2012年2月26日日曜日

倭面土国を考える その8

伊都国・末盧国のあたりで倭人伝の地理記事に変化が起きていますが、これは末盧国までが「従郡至倭」の行程で、伊都国以後は「自女王国以北」になるということで、その間の地理記事上の断絶部分に面土国があると考えることが可能になってきます。このことが考慮されないと面土国は存在しないことになります。

西嶋氏は面土国を解明する方法として音韻学と文献学を挙げています。他に考古学や民俗学もありますが、地政学が軽視されているように感じています。地政学は地理的な環境が軍事・政治・経済などに与える影響を考察する学問です。

倭人伝の地理記事についても地政学が応用できますが、図は私の考えている地政学的な意味での各国の位置です。右に国名とその理由を記しています。

  国名     音       意味        位置

①斯馬   しま    島             志麻郡
②面土   みなと  港・水門        宗像郡
③伊都   いと    稜威(いつ)? 田河郡
④奴    の     野                     鞍手郡
⑤不弥       うみ      海         遠賀郡
⑥邪馬台  やまと     山戸・山門    上座郡
⑦投馬      つま    水沼        妻郡
⑧邪馬       やま    山       日田郡
 
土地勘のある人ならこの図から、地勢が国名になっていることが分ると思います。しかし③の伊都国については地勢が国名になっているようには思えません。そこで伊都は稜威(いつ)ではないかと考えてみました。

稜威は厳と同義で、 ①斎み清められていること、神聖なこと ②勢いの激しいこと、威力の強烈なこと といった意味があり、天孫降臨の神話に「稜威(いつ)の道別き(ちわき)道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります」という用例があり、出雲の語源を「稜威藻」とする考え方もあります。

伊都国は田河郡だと考えていますが、田河郡は九州東北部の内陸交通の要所で南の英彦山方面、北の響灘方面、西の博多方面、東の周防灘方面、そして東北の関門海峡方面と、道路が五方に分岐しています。

そこで伊都国には一大率が置かれ、これを「常治」していました。伊都とは一大率が諸国を検察し諸国がこれを畏憚(恐れ憚る)していることを表す国名だと考えるのです。こじつけのようにも思えますが出雲=稜威藻の例もあります。

図では那珂郡を中心にした福岡平野にを付けています。筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半の10郡ほどが戸数7万の邪馬台国だと考えますが、福岡平野がその中心であり、福岡平野に邪馬台という名の部族国家があってもよさそうなものです。

しかし部族国家としての邪馬台国は⑥の上座郡(朝倉郡)のようで、朝倉郡には斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」の伝承があります。の部族国家としての国名が判明すればこのことが明らかになってくると考えますが、残念ながらそれは望めそうもありません。

私はの福岡平野が神話の「竺紫の日向の小門の橘の阿波伎原」だと考えています。竺紫は筑紫のことであり、日向は太陽に向かった所という意味で、小門は小さな水門、もしくは瀬戸と考えられており、阿波伎原は平野を表しているとされています。

当時の三笠川・那珂川下流域は大きく湾入していたと考えられており、私は福岡平野と二日市地峡の境の須玖岡本遺跡付近が「小門の橘の阿波伎原」だと考え、の部族国家としての国名も同様の意味を持ったものだったと推察しています。

部族国家としての邪馬台国は⑥の朝倉郡のようですが、これは筑後川下流部の筑後三瀦郡が⑦の投馬国であり、上流部の豊後日田郡が⑧の邪馬国であることによる国名のようです。邪馬台とは山戸・山門・山止・山登・山処の文字で表すことのできる、平野と山間地との境という意味の国名だと考えます。

私は倭面土国を「倭の面土国」と読む説に従い、それは筑前宗像郡だと考えています。山尾幸久氏は面土をmian-tagと読んでおられますが、その音はミナトであり、港・湊・水門の文字で表される海と陸の境の国という意味になります。地政学の面から言っても、またその歴史から言っても宗像郡はまさに「港の国」そのものです。

2012年2月19日日曜日

倭面土国を考える その7

私が宗像郡を面土国だと考えるようになったのは、作家の高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことがきっかけになりました。小説は探偵神津恭介が東松浦半島(末盧国)から糸島(伊都国)への陸行に不審を抱いたことに始まります。

東松浦半島から糸島へ行くのならそのまま船で行けばよいのであって、唐津湾に張り付いたような唐津と前原の間の陸路を、銅鏡百枚などの重い荷物を担いで陸行する必要はないというのです。

