2009年8月31日月曜日

国名のみの21ヶ国 その3

先に述べたように国名のみの二一ヶ国の一六番目の邪馬国以後は豊後にあったと考えていますが、最後の奴国は直入郡です。この国については「東南陸行百里」の奴国の重出ではないかという考え方があります。このことに関連して『後漢書』に次の文のあることに注意が必要です。この文は解釈しにくい文で、倭人伝を参考にしないと理解できません。

建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭国の極南界也

この文は建武中元二年(五七)年に遣使した奴国が「倭国の極南界」に位置しているように読めますが、「倭国の極南界也」は倭人伝の「女王の境界の尽きる所」と同じ意味だと解釈することができます。大夫と自称した使人は直入郡の人であり、金印を授けられた奴国王は遠賀川流域に居たと考えることができます。

直入郡は豊後、肥後、日向三国の国境が交わる所であり、一世紀にあっては倭國の極南界であり、三世紀にあっては女王の境界の尽きる所でした。そして現在では大分県と熊本県・宮崎県の県境に位置しています。この『後漢書』の文から一世紀の半ばに、三世紀の女王国の領域がすでに成立していたことが考えられ、またそれが倭国であるという認識があったことがわかります

『後漢書』の記述は金印を授与された奴国王よりも、大夫と自称した使人の方に注意が向けられています。この大夫と自称した使人は大野川流域に盤踞した古代豪族、大神氏の遠祖であることが考えられます。豊後、肥後、日向三国々境の祖母山には大神氏の始祖伝承があり、大野川流域には大神氏の伝承がいくつもあって、大神氏は豊後海部の佐伯氏とも関係があるとされています。

次有奴国、此女王境界所尽。其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗。不属女王

その南に狗奴国が有りますが、記述順からいえば直入郡の南が狗奴国ということになり、直入郡の南の律令制日向国が狗奴国ということになります。しかし女王に属していない国の方位、距離は田熊・土穴を起点にしていますから、狗奴国も田熊・土穴の南に位置していると考えないといけません。

これは三世紀の女王国の国境の原型は一世紀中葉にすでに存在していたと考えなければならないということであり、その奴国は倭の南境であるという認識があったということです。それには地勢や通婚が影響していて、文化の違いが国境の位置を定めていると考えなければいけません。

ここで稍について考えてみる必要がありそうです。稍には「王城を去ること三百里」という意味と「方六百里」という意味がありますが、後漢・魏王朝は倭人の王に六百里四方の支配を認めています。前述のように私は北部九州を中心とする稍Mに肥後の北半と周防・長門を入れていますが、肥後の北半を稍Mに入れたのは、北半に青銅祭器が分布しているのに対し南半には分布していないからです。

九州の青銅祭器の分布を見ると大分県臼杵と熊本県八代を結ぶ、地質学上の臼杵-八代構造線の北側に多く南側にはほとんど見られません。前回には肥前の西半にも青銅祭器がみられないことを述べましたが、構造線が九州山地を形成し人々の交流を阻害しているからですが、肥後北部は筑後との通婚が多かったと考えることができます。

このため肥後北部には銅矛・銅戈が多いのですが、このように考えると中国は肥後の北半を倭王(三世紀にあっては女王)が支配することを認めているが、実際には支配していない地域であることが考えられます。このことが女王国と狗奴国の不和の原因になっているようです。倭人伝は次のように記しています。

倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王の卑弥弓呼と(もと)より不和。倭は載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

倭人伝は女王国と狗奴国は元来から不和の関係にあったとしています。「卑弥弓呼素」については五文字全体を人名とする説もありますが、「素」は「もとより」という意味だとする説を採りたいと思います。狗奴国と女王国の不和の関係は、はるか以前から続いていたというのです。

その不和の原因は、女王国が冊封体制によって狗奴国の北半(肥後北半)の支配を認められていると考えたのに対しそれを狗奴国が認めていなかったことに起因するようです。私は1世紀末からに2世紀初頭に、卑弥呼が共立された倭国大乱に匹敵するような大きな争乱が起き、そのことが原因になって奴国王が滅び、面土国王の帥升が倭王になると考えています。

その争乱も、三世紀の狗奴国と女王国の不和の関係と同じ原因で起きたと考えられ、不和は一世紀以来のものであったと考えています。

2009年8月30日日曜日

国名のみの21ヶ国 その2

今回は仮定を述べてみたいと思います。私は最初の斯馬国は筑前にあり、一六番目の邪馬国から最後の奴国までの六ヶ国は豊後にあったと考えています。二番目の巳百支国から一五番目の鬼奴国までの14ヶ国はさっぱり分かりませんが、田熊・土穴に近い国から遠い国の順になっているようです。

そこで豊前が8郡であることから2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までの7国は豊前に有ったと仮定してみましょう。豊前の8郡の内には伊都国の田川郡が含まれます。そうすると残りの対蘇国から鬼奴国までの7国は肥前に有ったと仮定することができそうです。当たらずとも遠からずで、妥当な線であろうと思います。

そうすると肥前の14郡のうちの松浦郡が末盧国であることが考えられますから、残りの13郡が対蘇国から鬼奴国までの7ヶ国ということになりそうです。郡数が13であるのに対して国の数が7というのは何となくアンバランスです。その原因として、肥前には吉野ヶ里遺跡がありますから、吉野ヶ里の王がその差の6郡を支配していたのだと言えなくもなさそうですが、私はそのようには考えません。

そこで考えたのは肥前の西半分くらいは狗奴国に属していたのではないかということです。 『不属女王国 その3』 で、九州の弥生人は「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があること、および「渡来系弥生人」の国が女王国であり、「第二のタイプの弥生人」の国が狗奴国であることを述べました。第二のタイプの弥生人とは西北九州の弥生人で、長崎県、熊本県、及び佐賀県の砂丘につくられた土坑や石棺からその骨が出土しています。

佐賀県の真ん中あたりで「渡来系」と第二のタイプの「縄文系」が接触しているのですが、このことを端的に表しているのが青銅祭器です。「渡来系」の居住する地域には青銅祭器が見られるのに、第二のタイプの「縄文系」が居住するする肥前の西半分には青銅祭器が見られないのです。 

『部族と青銅祭器』で縷々述べてきたことですが、部族は通婚によって結びついた宗族の集合体です。部族は同族関係にある証しとして宗族に青銅祭器を配布しましたが、部族はその同族関係を背景にして稍を支配する王を擁立しました。

北部九州の銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族が擁立したのが面土国王の帥升であり卑弥呼です。 青銅祭器を配布したのは渡来系弥生人の部族であり、渡来系との通婚関係のない縄文系弥生人は青銅祭器の配布を受けることはありませんでした。

青銅祭器が見られないということは、王を擁立することがなかったということであり、それは面土国王や卑弥呼の支配を受けることがなかったということでもあります。つまり女王の支配を受けていない(女王国に属していない)縄文系弥生人が肥前の西半分にいたことが考えられるのです。

その肥前西半の縄文系弥生人は女王国ではなく狗奴国に属していたのではないかと考えます。その狗奴国は後に肥前と肥後に分かれます。これはまだ仮定の段階ですが、いずれにしても女王国が筑前・筑後・豊前・豊後・肥前の範囲内であることは確かです国名のみが列記された21ヶ国がこの範囲を出ることはないでしょう。  

国名のみの21ヶ国 その1

今までの検証から狗奴国は肥後であり、侏儒国は薩摩であることが推察されます。東の海を渡った倭種の国や裸国・黒歯国は中国・四国地方西部です。そして「自女王国以北」の諸国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の東側です。とすれば方位が南とされている邪馬台国と投馬国は筑前西半か筑後ということになります。

結論になりますが、筑前の西半に邪馬台国、東半に「自女王国以北」の国が在り、筑後が投馬国になるようです。そして国名のみの21ヶ国が、豊前・豊後・肥前にそれぞれ7ヶ国くらいづつあったようです。

倭人伝の記事は田熊・土穴での見聞であり、諸国の位置も穴に近い国から遠い国の順になっているようですが、国名のみの二一ヶ国も田熊・土穴に近い国から遠い国の順になっているようです。

最初の国は斯馬国ですが、最後の奴国は「此れ女王の境界の尽きる所なり」とあって、田熊・土穴に最も近いのが斯馬国であり、最も遠いのが最後の奴国であることが考えられます

次に斯馬国が有り、次に巳百支国が有り、次に伊邪国が有り、次に都支国が有り、次に彌奴国が有り、次に好古都国が有り、次に不呼国が有り、次に沮奴国が有り、次に対蘇国が有り、次に蘇奴国が有り、次に呼邑国が有り、次に華奴蘇奴国が有り、次に鬼国が有り、次に為吾国が有り、次に鬼奴国が有り、次に邪馬国が有り、次に躬臣国が有り、次に巴利国が有り、次に支惟国が有り、次に烏奴国が有り、次に奴国が有り、此れ女王の境界の尽きる所なり

21ヶ国の最初の斯馬国は「島の国」という意味の国名だと考えることができますが、何度も触れてきたように田熊・土穴の近くで国を形成できる島といえば律令制の志摩郡以外には考えられません。斯馬国は志摩郡でしょう。

志摩郡は今では半島になっていますが弥生時代には島だったと言われていて、後に怡土郡と併合されて糸島郡になりました。通説では糸島郡は伊都国とされていますが、地名が似ていること以外には根拠はないと言ってよいでしょう。

二番目の巳百支国から一五番目の鬼奴国まではさっぱり分かりませんが、田熊・土穴に近い国から遠い国の順になっているようです。それも道路に沿って並んだ状態で記されているようで、帯方郡使の張政は倭人がそのように説明したのを書き取ったのでしょう。

『倭名類従抄』によると筑前は15郡、筑後は9郡、豊前は8郡、豊後も8郡、肥前は14郡で、合計は54郡になります。女王支配下の30ヶ国よりも郡数が多くなりますが、これには邪馬台国・投馬国・奴国などになっている郡が有るからでしょう

