徳を取り戻すことを目標としました。儒学は秦や前漢初期には支配体制を批判するものと見なされ、秦の始皇帝は「焚書坑儒」を行いました。

前漢の高祖、劉邦は成り上がって皇帝になったので倫理思想とか政治思想には関心を持ちませんでしたが、前漢時代も後半になると充実してきた国家の体面を調える必要があり、紀元前136年に武帝が儒教を国家教学にします。

しかし儒教が国教として定着するのは紀元前49年に即位した元帝以後のことです。元帝は儒学の熱心な信奉者で、儒者を登用して孔子の理想とする国を造ろうとしました。元帝の子、成帝の時代にも儒学の図書が整備され儒学の振興が図られました。

紀元8年、王莽は儒学から派生した天人相関説を巧みに利用して前漢王朝を滅ぼして新を建国します。王莽は元帝の甥、成帝の従兄弟ですが、父親が早く死んだので一族のなかでは恵まれない境遇に育ち、熱心に儒学を学び聖人と言われるようになったということです。

新を建国した王莽は前漢の諸制度を否定し、儒学を基本とする制度改革を行おうとします。それは矛盾だらけで大混乱に陥りますが、海を隔てた倭国にもその影響が及んでいるようです。新を滅ぼして後漢初代の皇帝になった光武帝も儒教を重視しました。

元帝から王莽の時代の半世紀は周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われています。儒学が中国の国教として定着したのがこの時期であり、春秋、戦国時代になくなった周初期以前の社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活しました。

それ以後、礼は中国で生活する人々の具体的な社会的行動規範になっていきます。全ての行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされました。

礼は徳という考えと結び付き、礼を遵守して徳のあるのが中華であり、礼を知らず徳のないのが夷狄とされました。これが中華思想、あるいは華夷思想で、中華と夷狄とを区別する思想ですが、華夷思想によって中華と夷狄を区別したままだと中国は孤立してしまいます。

区別された中華と夷狄を再び結合させるのが王化思想で、夷狄は中国の皇帝の徳を慕って貢ぎ物を献上してくるのであり、夷狄に徳を及ぼすことによって中国の支配が広がって行くと考えられました。その結果、皇帝の徳が礼を知らない夷狄を礼に従わせるようになるのであり、冊封した諸国には礼があるとされました。『魏志』東夷伝の冒頭に次ぎのように記されています。

これらは(東夷諸国は)夷狄の国々であるが礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、夷狄にその礼を求めることも実際にあり得るであろう

この文は『三国志』の編纂者、陳寿の(あるいは中国人の)夷狄に対する考え方、期待感が現れていて興味深いものがありますが、中国で礼(君臣関係の秩序)が失われることがあっても、その時には礼を知っている夷狄に、礼を保つように求めることもあり得るというのです。

この文は東夷が礼を知っていることを述べていますが、その中には倭人も含まれます。これを倭人が儒教の礼を知っていると解釈するか、あるいは礼を君臣関係の秩序という意味に解釈するかで違いが出てきます。

西嶋定生氏は「東アジア世界」を特徴付けるものとして漢字・儒教・仏教・律令制の四つを挙げ、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしているとしています。冊封体制には宮廷の儀式が伴い、それには礼を実践することが求められるので、冊封体制に組み込まれた倭人の間に礼の観念が流入してくることが考えられます。

それを倭人が儒教の教義の礼として認識していたか、あるいは外交儀礼の礼式として実施していただけなのかが問題になりますが、私は儒教の教義と認識していたわけではないが、無意識に儒教を受け入れていたと思っています。

2010年9月1日水曜日

神社 その2

古代中国の越は浙江省・江蘇省・安微省・山東省の一部、及び福建省にまたがる地域の先住民で、海に依存する度合いが高かったと言われています。その文化は相当に高度なものでしたが、特徴は稲作を行ない、青銅器を使用し、漁労文化を発達させたことでした。

また前漢から後漢時代にかけて、黄河流域の漢民族が江南(揚子江流域以南)へ移住しますが、追われた越人の一部は船を家として漁業や真珠採集を行なう蛋民や、雲南のイ族、タイ東北部のクメール族、北部のルー族、あるいはミャンマー奥地の少数民族になると言われています。

岡正雄・宮本常一氏などは、江南の文化と倭人の文化の類似性を考察しています。岡氏は中国の春秋時代以降の呉・越の抗争期や、紀元前330年ころの越の滅亡で、江南の民が難を避けて東シナ海を渡って日本列島に移り、それが弥生文化の形成に関与しているという構想を提示しています。(『日本文化の基礎構造』)

岡氏はその特徴を年齢階層によって村落が秩序づけられること、若者宿・娘宿・月経小屋が存在していること、また海幸・山幸の神話があり、稲作に関係する宗教儀礼や観念があことなどをあげています。それが日本列島に伝わり弥生文化になるというのです。

越では印文土器(印文陶)が作られましたが、色調や叩き目(印文)が古墳時代の須恵器に似ていることや、器形のはっきりしない破片であることから認定は難しいが、沖縄県下田原遺跡、長崎県福江市戸岐浦、大分県日出町佐尾などでそれと思われるものが出土しています。

倭人伝は倭人の風習が・膽耳、朱崖(広東省海南島)と同じだと述べていますが、越文化の特徴である稲作・青銅器の使用・漁労文化は倭人の文化の特徴でもあります。ことに稲作が始まることと、青銅器が神聖視されて祭器に変化することは弥生時代を象徴する現象になっています。

越(東南アジア少数民族)の文化には祖先崇拝を始めとして、物に宿る聖霊を崇拝するアニミズムや、巫女(みこ、女の霊媒者)・覡(かんなぎ、男の霊媒者)が下す神意を尊重するシャーマニズムがあります。タイのクメール族・ルー族には神祠(ほこら)や鳥居、鳥形なども見られ、雲南のイ族には虫送りの風習や、相撲や闘牛が見られるといいます。

卑弥呼の鬼道については道教との関係が言われていますが、日本のシャーマニズムの研究は北方のツングース系の巫女・覡から始まったのでどうしても北方のものと考えられ勝ちですが、南方系の稲作と結びついたシャーマニズムとの関係を考えるべきでしょう。

越(東南アジア少数民族)の文化には弥生文化と共通する点がありますが、それには神祠や鳥居があり、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」があることに注意する必要があるようです。私は日本の青銅祭器も祖先の霊の依り代である「神体」だと考えています。

弥生文化といえば朝鮮半島を介した漢人との関係が強調されています。越が滅亡した紀元前4世紀には燕の昭王が遼東など5郡を設置し、箕氏朝鮮との接触が始まりますが、遼東郡の設置が弥生時代の始まりに何等かの関係のあることは事実でしょう。

しかし遼東方面は気温が低くアワ・ヒエ・小麦の文化圏ですが、稲作は東南アジアモンスーン地帯のものです。神道は北方のアワ・ヒエ・小麦の文化ではなく、稲作に関係する南方系の宗教儀礼であり観念だと考えられています。

漢人は北方の騎馬民族との関係が深く馬の文化を持っていたのに対し、越は船を持ち漁労に長けていました。いわゆる「南船北馬」ですが、日本と中国・朝鮮半島の間には東シナ海や朝鮮海峡があり、海を渡るには馬よりも船が必要です。もっと南方からの船による文化の流入を考える必要がありそうです。

神道は日本独自のものであり、中国大陸や朝鮮半島の文化とは無関係のように思われていますが、いくら島国であっても周囲の影響を受けないわけにはいきません。日本の神社の歴史は越から稲作と共に神道の原型が持ち込まれたことに始まるのでしょう。

青銅器についても越との関係を考える必要がありそうです。青銅祭器は遺棄、または隠匿された状態で出土しますが、北部九州では中細形の段階になっても副葬が続いています。朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫(いわゆる渡来系弥生人)が華北(黄河流域以北)の文化の影響を受けて青銅器を副葬するのに対し、越人の子孫が青銅器を祭器に変える考えることもできそうです。

2010年8月24日火曜日

神社 その1

今回は目先を変えて神社について考えてみたいと思います。邪馬台国や面土国と神社に関係があるのかと思われるでしょうが、神社が現在の形で祭られるようになるについては弥生時代から古墳時代にかけての歴史と無関係ではないようです。

倭人伝には「卑弥呼事鬼道能惑衆」とありますが、私は鬼道を古神道の主要々素になっていたシャーマニズムだと考えています。王となってからの卑弥呼を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが「辞を伝え飲食を給仕」するために、彼女のもとに出入りをしていたとありますが、この男子はサニハ(審神者)のようです。

日本ではお寺の檀徒であると同時に神社の氏子でもあることが多いようですが、神道は日本の民族宗教と言えるでしょう。神社には氏神・産土神・鎮守神などがありますが、元来は氏族がその祖を神として祀る氏神の祭祀が中心でした。

江戸時代になると山崎闇斎が垂加神道を唱えましたが、垂下神道は天照大神への信仰とその子孫の天皇が統治する道を神道とし、天皇崇拝、皇室の絶対化を強調したものでした。これらの思想は本居宣長の復古神道に受け継がれます。

ここで述べようとしていることは山崎闇斎や本居宣長の考えとは別の次元のことであり、純粋に歴史学の面から見てみようというものです。しかし私は神道は儒教の影響を強く受けていると思っています。

国学院大学教授の佐野大和氏は神道の発生、成育を表のように纏めておられますが、神道の発生期を弥生文化期とされています。この時期に儒教が中国の国教になりますが、中国と倭人との交流も始まります中国との交流を通してそうとは知らずに儒教を受け入れていた考えています。

表の大場説とはやはり国学院大学教授で「神道考古学」の提唱者大場磐雄氏の説ですが、大場氏は神道の発生期を弥生時代とするか、古墳時代とするか決めかねていたということです。私は大場氏の「神道考古学」という考え方に関心を持っています。

第二次世界大戦以前の神道は山崎闇斎や本居宣長・平田篤胤などの影響を強く受けていましたが、終戦後にその反動がきます。考古学に関してもそれが顕著で、津田左右吉の神話は史実ではないとする説が闊歩するようになります。

