2012年1月29日日曜日

倭面土国を考える その4

西嶋定生氏の「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し」という考えを継承されているのが寺沢薫氏で、『王権誕生』(講談社、2000年12月)で次のように述べられています。

だが、王仲殊氏(もと中国社会科学院考古学研究所長)や中国古代史の西嶋定生氏は、『後漢書』より約五十年前に編纂された『後漢紀』に「倭国」とあることや、『魏志』、『魏略』などの検討から、『後漢書』にはもともと「倭国」もしくは「倭国王」と書かれ、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」こそ実在しない国名であることを主張している。私もこの説をとる。

寺沢氏は大和の纒向遺跡を卑弥呼の王都とする畿内説を主張されていますが、大乱が起きる以前の倭国を「イト(伊都)倭国」と呼び、それは伊都国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体で、伊都国王の統治は大和には及んでいなかったとされているようです。

広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏がそれに対峙していたとされ、「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、卑弥呼の共立でヤマト(大和)に権力の中枢を置く、新しい政体が誕生したと考え、これを新生倭国(ヤマト王権)と呼んでおられます。

この時に銅矛と銅鐸分布圏が統一されて、九州から近畿・東海にかけて統一国家が誕生したと考えられているようです。この考えは畿内説に共通すると言えますが、これだと神武天皇や「欠史八代」の天皇を認める必要がありません。

寺沢氏の言われる北部九州を中心とする「イト倭国」、及び大和を中心とする新生倭国(ヤマト王権)と、西嶋氏の言われる伊都国を中心とする「第一次の倭国」及び卑弥呼を中心とする「第二次の倭国」は一見すると同じもののように思えます。しかしそれは「似て非なるもの」のようです。

西嶋氏は邪馬台国の位置を九州とも大和とも断定されていないと思いますが、その念頭には「倭面土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の考えがあったと思います。そのために伊都国や邪馬台国は九州にあったが、「倭面土国」は大和朝廷によって統一された日本ということになったと思われます。

一方の寺沢氏の考えは内藤湖南の邪馬台国は大和にあったとする説、あるいは、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする説に従ったものだと思われます。面土国の存在は邪馬台国の位置論に直結しており、これが別問題とされているために、邪馬台国の位置論がさらに複雑になっているようです。

両氏は『後漢紀』『魏志』『魏略』などの検討からは、「倭国土地」「倭面土国」「倭面上国」は実在しないことになるとされていますが、帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく、日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されており、「倭面土国」を大和朝廷によって統一された日本とする根拠も見出すことができません。

面土国は存在しないという見解は畿内説にも九州説にも応用できますが、倭人伝の地理記事は説明不足で畿内説が正しいとも九州説が正しいとも断定できません。結果論になりますが、面土国は存在しないとする白鳥庫吉・内藤湖南の説を前提にした主観が述べられていることになりそうです。

寺沢氏は広形銅矛の分布範囲がイト「倭国」であり、近畿式銅鐸圏が「新生倭国」の中枢とされ、卑弥呼の登場を銅矛・銅鐸の分布圏が対峙していたと説明とされています。

寺沢氏は大和の纒向遺跡を王都とする卑弥呼の時代に古墳時代が始まるとされていますが、私は卑弥呼の王都は銅矛分布圏の九州にあったが、卑弥呼の死後に九州勢力の東への移動(神武東遷)があったと考えるのがよいと思っています。(2009年7月投稿「部族と青銅祭器」)

面土国が存在したことを前提にすると、西嶋氏の言われるように「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。卑弥呼を王に共立した一方の当事者が大乱以前の男王の面土国王だと考えるのが穏当であり、またそう考えるのが自然です。

2012年1月22日日曜日

倭面土国を考える その3

西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』では「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるとされていますが、『倭国の出現』ではその存在を否定されています。

西嶋氏と王仲殊氏の「其国」についての見解の相違は、其国・倭国・女王国・邪馬台国の詳細が不明なためで、西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとする白鳥庫吉の説に依拠した主観論のように思われます。

