2009年10月20日火曜日

中期後半 その1

王莽は前漢末期の社会不安を巧に利用して新を建国しますが、建国10年で赤眉・緑林の反乱が起き、光武帝が後漢王朝を成立させたのは後25年でした。中期前半3期に王莽が漢王朝中断を準備し、中期後半1期に光武帝が漢王朝を再興したと言えます。

56年、光武帝は泰山で「封禅の儀」を挙行しますが、「封禅の儀」は秦の始皇帝、前漢の高祖劉邦・武帝、後漢の光武帝など、功績のあった皇帝のみが行なえた儀式です。翌57年には奴国王が遣使していますが、「奉貢朝賀」とあることから見て封禅の儀を祝賀するための遣使だったのでしょう。

光武帝、明帝、章帝の時代は匈奴など異民族の侵犯もなく、国内もよく治まりました。外戚(皇帝の母系の一族)の王莽が前漢を滅ぼしたことが忘れられておらず、明帝・章帝の時代の外戚は謙虚でした。しかし四代和帝が88年に9歳で即位してから幼少で即位する皇帝が続き、外戚・宦官が実権を握るようになります。

和帝は宦官の鄭衆に頼り外戚の竇氏を粛清するという悪例を残しました。宦官の多くは政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、その跳梁により政治の腐敗が深刻になります。こうしたことから後漢王朝はなし崩しに衰退していき、やがて滅亡します。

通説では中期と後期の境は1世紀中葉と考えられています。王莽の時代(8~23)には銅銭の改鋳がしばしば行われましたが、14年に鋳造が始まり40年に流通停止になった貨泉が日本でも相当数出土していて、貨泉と一緒に出土する土器は中期末のものなのか、あるいは後期初頭のものなのかということが問題になっています。

今のところ中期末とする説が有力で、このことから通説では貨泉は中期と後期の境に埋まったとされています。しかし私の年代観では貨泉が鋳造された14年は中期後半1期になり、流通が停止された40年は2期になって、中期と後期の境は90年になります。

通説との差の50年については次のように考えています。倭人伝は倭国大乱以前の7~80年間は男子が王だったことを記していますが、大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。西暦178年の80年前は西暦98年であり、西暦183年の70年前は西暦113年です。

今まで述べてきたように大乱前の男王は面土国王ですが、面土国王が初めて倭王になったのは、西暦98~113年の間ということになります。その15年間のうちの西暦107年に帥升が生口160人を献上しているのです。

私の年代観は90年ごとに等分に区分しているので、中期と後期の境は自動的に西暦90年になります。しかし実際には90年ごとに時代が変わるわけではなく、西暦98~113年までの15年間のある時に帥升が王になり、そのことが中期から後期に変わる原因になっていると考えています。

西暦98~113年の中間は西暦105年か6年ですが、このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられ、竇皇太后が臨朝しますが、翌年死亡し13歳の安帝が即位します。

中国の西では106年ころにチベットの羌族が反乱を起こし、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのためなのでしょうか106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。

玄莬郡 が後退したことは楽浪郡の果たす役割が大きくなったということであり、朝鮮半島や倭国に影響が出てきたことが考えられます。こうした東アジア世界の動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、帥升が倭王になることが考えられます。

この争乱のことは中国史書には見えず問題にもされていませんが、相当に大規模なものであったようです。私はこのことが青銅祭器を中細形から中広形に変え、また中期から後期に移る原因になっていると考えています。

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