戸数2万の奴国は遠賀川流域の嘉麻・穂波・鞍手の3郡ですが、一郡を平均7千戸すると5万戸の投馬国は7郡程度、7万戸の邪馬台国は10郡程度の広さであったことが考えられます。しかしこの数字はあくまでも推察であって実数というわけではありません。

筑前に邪馬台国や「自女王国以北」の国があり、筑後に投馬国が有ったと考えていますが、この3国は20郡に相当しそうです。そうであれば国名のみが列記された21ヶ国は豊前8郡、豊後8郡、肥前14郡の30郡の範囲内に収まりそうです。国の平均的な面積は後の郡とほぼ同じか、やや広いことになりますが、3世紀の国が律令制の郡になるようです

私は一六番目の邪馬国から最後の奴国までの六ヶ国は豊後にあったと考えています。豊後は八郡ですが、海部郡・国東郡以外の六郡の郡名が倭人伝の国名とよく似ています。またその並び順も筑後川に沿って西から東の順になり、続いて大野川に沿って下流から上流の順になっているようで、この並び順は律令制官道が太宰府を中心にして伸長しているのと一致します。

邪馬国(やまこく)、躬臣国(くしんこく)、巴利国(はりこく)の三ヶ国は筑後川水系の国であり、律令制豊後路沿いの国です。支惟国(きいこく)、烏奴国(うぬこく)、奴国(ぬこく)の三ヶ国は大野川水系の国であり豊後・肥後路沿いの国です。

邪馬国は日田郡のようで、日田郡は西の筑後平野から見ても、東の豊後灘方面から見ても山間の郡であり、そこで邪馬国と呼ばれていたことが考えられます。次の躬臣国は日田郡の東の玖珠(くす)郡でしょう。その音がよく似ていて近くには久住山(くじゅうさん)、九重山(くじゅうさん)がありますが、躬臣国の名残りなのでしょう

次の巴利国は速見(はやみ)郡であり、巴利が速見になったことが考えられます。次の支惟国は大分郡でしょう。大分は古くは碩田(おほきた)と呼ばれていましたが、その原型が支惟であることが考えられます。次の烏奴国は大野(おおの)郡だと思われますが、音がよく似ています。

二一ヶ国の最後は奴国ですが、この国については「東南陸行百里」の奴国の重出ではないかという考え方があります。最後の奴国は直入郡ですが、直入郡は豊後、肥後、日向の三国の国境が接する場所です。この奴国は「女王の境界の尽きる所」だと記されていて、豊、肥、日、三国の国境が女王国の国境でもあったことがわかり、遠賀川流域の奴国とは別の国であることがわかります。

2009年8月29日土曜日

狗奴国・侏儒国

投馬国と邪馬台国は方位は南ですが距離がわかりません。投馬国は「水行二十日」、邪馬台国は「水行十日、陸行二十日」とされていますが、どのように考えてもこれが田熊・土穴からの距離だとは思えません。稍には「王城を去ること三百里」という意味がありますから、投馬国と邪馬台国も田熊・土穴から三百里(130キロ)以内のはずです。

その南に狗奴国が在り、男子を王とする。その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。

この狗奴国も方位が南となっているだけで距離が分かりませんが、『古事記』には「次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名 故筑紫國謂白日別 豊國謂豊日別 肥國建日向日豊久士比泥 熊曾國謂建日別」とあります。

今まで述べてきたことから筑紫國が女王国であり、熊曾國が侏儒国であることが理解いただけると思いますが、とすれば豊國も女王国に含まれ、肥國が狗奴国であることが考えられます。田熊・土穴の南といえば現在の国道三号線沿いの地域になります。

肥後の三号線沿いといえば山鹿郡・山本郡、菊池郡になりますが、狗奴国の官に狗古智卑狗がいます。『倭名類従抄』は菊地を「久々知」としていて、よく知られているように狗古智卑狗は菊池彦であり、菊池川流域の支配者であることが考えられます。

菊池川流域が狗古智卑狗の支配する国ということは、狗奴国は肥後国だということですが、肥後国(熊本県)といえば一つのまとまった地域と考えられがちです。しかしこれは行政区画が成立し固定した後のことで、それ以前は北の菊池川流域の玉名・鹿本郡・菊池郡は筑後文化圏に属し、その南がよく言われる「火の国」の文化でした。

北九州の甕棺文化を代表する須玖式土器の分布も、福岡県から熊本平野に及んでいますが、緑川流域より北に限られます。一方球磨川上流の人吉盆地では免田式という流麗な重弧文土器が発達し、それは主に南方に広がり鹿児島県や宮崎県の山岳地帯に及んでいます。

侏儒国の四千余里の終点は肥後と薩摩の国境であり、薩摩が侏儒国ですが、とすれやはりば狗奴国は肥後であることが考えられます。しかしその文化は南北で違うようです。その南半分は稍O(稍日向、または熊襲)に属しており、青銅祭器が見られません。

今まで考えられてもいなかったことですが、私は肥前の西半分の長崎県部分は狗奴国に属していたと考えています。前回に九州の弥生人骨には3タイプがあることを述べましたが、その図は土井ヶ浜人類学ミュージアム編『土井ヶ浜遺跡と弥生人』から引用させていただいたものです。

九州の弥生人は「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があることも判明していますが、「渡来系弥生人」の国が女王国であり、それが後に筑紫の国と豊の国になり、第2のタイプの弥生人の国が狗奴国であり、それが後に肥の国になり、第3のタイプの弥生人の国が侏儒国であり、それが日向の国になると考えればよいと思っています。

2009年8月28日金曜日

「不属女王」の諸国 その2

倭人伝は「又有侏儒国、在其南、人長三四尺、去女王四千余里」と記しています。女王を去ること南四千余里に侏儒国が在るというのですが、私は千里を魏里の150里だと考えています。一里を434メートルとすると千里は65キロであり、四千里は260キロになります。

千里を65キロとすることの当否は対馬南島の南北が400里(17、4キロ)とされ、壱岐の南北が300里(13キロ)とされていることから判断できることです。北部九州のどの地点から見ても侏儒国は南九州にあることは間違いありません。田熊・土穴の南四千里は肥後と薩摩の国境になりますが、薩摩が侏儒国なのです。

昭和33年に鹿児島県山川町成川遺跡で232体の人骨が調査されました。古墳時代の遺跡ですが、その内の26体の成人男性の平均身長は160、8センチ、頭形示数は83、9であったということです写真左は種子島の広田遺跡の人骨ですが、著しい低身長で短頭です。

成川遺跡の調査では比較のために当時の山川町民61名の身長が計測されました。それは160、7センチであったということで、古墳時代と現代という時代差はあっても、その特質が変わっていないことが注目された調査でした。

侏儒国人の人長三四尺とはこの低身長を言っているのですが、一尺は4〇センチほどになりそうです。この国の人たちが後に隼人と呼ばれるようになりますが、縄文時代以来の形質を受け継いでおり、渡来人との混血が無かったためだと言われています。成川遺跡は図の薩摩半島の最南端にありますが、著しい低身長で短頭という特質は隼人と呼ばれる人々の特質でもあるようです。

弥生時代の人骨は、北九州(福岡・佐賀、一部熊本県)、長崎県西部、鹿児島県南部・種子島の九州地方と、山口県西部(土井が浜・中の浜・吉母浜)から大量に出土したものの、その他の地方からは殆ど出土例がありません。

これは日本の土壌はおおむね酸性なので保存に適した条件がたまたま満たされた場合に限られるからで、出土したこれらの弥生人骨は大きく3つのタイプに分類されます。

第1のタイプは、北部九州・山口タイプで大陸からの「渡来系」であり、顔の高さが高く(長い)、身長も高く、顔の彫りが浅いのが特徴です。土井が浜、金隈もこれに属しています。

第2のタイプは、西北九州の弥生人で、顔の高さは低く横幅が広い(広顔)、低身長、鼻根からあごまでが短くて彫りが深く、縄文人と類似しています。長崎県、熊本県、及び佐賀県の砂丘につくられた土坑や石棺から出土しています。

第3は南九州・離島タイプとでも呼ぶべきもので、「西北九州」タイプ以上に「低・広顔」の傾向が強く、頭部を上から見た時、円形に近い短頭形で、著しく低い身長を持っています。鹿児島県南部の「成川遺跡」、種子島の「広田遺跡」、及びその間にある離島の「椎ノ木遺跡」などから出土しています。

3タイプの内、第2、第3のタイプの弥生人に見られる特徴は、はその地域の縄文時代人の特徴で、これらの弥生人は縄文人の子孫と考えられます。これに反して第一のタイプの弥生人は、全く縄文人の特徴を残していません。

弥生人骨の研究者だった金関丈氏は、大陸からの渡来人か、或はその子孫であろうという仮説を唱えましたが、この説は、今日では学会でも支持されて主流となっています。このタイプを「渡来系弥生人」と呼ぶ研究者もいます。

九州の弥生人は「渡来系」と「縄文系」とに別れ、さらに「縄文系」は地域により差があることも判明していますが、「渡来系弥生人」の国が女王国であり、第2のタイプの弥生人の国が狗奴国であり、第3のタイプの弥生人の国が、侏儒国だと考えればよいと思っています。第2のタイプが「熊襲」であり、第3のタイプが「隼人」のようです。

2009年8月26日水曜日

「不属女王」の諸国 その1

今まで述べてきた国は九州に有った国ですが、倭人伝は本州や四国にあった国のことも記しています。弥生時代の宗像海人、那珂海人はおぼろげながら本州の東端のことも知っていたようで、これは北部九州と出雲(山陰地方)や越(北陸地方)、あるいは瀬戸内との間に交流が有ったことを表しています。

女王国の東、海を渡り千余里。復(また)国有り。皆倭種

田熊・土穴から千余里(六五キロ)は門司・下関あたりになります。海を渡ったところの倭種の国は周防(山口県)です。図の安国寺式系土器(西瀬戸内系土器と呼ぶ研究者もある)の分布圏の内の中国地方部分を言っているようです。