王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことでもあるとしますが、邪馬台国は「女王乃所都」とあるだけで、卑弥呼が邪馬台国の王だという根拠はありません。戸数7万の邪馬台国を構成している小国のな  かの一国で、卑弥呼が国都を置いている国に過ぎないようです。

王仲殊氏は「其国」を邪馬台国のことであり女王国のことだし、西嶋氏は倭国のことだとしていますが、女王国は女王が支配している国という意味ですから、女王国と「其国」は同じものだと考えるのがよいでしょう。では倭国はどの範囲をいうのでしょうか。

倭人伝に「女王国の東、海を渡ること千余里に複た国有り、皆倭の種」とあります。これは女王国に居るのは倭人だが、海を渡った所にいるのも同じ倭人だということで、この場合の倭国は女王国ということになり、「其国」は女王国でもあり倭国でもあることになります。

『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で西嶋氏は、倭人伝に「倭女王」が3度出てくるが、いずれも卑弥呼・台与に関係するものだと述べていますが、この場合の倭も女王国と考えてよいでしょう。倭国と女王国とは同じものなのです。

西嶋氏は「其国」を倭国のことだとされていますが、「倭面土国」を「ヤマト国」と読んで、大和朝廷支配下の日本(倭国)のことだと考えられているようです。大和朝廷成立以前の日本(倭国)には2世紀に帥升という王がいて、それは伊都国王だとされているようです。

「其国」が3世紀の女王国のことであれば、倭面土国王の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになります。西嶋氏が「其国」を問題視されるのは「其国」を大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととするためのようで、これは「換骨奪胎」というべきでしょう。

「倭面土国」をヤマト国と読んで大和朝廷支配下の日本(倭国)のこととすれば、面土国の存在を否定することができ、「この伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し・・・」とすることが可能になってきます。

そうは言っても「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国があったことになるのも事実で、それが『倭国の出現』の「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」という記述になっているでしょう。

西嶋氏は東京大学教授を勤められ白鳥庫吉の説を継承する立場にありますが、おそらく伊都国は糸島市の周辺であり、伊都国以後は放射行程だとされていると思います。しかし伊都国は糸島市周辺ではないので、帥升を伊都国王としても矛盾が生じます。

そこで伊都国を中心とする第一次の倭国は「倭国の乱」で崩壊したとして、面土国の存在を否定し「倭面土国」は「倭国」と表記されるようになるとされているのでしょう。10世紀前半に成立した『旧唐書』倭国・日本伝に「日本国は倭国の別種である」とあります。

日本国の中心は大和だが、その過去には大和を中心とする日本国とは別の、九州を中心とする倭国があったと記されていると考えるのがよさそうです。私は面土国が2世紀どころか3世紀にも存在しており、それは筑前宗像郡だと考えています。

卑弥呼は共立されて王になりますが、卑弥呼を共立した一方の当事者が面土国王であり、卑弥呼を共立した後の面土国王は「自女王国以北」の諸国を、あたかも中国の「州刺史」の如くに支配するようになると考えています。

私の考えも面土国が存在したことを前提とする主観論だと言えなくはありませんが、主観を主張するだけでは論争にはなるけれど結論は出てきません。必要なことは傍証を詰めていくことではないかと思っています。

2012年1月15日日曜日

倭面土国を考える その2

西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』で「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるが、なお疑問が残る国名だと述べられて、面土国が存在する可能性のあることを示唆されています。

しかし『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)(「倭面土国論」の問題点)では面土国の存在を否定されています。その論拠として「倭面土国」の表記が見られる『通典』は801年までに、また『翰苑』は660年以前に編纂されたことを問題にしたいようです。

そのころ遣唐使・遣隋使の派遣などがあって、対外的な国号を倭国から日本国に変え、大王を天皇と称するようになりますが、西嶋氏は7世紀前半の唐代初期が倭国から日本国への国号の転換期で、国名が動揺した時期だとされています。

