卑弥呼の死後に起きた千余人が殺されるという争乱は、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の対立でした。神話ではこれが天照大神の天の岩戸こもりとして語られていますが、争乱の原因はスサノオ(面土国王)にあるとされ、追放されたことになっています。
広形銅戈が激減していることから分かるように銅戈を配布した部族は劣勢でしたから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、面土国王が悪役にされたのです。その結果、台与が共立されますが、面土国王と銅戈を配布した部族という対立する勢力が消滅したことにより女王制は有名無実になります。
そこで台与を退位させて男王を立て、倭人を統一しようという動きが出てきます。これを画策したのが大倭(高皇産霊尊)や難升米(思金神)たちでした。倭人を統一するとなると、思い立ったからといって直ぐに実行できる性質のものではありませんが、その基礎はすでに出来上がっていました。
それには2つの大きな要素があると考えています。その一つは卑弥呼の「親魏倭王」という魏の爵号です。台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、台与もまた親魏倭王に冊封されたでしょう。
周代の諸侯(後の内臣の王)は周王の住む城からの距離に応じて毎年、二年毎、3年毎というように定期的に貢納することを義務付けられていました。卑弥呼は即位後ほぼ隔年に遣使していますが、これは周王の居城から1500~2000里以内を領土とする「旬服」に位置づけられている諸候に義務付けられた頻度に当たります。
卑弥呼の「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる高位で、他には大月氏国(クシャーン王国)のヴァースデーヴァ王が「親魏大月氏王」に任ぜられただけでした。卑弥呼は魏皇帝の執務代行者として、倭人の有力者に魏の官職を授けることができたと考えられます。
このことについては「邪馬台国と神話 その3」で述べていますので参考にして下さい。これは部族によって擁立された王と卑弥呼の親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・主導権)が存在しているということです。後継者の台与が倭人を統一したいと言えば、それは魏皇帝が言ったことになります。
冊封体制の職約(義務)によって、部族の擁立した王は稍(六〇〇里四方)以上を支配することはできませんが、親魏倭王はそれらの王を超越した存在でした。親魏倭王の卑弥呼・台与がいたことが、弥生時代の部族制社会から古墳時代の氏姓制社会への転換の契機になりました。
もう一つの基礎は青銅祭器を配布する巨大な部族が存在していたことです。図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』からお借りしたものですが、卑弥呼・台与の時代に配布された銅矛と銅鐸の分布が示されています。
北部九州から四国西部に銅矛が分布し、近畿から四国東南部に銅鐸が分布しています。両者は四国南部で接触していますが、これは条件が整えば何時でも統合できる状態になっていたということです。
倭人を統一するには銅矛・銅鐸を配布した部族の族長に、その支配権を放棄させればよいのです。一般にオオクニヌシの国譲りといえば出雲の国を譲り渡したということだと考えられていますが、実は銅鐸を配布した部族の支配権を、台与の後の男王に譲り渡したということなのです。
オオクニヌシには多くの別名がありますが同時に稍出雲(中国・四国地方)の王でもあります。図では中国地方と四国の北部には銅矛も銅鐸も見られませんが、荒神谷・加茂岩倉遺跡に見られるように、ここには銅矛・銅鐸に加えて銅剣も見られます。オオクニヌシの別名を八千戈神とも言いますが、これは銅剣のことを言っているのでしょう。
出雲の王が部族の統一に同意したことで銅矛・銅鐸を配布した部族も、また銅剣を配布した部族も部族も統一に同意したのでしょう。国譲り神話の舞台が出雲とされているのはこのためでしょう。
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