私が「神道考古学」という考え方に関心を持つようになったのは、島根県加茂岩倉遺跡で全国最多の銅鐸39個が出土したことがきっかけになりました。それまでは大場氏のことも「神道考古学」という考え方のあることも知りませんでした。

大場氏はその著作『銅鐸私考』で銅鐸を使用した氏族はカモ氏・ミワ氏などの「出雲神族」だとし、出土地と両氏に関係があることが多いとしています。「出雲神族」とはオオクニヌシに系譜の連なる氏族と言う意味だそうですが、当時、その「出雲神族」の多い出雲国にはほとんど銅鐸が見られませんでした。

その出雲国の、しかも加茂から39個もの銅鐸が出土したのです。今では出雲国の銅鐸は53個になっています。出雲国の銅鐸のほとんどが加茂岩倉に集まっていたために、出雲国には銅鐸が無いように見えたのです。大場氏の予見が的中しました。

大場氏の『銅鐸私考』はその後無視されていましたが、加茂岩倉遺跡の発見で脚光をあびることになります。しかし考古学会がこれを認めているかと言うとそうでもなさそうで、相変わらず津田史学がまかり通っていそうです。その11年前には同じ出雲国の荒神谷遺跡で総数380という大量の青銅祭器が出土しています。

古代出雲国を考える時、大場磐雄氏の「神道考古学」という考え方は有効ではないかと思っています。右欄の「私の考え」は統治形態と神道の関係を見てみようというものですが、その始原は稲作の流入、つまり弥生時代の始まりと一致すると思っています。

そして『古事記』『日本書記』が神道の「聖典」と言われるようになり、現在の神道なり神社なりの形になってくるのだと思います。

2010年8月17日火曜日

部族 その5

57年に奴国という部族国家の首長が遣使して、後漢から「漢倭奴国王」に冊封され、初めて倭人の王が出現します。107年には面土国という部族国家の首長の帥升が倭国という部族連盟国家の盟主として遣使し、「倭国王」の称号を授けられます。

さて卑弥呼ですが、卑弥呼は銅矛・銅戈を配布した部族に共立されて倭国という部族連盟国家の盟主になり、魏から「親魏倭王」冊封されますが、邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の首長(王)ではありません。邪馬台国の首長は倭人伝に見える「大倭」であろうと思っています。

倭人伝は当時の日本を女王国、倭国、女王、倭、倭人、倭種、倭地という用語で表し、それぞれ特定の意味で使い分けています。女王国は卑弥呼、または台与の支配している北部九州の三〇ヶ国です。そして倭国は倭人伝に三回出てきます。

①その国、もと亦男子をもって王となす。とどまること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という。    
②詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假す
③王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣いるに、郡の倭国に使いするや、皆津に臨んで捜露す                                    

①の倭国は卑弥呼が王になる以前には男子が王だったというのですから、この倭国と女王国は同じものです。②の倭王は卑弥呼ですからこの倭国も女王国です。③は卑弥呼・台与の使者も津で捜露を受けるというのですから、この倭国も女王国と同じです。

西島定生氏は倭人伝に見える倭国は、倭王である卑弥呼・台与と直接に関係のある場合に用いられており、倭国という国号は外交関係だけに用いられるものであるとされています。そしてこの倭国は女王国と同じものです。

漢・魏王朝は冊封体制によって外臣の王の支配する国の面積を稍、つまり王城を中心とする六百里四方(260キロ四方)に制限していました。倭王が少なくとも東日本の半分までを支配すると六百里という限度をはるかに越えます。

冊封体制の目的は周辺諸国を懐柔・分断し、中国に敵対する大勢力の出現を阻止することにあります。その中国が六百里以上を支配する王を冊封することはありません。卑弥呼が支配しているのは北部九州にあった女王国であり、それが倭国です。

古墳時代になると部族連盟国家が統合されて大和朝廷が成立し、民族国家(日本民族の国)の倭国が誕生します。それは270~80年ころのことだと考えていますが、女王国は北部九州にあった部族連盟国家の一つに過ぎません。

また寺沢薫氏の『王権誕生』から引用させていただきます。大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとされ、これを「イト倭国」と呼ばれています。

その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わって、卑弥呼を王とする「新生倭国」(ヤマト王権)が誕生したとされ、奈良県桜井市の纒向遺跡が新生倭国の王都であり、その延長線上に大和朝廷が出現してくるとされます。

『王権誕生』にはこの「部族的な国家」と言う表現が散見され、「部族的国家連合」という表現も見られます。「部族的国家」は政治学者の滝村隆一氏の提唱された考え方だそうですが、寺沢氏はこれを「大共同体」と呼び、「クニ」と片仮名で表記されているようです。

私のいう「部族国家」と寺沢氏の言われる「大共同体」(クニ)とは同じもののようですが、「部族的な国家」は卑弥呼の時代以前の状態の国という意味のようで、私の考える宗族の通婚圏が「部族国家」になるというのとは違うようです。

「部族的国家連合」も同じで、私の考えている部族連盟国家とは違うようです。また「倭国」について、寺沢氏は「新生倭国」を「ヤマト王権」とも呼び、律令時代の大和朝廷の前身が、卑弥呼の時代に始まるとされています。

神話では卑弥呼・台与は天照大御神とされているようです。その五世孫の神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するとされ、部族連盟国家の倭国(女王国)と民族国家の倭国(大和朝廷支配下の倭国)とは連続しているとされています。しかし実質的には別であり、部族連盟国家が統一されて民族国家の倭国になると考えるのがよさそうです。

2010年8月10日火曜日

部族 その4

私は「律令制社会」の前の古墳時代を「氏姓制社会」とし、その前の弥生時代を「部族制社会」とするのがよいのではないかと思っています。「部族制社会」とは部族が首長や王を擁立する社会という意味です。

古墳時代以前については「原始社会」と呼ばれた時代があったようですが、実情に合わず今では「首長制社会」と言われているようです。しかし弥生時代後半には王が出てきますから弥生時代が純粋な「首長制社会」だとは言えません。

首長は土侯とか酋長と言われていましたが、差別用語だということで現在では首長と呼ばれるようになっています。私は日本の王と首長の違いは、首長が中国の冊封体制に組み込まれて王として認められているかどうかだと考えています。

弥生時代前半は部族が首長を擁立し、後半には王を擁立するようになる考えるのですが、そのような意味で弥生時代を「部族制社会」と呼ぶのがよいと思うのです。とすれば57年に奴国王が「漢委奴国王」に冊封される以前には首長は居るが王は居ないことになります。

それは奴国・面土国・女王国のある北部九州に限って言えることであり、他の地方は首長制社会のままだということになります。しかし冊封体制には隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないという職約(義務)があり、冊封体制は自動的に隣国に及ぶようになっていました。

他の地方の首長も王と同じだと考えるのがよさそうです。弥生時代前半までの部族は律令制の郡程度の通婚圏ごとに部族国家を形成したでしょう。部族国家の首長は有力な宗族が擁立しますが、弱小の宗族もその首長の支配を受けたと考えられます。

弥生時代後半になると部族は宗族長など支配者層の母系の親族集団になり、部族は王を擁立するための政治的集団になっていくようです。王の擁立を巡って対立するようになりますが、その部族の集まりを部族連盟と呼び、その国を部族連盟国家と呼ぶのがよいと考えます。

高句麗も部族連盟国家で、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主でしたが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていきました。部族国家は部族が国を形成したものですが、部族連盟国家はその部族国家が統合されて、さらに規模の大きな国を形成している状態だと考えるのがよいと思っています。

倭人伝には戸数千~三千の小国と二万~七万という大国があり、大小三〇ヶ国で女王国が形成されていました。この小国が部族国家であり、女王国が部族連盟国家だと考えるのがよいようです。邪馬台国・奴国・投馬国などの大国は、部族国家が統合されたもので部族国家と部族連盟国家の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。

部族連盟国家は王が支配しますが、王は冊封体制によって支配領域を六百里四方の稍に制限されていたので、部族連盟国家も六百里四方以下に限定されました。しかし部族は王を擁立するが王そのものでもなく、また国そのものでもないので冊封体制の制限を受けません

部族が幾つの稍を支配してもよいし、何人の王を擁立してもよいのです。このことから弥生時代後半には複数の稍に同族が分布していて、複数の部族連盟国家の王を擁立することのできる巨大な部族が現れてきます。

高句麗には5大部族が存在していましたが、倭には4大部族が存在していました。北部九州から中国、四国地方にかけて、銅矛、銅戈を配布した部族があり、東海から中国・四国地方にかけて銅鐸を配布した部族がありました。中国、四国地方には銅剣を配布した部族もありました。  
 
2世紀の北部九州では銅戈を配布した部族が優勢で、面土国王の帥升を部族連盟国家(筑紫)の盟主に擁立しますが、3世紀には銅矛を配布した部族が優勢になります。倭国大乱で盟主の座は卑弥呼に移りますが、このことが銅戈を配布した部族の衰退する原因になっているようです。

弥生後期後半に製作された広形銅矛が増加しているのに対し、広形銅戈が3本ほどと激減しているのはこのことを示しています。面土国王は遠賀川流域の「自女王国以北」の諸国を「刺史」の如くに支配するようになりますが、小数ながら広形銅戈が存在しているのを見ると、銅戈を配布した部族が消滅したのではないようです。

2010年8月4日水曜日

部族 その3

門戸の集合体が宗族ですが、宗族は父系で血縁関係をたどることのできる範囲内の人々の集団です。それは氏族に似ていますが、根本的な違いは宗族の血縁関係が明確であるのに対し、氏族は不明確だということです。

そのために宗族には明確な始祖がありますが、氏族には明確な始祖はなく、神話・伝説上の始祖がいます。前回に述べた罪を犯して消滅した宗族を吸収した場合や、あるいは集落が複数の宗族の構成員で形成されているなど、始祖や血縁関係が明確でない時に神話・伝説上の始祖を持つ氏族が生れます。

