2009年12月19日土曜日

大国主の国譲り その3

前回の投稿では銅矛を配布した部族が勢力を東進させ、銅鐸・銅剣を配布した部族を統合したと考え、その経過をイメージ図で示してみました。九州と畿内との関係については様々な説がありますが、私は神武天皇の東遷説、あるいは邪馬台国東遷説に従いたいと思っています。

しかしその実態は銅矛を配布した部族の東遷であろうと思います。前回に示した図はこのことを示したいと思って作図したものですが、この図では国譲りの最終目的地は出雲ではなくて畿内だということになって、従来の解釈とは違った国譲り神話になります。

このように考えるのは『日本書紀』第二の一書が、オオナムチ(大己貴)の国譲りの後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順したとしているからです。オオナムチとオオモノヌシが区別されています。少々長くなりますが抜粋してみます。

ここに大己貴神は答えて、「天神の言われることはもっともです。あえて言われることに叛くことはありません。私が治めてきた顕露の事(あらわのこと、政事)は皇孫が治めなさい。私は退いて幽事(かくれたること、祭事)を治めます」と言った。すなわち岐神(ふなとのかみ)を二神に薦めて「この者が私に代わって仕えます。私は此処から去ろうと思います」(中略)

故に経津主神は岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として各地を平定して回った。逆らう者は斬り殺し帰順するものは褒めた。この時に帰順した首渠(君長・賊首)は大物主神と事代主神である。すなわち八十万(やそよろず)の神を天高市(あめのたけち)に集めて、率いて天(高天が原、邪馬台国)に昇って服属に偽りのないことを申し述べた。(後略)

オオナムチの国譲りの後に、オオモノヌシとコトシロヌシが帰順したというのですが、大己貴神は神話の舞台が山陰地方の場合のオオクニヌシですが、大和が舞台の場合には大物主になります。多くの場合、両者が区別されることはありませんが、ここでは明確に区別されています。そしてコトシロヌシもオオナムチではなく、オオモノヌシと共に帰順しています。

これはオオモノヌシを祀る大神(大三輪)氏や、コトシロヌシを祭る加茂氏の伝承でしょう。出雲の国譲りとは別に、近畿式銅鐸の内でも最も新しい4式・5式銅鐸を持っていた宗族が帰順したことが語られていると考えます。

そのオオモノヌシは多くの神々を天高市(あめのたけち)に集めて帰順したとされていますが、これは大和国高市郡に由来するのでしょう。高市郡は今の橿原市・明日香村・大和高田市などですが、大和朝廷の存在した古墳時代はともかくも、弥生時代の高市郡がそれほど重要な場所のようには思えません。

天照大神が岩戸にこもると八百万の神が「天の安の河原」に集まって善後策を相談したとされています。また出雲の特殊神事の「出雲神在祭」でも、出雲に参集した神々は、斐伊川の河原にある万九千神社で饗宴を催した後に帰っていくとされています。部族によって擁立された王の統治権は弱く、事が起きると合議が行なわれたようです。そのための広場が河原にあったようです。

初期の纏向遺跡もそうした広場だったでしょう。私は天高市は纏向遺跡のことであり、常時は市場だが有事には合議の場になったと考えています。纏向遺跡に有力者が集められ、部族の統合に同意するかどうか討議されたが出雲はすでに帰順しているのだから、我々も帰順しようとゆうことになったと考えます。

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