2009年9月26日土曜日

高御産巣日神 その2

タカミムスビ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)は神話の冒頭で高天が原にいる「別天つ神」とされていて、イザナキ、イザナミ二神に至る、いわゆる神世七代とは別系統の神だと書かれています。イザナギ、イザナミ二神もスサノヲも高天が原の神ではありません。

また『日本書記』本文は天照大神も元から高天が原に居たのではなく、「天の御柱」によって、天に送り上げられたとしていますから、高天が原の元来の神はタカミムスビとその眷族、及びそれに従属する神ということになります。卑弥呼は邪馬台国の王だという人がいますが、王都が邪馬台国にあったというだけで 、邪馬台国の王ではありません。

天地が初めて明かになった時に、高天が原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。次に国が稚く、浮かんでいる脂のようで、くらげのようにただよっている時、葦の牙が萌え上がるように現われた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神、この二神も単独の神として現れ、身を隠された
   上の件の五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)である

戸数7万の邪馬台国は律令制の郡程度の面積を持つ部族国家が統合されたものです。私は人口密度の高い所では、1郡当り7千戸ほどではなかったと考えています。福岡平野の那珂川・御笠川流域にそうした部族国家があり、その王がイザナギですが、イザナギは那珂(なか)海人の王です。

タカミムスビが大倭であれば、大倭もそうした郡程度の大きさの部族国家の王であることが考えられ、その国が元来の邪馬台国のようです。私はそれを甘木・朝倉地方だと考えています。

神話には「天の安川」という川が登場してきますが、天照大神が岩戸に籠もったので八百万の神々が「天の安の河原」に集まったとされています。甘木市の近くに夜須という地名があり小石原川という川があります。別名を「夜須川」とも呼ばれていますが、安本美典氏はこの小石原川の周辺に髙木神社が多いことを指摘しています。

大倭は小石原川の周辺に居たように思われます。小石原川の河原に広場があり平素は河原で市が開かれており、大倭が市を管理していたのでしょう。その広場は非常時には宗族長が召集されて討議の場になったようです。

私は大和の纏向遺跡も弥生時代にはそうした広場であったものが、古墳時代に政治の場になっていくと考えています。出雲の斐伊川河口にもそうした広場があり、そこは出雲の特殊神事の神在祭の舞台になっています。

甘木平野にあった邪馬台国に卑弥呼が都を置くように画策した人物が「別天つ神」(ことあまつかみ)の最初の天之御中主神のようです。卑弥呼が都を置いたことによりタカミムスビ、すなわち大倭は女王国の経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられます。

女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのですが、もとより王は卑弥呼ですから大倭が表面に出ることはなく陰の実力者です。大倭は女王国の経済を支配している実力者でしたが、タカミムスビの孫はホノニニギであり、『日本書記』本文は「皇祖高皇産霊尊」としています。

このように見てくると台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置づけられることになる人物であったことが考えられてきます。

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