日本の古代氏族については、大和朝廷の支配機構と見る考え方と、血縁集団と見る考え方があり、支配機構と見る考え方は昭和初期に津田左右吉が初めて提唱し、その後の研究に大きな影響を与えました。津田左右吉の考え方によれば大和朝廷成立以前の日本には氏族は存在しないことになります。

中国の5大姓の一つ、劉氏の現代の人口は6千580万人という巨大なものですが、中国の氏族には「同姓不婚」の不文律があります。氏族にしても宗族にしても父系の血縁集団ですから同族間の通婚は許されず、他の宗族と通婚します。徒歩以外に交通手段の無かった時代ですから通婚圏は限定されます。

宗族間の通婚が重なるうちに通婚圏が形成されますが、部族の原形は宗族の通婚圏であり、それは縄文時代にも存在していたでしょう。この部族を形成する通婚圏が弥生時代中期に「国」になると考えています。それは律令制の郡の原形でもあるようです。

後期後半の女王国は30ヶ国で構成されていました。投稿の『再考、国名のみの21ヶ国』で述べましたが、筑前を三郡山地で東西に2分した時の西側の10郡ほどを邪馬台国と考え、奴国は東側の3郡と考えています。投馬国は筑後の10郡だと考えます。残りの27ヶ国は律令制の豊前・豊後・肥前の佐賀県部分の郡と一致するようです。

紀元前1世紀に倭人の百余国が遣使していますが、この百余国の個々が後に律令制の郡になると考えられます。この時点では筑前西半の10郡ほどが統合された邪馬台国や、筑後の10郡が統合された投馬国などの大国は存在していなかったでしょう。

こうした大きな国が出現するようになるのは百余国の遣使以後のことで、冊封体制では支配する国が大きいほど高位の爵号を授けられることを知ったことが原因になっているようです。支配する国が大きいということは支配する宗族も多いと言うことですが、弥生時代後半には部族は急速に巨大になっていくようです。倭人伝に次の文があります。

其の国の俗は、国の大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦。婦人は不淫、不妬忌

有力者は皆、4・5人の妻を持ち、さほど有力でない者でも2・3人の妻を持つ者がいるというのです。この多妻については大人階層に女性の労働力が必要だったからだという説や、戦争で男性が死んだために男性が少ないからだという説があります。

妻が多いことは通婚によって同族関係の生じた宗族が多いということで、それだけ権力が強くなるということです。多妻によって部族の規模が大きくなっていき、時代が下るにつれて文化的集団であったものが政治的な集団に変わるようです

部族が政治的な集団に変わったことにより宗族の形態も変化し、より政治性が強く始祖の不明確な氏族に替わっていくのではないかと思われます。多妻は支配者階層の義務であり、多妻を理由にした女性の浮気・嫉妬はタブーになっていたのでしょう。

部族は弥生時代後半には宗族長層の通婚によって結合する、言ってみれば支配者層の母系の親族集団になるようです。宗族の始祖と部族の間には父系の血縁関係はありませんが、宗族は父系の血縁集団ですから部族も父系の結合体である必要がありました。

中国の氏族には三皇・五帝のような神話・伝説上の始祖がありますが、部族も神話・伝説上の部族の父系始祖を持つようになります。こうして部族と宗族とが父系で結びついていると考えられるようになっていきます。

そして部族は通婚関係の生じた宗族に青銅祭器を配布するようになります。青銅祭器は創作された部族の始祖の依り代(神体)であると同時に、配布を受ける側の宗族にとっては宗族の始祖の依り代でもありました。宗族は青銅祭器を神体とする宗廟祭祀を行ないました。

倭人も神話上の始祖を持つようになります。最初からそう呼ばれていたのではないでしょうが、銅矛を配布した部族の始祖はイザナギになります。銅戈を配布した部族の始祖はスサノヲであり、銅鐸を配布した部族の始祖はオオクニヌシです。

銅剣を配布した部族の始祖は女神のイザナミですが、始祖は男性でなければならないので、ヤマタノオロチの神話でスサノヲとされるようになります。銅戈を配布した部族の始祖のスサノヲが高天が原で活動するのに対し、銅剣を配布した部族の始祖のスサノヲは出雲で活動することになっています。

2010年7月29日木曜日

部族 その2

元来の部族は宗族が通婚することによって形成された地縁・血縁的な統一体だと思われますが、三世紀中ごろには中国の妻子・門戸、宗族に相当するものが存在していました。妻子は一つの家屋に住む男の妻とその子供を表していると考えられ、中国ではこれを房と言っています。

房の集まりが家ですが、中国では父母とその子、および既婚の息子とその妻子が集まってできた集団を家と言っており、日本の長男以外が別の家を構えるのと違い、家族の範囲が広いようです。このことを思わせる文が倭人伝に見えます。

「屋室有るも父母・兄弟は臥息処を異にす」

父母と兄弟は寝る場所を別にするというのですが、竪穴式住居だと父母と兄弟は別の竪穴で寝起きしていたことになります。中期の福岡市比恵遺跡では30メートル四方ほどの溝で囲まれた区域内の5基の竪穴式住居のうち、4基が同時に存在していた可能性があるということです。

図は鏡山猛氏の『北九州の古代遺跡』からお借りしたものです。私の素人考えですが、この場合1号竪穴が父母の住居であり、2.4・5号竪穴が既婚の息子とその妻子の住居ということになりそうです。

3号竪穴は父母が最初に建てたものだが、子供が生れて手狭になったので1号竪穴に建て替えられ、1号竪穴にはその後も父母が住んでいたと考えることができそうです。

倭人伝に見える妻子とは一基の竪穴に住む男の妻子と言う意味でしょう。そうした竪穴住居が3~4基集まって「家」を形成していたと考えられます。それは「父母・兄弟は臥息処を異にす」とあるように、親子・兄弟の関係にあったと考えられます。

鳥取県妻木晩田遺跡は総面積170ヘクタールの微高地上の遺跡ですが、今までに1千基に近い建物が発見されています。最盛期の後期には1600~5000平方メートルほどの比較的に平坦な場所に、竪穴住居3~4基と掘建柱建物2~3基で小集落が形成されていることが観察されています。

これを居住単位と呼んでいますが、妻木晩田遺跡では25ほどの居住単位が確認されています。比恵遺跡は妻木晩田遺跡と違い水田地帯の遺跡ですが、溝で囲まれた区域内の5基の竪穴式住居も居住単位なのでしょう。

倭人伝には記述がありませんが、妻子と門戸の間に中国の家に相当するものがあり、これが居住単位であることが考えられます。竪穴住居1基に5人が住んでいたとすると居住単位には15~20人が居たことになります。

比恵遺跡には30メートル四方ほどの溝で囲まれた区域が四ヶ所あり、一つの集落を形成していましたが、単純計算では全体で60~80人が住んでいたと考えることができそうです。妻木晩田遺跡の妻木山地区と呼ばれている区域の居住単位群でも70~80人という数が考えられています。

倭人伝を見ると対馬国は千余戸、末盧国は四千余戸とされているのに対し一大国は三千家、不弥国は千余家とされていますが、この戸と家はどう違うのでしょうか。戸は住居数であり、家は居住単位(家)数ではないでしょうか。
 
倭人伝に見える門戸は、居住単位(家)が結びついた親族集団で、比恵遺跡は比較的に短期間に営まれた門戸の集落のようです。歴史の古い大きな門戸の場合には、いわゆる分村が起きますが、考古学では中心になる大きな集落を母村(母集落)と呼び、小さな集落を子村(子集落)と呼んでいます。

この母村(母集落)と子村(子集落)の関係が、宗族と門戸の関係・形態を表していると考えられます。子村から孫村が派生し、歴史の古い宗族は規模が次第に大きくなっていくのでしょう。この呼称は母系が想定されていますが宗族は父系の始祖が同じであることにより結合したものです。

倭人伝にも見えるように逆に門戸が滅ぼされ宗族が消滅することもありましたが、消滅した門戸・宗族はどうなるのでしょうか。後世の物部氏などの例から見て再興されることもあったが、多くは他の宗族に隷属したのではないかと思っています。

2010年7月24日土曜日

部族 その1

今回もまたすでに述べたことの繰り返しになります。私は『魏志』倭人伝・青銅祭器・神話・部族は相関々係にあると考えています。さらに部族との関係から六百里四方の「稍」や、中国の冊封体制を考えてみる必要があるとも思っています。

ところが「部族」のことがほとんど問題にされていません。寺沢薫氏の著作『王権誕生』は分かりやすくて説得力があります。度々引用して恐縮ですが、また『王権誕生』から引用させていただきます。

寺沢氏は大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の「部族的な国家」の連合体だとし、イト倭国の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められ、卑弥呼を王とする新生倭国(ヤマト王権)が誕生したとされています。

この「部族的な国家」とはどのような国家を言うのでしょうか。別の深い意味もあるようですが、卑弥呼の時代と比較して未開、ないしは遅れている状態を「部族的」と表現されているように思われます。

部族という場合、こうした意味で使用される例が多く、アメリカ・アフリカ・オーストラリア原住民などの未開な社会が思い起こされます。これが定着しているために部族は差別用語であり、日本に部族が存在したなどとは思いたくないという先入観があるように感じます。

しかし東夷諸国には部族が存在していました。『魏志』高句麗伝によると、高句麗の有力な部族には桂婁部、消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部の五部族があり、初めは消奴部の部族長が部族連盟の盟主だったが、支配体制が整うにつれて桂婁部の部族長に権力が移っていったということです。

夫余では有力な部族長は馬加・牛加・猪加・狗加などと家畜名で呼ばれていました。加とは部族長を意味しその下に宗族長がいます。辰韓では土着の金と流移民の朴、昔などの宗族が結合した斯盧族が優勢でしたし馬韓では伯済族が知られています。