周防の響灘沿岸部では下関市梶栗浜などで細形銅剣が出土しており、北部九州とは細形銅剣の分布圏を形成しているように見えます。この地域には北部九州(高三潴式土器分布圏、女王国)と同時期に朝鮮半島から渡来してきた人々の国があるようです。

倭人伝はまた「又裸国・黒歯国有り。復(ま)た其の東南に在り。船行一年にて至る」とも記しています。田熊・土穴の東の海が関門海峡なら、裸国・黒歯国は周防灘か豊後灘を渡った四国と考えることがでます。図の安国寺式系土器の分布している四国西部に裸国・黒歯国が有ると考えられます。

四国西部には北九州で鋳造された銅矛が多数流入してきており、北九州の影響が強かったことが考えられます。ことに広形になると瀬戸内東部には見られなくなるのに対し、四国西部では激増していますが、女王国がこの地域を支配しようとしているようで、倭人伝が裸国・黒歯国に言及していること自体が、このことを表しているようです。

しかし船行一年だと太平洋のはるか彼方ということになりそうですが、三世紀の宗像海人がハワイやアメリカのことを知っているわけがありません。私は原文の「又有裸国・黒歯国。復在其東南船行一年可至」を「又有裸国・黒歯国其東南。復在国船行一年可至」という意味に解釈しています。

「有」には所有しているといった意味があり、在には存在しているといった意味があります。従って「有」が裸国・黒歯国に係る文字であり、「複在」は裸国・黒歯国の他にも国が存在しているという意味だと思うのです。 二つの情報が混乱しているのでしょう。

裸国・黒歯国は女王国の東南の四国西部にあったが、さらに東には出雲や越、大和や尾張があり、その東端に至るのに船行一年を要すると解釈していますが、図の青木Ⅱ式・上東式・唐古Ⅴ式土器を使用している人々の国があるというのです。 なお次回に述べることに関連しますが、図の熊本・長崎県に分布する土器が狗奴国の土器であり、鹿児島県に分布する土器が侏儒国の土器です。

青銅祭器の分布から見ると日本海側は信濃川流域まで、太平洋側では天竜川流域までの知識はあったが、それ以東のことは詳しくは分からず、その東端に至るのに一年を要すると考えられていたのでしょう。現に信濃川流域の長野県中野市、柳沢遺跡では大阪湾形銅戈7本と共に、九州形銅戈1本が出土しており、これで信濃の九州形銅戈の出土は2本になっています。稍筑紫が女王国であれば日本列島の説明としては当然このようになるはずです。

下関市の住吉神社は福岡の住吉神社、大阪の住吉神社とともに、日本三住吉の一つに数えられていますが、壱岐と対馬の住吉神社も延喜式内社で歴史が古く、これらの住吉神社をつないでいくと、大阪湾から朝鮮半島に至る航路が想定できます。同じことは阿曇、宗像系の神社にも言えることであり、三世紀にあっても北部九州と大阪湾を結ぶ瀬戸内海航路が存在したでしょう。

当然瀬戸内海航路だけでなく日本海航路もあり、北部九州は出雲や越とも交流があったはずです。出雲には宗像海人の影が濃厚で、阿曇、那珂海人との交流はあまり無かったようです。出雲大社の祭神オオクニヌシがスサノヲの子とされていることに見られように、出雲は宗像海人と同盟関係にあったようです。

本州西半の弥生文化には共通性があり、青銅祭器の分布は越前(福井)、信濃(長野)、伊豆(静岡)が限界ですが、関東地方では青銅祭器にかわるものとして有角石器が用いられていたと考えられています。阿曇、那珂、宗像など玄界灘沿岸の海人は越との交流で、北陸、東海についてはある程度の知識を持っていたが関東、東北地方についてはほとんど知られておらず、これが「船行一年可至」という記述になったと考えられます。

2009年8月25日火曜日

伊都国 その7

筑前は三郡山地で東西に二分することができますが、その三郡山地の東側とその周辺では地勢を国名にしているようです。宗像郡は港があるので面土国(ミナトノクニ)と呼ばれていました。宗像大社の特殊神事「みあれ祭」の行なわれる大島・地の島・勝島で囲まれた海域宗像海人の根拠地になっており、そこに港がありました。そこから「面土国」という国名が生まれました。

遠賀川下流域の響灘沿岸は「海の国」と呼ばれていました。これが不弥国(フミコク)です。不弥国は田熊・土穴の東百里(6、5キロ)に位置していることになりますが、それは遠賀郡との郡境の城山峠にあたります。宗像郡と遠賀郡の郡境が面土国と不弥国の国境であり、遠賀郡が不弥国です。
 
遠賀川中、上流域の平野部は「野の国(ののくに)」と呼ばれていて、これが奴国です。伊都国までの五百里の内の百里と、奴国の百里は同じもので、宗像郡と鞍手郡の境の猿田峠がその地点です

猿田峠と烏尾峠との間は4〇〇里になりますが、この4〇〇里が奴国であり、それは律令制の鞍手郡と嘉麻郡(鎌郡)になり、これに穂波郡を合わせたものが戸数二万の奴国のようです。

鞍手郡と嘉麻、穂波両郡は遠賀川水系の郡であり、西の福岡平野や朝倉郡とは三郡山地で隔てられています。同じ遠賀川水系であり人々の交流も密接で、現に今では嘉麻郡と穂波郡とで嘉穂郡を形成しています。これは弥生時代にあっても同様で、遠賀川の水利を共有し通婚が行なわれることで、奴国という部族国家が形成されていたことが考えられます。

このように見てくると遠賀川中、上流部が奴国であり、下流部が不弥国であり、英彦山川流域が伊都国ということで「自女王国以北」は遠賀川流域だということになります。とすれば伊都国も地勢を国名にしていそうですが、伊都からは地勢が思い浮かびませんから、地勢とは関係はなさそうです。

田熊・土穴から烏尾峠までの五〇〇里のルート上には物部氏の伝承が多いことに注意する必要がありそうです。物部氏は古代氏族のなかでも他を圧して同族が多く、活躍の跡も著しいのですが、吉田東伍編『大日本地名辭書』は、筑前鞍手郡の項に物部氏関係の記事を載せています。奴国と物部氏とには何らかの関係がありそう、この点についてさらに探求してみたいと思っています。

後に述べますが遠賀川流域から見ると南の豊後日田郡が、国名のみが列記された21ヶ国の内の16番目の邪馬国(ヤマノクニ)のようです。日田郡は遠賀川流域から見ても、西の筑後平野方面から見ても、また東の豊後灘方面から見ても山中の郡です。そこでヤマノクニと呼ばれていたようです。

であれば邪馬台国も山と関係のある国名だと考えることができそうです。私は邪馬台は音ではなく意味からいえば山土・山戸・山登・山途・山止・であろうと思っています。海と陸との境の国が面土国であるのに対し、平野と山地との境の国が邪馬台国だと思うのです。つまり面土国と邪馬台国は常に対比される関係にあったと考えるのがよいと思うのです。
                                               私は邪馬台国は三郡山地の西の裾野、それもヤマノクニである日田郡に近い南の方の裾野にあったと考えています。しかし「水行十日・陸行一月」とありますから、海に面した部分もあると考えなければならないでしょう。このことは「水行二十日」の投馬国についても言えることです。

2009年8月24日月曜日

伊都国 その6

邪馬台国の位置論もやっと伊都国にたどり着きました。倭人伝の記載順だと次は投馬国になり、その次が邪馬台国ということになるのですが、投馬国は「自女王国以北」の国ではありません。伊都国から「水行二十日」に投馬国があるという通説は誤りです。「水行十日・陸行二十日」も邪馬台国から洛陽までの日数であって、伊都国の位置とは無関係です。

また万二千余里を帯方郡から邪馬台国までの距離とし、伊都国と邪馬台国の間の距離を1500里とする説も誤りです。万二千里は末盧国の海岸までの距離であって、邪馬台国までの距離ではないのです。ということは投馬国・邪馬台国の位置を知る手懸かりはその方位が南ということ以外にはないということです。

従来の説は「水行十日・陸行二十日」や、伊都国と邪馬台国の間の距離を1500里とすることを前提にしています。また唯一の手懸かりの方位の南を東の誤りだとします。これでは邪馬台国の位置など分かるわけはありません。おそらくこの考え方は今後もなくならないでしょう。 しかし思惑が有ってでしょうがこれを完全に無視した説が見られますが、これは論外です

それでは邪馬台国の位置は永遠の謎なのかというとそうでもなさそうです。大坂夏の陣で徳川方は大阪城を攻めあぐね、その外堀を埋めることを条件にして和睦しますが、のらりくらりと内堀まで埋めてしまいます。

そのため冬の陣で大坂城は落城しますが、邪馬台国も外堀を埋め、内堀も埋めないと落城しないようです。そこで邪馬台国の見取り図(?)を作ってみました。


肝心の本丸(邪馬台国)の位置が分からないということになりますが、外堀は女王に属していない諸国で、それには方位や距離の記されているものがありますから、その国の位置が分かれば自ずから邪馬台国の位置も決まってきます。内堀は女王に属しているが方位・距離の記されていない、国名のみが列記されている21ヶ国です。

言ってみれば知将眞田幸村の篭る眞田丸が伊都国(田川郡)ということになるのでしょう。攻城の足がかりになるのが面土国(宗像郡)です。図の方位・距離の起点は宗像郡の田熊・土穴付近です。赤線の間隔が千里で65キロになります。

伊都国 その5

『日本書紀』垂仁天皇紀二年是歳条に都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が穴門(あなと、長門、山口県)に来た時、その国に伊都都比古が居り、「吾は是の国の王(きみ)なり。吾を除きて複(ま)た二王(ふたりのきみ)無し」と言ったことが記されています。

