2010年6月13日日曜日

親魏倭王 その3

台与は247年か8年に掖邪狗ら20人を洛陽に遣わしますが、台与は卑弥呼の宗女(後継者)とされていますから、卑弥呼と同じ親魏倭王に冊封されたでしょう。ところが掖邪狗らが帰国した後か、あるいはまだ洛陽に居たかも知れない249年に、司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握します。

台与の親魏倭王を保証するはずの魏は、台与が即位して間もなく実態のないものになっていき、265年には司馬氏の晋に乗っ取られてしまいます。それにつれて魏の冊封体制そのものが機能しなくなっていきます。

そこで魏の冊封体制にかわるヘゲモニーが必要になります。それは倭種の諸国を統一して民族国家の倭国を創ろうということでした。具体的には皇帝に相当する大王(天皇)が氏族の族長を支配し、族長が氏族を支配する氏族社会に変えようというのです。

そのためには稍ごとに王を擁立する部族を排除する必要があります。倭人伝の記事は247年で終わり、それから266年まで中国との正式な交渉は途絶しますが、この247年から266年までの間に、部族の統合が急ピッチで進められ、部族は解体され稍も消滅するようです。

こうして大和朝廷が成立しますが、その支配者層が定型化された墓、つまり前方後円墳を築くようになり、古墳時代になると考えられます。それは卑弥呼の時代の体制が発展、解消して誕生したものであり、少なくともそのような認識の元に倭種の諸国の統一が進められるようです。

部族社会が崩壊した後に現れてくるのが氏族を基本にした氏族社会であり、それを統治したのが大和朝廷です。大和朝廷の出現は民族国家の倭国が出現したということですが、部族よりも一回り大きな集団が民族です。民族の定義は次のようになっています。

①伝統的な生活様式を共有する集団である
②「我々」という意識を共有している
③民族は歴史的に生成され変化していくもので、固定したものではない

日本民族という場合、①の伝統的な生活様式を共有する集団であるという点では、モンゴロイドに属す人種で日本語を話し、稲作が経済基盤なので、稲作中心の生活様式を持っているということになるでしょう。

②の「我々」という意識を共有しているとは、「我々は日本民族(倭人)であって、漢民族や韓民族ではない」という意識を持っているということですが、冊封体制は漢民族の民族意識が作り出した世界観に元づくものであり、その中で倭人は東夷の一民族として扱われています。

③の民族は歴史的に生成され変化していくもので、固定したものではないという点は、南九州や東北地方の部族が同化されていくことに見ることができます。『古事記』『日本書紀』では大和朝廷の支配が及んだからだということになりそうです。

倭人は冊封体制の実態を知るにつれて、自分たちが漢民族の民族意識が作り出した世界観の一部に過ぎず、漢人に支配されていることを知ったでしょう。それと共に「我々は倭人という民族であって、漢民族と同じではないではない」という「我々」意識を持つようになるのでしょう。

日本人がはっきりとした民族意識を持つようになったのは、冊封体制に組み込まれたことで漢民族と自分たちの違いに気がついた時点であったと思います。つまり紀元前108年以後のことであり、倭人の百余国が前漢に遣使してからのことでしょう。『古事記』『日本書記』の神話はこの時点で始まるようです。

そして部族が解体されて氏族社会に変わると氏族を支配する大王が出現しますが、これが民族国家の倭国の成立です。同時に部族の配布した青銅祭器は姿を消し、代わって銅鏡を神体とする氏神の祭祀が始まるようです。

卑弥呼・台与は親魏倭王として倭人に邑君・邑長などの魏の官職を与えることができ、印綬に代わるものとして銅鏡を配布したと考えています。その銅鏡が氏神の神体になりましたが、卑弥呼・台与も合成され神格化されて天照大神と考えられるようになり、民族国家の象徴として八咫鏡を神体として伊勢神宮で祭られるようになるようです。