神功皇后紀の編纂者は誰も見たことのない『晋起居注』を引用したとして、266年に台与が遣使したと思わせようとしていますが、これは事実ではありません。『梁書』『北史』に次のような記事があります。
正始中卑弥呼死、更立男王、国中不服更相誅殺、復立卑弥呼宗女臺與為王、其後復立男王、并中国爵命
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與(いよ)を立てて王となす。その後また男王を立て、并(あわ)せて中国の爵命を受ける〉
この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられ、その男王は「并受中国爵命」だとされています。「中国爵命」は中国が倭王に冊封したということですが、「并」には二人を前後にならべて一組にするという意味があります。
「并」は二人を前後にならべて一組にすると意味で、前が台与、後が男王ということになります。当時の倭国では台与を退位させ、男王を立てようとする動きがあったようですが、一時期二人の王がおりそれを中国が認めています。
台与が即位して間もなく、卑弥呼死後の争乱の原因になったとして面土国王と銅戈を配布した部族が滅ぼされるようです。女王共立の一方の当事者が滅んだことにより女王制は有名無実になり、台与を退位させ、男王を立てようとする動きが出てきます。
ところがやはり台与を退位させて男王を立てることに対して反対する者があり、この反対する者を封じ込めるために、台与と男王とが同時に立てられたようです。私も「并」にそのような意味があるとは思わなかったので漫然と見すごしていたのですが、女王の時代と男王の時代の間に、王が二人いる時代があったようです。『晋書』巻九十七 四夷伝 倭人条に次のように記されています。
乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
〈すなわち女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と言う。宣帝の公孫氏を平(たいら)ぐるや、其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘(こうへい)の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數(かず)至(いた)る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す〉
宣帝は司馬懿(しばい)のことで、文帝は懿の子の昭(しょう)のことです。二三九年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使しますが、その後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国になってからも何度かの遣使、入貢があったというのです。
昭が相国として魏の実権を握っていたのは二五八年から二六五年までの七年間でした。『神功皇后紀』六十六年条に引きずられて、このことが省みられていないことはまことに残念です。『晋起居注』を見たと言っているのは『神功皇后紀』の編纂者だけです。
254年、司馬師は皇帝芳を廃し、高貴郷公髦を立てますが、後継者の司馬昭は髦を殺し元帝を立てていて、皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬昭が265年に死ぬとその子の炎(えん)が元帝から禅譲を受け晋王朝が創建されます。司馬氏が元帝から禅譲を受けることは衆知の事実で、それが何時になるのかが関心の的になっていたようです。
倭人もこのことを知っていて、炎が即位すると翌266年にさっそく遣使しますが、これが「泰始の初め」の遣使、つまり神功皇后紀六十六年条の「倭女王遣重譯貢献」です。司馬昭が相国だった時期にも何度かの遣使がありました。台与が即位して初めて行なった遣使が266年だという説は『神功皇后紀』の創作です。
後期後半三期(240~70)の残りの20年間は台与とその後の男王の時代ですが、男王は1代ではなく2代か3代のようです。神功皇后紀は台与の後に男王が立ったことを隠蔽していますが、266年の遣使を契機として、古墳時代の始まりである神武天皇の東征が開始されるようです。
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