また一大国(壱岐)から末盧国までの距離は千里ですが、末盧国の記事に方位と官名の記載がないのも不思議です。

通説は矛盾だらけで、末盧国と伊都国の間、伊都国と奴国の間の方位・距離も倭人伝の記述と合いません。私は帯方郡使が宗像に上陸したという高木氏の考えに強い関心を持ちました。

これは後に気づいたことですが、纒向遺跡・吉野ヶ里遺跡などのような有名遺跡を卑弥呼の王都とする説がありますが、「稍」の考え方では方位・距離の起点は王城だが、終点は国境、大きな河川、海岸線などの「境界」であって、相手国の国都や王城ではありません。

末盧国の記事に方位や官名がないのは末盧国の海岸が「従群至倭」の行程の終点だからで、倭人伝にとっては方位や官名は問題ではなく、一支国から千里のところが末盧国の境界であればよかったのです。

これは末盧国の境界までが「従郡至倭」の行程の国であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国であって、倭人伝の文脈上では「従郡至倭」と「自女王国以北」とは連続しておらず、その接点に面土国が位置していることを示しています。

宗像郡の東南の田川市周辺に位登、伊田、糸田、伊方、糸飛、猪国など伊都によく似た地名が集中しており、田川市周辺が伊都国であることが考えられました。とすれば東南百里の奴国は鞍手郡になり、東百里の不弥国は遠賀郡になります。

高木氏の『邪馬台国の秘密』では末盧国から邪馬台国までの九ヶ国は直線行程とされ、邪馬台国は宇佐だとされていますが、私は放射行程を考えたのです。

前回の投稿では榎一雄氏の伊都国を起点とする放射行程と、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする説に対し、面土国を起点とするのがよいと述べましたが、結果的に見ると私の考えは、両氏の説と高木氏の考えを折衷していることになります。

高木氏は帯方郡使の上陸地を宗像郡の神湊としていますが、「浜山海居。草木茂盛。行不見前人。好捕魚鰒。水無深浅。皆沈没取之」という末盧国のイメージと神湊の光景とが一致せず、私には宗像郡が末盧国だとは思えませんでした。

そこで考えたのが末盧国の記述は東松浦半島の呼子付近の光景とみてよいが、面土国には帯方郡使の上陸した港があったので「港の国」と呼ばれていたのではないかということです。その「港の国」が宗像郡ではなかと考えたのです。

確かに通説で伊都国とされている糸島郡は朝鮮半島に近く、その影響を受けた弥生時代の遺跡・遺物も多く、ことに平原遺跡は卑弥呼の時代に近いことは事実ですが、四世紀以降の宗像には沖ノ島祭祀遺跡が現れてきます。

また倭人伝は伊都国について「郡使往来常所駐」と記していますが、田川郡香春・鏡山を中心として渡来人の伝承があり、遺跡・遺物ではなく伝承の点では伊都国は糸島郡とするよりも田川郡とするほうが理に適っています。

こうして宗像郡が面土国であり宗像氏のはるかな遠祖が帥升であり、神話のスサノオだという考えが生まれてきました。そして今回は西嶋氏の考えを、面土国を伊都国のこととする白鳥庫吉の説に基づいた主観論だとしてきました。

帥升を「倭面土国王」・「倭面上国」とする資料は中国にはなく日本で書写された『通典』『翰苑』に限定されているという事実からすれば、面土国は存在するという私の考えも主観論だということになりますが、面土国は筑前宗像郡だということを前提にすると通説では考えられないことが現れてきます。

2012年2月12日日曜日

倭面土国を考える その6

西嶋氏の面土国の存在を否定される考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいたものだと言えそうですが、ここで放射行程説を考えてみる必要がありそうです。

『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとし、大和が邪馬台国だと思わせようとしていますが、これは直線行程になります。おそらく西嶋氏は邪馬台国=九州説であり放射行程説を採っておられると思います。

放射行程については榎一雄氏の伊都国を起点とする説が知られていますが、伊都国は女王国内でも特殊な国であることが考えられ、末盧国までは方位・距離・国名の順になっているのに対し、伊都国以後は方位・国名・距離の順になっているというものです。

これに対し高橋善太郎氏は榎氏の説について、伊都国の特殊性に着目したに過ぎないと批評し末盧国を起点とする説を提唱しています。(『愛知大学文学部論集』、昭和43年、44年)高橋氏の説は合理性があり適切だと考えています。


高橋氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には「又」「次」「乃」など行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用するなど、何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。

高橋氏の指摘のように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表しているし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴て」「海岸に環い」「乍南し、乍南し」の文が見られます。