香春神社第三殿を祭る鶴賀氏は都怒我阿羅斯等を祖とする伝承を持っており、香春町採銅所にはそれを思わせる現人神社がありますが、あるいは鶴賀氏などの祖の渡来譚なのかも知れません。長門に王と称する伊都都比古が居たことに注意したいものです。

伊都都比古が伊都国王だと断言できるわけではありませんが、田川郡が伊都国ならその可能性もあり、伊都国王が関門海峡を支配していたことは考えられてもよいことです。しかし糸島郡が伊都国ならその可能性はありません。

私達は弥生文化と言えば玄界灘沿岸が中心になっていると思いがちで、その出土品などを見るとその考え方には説得力があります。ですが弥生文化は玄界灘沿岸だけのものではないはずです。

玄界灘沿岸が中国や朝鮮半島の影響を強く受けていることは事実ですが、それは北部九州が中国・四国地方、あるいはそれ以東の地域の影響を受けなかったというのではなく、中国や朝鮮半島以上に強い影響を受けたはずです。

倭人伝を見ると伊都国は特殊な国のようですが、伊都国は田川郡であって糸島郡ではありません。広嗣の乱が示しているように東の倭人との関係に目を向ける必要があります。田川郡の地理的な特殊性は、女王国内における伊都国の特殊性ということでもあります。

北九州主要部の人々の関心が朝鮮半島ばかりではではなく、中国・四国地方にも向けられていたということで、それは遠く出雲や吉備・畿内、わけても大和及んでいたはずです。具体的に見ると北部九州で造られた銅矛・銅戈が中国・四国地方で出土していますが、その搬出ルートは先の鞍手道、豊後道、田河道のいずれかでしょう。

四国の西南部には広形銅矛が多く見られますが、その搬出ルートは豊後道→豊後水道を経由するものであることは明かですが、瀬戸内海沿岸東部に見られるものについては田河道を経由して運ばれたことも考えなければならないでしょう。

島根県荒神谷遺跡の一六本の銅矛は、研ぎ分けが施されていることから肥前で造られたことが考えられていますが、その搬出ルートについては日本海沿いの海路で運ばれたことも一応は考えられますが、備後、石見の江の川流域の土器が山陰系であることから見て、田河路→瀬戸内海→安芸→備後・岩見の江の川流域→出雲という陸路を考えるのがよいと思っています。

中国の三国時代の銅鏡についても同様のことが考えられますが、この場合には丹波、丹後など畿内北部の日本海沿岸に陸揚げされて畿内の有力者によって配布され、それが北部九州に及んだようには思えません。やはり北部九州が介在しており、主として田河路→瀬戸内海を経由して配布されたと考えるのがよいでしょう。
 
いずれにしても伊都国の特殊性のすべてが、中国や朝鮮半島に由来するという考え方は、それが通説であるとはいえ行き過ぎているように思われます。北部九州には中国や朝鮮半島に由来する文化があり、出雲や畿内には別の文化が有った思えばよいのでしょう

それが統一されたときに大和朝廷が成立するようですが、そこに至るには中国の冊封体制が絡んでいるようです。

2009年8月23日日曜日

伊都国 その4

遠賀川流域では「猿田彦大神」と陰刻された石塔をよく見かけますが、香春付近には特に多く、なかでも香春町の鏡山の周辺では路傍や神社境内などいたる所で見かけます。香春岳から形の面白い石灰岩が出てくるので、それを利用したようにも思えますがそれだけではないようです。

石塔には猿田彦大神と刻まれているものと、庚申と刻まれているものがあり、猿田彦大神と刻まれているものは神道に関係し、庚申と刻まれているものは天台系仏教に関係すると考えられています。鏡山周辺の猿田彦大神は、庚申信仰に香春町採銅所の現人神社の、「お猿様」の信仰が融合し、猿田彦がお猿様になると思われます。

石塔に見られる年号は一七世紀ころから昭和まであって比較的に新しいのですが、なぜ庚申ではなく猿田彦なのかが問題です。庚申信仰は全国にみられますが、北部九州ではそれが猿田彦信仰になるのです。

私は遠賀川流域に庚申信仰が広まる以前から猿田彦信仰があり、鏡山付近に猿田彦が居たという伝承があったと考えています。

国道二〇一号線と三二二号線は鏡山で分岐しており、二〇一号線は行橋方面に、三二二号線は小倉方面に至りますが、このような場所が庚申や猿田彦が祀られる場所になっており、ここに猿田彦大神の石塔が多いのは何らかの理由があると思われます。

話が飛躍し過ぎて理解していただけないと思いますが、私は神話の猿田彦が一大率だと考えています。鏡山のあたりが一大率の「常に伊都国に治す」場所であったと考えるのです。

一大率は鏡山のような交通の要所に配下の者を常駐させていたようです。面土国(宗像郡)と奴国(鞍手郡)の国境は猿田峠ですが、ここにも一大率配下の兵が配置され、面土国と奴国を監視していました直方市にも猿田がありますが、付近で英彦山川、犬鳴川、遠賀川が合流しており、一大率はここで奴国の中枢部を監視していたことが考えられます。

猿田彦はアメノウズメ(天宇受売、天鈿女命)とペアで活動しますが、アメノウズメは伊都国王と考えるのがよいと思っています。アメノウズメには卑弥呼と同様のシャーマンとしての性格があるように感じられます。卑弥呼の死と台与の共立との間に男王が立つが千余人が殺される争乱になります。

伊都国には王が居るが女王国に統属しているとありますが、男王の時代に卑弥呼や台与のように巫女であると同時に王でもあるという役割を演じていたのが、伊都国王だったと思うのです。一大率(猿田彦)と伊都国王(アメノウズメ)がペアで男王の時代を乗り切ったというのでしょう。

猿田彦とアメノウズメがペアになっている物語に天孫降臨の前段がありますが、天孫降臨とは女王制が廃止されたということであり、その終焉に際して一大率制も廃止されたということで、統治権と軍事・警察権が統合され、一本化されたということだと考えています。

部族が擁立した王が稍を支配する時代が終わり、統一された倭国が出現しようとしているのです。

2009年8月22日土曜日

伊都国 その3

伊都国は一大率が居たり、帯方郡使が逗留したり、あるいは王が居るが女王国に統属しているなど、女王国内でも特殊な国だったようです。筑前と豊前との国境の山塊は、周防灘沿岸の平野部と北部九州内陸部を結ぶ東西交通を分断しています。糸田・香春はその筑豊国境の山塊の鞍部ともいうべき位置にあり、これが伊都国の重視される原因になっているようです。

周防灘、長門方面から筑豊国境の山塊を越えて筑前に入るには洞海湾沿いの鞍手道(大宰府道)、田川鞍部を通過する田河道、筑後川沿いの豊後道の三ルートがありますが、この三ルートを支配することは、九州東北部を支配するということであると同時に、周防灘や長門方面との交流を確保できるということであり、その先には吉備や大和があります。

737年、藤原広嗣が反乱を起こし筑紫、豊、肥の兵一万を指揮し、一万七千の朝廷軍と北九州市小倉区の板櫃河(紫川とも言われる)で対戦しますが、朝廷軍が長門から関門海峡を渡って筑紫に入るルートは三つしかありません。

筑後川沿いの豊後道は筑紫に入るには大きく迂回することになる上に、日田のあたりに防御線を張られれば侵入は不可能で、その地勢は広嗣側に有利です。洞海湾沿いの鞍手道(大宰府道)か、田川鞍部を通過する田河道かのどちらかになります

広嗣側の最初の計画では太宰府から兵を発し、北回りの鞍手道から広嗣の指揮する兵五千、南回りの豊後道から弟の綱手の兵五千、中央の田河道から多胡古麻呂(たこのこまろ)が指揮する数不祥の兵が板櫃鎮付近に結集することになっていました。

ところが広嗣の予想よりも早く朝廷軍が豊前を占拠したため、綱手の兵五千は進路を阻まれます。そこで綱手軍は遠賀川沿いに北に向い、遠賀郡家の広嗣の兵と合流し、総数一万で朝廷軍と板櫃河で対峙します。

板櫃河での広嗣の兵力は一万で、それには多胡古麻呂が指揮する数不祥の兵が含まれていません。多胡古麻呂の兵を板櫃河に結集させると田河道の守備が手薄になり、田河道から進攻してきた朝廷軍に背後を突かれるらです。

多胡古麻呂の兵が守備していたのは、その地勢から見ていま問題にしている糸田、香春のあたりだったでしょう。この地を確保することは田河道を確保するということですが、それは遠賀川流域を確保するということでもあり、筑前を確保するということにもつながります。

広嗣が板櫃河を決戦の場とした理由、あるいは多胡古麻呂の兵が板櫃河に結集しなかった理由を考えると、三世紀の伊都国(田河郡)の特殊性がよく見えてきます。広嗣が本営を置いた遠賀郡家は倭人伝の不弥国であり、その西隣が面土国(宗像郡)です。また後に述べますが遠賀川の中・上流部は奴国であり、また豊後道に沿って邪馬台国がありました。

通説では全く考えられていないことですが、面土国王は「自女王国以北」の国である不弥国や奴国を、女王に対して半ば独立した状態で支配していました。その状態があたかも中国の州刺史の如くだというのです。伊都国には一大率が居て諸国を検察していましたが、その目的の第一は田河路沿いの交通を確保することだったでしょう。

一大率の役割と広嗣の乱における多胡古麻呂の役割は同じだと考えることができます。そのような意味では朝廷軍と女王の立場が似ており、広嗣と面土国王の立場も似ていると言えます。

違うのは朝廷軍が長門・豊前から、西の筑前に進攻しようとしたのに対し、女王は筑前から豊前・長門への交通路を確保し、その統治権を東に伸張しようとしていたことでしょう。糸島郡を伊都国とする通説では考えることのできないことです。