それまでは「日本国」と言うことはなく「ヤマト国」と言ったが、そのヤマト国を「倭面土国」と漢字表記したというのでしょう。『通典』『翰苑』が書写されているうちに誤写されて、帥升は「倭面土国王」とされるようになったのであり、面土国という国は存在せず帥升は伊都国王だということのようです。

これを結果的にみると倭と面土を一体のものとする内藤湖南の読み方を肯定し、倭と面土を分離する白鳥庫吉の読み方を否定するけれども、白鳥庫吉の面土国=伊都国説は肯定するということになります。

ここで西嶋氏が<「其国」とは「倭国」のことである>とされていることに触れてみます。『倭国の出現』で次のように述べられていますが、倭人伝の「其国本亦男子為王。住七八十年。倭国乱。乃共立一女子為王」の記事が問題にされています。

さて、王仲殊氏は上文冒頭の「其国」をどのように理解されているのであろうか。王仲殊氏は「其国」とは「倭国」のことであるとする私の見解を批判し、上掲魏志倭人伝の一文について、
「其国」は代名詞で、「倭国」は名詞である。代名詞は名詞の後に使われるものであり、名詞の前に使われることはない。したがって文頭の「其国」は「倭国」ではなく邪馬台国を指す。卑弥呼が王となって以後は、邪馬台国を「女王国」と呼んでおり、魏志東夷伝本文前段部において「女王国」という名詞が多く散見されるので、「其国」は代名詞として「女王国」を指すと考えられる。したがって、「其国本亦以男子為王」とは、女王国が元々男子をもって王としていたことを説明している。
と述べて、「其国」とは邪馬台国すなわち女王国のことである、と論断されている。

西嶋氏が「其国」を倭国のことだとしているのに対し、王仲殊氏は「其国」を代名詞とし邪馬台国・女王国を名詞として、代名詞が名詞の前に使われることはないということを問題にしているようです。しかし倭人伝の記述を見ると、倭国・女王国・邪馬台国の実態はほとんど分らず、私には「其国」が代名詞であることにさして意味があるように思えません。

白鳥庫吉は伊都国を起点とする放射行程説に従って伊都国は糸島市周辺だとしています。西嶋氏の考えも同じであろうと思いますが、西嶋氏の考えとそれに対する王仲殊氏の反論は白鳥説を正しいとする主観に基づく論戦に過ぎないように思われます

「其国」は糸島市周辺を中心とする九州であり、それが倭国だという主観になっているようです。しかし伊都国=糸島市付近が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるために創作されたものであれば、この伊都国=糸島市付近説を前提とする主観は崩壊します。

倭人伝に面土国の名は見えず、記述からもその存在を認めることは殆ど不可能です。私はその存在を思わせる記述が所々に見られると考えていますが、そこで西嶋氏は『倭国の出現』で面土国の存在を否定して次のように述べられています。

この想定が正しいかどうかについては、今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである。しかしその当否にかかわらず、「倭面土国」の名称がいわゆる邪馬台国時代より以前の二世紀にすでに実在したということが文献学的に実証されない限り、その時代において「倭面土国」とはいかなる国名を表記したものか、あるいは「面土国」は何処に求めるべきであるか、などという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか、と私には思われるのである。

「倭面土国」とは国号が日本国に変る以前の倭国のことであり、面土国という国は存在しないということのようですが、「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」とされているのは、「倭回土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の説を正しいとする主観論であることの現われであるように思います。

2012年1月8日日曜日

倭面土国を考える その1

『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしており、そこから伊都国=糸島市付近、奴国=福岡平野という通説が生れましたが、狗邪韓国を金海・釜山とするのも同様で、狗邪韓国は馬韓と辰韓の境界付近のようです。では『古事記』『日本書記』はどこを邪馬台国と思わせたいのでしょうか。