日本でも弥生時代に部族が存在したことは考えられてよく、その痕跡も見られます。社会人類学では部族をトライブと言っていますが、その定義では部族は共通の言語や祭神を持ち、一共通領域を占有し、同質の文化、伝統を持つ人々の集団とされています。

定義を持ち出すと分かりにくいのですが、通婚することで形成された地縁・血縁的な統一体が、擬制された共通の祖先を持ち、その祭祀を行い、方言で会話すると、それが部族だと考えればよいのでしょう。

少しニュアンスが違うようですが「首長制社会」に近いと考えればよいとも思っていますが、ここで言う部族は宗族(氏族)と民族の中間に位置する「擬制された血縁集団」であって、文化の遅れた集団という意味ではありません。
 
中国の氏族はクランと呼ばれるものでトライブ(部族)ではありませんが、よく似ていて氏族統一の象徴として神話・伝説上の始祖を持ち、また祖先を祭る宗廟を持っており、宗廟には「神主」と呼ばれる日本仏教の位牌に相当するものを安置して厳格な宗廟祭祀を行っていました。

神話や伝説で同族とされているのではなく、実際に血縁関係のたどれる集団がリネージですが、中国の宗族はリネージに当たります。姓の異なる宗族が連宗(宗族が合流すること)することもありますが、そうした宗族はリネージを擬制したクランであり、形態は宗族でありながら、実態は氏族という巨大な宗族が存在していました。

『魏志』倭人伝は倭人社会にも宗族(リネージ)が存在していることを述べています。

其の法を犯すに軽い者は其の妻子を没し、重い者は其の門戸を滅し宗族に及ぶ。

文中に親族関係を表す妻子、門戸、宗族が出てきますが、三世紀中ごろの倭人社会に、中国の門戸、宗族に相当するものが存在していました。倭人社会には中国の氏族に相当するものは存在していなかったようですが、それに代わるものが部族です。

紀元前108年に前漢の武帝が楽浪など4郡を設置して以後、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれますが、弥生時代後半には中国の氏族の影響を受けた部族が出現してくるようです。

2010年7月18日日曜日

倭面土国 その4

前々回に述べた「第3の読み方」が可能であれば、一大率のいる伊都国とは別に、「刺史の如き」者のいる国があことが考えられます。西嶋定生氏は面土国の存在を疑いつつも「倭面土国」という記載が存在する以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになる」とされていました。

「刺史の如き」者のいる国が面土国であることが考えられます。西嶋氏は「倭面土国王」の記事のある『翰苑』は唐初期に成立し、『通典』は唐中期以後に成立していることなどから、唐代初期に倭国をヤマト国と言うようになり、それに「倭面土」の文字を当てたとされるようになります。

それが誤記されて倭国王帥升が「倭面土国王」とされるようになっのであり、2世紀に面土国という国が存在したというのではないとされます。西嶋氏は帥升を伊都国王だと考えられていたようですが、西嶋氏は文献史学界の重鎮であり、一般通念では権威者が言ったことはそれだけで正しいと受け取られます。

現在では寺沢薫氏がこの考えを継承されていますが、寺沢氏も現在の考古学会の権威です。そうした中で私などがいくら面土国の実在を主張してみても認められることはないでしょう。「第3の読み方」は私が考えているだけの独自の読み方ですが、この読み方が可能なら帥升を伊都国王ではなく面土国王とすることができます。

倭人伝は伊都国について「世有王、皆統属女王国」と記していますが、これが帥升を伊都国王だとする根拠にはなりそうもありません。帥升を伊都国王とする説は「そう考えることもできる」という程度の仮定に過ぎず、何等の根拠もありません。

倭人伝に面土国の名があれば問題はないのですが、伊都国の名は見えるものの面土国の名は見えません。しかし国名こそ見えませんが「第3の読み方」が示すように、倭人伝の記事の多くは、正始8年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞です。

倭人伝の対馬国から邪馬台国までの8ヶ国については全体を直線行程と見る説と、伊都国以後は放射行程とする説があります。伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文字・文が見えないことから、高橋善太郎氏は末盧国までが直線行程で、伊都国以後は末盧国を起点とする放射行程だとしています。

これは張政は末盧国までは来ているが未だ伊都国には至っていないということであり、末盧国と伊都国との間に張政の現在地があるということです。対馬国から末盧国までは「従郡至倭」の行程中の国であり、伊都・奴、不弥の3ヶ国は「自女王国以北」の国です。正始8年の張政の現在地はその接点になります。

それは「従郡至倭」の行程中の国でもなく、かといって「自女王国以北」の国でもないという、地理記事の中では中途半端な位置づけになっています。このために倭人伝に面土国という国名を記す場所がなく倭人伝にその名が見えません。

このことは倭人伝だけに限ったことではなく、東夷伝の地理記事全体について言えることです。先に「稍」という考え方に絡めて各国の地理記事を考察してみましたが、参考にしてみてください。方位・距離の起点は郡冶所や国都などの「中心地」ですが、その起点が明示されている例はまったくありません

ことに挹婁伝の「夫余の東北千里に在り」などは正始6年の毌丘倹による高句麗再討伐の際の、玄菟郡太守・王頎の行動経路が分からないと、その方位・距離の起点が分かりません。挹婁伝の「東北千里」は、夫余王の国とその季夫父子の国とが別の国だと考えないと理解できません。

倭人伝の場合も同様で伊都国以後の諸国の方位・距離の起点になっている場所の名が書かれていません。その張政の現在地が面土国であり、それは筑前宗像郡です。捜露が行われたのは宗像市田島の宗像大社辺津宮の位置だと考えています。

宗像大社神宝館前の駐車場にある万葉歌碑付近に浜殿があったことが伝えられていますが、浜殿は船が祠になったもののようで、張政の乗った船もこのあたりに着岸したのでしょう。その捜露が行われた場所に、後に宗像大社の辺津宮が創建されるようです。

2・3世紀に面土国が存在したのであれば、このようなことも考えられるようになりますが、それは宗像大社に係わる神話や、北部九州に見られる銅矛・銅戈などの青銅祭器にも関係してくるようです。

2010年7月10日土曜日

倭面土国 その3

通説では国々に市場がありそれを大倭が管理しており、また女王国の北部には一大率が置かれ諸国を検察しているが、諸国はこれを畏憚しており、一大率が諸国を検察している様子が、あたか中国の刺史のようだというふうに解釈されています。

最初にこのように解釈したのは誰なのかは知りませんが、これはたいへんな誤解です。私見では東洋史の植村清二氏が同様のことを述べています。(『東方学』「魏志倭人伝の一説について」一九六一年)

植村氏は大和にいた大倭が、北九州の伊都国に一大率を派遣して「自女王国以北」の諸国を検察させており、その有様があたかも刺史のようだとしています。この解釈は現在でも通説として罷り通っていますがこの解釈はおかしいと言わざるを得ません。

前漢の武帝が設置した刺史の秩禄は六百石で、主として担当する州内の土着豪族と郡県の官吏の癒着を巡視・検察し中央政府に報告することを任務としていました。そのような意味では前漢代の刺史と一大率は似ているといえます

前漢時代の刺史は司察官で行政権も軍事権も持っていませんでした、任務の性格が中央政府と結び付いていたので権力が強まり、前漢末の成帝の時代には「州牧」と呼ばれるようになり郡太守よりも上位になります。

魏・晋時代の刺史は最高位の地方行政官で、二千石の大夫が任命される州の長官になり、都督諸軍事の資格を持ち軍事権を持つ者もいました。ちなみに幽州刺史の毋丘倹は、公孫淵を討伐するについて度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の武官位を加えられています。

確かに前漢時代の刺史は皇帝に直属して郡県を検察していたので郡県が畏憚したかもしれません。しかし毋丘倹の例にも見られるように魏・晋時代の刺史は州の長官であり、強大な軍事権を付与されることもあります。

前漢時代の刺史と魏・晋時代の刺史の性格は全く違います。このことは『三国志』の編纂者の陳寿自身が『魏志』巻十五の評語で、後漢時代以後の刺史は諸郡を総統する行政官であって、前漢時代の監察だけを行っていた司察官の刺史と同じではないと述べています。

その陳寿が2~300年も前の前漢時代の刺史を引き合いに出して一大率を説明することはあり得ません。魏・晋時代の刺史は行政権も軍事権も持っていますから郡・県を検察することはなく、郡・県が畏憚することはありません。魏・晋代に郡・県を畏憚させる刺史がいたらそれは余程の酷吏でしょう。

今までに実際に刺史の如き者が居るとしたのは小説家の松本清張氏だけです。松本氏は一大率を魏の派遣官だとし、伊都国、邪馬台国以外の28ヶ国にそれぞれ刺史のような役人がいて国内を検察しており、それを伊都国にいる一大率に報告しているのだとしています

刺史の如き者が伊都国以外の国にいるとしたことは正しいと思いますが、前漢代の刺史が州内を検察していたことに気を取られて、魏・晋時代の刺史が州の長官であることに気付いていません。このことは通説についても言えることです。

28ヶ国は中国の郡・県に相当すると思われ、少なくとも州には相当しません。魏・晋時代の刺史は中国にあった14の州の内、首都圏以外の13の州の長官で、前漢代のそれとは全く性格が違います。28ヶ国に州の長官である刺史の如き者がいるはおかしなことです。

「於国中有如刺史」とは国内に刺史の如き者が居るということですが、国中とはどの国のことをいうのでしょうか。一大率のいる伊都国とは別に国があり、その国に州の長官のような刺史の如き者がいると考えないといけません。西嶋氏がかつて述べられていたように、この国こそ面土国と考えるのがよいでしょう。

「於国中有」の国を女王国と見ることも可能です。その場合には女王支配下の30ヶ国に何人かの刺史の如き者が居ることになります。しかしこの部分は「自女王国以北」の諸国のことが述べられ、津で捜露がおこなわれているのですから、刺史の如き者が居るのも「自女王国以北」だけだと考えるのがよさそうです。