2009年8月21日金曜日

伊都国 その2

糸田から金辺川(きべがわ)に沿って東に進むと香春(かわら)ですが、金辺川は『釈日本紀』所引の『風土記』に清瀬川と書かれていて、「昔者新羅国神、自度到来住此河原便即名曰鹿春神」とあります。鹿春神は具体的には延喜式内社、香春神社、あるいはその祭神ということになります。香春町役場の近くの国道にかかる橋の名を唐子橋といいますが、香春の歴史が凝縮しているような名前です。

このように香春には新羅からの渡来者の影が濃厚です。香春神社は三座で、第一殿 辛国息長大姫大目命、第二殿忍骨命、第三殿豊比咩神となっています。第一殿の祭神の辛国息長大姫大目命は、新羅からの渡来民の祀る辛国の神と息長帯姫、すなわち神功皇后、及び香春土着の大目命が合成されたものなのでしょう。私は大目命は大ヒルメのことで、天照大神ではないかと思っています。

第二殿の忍骨命は忍穂耳尊のことですが、第三殿の豊比咩神が問題です。豊比咩神は忍穂耳尊の妻の万幡豊秋津師媛と考えるのがよいのかもしれませんが、私は神功皇后の妹とされる豊ヒメ(淀ヒメとも)を考えています。そしてこれは卑弥呼の後継者の台与(豊)のことではないかと思っています。

『大宰管内志』によれば鹿春神社の神官には赤染氏(あかそめし)二家、鶴賀氏(つるがし)一家があり、第一殿、第二殿を赤染氏が奉祭し、第三殿を鶴賀氏が奉祭していたようです。赤染氏は赤色を用いる渡来系の工芸者集団ですが、香春の赤染氏は赤がね、つまり銅を用いる工芸者のようです。その銅を使用した工芸品として銅剣・銅矛・銅戈、そして銅鏡を考えてみる必要がありそうです。

香春神社の第三殿は空殿になっていて、香春町採銅所の古宮八幡宮として独立した神社になっています。古宮八幡宮の神官の鶴賀氏は宇佐神宮の特殊神事、放生会に先だって行われる銅鏡の鋳造に当たったことが知られていて、その技術者は新羅からの渡来民であったといわれています。 銅鏡の鋳造には、宇佐神宮の神官に渡来系の辛島氏がいるのも何らかの関係がありそうです。

香春を含めた豊前に渡来系の姓の多いことはよく知られていますが、『正倉院文書』の中の豊前国戸籍帳断簡(704)には「秦部」「勝」など渡来系氏姓が70~90パーセントを占めている例があります。このことを示しているような文が『隋書』にも見られます。
                                               又至竹斯国、又東至秦王国、其人同於華夏。疑不能明也

竹斯国(筑紫国)の東に秦王国があるが、そこに住む人は中国人と同じだと述べられています。秦王国のことがよく分かりませんが、豊前のことだと考えることも可能です。豊前には中国からの渡来民が多く、渡来してきた人々は香春に逗留して移住地を探し、目的地が決まると分散して行ったのでしょう。それは豊前国内とは限らず、瀬戸内海を東に進み河内・摂津に達した者もいたことを考えなければならないようです。 
                                               香春には渡来してきた人々を長期間にわたって逗留させる態勢が整っていたように考えられます。伊都国は「郡使(ぐんし)の往来して常に駐(とど)まる所」でしたが、香春がその場所だったことが考えられます。留まったのは郡使だけでなく青銅の鋳造技術者達もいたのです。後世の渡来人が畿内に流入するについても香春を経由した者がいたことを考えなければならないでしょう。

2009年8月20日木曜日

伊都国 その1

それでは面土国を放射の中心として各国を見てみましょう。起点は釣川中流域の田熊・土穴付近で、JR九州鹿児島本線の田熊駅と赤間駅の間になります。稍の考え方では方位、距離の終点は国境や海岸、大きな河川などで、国都など中心地が終点になることはありません。一里は六五メートルです。

田熊の東7 キロほどの所が宗像と遠賀郡の郡境の城山峠ですが、国道三号線やJR九州鹿児島本線などがここを通っていて、宗像と遠賀を結ぶ古代からの要路です。ここが不弥国への百里の終点であり、遠賀郡が不弥国なのです。また東南9キロほどの所が宗像と鞍手郡の郡境の猿田峠ですが、ここが奴国への百里の終点であり鞍手郡が奴国です。

付近で宗像・遠賀・鞍手の三郡の郡境が交わっていますが、これは面土国、不弥国、奴国の国境が交わっているということで、倭人伝の国が律令制の郡になり、その国境が律令制の郡境になったことが考えられる好例です。従来から倭人伝中の国については律令制の郡程度の広さであろうと言われていましたが、それを証明することが出来ませんでした。以後、各国を比定していくうちにこのことがはっきりしてきます。

東南陸行五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚。千余戸有り。世王有るも皆女王国に統属す。郡使の往来して常に駐(とど)まる所

帯方郡使の張政は、郡使の往来して常に駐まる所である伊都国に注目していますが、土穴の東南で五百里(32、5キロ)の地点の郡境といえば、嘉麻郡(現嘉穂郡)と田川郡の郡境になります。

国道201号線の烏尾峠の 北1キロほどのところに旧烏尾峠があり、峠への進入路は筑豊緑地公園の一部として整備されています。写真中央の橋の下が峠への上り口になっています。峠の守護神として龍天神社が祭られており、烏尾峠が五〇〇里の終点であり、そのコースは次ぎのようになると思われます。

1、土穴から釣川に沿って東南に進み、鞍手郡との郡境の猿田峠までが百里である。猿田峠が面土国と奴国の国境で、これが倭人伝に見える奴国への百里でもある。
2、鞍手郡内は西川に沿って南に進み六ヶ岳の西側を通るが、六ヶ岳のあたりが二百里である。

3、ここから宮田町内を進み犬鳴川を渡るが犬鳴川のあたりが伊都国への五百里のコースの半分である。
4、遠賀川を渡った後には鹿毛馬川沿いに進まないと、迂回して飯塚から烏尾峠に至ることになり、これでは五〇〇里を越える。遠賀川の渡河地点は小竹だと思われる。 

5、遠賀川を渡ると鹿毛馬川沿いに進み、朝鮮式山城としてよく知られている鹿毛馬神護石のそばを通る。ここまで四五〇里に少し足りないくらいである。現在の地理感覚でいえば、なぜここに朝鮮式山城が必要だったのかと思えるが、この地は玄界灘と周防灘・豊後灘を結ぶ、内陸部の要所だったようである。


6、五百里の終点が烏尾峠だが、この峠は古代から筑前と豊前を結ぶ横断道の要所であった。律令制官道の田河路もここを通っており、庄内町綱分が律令制官道の綱分駅の名残りであり、香春町香春が鹿春駅の名残りなら地理的に見ても烏尾峠を越えることになる。貝原益軒の『筑前国続風土記』にも「大道」と呼ばれていたことが見えており、現在の国道二〇一号線烏尾峠も県下有数の交通量になっている。

烏尾峠から急坂を下って行くと糸田(いとだ)ですが、遠賀川流域は福岡平野とは三郡山地で隔てられているとはいえ、なぜか青銅祭器の出土があまり多くありません。豊前の沿岸部よりも分布密度は低いといえそうですが、そうした中で面積八平方キロの糸田町に青銅祭器の出土が集中しています。

糸田町内銅矛10本、糸田町出ヶ浦銅戈6本、糸田町大宮銅戈9本、他に糒(ほしい)の銅剣3本などです。英彦山川流域の青銅祭器がすべて糸田に集まっているように思えますが、後に述べるように青銅祭器の出土地の近くには弥生終末期の政治的な実力者がいます。糸田が伊都国王の居た場所と考えてよいようです。

糸田がそうであるように、糸田の周辺には伊都に類似する地名が集中しています。糸田の南は位登ですが、これは「いと」ではなく「いとう」と読むのだそうです。位登は『倭名類従抄』などにみえる田河郡位登郷の残存地名で田川市のあたりだと言われていますが、伊都に類似する郷名が存在することに注意する必要があるでしょう。

また伊田(いた)、伊方(いかた)、糸飛(いととび)、伊加利(いかり)、猪国(いのくに)、位猪金(いいかね)、池尻(いけしり)など「い」の音を含む地名が集中していることも注目されます。これらの地名も糸田のあたりが伊都国の中心地であったことを表していると考えることができます。

「自女王国以北」の国々その9

宗像郡の釣川流域は大きく湾入しており、宗像市役所のある田熊付近まで入海であったと考えられています。しかし弥生時代の海水面は現在と変わらないと言われていますから、玄界灘を渡って中国、朝鮮半島に行ける大型船が田熊まで行けるとは思えません。

宗像市多礼の釣川河床遺跡で銅矛が出土しています。その出土状況が分からないので断言はできませんが、大型船は宗像大社辺津宮あたりまでは入って来れたが、田熊までは行けなかったように思われます。多礼は宗像大社と田熊の中間になります。

帯方郡使の張政は辺津宮付近に上陸し、刺史の如き者(面土国王)の捜露を受けた後、徒歩かあるいは川舟かで田熊付近まで行ったようですなぜそのように言えるかということですが、倭人伝に見える国々の方位・距離は田熊付近が起点になっているようなのです。

元禄16年(1703)、貝原益軒が『筑前国続風土記拾遺』を書かきましたが、筑前国(福岡県)の風土の聞き書きという題名になっています。その中に宗像郡土穴村(宗像市土穴)の生目八幡宮の記事があります。

此邊(このへん)昔は江口(玄界町江口)の邊より、江海來(こうかいきた)りて、船など着しとて、宮(生目八幡)の南の田の中に大碇(おおいかり)、小碇(こいかり)などいふ處有(ところあり)。此社(このやしろ)をいにしへ御船上社と云ひ。また向かひの田久村(宗像市田久)の境内に、御船漕社あり。是海邊(これうみべ)なりし故也(ゆえなり)。是より江口迄、今は二里計の陸地なりといへども、其地勢を見れば、左も有ぬべく思はる。田圃の字にも、海邊の名多く残れり。