いうまでもなく畿内大和になりますが、『古事記』『日本書記』は邪馬台国だけでなく、107年に遣使した「倭面土国」もヤマト国と読ませて畿内大和のことだと思わせようとしているようです。このように考えると倭面土国王の帥升は仲衷天皇以前の天皇の中の誰かということになります。

松下見林は帥升を景行天皇だとしていますが、音が似ている点では垂仁天皇か祟神天皇になりそうです。結果的に見るとこの企てに乗ったのが京都大学教授の内藤湖南だと言えそうで、倭面土国を大和朝廷によって統一された日本だと考えています。

これに対し東京大学教授の白鳥庫吉は面は回の古字の誤りで「倭回土国」が正しいとし、これを「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしました。また慶應義塾大学教授の橋本増吉は「倭のマズラ国」と読んで末盧国のことだとしました。

内藤・白鳥の考えは現在にも大きな影響を与えていて、内藤湖南が邪馬台国=畿内説であるのに対し、白鳥庫吉は邪馬台国=九州説で、「「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と対比されていますが、先に解明されなければならないのは「倭面土国」の実態であり、それが解明されれば邪馬台国の位置論も自ずと決着すると考えています。

これは「倭面土国」と読むのか、「倭の面土国」と読むのかという問題でもありますが、この問題に取り組んだのが東京大学教授の西嶋定生氏で、西嶋氏は白鳥説を継承する立場にあります。西嶋氏は倭面土国について『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で次のように述べられています。

私はこの面土国については、今でも疑問を持っています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができないかぎり、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。

57年の奴国王の遣使と239年の卑弥呼の遣使の中間の107年に「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上奴国のほかに面土国という国があったことになるとされています。その「疑問」に関して『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)では次のように述べられています。

私はこの伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し、卑弥呼が女王になってから以後は、暦年邪馬台国を都とする第二次の倭国の女王に服属しながら、ただ名目的に王名を称していたのではないかと想定する。そして王の所在の記述のない他の諸国は、帥升を王とする倭国の出現以後、その統属ごとに、その王位を失うことになったのではあるまいか。

倭人伝の伊都国の記事に「世有王。皆統属女王国」とありますが、西嶋氏はこの王を倭国王帥升の子孫の伊都国王だと考え、57年に奴国王が遣使した時点ではまだ倭国は存在していなかったが、107年に帥升が遣使した時点で倭国が出現する想定されています。

以上に述べたところの、二世紀初頭に出現した最初の倭国は伊都国を中心とするものであり、その倭国が一八〇年前後の「倭国の乱」で崩壊して、卑弥呼をその女王とし、邪馬台国をその都とする第二次倭国になったという想定は、わずかに女王国時代になっても伊都国のみに名目的な王が残存しているという一文によって推察したものであり、文献的に確認された事実ではない。

伊都国には一人の官と2人の副(副官)が居ますが、そのために名目的な王と実質的な官という2重の支配者がいるというのです。この2重の支配は卑弥呼が女王になってからのものであり、それ以前の倭国は伊都国王が支配していたとされています。

しかしこの想定は、上述した「其国」とは「倭国」のことであるという判断と、女王卑弥呼はそれ以前の倭国王の系譜を直接に継承するものではないという判断から、想定されたものである。そしてこの想定には、「倭国」形成以後、それに包含される諸国は、いずれもその王位を喪失した、ということが前提とされていることはいうまでもない。

文中の<「其国」とは「倭国」のことである>という点は中国社会科学院考古研究所々長で、中国考古学界の重鎮、王仲殊氏の見解との相違点でもあるようですが、こうしたことから面土国は存在せず、卑弥呼以前の男王は伊都国王だとされています。

2012年1月1日日曜日

神功皇后伝承を巡って その5

『神功皇后紀』の記述するところから見て物部・中臣氏など天神系氏族と蘇我氏など武内宿禰系氏族の対立には朝鮮半島の問題が絡んでいたことが考えられます。物部氏は河内を勢力基盤とする氏族ですが、その祖のニギハヤヒは天磐船に乗って天から降ってきたという伝承を持っています。

