オオクニヌシの国譲りとは、銅鐸を配布した部族の支配権が台与の後の男王に譲り渡されたということですが、図は銅矛を配布した部族が勢力を東進させて銅鐸を配布した部族を統合していく経過を、後世の著名神社の位置からイメージしています。
『日本書紀』本文では物部氏の祀るフツヌシ(経津主)と中臣氏の祀るタケミカズチ(武甕槌)が出雲に派遣されて強談判を行うことになっていますが、国譲り神話にしばしばこの2神が登場してきます。このことからフツヌシを祀る物部氏系の神社の位置からイメージしています。
タケミカズチを祀る中臣氏との関係も示すべきであろうと思いますが、中臣氏の祀る神社は少ないので、物部氏の祀る神社のみを示しています。ローマ数字は物部氏の祭る神社であり、英数字は非物部系神社です。
Ⅰ 島根県太田市 物部神社、 大国主の国譲りと関係する?
Ⅱ 愛媛県大三島 大山祗神社、 物部氏の伝承
Ⅲ 岡山県赤磐町 石上布津之魂神社 ヤマタノオロチとの関係
Ⅳ 奈良県天理市 石上神宮 神武天皇東征のニギハヤヒ
① 長崎県対馬 海神神社 ウガヤフキアエズとの関係
② 福岡県 住吉神社 邪馬台国と関係
③ 大分県 宇佐神宮 神武天皇東征の脚一騰宮の伝承
④ 島根県 出雲大社 大国主の国譲り
⑤ 岡山県 吉備津神社 神武天皇東征の高島宮の伝承
⑥ 徳島県 大麻比古神社 阿波忌部の服属
⑦ 和歌山県 日前・国縣宮 神体の鏡の由来
⑧ 奈良県 大神神社 大物主の服属
⑨ 三重県 伊勢神宮 八咫鏡の由来
⑩ 愛知県 熱田神宮 草薙剣の由来
図は私の年代観の弥生時代後期後半から古墳時代前期(180~360年)にわたる、相当に長期間をイメージしています。概観を言うと九州北半の①~③は神武天皇の東征が始まるまでをイメージし、中国地方と瀬戸内の④~⑥は大国主の国譲りがあったことをイメージし、近畿地方の⑦~⑩は神武天皇の東征で大和朝廷が成立し、大和が政治の中心になったことをイメージしています。
図では中国・四国北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡が示しているように青銅祭器の流入はなかったものの、前段階の中広形銅矛や銅剣・銅鐸が分布しています。私は国譲りのあったのは250年代だと考えていますが、これらの青銅祭器の祭祀が国譲りまで続いたかどうかが問題です。
鳥取県青谷上寺地遺跡、及び出雲市青木遺跡で近畿4式、または5式銅鐸の「飾り耳」と呼ばれている部分が出土しています。銅鐸片については鋳造の原材料だとか、アクセサリーだとか言われていますが、銅鏡片がそうであるように完形の銅鐸と同じ性格を持っていると考えるのがよいでしょう。
出雲市青木遺跡遺跡では副葬品として出土しており、完形の銅鐸が集団の祭祀具であったのに対し、銅鐸片は個人が祀ったように思います。これは山陰地方の銅鐸の祭祀は続いていたのであり、荒神谷・加茂岩倉遺跡は国譲りが銅鐸を配布した部族だけでなく、銅剣を配布した部族にも及んだことを示していると考えています。
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