昭和50年代に宗像を歩き廻っていたころ、生目八幡宮の鳥居の前の民家の庭に、大碇・小碇だという岩があるのを見た記憶があります。今は無いようですがどうなったでしょうか。鳥居の前に船が着いたのかどうか気にしています。

益軒の書に見える江口は釣川河口の集落で、宗像大社五月宮(さつきぐう)がありましたが、土穴から江口まで二里(8キロ)ばかりの陸地で、昔は海で生目八幡宮の南に船が着いたというのです。土穴の生目八幡宮は御船上社だといわれ、田久の若八幡宮の境内には船宮神社があり、これが御船漕社だと思われます。

その土穴の西、3キロほどに田熊石畑遺跡があって、昨年夏、細形の武器形青銅器15本が出土しました。宗像に着目したのは髙木彬光氏の『邪馬台国の秘密』が評判になっていたころでしたが、15本の青銅器が出土するとは思ってもいませんでした。まさに「青天の霹靂」です。

田熊石畑遺跡からは船着場の遺構ではないかと言われる環壕が見つかっています。付近を流れている川と環壕の外側の谷のような部分とは繋がっており、谷部が船着場になっていて、環濠内部が倉庫になっていたのではないかと考えられています。 海洋民の宗像族を思わせる遺構です。

青銅器の時期は中期前半だと考えられていますが、私は中期前半を紀元前一世紀だと考えています。近くでは以前に四本が出土しており合計19本になりましたが、これは福岡市の吉武高木遺蹟の11本を凌いで最多です。これらの青銅器が製作された時期には倭人の百余国が遣使しているのですが、その内の一国が宗像であることが考えられます

私は今まで、宗像神社の「根本神領」とされて宗像大宮司が住んでいたことなどから、釣川流域の中心は土穴付近だと考えてきました。しかし田熊石畑遺跡の発見で状況が変わってきました。付近には釣川流域最大の東郷高塚古墳もあり、釣川流域の中心は土穴よりも田熊と考えるのがよいようです。

先に不弥国=遠賀郡、奴国=鞍手郡、伊都国=田川郡という比定ができることを述べ、またその国境は律令制の国郡境の可能性のあることを述べました。倭人伝の百里は6、5キロですが田熊・土穴を起点にすると、奴国、不弥国の国境が宗像郡と鞍手、遠賀両郡の郡境になります。遠賀郡との郡境は城山峠であり、鞍手郡との郡境は猿田峠です

辺津宮を基点にすると遠賀郡境の垂見峠までが百里だと考えることもできそうですが、鞍手郡境の猿田峠までが百里(6、5キロ)だとは言えません。田熊・土穴付近を起点にすると遠賀郡境の城山峠、及び猿田峠までは7~9キロになって、百里と言ってよい距離になります。

田熊・土穴付近には外国使節を饗応するための館が有ったように考えられます。帯方郡使の張政は伊都国に陸行するまでの間、この館に逗留したのでしょう。この田熊・土穴付近での逗留中の見聞が倭人伝の地理記事、風俗記事になっているようです。

2009年8月14日金曜日

「自女王国以北」の国々 その8

中世宗像の特殊神事に「五月会行幸神事」がありましたが、これも5月5日の「五月まつり」として再興されたことがありますが、神事が煩雑になることから現在では行なわれていないということです。この神事は宗像大社の「隠れた象徴」とも言える玄海町江口の五月宮の神事です。

『宗像神社史』によると浜殿は元は辺津宮の「馬場の東端」にあったということです。神宝館前の駐車場の北側に万葉歌碑がありますが、そのあたりだそうです。本殿のごく近くであり、釣川に最も近い位置ですから その可能性はあるように思います。

今から4700年ほど前には、釣川流域は東郷のあたりまで湾入していたが、海退と釣川の沖積により陸化したと言われています。そのため水面から離れることのできない浜殿は2キロ下流の現在地に移されたようで、このことから浜殿は船が神祠になったものだと考えることができます。

『宗像神社史』によると現在地に移る前の元来の浜殿は宇佐市和間浜にある宇佐神宮の浮殿と同様の、水面上に浮かぶ高床式の神祠だったということです。宇佐神宮の浮殿は放生会神事に先立って、田川郡香春で鋳造された神鏡が収められましたが、浮殿も神鏡を運ぶための船が神祠になったと考えられます。 

五月会行幸神事は浜殿にしつらえた五基の神輿に架け渡された緋色の綱を持つことによって、宗像周辺の一〇の神社の神人と神輿(みこし)の霊とが結縁を結ぶというもので、神輿が浜殿に着くと神輿から「御上座」という胡床(腰掛け)が出され、その前で祝詞が奏上されたといいます。

胡床の前で祝詞が奏上されるのは、胡床に着座した貴人が想定されているのでしょう。祝詞には着座している貴人を歓送することが述べられていたはずです。 その後、やはり胡床を主体にした「饗膳事」という饗宴が行われますが、これも胡床に座った貴人が想定されているのでしょう。

輿に乗った貴人が船に乗るために港に着くと、宗像近在の主だった人々が集まって来てセレモニーが行われたのでしょう。そのセレモニーが五月会行幸神事になったと考えることができます。 神事になるくらいですから、それは幾度も行われたのでしょう。

前回に述べた「御長神事」は中国、朝鮮半島からの使者が宗像に着いた時、あるいは派遣されていた倭人の使者が帰国した時の海上の光景でしょうが、五月会行幸神事は中国、朝鮮半島からの使者が帰国する時、あるいは倭人の使者が出発する時の陸上の光景のように思えます。宗像神社の特殊神事は宗像の性格をよく表しているようです。

沖津宮のある沖ノ島で海洋祭祀が始まるのは4世紀だとされていますが、二世紀から三世紀にかけての宗像も中国・朝鮮半島との交流の拠点になっていたことが考えられます。宗像市の田熊石畑遺跡で15本の青銅器が出土したことは、それがさらに紀元前1世紀にまで遡るということでしょう。

浜殿は元は辺津宮のそばの釣川の川岸に有ったと言われていますが、私は張政の乗った船は辺津宮付近まで入って来たと思っています。 髙木彬光氏は帯方郡使は神湊に上陸したとしていますが、当時の釣川流域は大きく湾入していたことが考えられています。

辺津宮本殿の背面(南側)に観音開きの扉が取り付けられていますが、その扉の先には高宮祭場があります。出土品などから辺津宮が創建される以前には高宮祭場で海洋祭祀が行なわれていたことが考えられていますが、この扉は高宮祭場に降臨した神が本殿に入る為の入り口のようです。

倭人伝は津で捜露が行われたと記していますが、その津は高宮祭場の麓、つまり辺津宮の馬場の東端にあった、元の浜殿の位置であろうと思います。そこでは捜露が行われると共に、五月会行幸神事に見られるような送迎のセレモニーも行なわれたでしょう。

古墳時代にあっても この地は使節の供応の場であったと考えます。供応の場は後に博多湾に移るようですが、その跡地に辺津宮が創建される考えています。神社の始源が三世紀中葉にまで遡ることを実証できる例は他にはないように思います。

2009年8月13日木曜日

「自女王国以北」の国々 その7

宗像大社の特殊神事に「みあれ祭」がありますが、この神事は中世に行われていた「御長手神事」を昭和37年に復活したものです。沖ノ島の奥津宮で神璽(榊の串に神竹を添えたもの)をそなえて神事を行った後、これを大島の中津宮に移します。

中津宮でも同じ神事が行なわれ、両宮の神璽はその年に宗像七浦(大島、鐘崎、地嶋、神湊、勝浦、津屋崎、福間)で新造された船の中から選ばれた御座船に乗せられて神湊に上陸します。御座船には浪切大幣が、他の船には紅白二流の旗が立てられます。

10月1日に行われる「みあれ祭」では2隻の御座船、それに七浦の漁船五百数十隻が神送船として紅白の旗、大漁旗を押し立てて、大島から神湊まで海上を航行します。

その壮観さはかつての宗像海人族の姿を思い起こさせます。帯方郡使の張政が面土国(宗像)の津に来た時にも同様の光景が見られたと考えています。

この神璽のことをミナガテ(御長手)と言いますが、ミナガテについて『宗像大菩薩御縁起』は、神功皇后の三韓征伐の時、宗像大神がミナガテを振り下ろすと高良大菩薩(こうらだいぼさつ)が乾珠を海に入れて潮を干し、ミナガテを振り上げると滿珠を入れて潮を満たしたと記しています。

こうして戦いに勝った後、ミナガテを沖ノ島に立てておいたところ、それは成長し続けたといい、またミナガテに付けていた旗は鐘崎の織幡神社の祭神になったということです。また竹内宿禰(たけしうちのすくね)が作った紅白二流の旗をミナガテに取り付けたとも言われています。

これらのことからミナガテは旗竿であることが分かります。 この旗は異国を征伐するための軍旗だったように思われます。御長手神事は二流の旗、または旗竿が宗像に上陸してくるのを、宗像七浦の海人が出迎えたという、歴史上の事実が伝えられているようです。

宗像に二流の旗、または旗竿がもたらされたことは歴史上の事実で、沖ノ島5号遺跡から六世紀の東魏時代の金銅製龍頭(りゅうとう)一対が出土しています。東魏時代という年代については見直しが必要ということですが、龍頭は旗竿の先端につける飾り金具です。

卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と不和の関係にあり、このことを魏に訴えましたが、それに対し魏は、正始六年に難升米に黄幢を授与しています。黄幢は軍事指揮権を付与されたことを表すもので、ミナガテと同じ性格を持っていると考えられます。

正始八年、帯方郡使の張政が難升米に黄幢を届けるために宗像に上陸しましたが、倭人伝の記事の多くはこの時の張政の見聞です。「御手長神事」の起源の一つに難升米に授与された黄幢が宗像に届いたことがあると言えるようです。