私はその天を遠賀川流域とする説に同意したいと思っていますが、九州には多くの物部氏の同族がいます。武内宿禰系氏族が朝鮮に出兵することを主張したのに対し、物部・中臣氏などの天神系氏族は九州の勢力と結んでこれに反対したのであろうと思います。

『日本書記』仲哀天皇紀八年条に岡県主の祖の熊鰐が周防の沙麼(山口県防府市)で天皇を出迎えたことや、伊覩県主の祖の五十迹手が穴門の引嶋(下関市彦島)で天皇を出迎えたことが見えます。

岡県は遠賀郡で倭人伝の不弥国だと考えています。また伊覩県は糸島郡ではなく田川郡だと考えます。朝鮮に出兵するには関門海峡を確保することが必要ですが、岡県主・伊覩県主などの祖たちは朝鮮出兵を認めたのでしょう。

しかし大倉主・菟夫羅媛のようにこれを認めないものもおり、仲哀天皇はこれを討伐しようとし強行したので、反対する者(熊襲)の矢を受けて死んだとされているのでしょう。こうした人々が応神天皇を擁立したのだと思います。

朝廷内部でも皇統を巡る、蘇我氏などの武内宿禰系氏族と物部氏などの天神系氏族の対立が始まっており、対立を解消するためには両者に無関係で奴国王の末裔でもある応神天皇を迎える必要があり、それを主導したのが物部氏だと考えます。このあたりに「九州王国」の存在が考えられるようになった遠因があるように思われます。

皇統を巡る対立は、奴国王の末裔である応神天皇を迎えたことで一時的に解消し、「河内王朝」と言われる時代になり、天皇の権威も高まって巨大な古墳が築かれますが、氏姓制は皇統を巡る豪族間の対立を煽る構造になっています。

武烈天皇が継嗣のないまま没すると、大伴金村は丹波の国桑田郡にいた仲哀天皇5世孫倭彦を天皇に迎えようとしますが、倭彦王は姿をくらまします。そこで越前の国三国(福井県坂井郡三国)から応神天皇5世孫の彦主人王の子とされる継体天皇が迎えられます。

大伴金村や物部氏などの天神系系氏族が仲哀天皇5世孫の倭彦王を迎えようとしたのでしょうが、倭彦王は豪族間の対立に巻き込まれるのを避けたのでしょう。そこで系蘇我氏などの武内宿禰系氏族が応神天皇6世孫とされる継体天皇を迎えるのだと考えます。

『古事記』では継体天皇は「近淡国より上り坐さしめて」となっていますが、継体天皇の母の振媛の本拠地は琵琶湖西岸の高島郡です。また神功皇后は琵琶湖東岸の米原市息長を本貫とする息長氏の一族とされています。

応神天皇が即位したことで紀伊半島周辺の武内宿禰系氏族と、物部氏などの九州から来たという伝承を持つ天神系氏族に加えて、近江・越前・山城など、近畿北部・北陸の豪族が皇統を巡る対立に加わってくることが考えられます。

武内宿禰系氏族と天神系氏族という概念は私の考えたもので、これが適切かどうかは分りませんが、それが許されるなら近畿北部・北陸の豪族は諸蕃系氏族と呼ぶことができそうです。この三者を結びつけているのが神功皇后のようで、神功皇后の母は新羅の王子・天之日矛の5世孫とされています。

三韓征伐の帰途に応神天皇が誕生するのは、応神天皇から継体天皇に至る皇統に諸蕃系氏族が関係するようになることを表しているのでしょう。また神功皇后の渡海は継体天皇22年の近江毛野臣の渡海から考え出されたものでしょう。

継体天皇21年に筑紫君磐井の乱が起きますが、近江毛野臣と磐井が友人であった事実はなさそうです。近江毛野臣の渡海から神功皇后の渡海が考え出され、それは金海・釜山を狗邪韓国と思わせるためであり、斉明天皇の朝鮮半島出兵を正当化するためであることが考えられます。