対海国の文には「始めて一海を度る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも又一海を渡る」とありますが、伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。 

高橋氏はこれを「末盧からの四至になるとさえも考えられる」としていますが、四至とは放射行程のことです。いずれにしても伊都国・末盧国のあたりで地理記事に変化が起きていることは確かです。

帯方郡から末盧国(佐賀県東松浦半島)までは一万里だとされ、残りの2千里が末盧国から邪馬台国までの距離だとされていますが、通説では狗邪韓国は金海・釜山とされ、その距離が七千余里だとされています。しかし狗弥韓国の七千余里は辰韓と馬韓の国境までの距離のようです。

対馬国(対馬南島)の寄港地も厳原ではなく浅茅湾のようです。そうであれば万二千里の終点は末盧国の海岸になり、「従郡至倭」の行程も末盧国で終わことになります。(2011年11月投稿「再考 従郡至倭の行程」)

高橋氏が末盧国と伊都国の間で地理記事に変化が生じているとするのは、末盧国までが「従郡至倭」の行程であり、伊都国以後は「自女王国以北」の国になることによります。図の左が私の考える放射行程ですが、末盧国と伊都国の中間に面土国があり、面土国が放射の起点になっていると考えています。

末盧国=東松浦半島、伊都国=糸島市付近とする限り、地理的な現実の問題として末盧国・伊都国を起点とする放射行程は成立しません。西嶋氏が帥升を伊都国王とすることについて「文献的に確認された事実ではない」とされている遠因に、こうした点もあると推察しています。

2012年2月5日日曜日

倭面土国を考える その5

面土国の存在を否定される西嶋定生氏の考えは、「倭回土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとした白鳥庫吉の説に基づいた主観論であり、客観的に言えば「倭面土国王帥升」が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになります。

白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠る前後の状況と、卑弥呼の死の前後の状況が似ていることから、天照大神を卑弥呼・台与とし、その原因になったスサノオは狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。

倭国大乱は狗奴国との争だということですが、とすれば大乱以前の70~80年間の男王は狗奴国王ということになります。西嶋氏も『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)で同じ考えであることを述べています。

私は狗奴国王を『古事記』の大気都比売、『日本書記』の保食神と考え、スサノオは面土国王だと考えていますが、スサノオを狗奴国王としたために、「倭面土国」を「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしなければならなかったようです。

女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

私は通説とは違って、伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があってその国に「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者がいる仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというように解釈しています。

この文についての通説では一大率が諸国を検察し、また港で文書や献納物を捜露している有様があたかも中国の州刺史の如くだとされていますが、2011年5月投稿の「関八州取締出役」で、このように解釈したのも白鳥庫吉ではないかという推察を述べました。

幕末の関八州取締出役には直接ではないが横浜の外国船を取締りの対称にするものがあったようで、白鳥庫吉は一大率を横浜の外国船を取り締まるために配置された関八州取締出役のようなものだと考え、一大率は伊都国の津(糸島郡の港)に出向いて朝鮮半島から来た船を捜露する役人だと考えたようです。

何度も言及してきましたが、文中の「於国中有如刺史」の「於」の意味について『大辞泉』は 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うとき用いられるとしています。

通説の解釈は3の、場合や事柄を表すとき「に関して」「について」「にあって」という意味のようで、「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が諸国を検察し、また津(港)では文書や献納物を捜露している有様が、中国の刺史の如くだと解釈されています。

この場合、一大率は常に伊都国にいるというのですから、国は伊都国に限定され他の国は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。そこに「於国中有」の4文字が加わると意味が変わってきます

この文は4の、仮定条件の伴う場合だということで、何かが仮定されており、条件が伴っています。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定され、それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になります。「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。

この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということですが、魏・晋朝の州刺史は最高位の地方行政官であって、関八州取締出役のように諸国を検察したり、外国から来た船を捜露する役人ではありません。通説は大変な誤解で、この誤解から面土国の存在を否定する考えが生じたように思われます。

伊都国は筑前糸島郡ではなく田川郡であり、面土国は宗像郡のようです。「自女王国以北」は遠賀川流域だと考えますが、その「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者こそ、帥升の140年後の子孫の面土国王であり、これが神話のスサノオなのです。

倭人伝に面土国の名が見えないことが問題ですが、狗奴国は「自女王国以北」の国ではありません。大乱以前の男王を狗奴国の男王と見れば面土国の存在は否定され、逆に面土国の存在を肯定すれば大乱以前の70~80年間の男王は面土国王であってもよいことになります。どちらを選択するかで結果は大きく変ってきます。