2009年8月12日水曜日

「自女王国以北」の国々 その6

面土国は港の国で朝鮮半島・中国との外交・交易の拠点だったことが考えられますが、宗像の歴史はまさに港の国そのものであり、それを語りだせば際限がありません。その象徴とも言えるのが宗像大社です。

玄界町田島の辺津宮(へつみや)に市杵島姫(いつきしまひめ)、大島村大島の中津(宮(なかつみや)に湍津姫(たきつひめ)、沖ノ島の奥津宮(おきつみや)に田心姫(たこりひめ)が祭られていて、祭神の三女神について『日本書紀』の一書は次のように記しています。

すなわち日神の生まれた三柱の女神は葦原中国の宇佐嶋に降り居られる。今、海の北の道の中に座す。名を道主貴という。これが筑紫の水沼君等が祭る神である。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の所持する剣を三つに折り、それを天照大御神(あまてらすおおみかみ)が口に含んで吹き出すと、その霧の 中から三女神が生まれますが、三女神は葦原中国の宇佐嶋に降り立ち、今は海の北の道の中に鎮座しており、名を道主貴というと述べられています。

この道主貴が祀られているのが宗像大社ですが、女神が素戔嗚尊との関係で語られていることに注意が必要です。 素戔烏尊の「スサ」が面土国王の帥升のことであることはすでに触れましたが、その神話の舞台は宗像だと考えなければいけません。

「海の北の道」とは元来、日本から朝鮮半島をさす語で『宗像神社史』は辺津宮、中津宮、奥津宮の三宮をへて、朝鮮半島に至る航路だとしています。私は安曇海人が壱岐・対馬を経由して朝鮮半島に至る航路を取ったのに対し、宗像海人は沖ノ島、対馬の北岸を経由して、朝鮮半島に至る航路を取ったと考えていますが、道主貴とはその航路を守護している最高神だという意味です。

図は上田正明氏の『日本の歴史』から引用させていただきましたが、関門海峡からだと壱岐・対馬を経由する航路よりも、沖ノ島・対馬北岸を経由する航路の方が朝鮮半島に近くなります。スサノオの伝承が出雲や紀伊に見られますが、宗像海人の活動の場が九州よりも東方にあったことを思わせます。

この一書では水沼君などが祭る神だとされていますが、宗像神社は宗像氏が奉祭してきました。この神話が示しているように宗像氏は海洋の民として活躍してきた氏族で、四世紀になると大和朝廷が朝鮮半島を支配しようとするようになり、その進出を宗像氏が先導したことが考えられています。

4世紀になると沖津宮のある沖ノ島で大がかりな海洋祭祀が始まりますが、沖ノ島の海洋祭祀遺跡は質の高い大量の出土品が有ったことから海の正倉院」と呼ばれていて、大和朝廷が直接に祭とも言われています。宗像の歴史が4世紀に突如始まるとは思えませんが、その前史が面土国なのです。

三女神の神話は4世紀よりも以前に、宗像海人が朝鮮半島と交流していたことを表していると考えることができます。宗像郡が面土国であればその交流は2世紀のはじめにまで溯ることになりますが、私は57年の奴国王の遣使にも宗像海人が関与したと考えています。

弥生時代は部族が国を形成した時代で、面土国王を擁立した部族が存在していました。大和朝廷が成立する時、部族は統一されて消滅しますが面土国王を擁立した部族も消滅し、その中の宗族が後に筑前の宗像氏、筑後の水沼君、豊後の大神氏などになると考えています。これらの宗族のことが3女神として語り伝えられているようです。

2009年8月11日火曜日

「自女王国以北」の国々 その5

前回の6条件を宗像郡がどのように満たしているかを見てみましょう。 何度も強調しますが方位・距離の終点は国都など中心地ではなく境界です。多くの説では有名遺跡を起点・終点にしますが、これらの遺跡は偶然に発見されたもので、その遺跡を起点・終点と断定するにするには別個の検証が必要です。有名だということと起点・終点であるということとは同じではありません。

条件1に対して 
宗像郡の東は遠賀郡であり東南は鞍手郡ですが、遠賀郡を不弥国に、鞍手郡を奴国に比定することができます。東南の田川郡を伊都国に比定することができますが、田川郡には伊都に似た地名が見られます。これらの郡はいずれも遠賀川水系で、「自女王国以北」とは遠賀川水系流域ということになります。

条件2に対して 
宗像郡の南は福岡平野、筑後平野、佐賀平野ですが、戸数七万の邪馬台国、五万の投馬国が有っても当然の地域であり、むしろこれを否定するほうが不自然です。私は邪馬台国は福岡平野にあり、投馬国は筑後平野にあったと思っています。
                   
                       条件3に対して 
筑後平野の南は肥後(熊本県)、薩摩(鹿児島県)ですが、それぞれ狗奴国、侏儒国に比定することが可能です。 私は肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたのではないかと思っています。

条件4に対して
宗像郡の北及び東北は響灘であり、北から西南にかけては玄界灘なので国がありません。

条件5に対して
宗像郡の東の海といえば関門海峡や周防灘であり、東南の海は豊後灘です。宗像を起点とすれば倭種の国は周防、長門(山口県)になります。千里を周防灘の幅と考えると安芸(広島県)が倭種の国であり、また裸国・黒歯国は四国東部だと考えることができます。

条件6に対して
北部九州の西海岸は典型的なリアス式海岸で地形が非常に複雑です。「周旋」は海岸線がある所では途切れある所では連なって、うねうねと続いている状態だとされていますが、北部九州西海岸から天草諸島周辺にかけての地勢をみごとに表現しています。その長さの五千余里は佐賀県東松浦半島から薩摩半島南端までの距離と一致しますから、「倭の地」とは九州のことだと考えることができます。 

裸国・黒歯国についてですが、私は原文の「又有裸国・黒歯国。復在其東南船行一年可至」を「又有裸国・黒歯国其東南。復在、船行一年可至」という意味に解釈しています。「有」は裸国・黒歯国に係る文字であり、「複在」は裸国・黒歯国の他にも国が存在しているという意味だと思うのです。四国や本州に出雲・大和・越などの国があるというのです。

倭人伝の地理記事は、宗像郡を中心にした九州の地理と一致します。宗像郡が面土国なのです。そして注意しなければならなのは、律令制の宗像、遠賀、鞍手、田河などの郡の原形がすでに見られることで、弥生時代の国が律令制の郡になることが考えられ、弥生時代の国境が律令制国郡の国境、郡境になることが考えられます。

もちろん後世に設置されたことが明かな郡もありますが、それは交通路の発達や経済的・政治的な変化に伴うもので、基本的には弥生時代の国・郡境を踏襲しているようです。それには「通婚圏」 が影響しているようです。

2009年8月10日月曜日

「自女王国以北」の国々 その4

倭人伝の記事の多くは帯方郡使の張政が黄幢、詔書を届けに来た時に面土国で見たことや聞いたことですが、通説では面土国の存在することは考えられていません。面土国の存在を認めることで余計な推察や、外部からの無用な情報が整理されて簡単にその位置を知ることができます。

面土国は宗像郡ですが、伊都国以後の国の方位、距離は面土国を中心とする放射行程であり、その終点は国境であって中心地ではありません。また倭人伝の千里は魏里の150里(65キロ)です。そして次の条件を満たす所が面土国です。

条件1
面土国の東百里(6,5キロ)には不弥国が位置し、東南百里には奴国が位置している。また東南五百里(32,5キロ)には伊都国も位置している。南には投馬国、邪馬台国、狗奴国、侏儒国があり、従って東から南にかけては陸である

条件2
面土国の北から西にかけては国がないから海である
条件3 
女王国の東千里(65キロ)に海があって、渡ると倭種の国がある
条件4 
東南にも海があって渡ると裸国・黒歯国があるというのだから、面土国の東から東南にかけては陸であり、その先には海があり、さらにその先にも陸がなければならない

条件5
侏儒国は女王国の南四千里(260キロ)に位置しているから、倭国は南北に長い島であることが考えられる
条件6
その島の南北の長さが「周旋五千余里」だと考えられる。周旋は海岸線がある所では途切れ、ある所では連なって、うねうねと続いている状態だとされている。五千余里は325キロになる  

裸国・黒歯国については船行一年を要するとも読めますが、船行一年については本州の東端に至るのに一年を要するという意味だと理解しています。そこには出雲や大和、越があります。邪馬台国=畿内説が成立する余地はまったくありません。その詳細は後ほど述べたいと思っています。

このような面土国の条件を満たす所は日本全国を探し回っても二ヶ所とありません。ことに南以外のすべてが海という場所は太平洋側にはなく、日本海側でも能登半島くらいしか思い浮かびません。しかし能登半島は南北に長い島ではありません。

畿内説では女王国の東の海を琵琶湖や伊勢湾とする考えもあるようですが、この条件をすべて満たしているでしょうか。東の海が問題にされているだけで条件と合致しません。この条件を全て満たしているのは筑前宗像郡だけです。  

2009年8月9日日曜日

「自女王国以北」の国々 その3

昨日ネット上で面白い記事を見ましたので引用させていただきます。「従郡至倭の行程 その5」 に関連するものです。通説では帯方郡使は末盧国に上陸し、伊都国まで陸行したとされていますが、その伊都国では女王が諸外国に使節を送る時や、諸外国の使節が着いた時に一大率が津(港)で捜露を行ったとされています。

投稿者のご指摘のように、津で捜露が行われるということは船が出入りしているということ考えてよいでしょう。とすれば帯方郡使は末盧国に上陸し伊都国まで陸行したが、文書や賜遺の物を積んだ船はそのまま伊都国の港に着いたいうことになりそうです。

帯方郡使は「草木茂盛して行くに前人を見ず」という所を陸行し、その沖には今まで乗っていた船が並走しているという珍妙な光景が出現することになります。 投稿者は陸行した時と水行した時の2度の遣使があったと考えておられるようですが、言われてみればその通りです。気がつきませんでした。

