2009年11月27日金曜日

神功皇后紀の年代 その3

神功皇后紀の紀年だと皇后は169年に生まれ、269年に死んだことになりますが、413年に東晋の安帝に方物を献じた倭の五王の賛を、仁徳・履中のいずれかの天皇とすると、神功皇后の時代は4世紀も終わりのころでなければならないことになります。

よく知られているように干支2運、120年が繰り上げられており、120年を繰り下げると神功皇后の死は389年になって実態に近くなります。『日本書紀』の紀年を干支2運、120年繰り上げるためには、神功皇后は倭女王、つまり卑弥呼・台与でなければならなかったのです。

なぜそのような操作をする必要があったのでしょうか。私は『日本書紀』の編纂者は卑弥呼が天照大神であり、邪馬台国が高天が原であることを知っていたのだと考えます。天照大神の5代の後の神武天皇の即位は紀元前660年とされていますが、そうするためには天照大神が卑弥呼・台与であってはならなかったのでしょう。  

その結果、天照大神の時代は神代とされ、初期の天皇の在位期間は異常に永くなりました。在位期間が2倍に引き延ばされているという考えも見られますが、そうであっても計算が合いません。仲衷天皇の皇后としての神功皇后は実在したでしょうが、皇后の三韓征伐はなかったように思います。斉明天皇の百済救援の出兵と卑弥呼・台与とが合成されて、神功皇后の三韓征伐の物語が出来たのだと考えています。

「欠史八代」という呼び方は、初期の大和朝廷が弱体で諸天皇の事績に見るべきものが無かったことを表しているのでしょう。 しかし「欠史八代」は存在しないという説は適切ではないように思います。古墳時代前期はおよそ4世紀だとされていますが、私は270年から360年にかけての90年間を古墳時代前期として捉えるのがよいと思っています。この90年間が「欠史八代」の時代であり、大和朝廷の統治が確立する時期だと考えます。

240年から270年の後期後半3期に、台与とその後の男王の時代があり、やがて神武天皇の東征があって大和朝廷成立するのだと思います。266年の倭人の遣使の前年の255年に晋が成立し、280年には呉が滅んで中国が再統一されますが、それに連動して大和朝廷が成立するのでしょう。

古墳は弥生時代後期の墓が巨大になったと言うよりも、氏姓制が施行されたことによって墓制が変わったことにより出現したと考えるのがよさそうです。氏姓制とは有力氏族長に県主・君・公・直などの姓(かばね)を与えて土地・人民の私有を認めると共に、朝廷の統治を分担させる制度です。前方後円墳という定型化された古墳は大和朝廷から姓を与えられた者の墓だと考えるのがよさそうです。

『日本書紀』綏靖天皇紀を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間がありますが、この空位は東征以前から従って来た中臣氏、忌部氏、猿女氏など天神系氏族と、東征後に服属するようになった三輪氏、賀茂氏など地祇系氏族との間に、大王(天皇)位を巡る抗争があったためのようです。

綏靖天皇は親(神武天皇)を思う気持ちが強く空位の三年間は神武天皇の喪葬に専念したとされています。綏靖天皇紀の記事にはこの三年間に盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが述べられているようです。これが前方後円墳の出現の要因になっているのでしょう。

箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛の墓だとも、また卑弥呼の墓だとも言われていますが、箸墓が三世紀後半に造られたものであれば、卑弥呼の時代とは 20~30年の年代差が出ます。箸墓古墳は大神氏、加茂氏などの地祇系氏族や、綏靖、安寧、懿徳各天皇の妃を出した磯城県主の祖、あるいは銅鐸を配布した部族の残存勢力が、綏靖天皇を大王(天皇)に擁立するために造った、神武天皇の墓のように思います。

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