卑弥呼は倭国に大乱が起きて共立されますが、大乱以前の70~80年間、面土国王は倭国王として君臨しました。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持していたようです。それが 「自女王国以北」の諸国(筑前の遠賀川流域)を州刺史の如く支配し、女王の行なう中国・朝鮮半島との外交を捜露することに現れているようです。

2010年7月4日日曜日

倭面土国 その2

西島定生氏は「倭面土国」という記載が存在する以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされていましたが、後にこの考えを否定されるようになります。しかし、面土国の存在を否定しても倭国王帥升の遣使は否定できません。そこで帥升を伊都国王・奴国王とする考えが登場してきます。

倭人伝に見える大倭とは大倭王のことで、大倭王は奴国王であり、帥升を奴国王だとする説があります。また最近では寺沢薫氏が畿内説の立場から帥升を伊都国王とする説を発表されています。

面土国という国が存在したということと、その国が伊都国、奴国だというのではまったく意味が違ってきます。2・3世紀の倭国、換言するなら卑弥呼前後の倭国を考える上で、面土国を徹底して解明する必要があります。

租賦を収むるに邸閣あり。国国に市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ける?)刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に至り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王にいたらしめ、差錯するを得ず

この文は何処までを一節と見るかで意味が変わってきます。

第1の読み方
「収租賦邸閣、国国有市交易有無」までを一節と見て、以後の「使大倭監之、自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚、常治伊都国、於国中有如刺(以後略)」を別の節とするもの

第2の読み方
「租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之」までを一節と見て、以後の「自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚、常治伊都国、於国中有如刺史(以後略)」を別の節とするもの

第3の読み方
「収租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之」までを一節と見て、以後の「自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚、常治伊都国」までを別の節と見る。さらに「於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露(以後略)」は前の2節とは別の節とするもの、

第1の読み方と第2の読み方の違いは、「使大倭監之」の「之」を市や交易にかかる文字と見るか、あるいは一大率にかかる文字と見るかの違いす。第1の読み方は東洋史の植村清二氏の説で、大倭は一大率を統括しているのであって、租賦を収めるための邸閣や交易と大倭とは関係がないと解釈されています。

一般的には第2の読み方がされており、大倭は市場や交易を管理しており、一大率は「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に検察していると解釈されています。しかし面土国が存在しているのであれば、第3の読み方を考えなければならなくなります。この点についてはすでに昨年の7月10日と27日の「邪馬台国と面土国 その6」に投稿しています。

文中に「於国中有、如刺史」とありますが、「於国中有」は「国中に於いて有り」あるいは「国中に於ける有り」と読み下され、通説になっている第2の読み方ではその国は伊都国だとされています。一大率は伊都国で「常冶」しているのですから、第2の読み方では伊都国以外には考えようがありません。

ここで発想の転換が必要なようです。そうだとすると「於国中有」の4文字は必要がなく「常治伊都国。如刺史」でよいはずであり、特に「有」の一字は全く必要がありません。「於国中有」の4文字が無ければその国を通説のように伊都国とすることができそうですが、有れば刺史の如き者のいる国と一大率のいる伊都国とは別の国ということになります。

このように考えると第3の読み方が可能になってきます。「有」は一大率のいる伊都国とは別に国が存在しているという意味だと考えなければいけません。つまり一大率は伊都国にいて諸国を検察しており、刺史の如き者は伊都国以外の国にいて女王の行う外交々渉を捜露しているのです。通説は「於国中有」を完全に無視しています。

帥升を奴国王とする説もありますが、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるという、以前の西島氏の考えに従うと、その国は奴国ではなく面土国ということになります。「津に臨みて捜露し」とありますが、津とは港のことだと考えてよいでしょう。この津が面土(ミナト)という国名の起源の港であることが考えられてきます。

2010年7月1日木曜日

倭面土国 その1

昨年6月に投稿を始めて今回で149回目になります。さすがに書き尽くしたようで同じことの繰り返しになりそうです。しかし強調すべきことは強調しなければならないと思い直して、倭面土国(倭の面土国)のことを、繰り返しになりますが述べてみます。

内藤湖南は「倭面土国」を「ヤマト国」と読み、大和国のことだとしましたが、それに対し白鳥庫吉は「倭の面土国」と読んで伊都国のことだとしました。面は回の古字の誤りで「回土国」が正しいとし、その音が伊都に似ているというのです。

また橋本増吉はやはり「倭の面土国」と読んで末盧国のことだとしました。通説では末盧国は佐賀県東松浦半島付近とされていますが、『日本書記』に神功皇后が松浦郡の玉島川で鮎を釣って「珍しいものだ」と言ったので「梅豆羅国」と呼ばれるようになり、それが訛って松浦になったという地名説話があります。

橋本増吉は「梅豆羅」と「面土」の音が似ているとしていますが、白鳥庫吉の伊都国のことだとする説と同様に語呂合わせに過ぎないようです。

問題は「倭面土国」と読むのがよいのか、「倭の面土国」と読むのがよいのかということですが、57年に遣使した「漢委奴国王」については「漢の倭の奴国王」と読むのが一般的です。倭人伝などに奴国の名が見えるので「委奴国」などと読む必要がないからです。

それでは「倭面土国」も「倭の面土国」と読んでもよさそうなものですが、内藤湖南の「倭面土国」を「ヤマト国」と読み、大和国のことだとする説が有力です。確かに「倭面土」と「ヤマト」は音がよく似ていますし、倭人伝にも面土国という国名は見えません。

面土国について東洋史に造詣の深い西島定生氏は次のように述べておられます。(『邪馬台国と倭国』、吉川弘文館、平成6年)

私はこの面土国については、いまでも疑問をもっています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができない限り、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。

倭国に大乱が起きたのは後漢の霊帝の光和年中(178~183)だとされています。倭人伝は卑弥呼が女王になる以前の70~80年間は男子が王だったと述べていますが、光和年中から70~80年を遡ると面土国王の帥升が遣使した107年ころになります。

帥升については奴国王だとする説もありますが、帥升が奴国王なら男子が王だった期間は120~130年以上でなければならず、帥升は奴国王ではありません。そこで西嶋氏は奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされています。

この西嶋氏の考えを受けて寺沢薫氏は面土国の存在を否定した上で、帥升を伊都国王だとされています。(『王権誕生』、講談社、2000年)そして卑弥呼共立以前の70~80年間を「イト倭国」と呼び、卑弥呼の時代を「新生倭国」と呼んでいます。

大乱以前の倭国は伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体だったが、その「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められて、ヤマト(大和)に中枢を置く卑弥呼を王とする新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでいます。

寺沢氏は邪馬台国=畿内説を取り、纏向遺跡を卑弥呼の王都とされています。それでは九州説だとどうなるでしょうか。伊都国が中心だったと考えられなくもありませんが、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるという、以前の西島氏の考えに従うと、倭国大乱以前の男王は帥升の孫か曾孫の面土国王だと考えるのがごく自然です。

後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなり、面土国王の倭王としての権威が失墜し大乱が起きたことが考えられます。面土国王は倭国大乱・卑弥呼共立の一方の当事者であり、その最大の当事者だと考えるのが自然です。

西嶋氏は『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)では面土国の存在を完全に否定されるようになり、「ヤマト国」と読む考えに転換されています。そして「面土国は何処に求めるべきであるかなどという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか」と述べられています。

今では面土国の存在を認めようとする専門家はいません。西嶋氏の考えの転換が残念ですが、肝心の倭人伝に面土国の名がないので無理もないことです。(実際には倭人伝の記事の多くは面土国での見聞です)

西嶋氏が奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるとされていることは認められなければならないでしょう。これはその一例ですが、その他にも面土国が3世紀に存在していることを前提にしないと理解できないことが幾つもあります。

2010年6月13日日曜日

親魏倭王 その3

台与は247年か8年に掖邪狗ら20人を洛陽に遣わしますが、台与は卑弥呼の宗女(後継者)とされていますから、卑弥呼と同じ親魏倭王に冊封されたでしょう。ところが掖邪狗らが帰国した後か、あるいはまだ洛陽に居たかも知れない249年に、司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握します。

台与の親魏倭王を保証するはずの魏は、台与が即位して間もなく実態のないものになっていき、265年には司馬氏の晋に乗っ取られてしまいます。それにつれて魏の冊封体制そのものが機能しなくなっていきます。

そこで魏の冊封体制にかわるヘゲモニーが必要になります。それは倭種の諸国を統一して民族国家の倭国を創ろうということでした。具体的には皇帝に相当する大王(天皇)が氏族の族長を支配し、族長が氏族を支配する氏族社会に変えようというのです。

そのためには稍ごとに王を擁立する部族を排除する必要があります。倭人伝の記事は247年で終わり、それから266年まで中国との正式な交渉は途絶しますが、この247年から266年までの間に、部族の統合が急ピッチで進められ、部族は解体され稍も消滅するようです。

こうして大和朝廷が成立しますが、その支配者層が定型化された墓、つまり前方後円墳を築くようになり、古墳時代になると考えられます。それは卑弥呼の時代の体制が発展、解消して誕生したものであり、少なくともそのような認識の元に倭種の諸国の統一が進められるようです。

部族社会が崩壊した後に現れてくるのが氏族を基本にした氏族社会であり、それを統治したのが大和朝廷です。大和朝廷の出現は民族国家の倭国が出現したということですが、部族よりも一回り大きな集団が民族です。民族の定義は次のようになっています。

①伝統的な生活様式を共有する集団である
②「我々」という意識を共有している
③民族は歴史的に生成され変化していくもので、固定したものではない

日本民族という場合、①の伝統的な生活様式を共有する集団であるという点では、モンゴロイドに属す人種で日本語を話し、稲作が経済基盤なので、稲作中心の生活様式を持っているということになるでしょう。

②の「我々」という意識を共有しているとは、「我々は日本民族(倭人)であって、漢民族や韓民族ではない」という意識を持っているということですが、冊封体制は漢民族の民族意識が作り出した世界観に元づくものであり、その中で倭人は東夷の一民族として扱われています。

