2009年10月14日水曜日

弥生時代の実年代 その4

私は弥生時代は部族が国を形成していた時代だと考えています。弥生時代の始まりについては稲作の始まった時だとか、弥生式系の土器が作られ始めた時だとする考え方があるようですが、私は部族国家が出現した時に弥生時代が始まると考えるのがよいと思っています。部族国家についてはすでに述べていますが、部族のことがほとんど考えられていないことが、弥生時代を分かり難くしているように思っています。

紀元前一〇八年に楽浪郡が設置されると、倭人も冊封体制に組み込まれますが、弥生時代の倭国は中国、朝鮮半島の影響を強く受けており、冊封体制と倭人の部族国家や時代区分に関係がないとは思えません。

周は姫氏の一族が支配する国でしたが、紀元前403年、周王が韓、魏、趙の3氏を諸侯と認めたことにより姫氏の一族の晋が滅びます。385年には田氏が諸侯に任ぜられて、やはり姫氏の一族の斉を乗っ取ります。こうして姫氏一族の支配は衰退していき、戦国七雄といわれる諸国が勢揃いします。戦国時代の始まりですが、弥生時代前期の前に早期を置く説ではこのころを早期の始めとする説があります。

七雄の諸国は諸子百家と呼ばれる人材を登用して富国強兵を図りますが、それが最も成功したのが秦でした。紀元前361年、秦の孝公は法家の商鞅(しょうおう)を登用して商鞅変法と呼ばれる政治改革を行い、七雄最強の国になります。その秦の名君として知られているのが昭襄王で、紀元前307年から251年まで、56年間在位しました。この昭襄王の時代に後の始皇帝による中国統一の基礎が確立します。

同じころ燕の昭王(在位前313~279)も、「まず隗(かい)より始めよ」の故事で知られる人材登用を行い、楽毅、蘇秦、鄒衍、劇辛などの人材が集まりました。紀元前311年、昭王は東胡を討伐し、その地に遼東、遼西、右北平、魚陽、上谷の五郡を設置しますが、このころ朝鮮半島には箕氏朝鮮(きしちょうせん)がありました。

五郡の設置で遼東方面の韓族が朝鮮半島に移動したと言われており、漢族と箕氏朝鮮の接触が始まりますが、その影響で朝鮮半島の韓族が南下し、その一部が海を渡って倭国に来たことが考えられます。このことが弥生時代の始まりの直接の原因になっているように思われます。

その後箕氏朝鮮が燕の意に従わなくなり、前284年、燕は武将の秦開を遣わして二千余里の土地を奪い、満番汗(まんばんかん)という土地まで兵を進め、そこを燕と箕氏朝鮮の国境にします。箕氏朝鮮はその後力を失い、秦が燕を滅ぼした後にはこれに従属するようになります。

秦や燕、あるいは箕氏朝鮮の動きに触発されて弥生時代が始まると考えるのですが、紀元前3世紀の前半ころまでには確実に弥生時代になるようです。ですから前期の前に早期を置く説に従えば、早期の始まりを秦の孝公が商鞅を登用した紀元前360年ころとすることができそうに思われます。

『山海経』海内北経(紀元前後に成立)には「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という記述があります。蓋国は高句麗領の蓋馬に在った国だといわれていますが、「倭属燕」とありますから、倭人が燕と接触していたことが考えられます。冊封関係があったのなら面白いのですが記録にはありません。対馬で遼寧式銅剣が出土しているのはこのことを示しているのかも知れません。

また『漢書』地理志の燕地の条には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って献見るすと云う」とあります。燕は紀元前222年に滅んでいますし、百余国の遣使も紀元前一世紀のことと考えられていますから、この文が倭人と燕との接触を示しているとは言えませんが、少なくとも倭国と燕は無関係ではないとは言えそうです。

倭人の部族は秦や燕、あるいは箕氏朝鮮と接触することによって国という統治機構を持つようになることが考えられます。それまでの部族は通婚によって結びついた同族集団でした。水利を共有し、物資を融通し合ったり共同して敵と戦ったりする「文化統一体」でしたが、それが秦や燕と接触したことによって「政治統一体」に変質し始めるのだと考えます。その変化が弥生時代の始まりとして捉えられているように思います。

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