③の民族は歴史的に生成され変化していくもので、固定したものではないという点は、南九州や東北地方の部族が同化されていくことに見ることができます。『古事記』『日本書紀』では大和朝廷の支配が及んだからだということになりそうです。

倭人は冊封体制の実態を知るにつれて、自分たちが漢民族の民族意識が作り出した世界観の一部に過ぎず、漢人に支配されていることを知ったでしょう。それと共に「我々は倭人という民族であって、漢民族と同じではないではない」という「我々」意識を持つようになるのでしょう。

日本人がはっきりとした民族意識を持つようになったのは、冊封体制に組み込まれたことで漢民族と自分たちの違いに気がついた時点であったと思います。つまり紀元前108年以後のことであり、倭人の百余国が前漢に遣使してからのことでしょう。『古事記』『日本書記』の神話はこの時点で始まるようです。

そして部族が解体されて氏族社会に変わると氏族を支配する大王が出現しますが、これが民族国家の倭国の成立です。同時に部族の配布した青銅祭器は姿を消し、代わって銅鏡を神体とする氏神の祭祀が始まるようです。

卑弥呼・台与は親魏倭王として倭人に邑君・邑長などの魏の官職を与えることができ、印綬に代わるものとして銅鏡を配布したと考えています。その銅鏡が氏神の神体になりましたが、卑弥呼・台与も合成され神格化されて天照大神と考えられるようになり、民族国家の象徴として八咫鏡を神体として伊勢神宮で祭られるようになるようです。

2010年5月31日月曜日

親魏倭王 その2

卑弥呼は倭国王であると同時に親魏倭王でもありますが、倭国王と親魏倭王とでは性格が違うようです。その卑弥呼は親魏倭王として隣国である出雲や大和の有力者の個々人に「邑君」「邑長」のような、魏の官職を与えることができたと考えています。

『魏志』韓伝には公孫氏が平定された後、韓の臣智と呼ばれる階層に邑君の印綬が授けられ、それに次ぐ有力者には邑長という位称が授けられたとありますが、『日本書紀』一書第十一の神話には月夜見尊が保食神を殺した後に「天の邑君」が定められたとあります。

この神話は248年から間もないころに女王国が狗奴国を討伐したことが語られているようですが、帰順してきた者に邑君・邑長のような魏の官職が授けられたことを表していると考えています。韓の臣智には邑君の印綬が授与されましたが、日本では邑君の印綬が授与された形跡はありません。

印綬は木簡を封印するための印と、それに付いている組紐ですが、西嶋氏は中国との間には三世紀にすでに「文書外交」が成立していたとされています。しかし倭人の間で「文書外交」が行なわれたようには思われません。

文字が一般化していない倭人の間では印綬は必要のないものですから、親魏倭王の卑弥呼が印綬に代わるものとして与えたのが銅鏡だと考えています。倭人伝に見える百枚の銅鏡は三角縁神獣鏡ではないかと言われていますが、このような大型の完境は高位の者に与えられたでしょう。

メダルのような小型の仿製鏡は副葬品として出土しますが、後漢鏡を故意に数個に分割した分割鏡は住居址で出土すると言われています。これらは邑君・邑長など下位の者に与えられたもの、邑君には宗族長階層が任ぜられ、邑長には門戸の長が任ぜられたのではないでしょうか。

熊本県山鹿市方保田東原遺跡で小型仿製鏡・分割鏡8点が出土していますが、この地は菊池川流域の中心地であり、狗奴国の官の狗古智卑狗との関係が考えられます。8点の小型仿製鏡・銅鏡を持っていたのは台与から邑君・邑長に任ぜられた狗奴国の有力者のように思われます。

部族の配布した青銅祭器は同族関係にある宗族であることを表しますが、銅鏡には印綬のような性格があって、女王国内の有力者に限らず、大和や出雲の有力者の中にも、卑弥呼の元に使者を送り貢物を献上して、魏の官職と銅鏡を与えられた者がいたと考えます。

後漢鏡は北部九州を中心として分布し、魏晋鏡は畿内を中心として分布することから、邪馬台国は畿内にあったと言われています。しかし親魏倭王の性格から見ると、女王国と敵対し親呉勢力になる可能性のある、出雲や畿内、及びその周辺の有力者に優先的に配布された考えるのがよさそうです。

高倉洋彰氏は小型仿製鏡の時期を3期に分け、2期の小型仿製鏡は後期中葉~後半に北部九州で作られ、3期(終末期~古墳時代初頭)の小型仿製鏡は北部九州と近畿及びその周辺で別個に作られたので、北部九州で出土しない鏡種があると指摘されています。(『三世紀の考古学』、学生社)

3期に畿内及びその周辺でも小型仿製鏡の製作が始まるのは、2期に卑弥呼が親魏倭王に冊封され、3期には畿内とその周辺でも部族制社会から氏姓制社会に変わる機運が出てきたということであり、邑君・邑長に任ぜられる階層を取り込む必要があったということだと考えています。

邑君・邑長の官職は親魏倭王以外には授けることができず、青銅祭器を配布した部族の部族長にも、稍を支配する王にもこの官職を授ける権限はなかったでしょう。これは女王国のみならず倭人社会全体に、部族が擁立した王と冊封体制によって権威づけられた親魏倭王という二重のヘゲモニー(覇権・主導性)が存在しているということのようです。

それは弥生時代の部族社会が古墳時代の氏姓制社会に変わっていく接点に、卑弥呼がいるということでしょう。1月投稿の『出雲神在祭』で述べましたが、部族社会の統治方法は有力者が集まって合議する「寄り合い評定」でした。

それに対し氏姓制社会は大王(後の天皇)が氏族長に姓(かばね)を与えて統治を分担させ、大王は氏族を間接的に支配するものです。親魏倭王も宗族長など有力者個人に魏の官職を与えることにより間接的に倭人を支配するもののようです。

共に部族の存在理由がありません。大和朝廷の成立と共に部族は消滅し、部族の配布した青銅祭器は埋納されます。それに代わって登場してくるのが与えられた銅鏡を神体とする氏神の祭祀のようです。氏神は氏族の始祖を神として祀るものですが、銅鏡を与えられた人物が始祖とされているように思われます。

2010年5月25日火曜日

親魏倭王 その1

西島定生氏は卑弥呼の親魏倭王について、魏の皇帝と君主と下臣の関係にあるという意味の王だとされています。(『邪馬台国と倭国』、吉川弘文堂)他説では倭国王と親魏倭王の違いがほとんど考えられていません。

前回には推察ですが狗奴国が呉の冊封を受けていたのではないかと述べました。魏の側からすれば親魏倭王は、呉と連携しようとする国が出現するのを阻止するための王のように思われます。

後漢が滅ぶと魏の東部は公孫氏の支配するところとなり、公孫淵は233年に呉から燕王に冊封されます。公孫氏を滅ぼした魏は卑弥呼を親魏倭王に冊封して呉を牽制し、蜀を牽制するについてはクシャーン王国のヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封しています。

当時、魏西部の涼州の諸王も公孫氏と同様の立場にあり、周辺には月氏・康居などの西戎(中国の西に住む異民族)が居住していました。西嶋氏によると、227年に涼州の諸王が西戎の首長20余人を蜀に遣わし、蜀が魏と戦うなら蜀に加担すると申し出させたということです。

西嶋氏によるとこれに対抗して魏は229年にヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封して、西戎の親蜀勢力を牽制しようとしたようです。西嶋氏は当時ヴァースデーヴァ王の権威が失墜していた時期なので、その復興を魏との冊封関係に求めたのかも知れないとされています。

ヴァースデーヴァ王は「親魏大月氏王」に冊封されることによって、西戎諸国をクシャーン王国の支配下に置こうとしたのでしょう。卑弥呼は親魏倭王に冊封されたことで、倭人社会の盟主であることが認められていたと考えられます。

卑弥呼の遣使は、景初3年の公孫氏滅亡直後の初回以後、①景初3年6月②正始元年、または2年③正始4年④正始6年⑤正始8年、または9年と、卑弥呼の死までほぼ隔年に行われています。

冊封体制には「九服の制」と呼ばれている考え方があり、『魏志』東夷伝の評語にもそのことが見えます。王(皇帝・天子)の住む城を中心にして五百里まで(千里四方)が王の支配する王畿(国畿)で、その外周は五百里ごとに九畿に区分されます。

九畿には諸侯が冊封されますが、王城から五百~千里を候畿といい、候畿に冊封された候服は一年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。千里~千五百里を旬畿といい、旬畿に冊封された旬服は二年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。

千五百~二千里を男畿といい、男畿に冊封された男服は三年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。57年に遣使した奴国王、及び107年に遣使した面土国王は一世に一度遣使すればよい蕃服だったようです。

卑弥呼は隔年に遣使しており、二年に一度入貢する義務のある旬服に相当する高位だったと思われます。秩禄二千石の郡太守は王、候、大夫、士の内の大夫に相当しますが、卑弥呼の元に使者を送ることは、洛陽の皇帝に使者を送るのには及ばないにしても、帯方郡に使者を送る以上の遣使をしたことになると思われます。

秦以後には王は皇帝・天子と呼ばれるようになり、諸侯が王と呼ばれるようになりますが、諸王が権力を持つと皇帝の座を狙うようになることから、政治の実権を持たされず俸禄を受け取るだけの存在になると言われています。

そのような意味では面土国王帥升の倭国王は名目だけで実権の伴わない王だと言えるようです。それに対し三国が鼎立する時代の魏は、卑弥呼・ヴァースデーヴァ王に対しては東夷の親呉勢力、西戎の親蜀勢力を牽制するための手段として、特別に隣国の有力者に魏の官職を与える特権を持たせたと思われます。

魏の官職を与えて懐柔しようというのですが、これを拒絶する者については武力によって討伐することになります。魏は難升米に黄幢・詔書を授与しますが、これは魏が難升米に軍事権を付与して親呉勢力の可能性のある狗奴国を討伐させたということでしょう。 

2010年5月18日火曜日

倭人伝と稍 その3

卑弥呼は魏から四千里四方を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めず、その実質的な支配地は二千里四方(130キロ四方)でした。このように述べると邪馬台国は「水行十日陸行一月」とあり、投馬国は「水行二十日」とあるではないかという反論が出てくるでしょう。

『大唐六典』に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあります。唐代の一里は約560メートルですから「歩及驢五十里」は日に28キロになり、これが30日だと840キロになります。

残念ながら『大唐六典』には海路の記載がありませんが、海路は気象条件に左右されるからでしょう。私は海路を馬・歩・驢の2倍の150~100里程度と見ています。「水行十日」は840~560キロになり、「水行二十日」だとその倍になりますが、女王国の南4千里に侏儒国があるというのですから、これが倭国内を移動する距離であるはずはありません。

日数は信用できないというのなら別ですが、事実だとすればなぜそのように書かれているかを考えてみる必要があります。倭人伝の地理記事は正始8年の張政の見聞ですが、邪馬台国・投馬国の水行・陸行についても張政の言動を推察してみるのがよいようです。

「水行十日陸行一月」の終点は内陸部であり、「水行二十日」の終点は海岸部であることが考えられます。魏都の洛陽は内陸にあり陸行が必要ですが、呉都の建業は揚子江の河口部にあり陸行の必要がありません

邪馬台国の水行十日は840~560キロになりそうですが、これは邪馬台国から山東半島の登州までの所要日数に当り、また陸行一月は登州から洛陽までの所要日数に当るようです。「水行二十日」は投馬国から建業までの所要日数であることが考えられます。

正始6年に魏は倭の大夫、難升米に黄幢・詔書を授与していますが、難升米は239年に率善中朗将に任ぜられ銀印青綬を授けられています。中朗将は中央政府の官職ですが、黄幢・詔書は難升米に軍事権が追加付与されたことを表すものでしょう。   

倭は載斯烏越らを帯方郡に遣わして、女王国と南の狗奴国とが不和の関係にあることを訴え、それに対し魏は難升米に黄幢・詔書を授与します。黄幢・詔書は正始8年(247)に張政が難升米の元に届けており、 張政は難升米に対し「檄を為して之を告喩」したと述べられています。

難升米はこれを大儀名文にして狗奴国の官の狗古智卑狗を殺すようです。それにしても魏皇帝の詔書が必要なほど深刻な不和の関係だったのでしょうか。私は背後に呉が絡んでいるように思っています。 卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封され、四千里四方(260キロ四方)を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めていませんでした。

狗奴国の男王の卑弥弓呼は、卑弥呼に対抗して呉から冊封を受ていたのではないでしょうか。そうだとすると女王国と狗奴国の関係は、魏と呉の関係でもあるということになり、そのために魏皇帝の黄幢・詔書が必要だったと考えることができます。文献に見えないので推察ですが、公孫氏の例もあり可能性があります。

もしもそうであれば何等かの兆候があるはずであり、北に隣接する投馬国(筑後)がそれを察知するはずです。張政は狗奴国と呉の関係を疑っており、難升米との問答の中でこのことが話題になったのでしょう。建業までの所要日数が伊都国から投馬国までの所要日数のように書かれているようです。

コースは二十日という日数から見て南西諸島沿いに南下し、沖縄あたりから東シナ海を渡る、遣唐使船の南島路であろうと考えます。朝鮮半島西南部・山東半島沿岸を経由して南下し、建業に至るコースも考えられます。

倭人伝の記事は正始8年(247)で終わり、その正始8年の記事には台与が掖邪狗ら20人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。張政の送還を兼ねての遣使でしたが、帰国する張政には掖邪狗らを洛陽に送るという新任務ができました。

掖邪狗らが洛陽に行くについては、邪馬台国から洛陽までの所要日数が話題になったのでしょう。それが投馬国から邪馬台国までの所要日数のように書かれているようです。そのコースは帯方郡・山東半島を経由する遣唐使船が通った北路だと思われます。

2010年5月12日水曜日

倭人伝と稍 その2

倭人の王も支配領域を六百里(260キロ)四方に制限されていたようですが、それを証明しているのが青銅祭器の分布だと考えています。青銅祭器の性格については様々な説がありますが、私は部族が同族関係の生じた宗族に配布した考えています。

部族についてもこれまた確かな説がありませんが、高句麗伝・夫余伝には存在していることが述べられていますから、倭人社会にも存在したと考えてよさそうです。

大和朝廷が成立すると部族は消滅し、氏姓制社会に変わっていくようです。同時に部族の配布した青銅祭器は存在理由を失い、回収され埋納されると思われます。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものですが、上の図には中細形の分布が示されており、中の図には中細形C類~中広形の分布が示され、下の図には広形の分布が示されています。

上の図で銅利器と銅鐸の分布が交わる地域とされている中国・四国地方に、中の図では銅剣が分布していることが示され、下の図では青銅祭器が姿を消しています。

中細形・中広形の段階で中国・四国地方にこれだけ多数の青銅祭器が配布されながら、それが広形になると全く見られなくなるのは、銅剣分布圏に、共通する意思を持って行動する集団が存在しているということでしょう。

このことは北部九州の銅矛・銅戈や近畿の銅鐸についても同じだと考えてよいようで、私はそれを倭人社会にも稍が存在し、部族が稍を支配する王を擁立したのだと考えています。

下図は青銅祭器の分布から想定した稍ですが、青銅祭器の分布図と比較してみてください。図の円の直径は280キロほどになりますが、六百里(260キロ)と言ってよい大きさになっています。

北部九州の稍は銅矛・銅戈の分布圏であり、これを広い意味で「筑紫」と言うようです。中国・四国の稍は銅剣の分布圏であり、これが広い意味での「出雲」のようです。近畿を中心にした稍は銅鐸の分布圏ですが、固有の呼び方はありません。

図には示していませんが北陸地方の越や南九州の日向も稍を形成していたことが考えられます。また関東地方では青銅祭器の代りに「有角石斧」を祭器にしていたといわれていますから、関東地方にも稍が存在したことを考えなければならないようです。

北部九州の稍を設定するについては、銅矛の多い対馬と青銅祭器の分布する豊後・肥後北半を南北の限界にしています。中国・四国の稍については土佐の銅剣を南限とし、淡路の銅剣を東限にしています。

近畿を中心にした稍では西半に近畿式、東半に三遠式銅鐸が分布しています。これは偶然の一致ではなく、青銅祭器の配布に部族間の政治的な力が働いており、それが冊封体制に連動しているからでしょう。

冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に使節を送り、貢物を献上するのを妨害してはならなというものがあります。紀元前150年ころ衛氏朝鮮は辰国・真番(黄海道)を支配下に置き、漢に入貢しようとするのを妨害するようになりますが、武帝はこの職約を口実にして、衛氏朝鮮を滅ぼしています。

冊封体制は冊封を受けた国だけでなく、自動的に周辺の国にも及ぶようになっていました。冊封を受けたのは北部九州の銅矛・銅戈の分布圏の国ですが、隣の銅剣・銅鐸の分布圏にも自動的に及ぶようになっていたのです。青銅祭器の分布には冊封体制の変遷が如実に示されています。

1世紀の中細形は奴国王が後漢から「漢委奴国王」に冊封されたころの部族の状態を示しています。2世紀の中広形は面土国王が後漢から「倭国王」に冊封されたころの部族の状態を示しており、3世紀の広形は卑弥呼・台与が魏から「親魏倭王」冊封されたころの状態を示しています。

それが銅鐸の分布圏にも影響していることは明らかです。青銅祭器を配布した部族は稍を支配する王を擁立しましたが、その王は冊封体制によって支配地を六百里四方に制限されました。そのために稍によって分布する青銅祭器が違ってくるようです。

2010年5月8日土曜日

倭人伝と稍 その1

韓伝・倭人伝の千里は三百里ではなく半分の百五十里のようです。百五十里は65キロですが、このことはその場所の明確な一支国(壱岐)の広さの「方三百里」、対馬国(対馬上島)の「方四百里」からも推察することができます。

壱岐の南北17キロが三百里であれば一里は57メートルになり、対馬上島の南北25キロが四百里であれば一里は62,5メートルになりますが、この場合の一里は60メートルほどになります。

対馬海峡の巾は55キロほどであり、対馬の厳原と壱岐の勝本間も55キロほどで、これだと一里は55メートルになります。問題は一支国と末盧国の間の千里ですが、方位が示されておらず、呼子付近では近すぎるということで唐津とする説があります。

東夷伝の方位・距離の終点は国境ですから、東夷伝の記述目的からすれば千余里の終点は末盧国の海岸であればどこでもよいのです。倭国のおおよその方向が「帯方の東南の大海の中」と示されていますから、末盧国の距離を示して倭国の国境が分かればよいというのでしょう。

千余里の終点というわけではありませんが、私たちにしてみれば末盧国の記事にある光景はどの地点のことか気になります。私は「山海に浜して居す」などの記述から、唐津平野ではなく、呼子の光景であろうと思っています。

韓伝・倭人伝の千里は百五十里になりますが、東夷伝の千里には「王城を去ること三百里」に国境があるという意味もあります。韓伝・倭人伝の場合には三百里ではなく百五十里に国境があるという意味になることになります。

冊封体制は魏(中国の王朝)の制度であって郡の制度ではありませんが、通常の実務は郡が担当します。魏と関係する時には千里を三百里と思わなければならず、帯方郡と関係する時には百五十里と思わなければならないようです。

前回に韓の「方四千里」が実際には六百里四方であることを述べました。これは他の諸伝の「方二千里」に当りますが、稍の考え方の「方六百里」でもあります。

上の図は以前にも載せていますが、宗像郡土穴・田熊(面土国)を起点とした方位・距離を示しています。赤線の間隔は韓伝・倭人伝の場合の千里になり、他の諸伝の場合の五百里になりますが、いずれも65キロです。

私は女王国をそのまま佐賀・福岡・大分の3県と考え、狗奴国を熊本・長崎の2県と考え、侏儒国を鹿児島・宮崎の2県と考えればよいと思っています。女王国は渡来系弥生人の国で通婚関係にあった宗族に青銅祭器を配布しています。

狗奴国は縄文系弥生人の熊襲の国で、肥後の北半は青銅祭器を受け入れていますが、その他の地域は受け入れていません。侏儒国もやはり縄文系弥生人の隼人の国ですが、熊襲と隼人には形質的、地域・文化的な違いがあるようです。

その国境を二つの図で比較してみると、韓伝・倭人伝のいう二千里までが女王国になり、二千~四千里が狗奴国になり、四千~六千里が侏儒国になります。二千里ごとに国境がある見ることができますが、この二千里は他の諸伝の千里(130キロ)になります。

参考までに。倭の地は「惑は絶え惑は連なり、周旋五千余里ばかり」とありますが、これは長崎から鹿児島にかけての九州西海岸の距離です。

倭人伝は侏儒国について「女王を去ること四千余里」と記しています。これは田熊・土穴(面土国)の南四千里に狗奴国と侏儒国の国境があるという意味ですが、それを図で見ると肥後と薩摩の国境になります。倭人伝にはその距離が記されていませんが、筑後と肥後の国境が女王国と狗奴国の国境のようです。

それとは別に魏との冊封関係から、三百里(260キロ)を千里とする考え方も存在したようです。倭王は韓と同様に、冊封体制によって魏から四千里(韓伝・倭人伝以外の諸伝の二千里)四方を支配することを認められていたようです。

卑弥呼は女王国の王として二千里を実質的に支配していましたが、倭王としては四千里四方を支配する権限を持っていました。四千里には狗奴国も含まれることになりますが、狗奴国はこれを認めず、このことが女王国と狗奴国の不和の原因になっているようです。その結果として卑弥呼の支配領域は実質二千里四方になっているのでしょう。

2010年5月3日月曜日

韓伝と稍

玄菟郡太守としての王頎の記事は挹婁の南境まで進んだところで終わっており、その後は帯方郡太守としての記事になります。正始7年、帯方郡太守の弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしましたが、韓はこれに応じず帯方郡の崎離営を攻撃して弓遵を戦死させます。

戦死した弓遵に替わって帯方郡太守に着任した王頎は、塞曹掾史の張政を倭国に遣わして、弓遵の戦死で帯方郡に留め置かれたままになっていた黄幢・詔書を届けさせています。韓伝・倭人伝の地理記事はこの時の張政の見聞です。

韓は帯方の南に在り、東と西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。方四千里ばかり。

倭人伝・韓伝以外の諸伝の距離を見ると、北沃沮が八百里とされている以外はすべて千里であり、その広さは例外なく「方二千里」となっています。東夷伝の地理記事は稍の考えに基づいて書かれています。ところが韓は2倍の「方四千里になっています。

「方四千里」は520キロ四方ということになりますが、どのように見ても韓は520キロ四方もありません。図の韓と高句麗の円を比較すれば分かりますが、倭人伝・韓伝の千里は半分の百五十里(65キロです。

山尾幸久氏は東夷伝の里数値には「韓・倭人伝誇大値」と「他の実定値」があるとされています。(『魏志倭人伝の資料批判』立命館大学、1967年)山尾氏の言われる「他の実定値」とは、「王城を去ること三百里」を千里と称し、六百里四方を「方二千里」と称しているということでしょう。

それに対し、「韓・倭人伝誇大値」は百五十里を千里と称しているということのようです。山尾氏は方位・距離の基点・終点を国都などの「中心地」としていますが、「他の実定値」も「韓・倭人伝誇大値」も国境までであって中心地までではありません

204年ころ公孫氏は楽浪郡屯有県以南の荒地を分割して帯方郡を設置します。帯方郡冶はソウル付近だと考えられていますが、嶺東(日本海沿いの地域)は濊貊が支配していますから、後に帯方郡がそのまま京畿道になると思えばよいようです。それは規定の郡の四分の一程度の面積しかないことになります。

上図はこのことを表していますが、帯方郡の位置を示す円が楽浪郡と重なり合う形になっています。これは帯方郡が楽浪郡を補助する郡であることを表していますが、同時に「稍をもって郡とする」という郡の規定を満たしていないことも表しています。

山尾氏の言われる「韓・倭人伝誇大値」は、帯方郡は郡が小さいのでそれに比例して千里も短ということでしょう。王城から三百里までを稍、二百里までを遂、百里までを郷といいますが、帯方郡は遂と郷の中間の大きさのようです。そこで帯方郡では百五十里を千里としているのでしょう。その実際の広さは「方三百里」になります。

「方四千里」は他の諸伝に見える「方二千里」と同じで六百里(260キロ)四方です。7年に弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしたのは、韓も冊封体制によって支配領域を制限されていたということでしょう。韓については倭人伝に次のように述べられています。

郡より倭に至るには海岸に沿って韓国を経る。乍(たちま)ち南し、乍ち東して狗邪韓国に至る。七千余里

七千余里は1050里(456キロ)になります。前回の投稿では現在の全羅南道と慶尚南道の境が南海島なので、狗邪韓国の西境を南海島付近としましたが、もっと西の全羅南道康津郡のあたりでなければ距離が合いません。訂正します。康津郡付近が七千余里の終点のようです。

万二千里については通説では帯方郡から邪馬台国までの距離とされています。帯方郡~末盧国間を一万里とし、これに伊都国までの500里を加え、残りの1500里が伊都国~邪馬台国間の距離だとされていますがこれは誤りです。

稍の考え方では方位・距離の終点は国境・海岸など境界ですから、万二千里の終点は邪馬台国ではなく倭国の海岸でなければいけません。そうすると通説で末盧国~邪馬台国間の距離とされている二千里はどのような距離かということが問題になります。

この二千里(130キロ)は狗邪韓国の西境(全羅南道康津郡付近)から対馬国(対馬)への渡海地点までの距離であり、渡海地点は巨済島の西海岸になりそうです。つまり帯方郡から対馬国(対馬)への渡海地点までは七千里ではなく九千里なのです。

2010年4月28日水曜日

夫余伝と稍

毌丘倹の軍勢は逃亡した高句麗王の位宮を追撃しますが、川が増水したために追い詰めることができず兵を返します。そこで翌6年に改めて討伐が行われますが、再討伐では高句麗王を匿う可能性のあった夫余・濊貊・東沃沮も対象になりました。

玄菟郡太守の王頎は玄菟郡冶(遼寧省撫順付近)を出立し、夫余国都(吉林省農安付近)まで行っています。夫余王は迎効(国都の郊外で出迎える儀式)を行い、また軍糧を提供するなど敵意の無いことを示しています。

さらに夫余王は季父(年齢の近いおじ)父子を殺しています。夫余国都は高句麗が精強になったために西に移ったと言われていますが、殺された季父親子が高句麗に近い部分を支配しており、高句麗王を匿う可能性があったのでしょう。

夫余は長城の北に在り。玄菟を去ること千里。南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接す。北に弱水有り、方二千里ばかり。

「玄菟を去ること千里」とは「玄菟郡冶を去ること三百里」に夫余の国境があるという意味です。遼寧省開原の北で柳条片牆が南北に分岐していますが、このあたりに玄菟郡と夫余との国境の長城があったようです。

夫余国都の北に松花江があります。弱水については黒龍江とする説もありますが、「方二千里可」との兼ね合いから見て、松花江とするのがよいでしょう。玄菟郡と夫余の国境の長城から松花江まが、夫余の広さの「方二千里可」です。

夫余王は季父親子を殺しますが、この時季父親子は第二松花江の上流部(吉林省の松花湖付近)を根拠地にしていたようです。夫余には夫余王の支配する地域と季父親子の支配する地域があり、事実上は2つの国だったように思われます。

左図の赤線は私の考える王頎の経路ですが、夫余王の国都の農安付近を「北夫余国都」とし、それに対し、季父親子の根拠地と推定される場所を「南夫余国都」として区別してみました。そうしないと挹婁伝の記述との間に矛盾が生じてきます。

挹婁は夫余の東北千余里にあり、大海に面し南は北沃沮と接す。其の北の極まる所を知らず。

文献には見えませんが、私は王頎も夫余王の兵と共に第二松花江に沿って南下し、季父親子の根拠地を攻撃したと考えています。挹婁伝の地理記事はこの時の王頎の見聞で、季父親子の根拠地と推定される場所の東北三百余里に夫余と挹婁の国境があるというのでしょう。

挹婁はロシアの沿海州方面とされていますが、東北三百里なら北朝鮮の東北部から吉林省の延辺朝鮮族自治州にかけての、図満江流域であることが考えられます。「其の北の極まる所を知らず」とは、そこまでが中国の冊封体制の及ぶ所だというのでしょう。

東沃沮についても稍の考え方でその位置を推定することができますが、東沃沮伝の地理記事も高句麗王の位宮を追撃した王頎の見聞によるものです。

東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り、大海に浜して居す。其の地形は東北狭く西南長く千里ばかり。北は挹婁・夫余と、南は濊貊と接す

蓋馬大山は両江道の蓋馬高原のことで、大海は日本海です。この文から王頎が蓋馬高原の東側を南下して日本海に達したことがわかります。夫余の南境と日本海の間が「西南長く千里ばかり」の三百里です。

6年には楽浪郡太守の劉茂、帯方郡太守の弓遵も濊貊を攻撃しており、位宮は濊貊に逃れることはできず東沃沮に遁走したようです。王頎は位宮を追跡して東沃沮を縦断し、挹婁の南境まで進んでそこに石碑を立てています。濊貊については次のように述べられています。

南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接す。東は大海に窮まる。今朝鮮の東は皆其の地也

王頎が濊貊に行った形跡はなく、そのためにこの文には距離の記載がないようです。濊貊は蓋馬高原の南にあり、国土が海岸に沿った地域に限られているために稍の形になっていませんが、「今朝鮮の東は皆其の地也」とあることから見て、楽浪郡冶の東三百里」に濊貊との国境があることが推察されます。