いずれにしても帯方郡使は末盧国に上陸し伊都国まで陸行したという通説は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとする『日本書記』の記事から生まれたものです。通説は矛盾だらけであり、陸行の必要はありません。末盧国は一時的な寄港地なのです。

帯方郡使が末盧国に上陸していないということは、糸島郡は伊都国ではないということです。私は国名のみが列記された21ヶ国の最初の斯馬国は「島の国」で、これが旧志摩郡であり、旧怡土郡は邪馬台国の一部だと思っています。

大宰府天満宮蔵『翰苑』に邪届伊都、傍連斯馬とあります。この文は邪馬嘉国(書によって嘉、台、壱と混乱しているがいずれも邪馬台国のこと)が、伊都国に届く一方で斯馬国に連なっていることを表していると考えることができます。

私は伊都国は田川郡だと考えていますが、この斯馬国が志摩郡であり、邪馬嘉国(邪馬台国)の傍に連なっている部分が怡土郡だと考えます。 邪馬台国の戸数は7万ですから相当に広い地域を考えなければいけませんが、私は当時の戸数を律令制の郡当たりで平均するとは7千戸程度になると考えています。

7万戸は10郡くらいになると思いますが、それは筑前を三郡山地で東西に2分した時の西側になると考えています。この理屈で言うとむしろ志摩郡も邪馬嘉国(邪馬台国)であってもよいようですが斯馬は島のことでしょうから、それを志摩郡とするのがよいと思うのです。

「自女王国以北」の国々 その2

高木彬光氏は末盧国を宗像としていますが、私には宗像を末盧国とする積極的な根拠が見当たりませんでした。一大国(壱岐)からの距離は千里ですが方位が書かれていないので宗像を末盧国と断定することはできません。安本美典氏が宗像の可能性があることを示唆されていることは知っていましたが、なんとなく納得できませんでした。

また高木氏は帯方郡使は神湊(こうのみなと)に上陸したとしますが、倭人伝にみえる末盧国は平地がないというイメージですが、釣川河口の神湊の光景とは一致しません。また私には末盧国は唐津平野よりも東松浦半島の呼子あたりの光景のように思えました。

今でも面土国の名前を知っている人は多くありませんが、そのころ面土国に触れているのは井上光貞氏の『日本の歴史』の「神話から歴史へ」くらいのものでした。私が面土国の存在を知ったのが『神話から歴史へ』です。そして面土とはミナト(港・湊・水門)のことではないかと思うようになりました。

そこで列車で乗り合わせた中国人に北京官話音で面土を発音して貰ったところ、確かに「ミナト」と聞こえます。宗像の歴史はまさに「港の国」そのものです。宗像は末盧国ではなく面土国だと考えることが可能になってきました。

それと共に従郡至倭」の行程の国と「自女王国以北」の国とが連続したものでないことが分かり、その接点に面土国が位置することも分かってきましたこのことに気づいた時は、もやもやが一気に吹っ飛んだ思いでしたが、これが私の邪馬台国にのめり込んだ原点です。

確かに倭人伝の文脈上では「従郡至倭」の行程と「自女王国以北」の国とは連続していると思わざるを得ません。しかし「行間を読む」と言うのか、あるいは「言外にものを言う」とでも言うのか、そうゆう表現方法がありますが、「従郡至倭」と「自女王国以北」の関係はそうした表現方法になっています。

これは倭人伝の文脈上では、面土国は「従郡至倭」にも「自女王国以北」にも属していないので、面土国の名前を書く場所がないいうことです。このことが考えられていないので、放射行程説と直線行程説が対立しています。

陳寿が倭人伝を撰述するについては、帯方郡に提出した帯方郡使の張政の報告書が参考になっていると思われますが、張政の報告書の不備か、または陳寿の誤解釈が原因になっていると思われます。

このことは「自女王国以北」の国と、投馬国や邪馬台国の関係についても言えることで、注意が必要です。ここでも 「行間を読む」 必要があります。先に「邪馬台国と面土国 その7」で投馬国の「水行二十日」は呉まで、また邪馬台国の「水行十日・陸行一月」は洛陽までの所要日数であることを述べましたが、これらの日数は「自女王国以北」の国の位置とは全く無関係です。

つまり投馬国は「自女王国以北」の国には含まれないのです。私は投馬国は「自女王国以南」の国だと思っていますが、邪馬台国の位置と「自女王国以北」、及び「万二千余里」・「水行十日・陸行一月」は直接には関係がありません。これらは邪馬台国の位置を推定する根拠にはなりません

2009年8月8日土曜日

「自女王国以北」の国々 その1

私が宗像郡が面土国であることに気づいたのは、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことがきっかけになりました。探偵神津恭介が邪馬台国の位置を推理するという推理小説ですが、この小説では末盧国を宗像郡に、また邪馬台国を宇佐に比定しています。宇佐神宮の鎮座する亀山が卑弥呼の墓だというものです。

小説の前半では通説が紹介されていますが、これには矛盾があって高木氏はこれに着目しています。末盧国は佐賀県東松浦半島のあたり、伊都国は福岡県糸島市のあたり、奴国は福岡平野です。不弥国は説が分かれ福岡県宇美とする説や津屋崎とする説、あるいは宗像とする説があります。

小説では神津恭介が唐津から糸島への陸行に不審を抱いたことになっています。唐津湾に張り付いたような唐津と前原の間の陸路を陸行する必要があるのかというのです。通説の根拠らしいものといえば福岡平野に近い志賀島から「漢委奴国王」の金印が出土したくらいで、末盧国を東松浦半島あたりと見る必要はなく、宗像が末盧国であってもよいというのです。

一大国(壱岐)から末盧国までの距離は千里ですが、方位が書かれていないので末盧国の位置を特定することはできません。厳密に言えば末盧国が佐賀県東松浦半島のあたりという通説には根拠がないことになり、高木氏の言うように宗像であることもあり得ます。

宗像の歴史を見れば帯方郡使が宗像(神湊)に上陸したことは十分に考えられることです。 通説は矛盾だらけで、方位も距離も倭人伝の記述と合いません。他に考えようがないので通説ということになっているだけで、通説だから正しいというわけではないのです。

私は帯方郡使が宗像(神湊)に上陸したという考えに強い関心を持ち、地図を買ってきて宗像とその周辺に何があるかを調べてみました。このことが印象深くて、京都駅近くの地図専門店で買ったことを今でも覚えています。

地図で調べてみると宗像の東南の田川市の周辺に位登(いとう)、伊田(いた)、糸田(いとだ)、伊方(いかた)、糸飛(いととび)、猪国(いのくに)など伊都によく似た地名が集中しています。田川市のあたりが東南五百里の伊都国であることが考えられました。

とすれば東南百里の奴国は鞍手郡であり、東百里の不弥国は遠賀郡ということになります。いずれも遠賀川流域の郡です。

高木氏は帯方郡から邪馬台国までの9ヶ国を、直線上に並んだように位置しているとする直線行程と考えて邪馬台国を宇佐だとしています。伊都国は北九州市付近、奴国は豊前市付近だというのですが、私は中心地のまわりに放射状に国が位置する放射行程を考えたのです

放射行程では宇佐が邪馬台国になることはありません。結論になってしまいますが、夷伝中でも直線行程になっているのは、韓から末盧国までの「従郡至倭」の行程だけで、他の諸伝にもまったく見られません。

これは倭が海中の島国であるために、その位置を放射行程では説明できないからです。倭国内の国については放射行程で説明できますから、伊都国以後は放射行程になっています。邪馬台国の位置は直線行程では解明できません

2009年8月7日金曜日

「従郡至倭」の行程 その5

倭人伝は末盧国について次のように記しています。これは正始8年(247)に黄幢・詔書を届けに来た帯方郡使の張政の見聞です。

末盧国に至る。四千余戸有り。山海に濱(ひん)して居す。草木茂盛して行くに前人(ぜんじん)を見ず。好んで魚鰒を捕え、水の深浅と無く、皆、沈没して之を取る。

「山海に濱して居す」というのですから、山が海にせまって平地の無いところに住んでいるのでしょう。草木が茂盛して前を歩く人が見えないというのですから、道らしい道もなく、潜水して魚貝類を採取する生活が伺えます。玄界灘沿岸の光景が述べられているようですが、佐賀県東松浦半島の呼子あたりの光景のようです。

末盧国については唐津平野とする説もありますが、唐津平野なら別の書きようがありそうなもので、これが唐津平野の光景だとは思えません。長い航海のすえに初めて見た倭国の光景が末盧国の海岸でしたが、その海岸が「従郡至倭」の行程の終点だったのです。

末盧国は一時的な寄港地であり、帯方郡使が東松浦半島に上陸し糸島郡まで陸行したという通説は間違っています。 髙木彬光氏の「邪馬台国の秘密」はこうした視点に立って書かれた推理小説ですが、これを史学の視点で見ようという動きはないようです。 通説では福岡平野まで船で行けばよさそうなものなのに陸行したとされています。

この陸行についてはデモンストレーションだったという考えもあります。しかし徳川時代の朝鮮通信使のように東海道を行くというのなら分かりますが、 「草木茂盛(もせい)して行くに前人(ぜんじん)を見ず」 という所を,重い荷物を担いでデモンストレーションしても何の効果もありません。考えてみれば滑稽な話ですが、それが通説として罷り通っているのが不思議です

おかしいといえばその方位もおかしいと言わざるを得ません。当時の中国人はデフレンシャルの原理を応用した「指南車」という儀礼車を造っています。その中国人が東を南と間違えることなどあり得ません。もしも間違えているのであれば邪馬台国はシベリアかアラスカになるはずです。

その方位が南であることから邪馬台国の位置を南に誘導する傾向がありますが、宮崎康平氏の邪馬台国=島原説などならいざしらず、伊都国=糸島郡、奴国=福岡平野とする通説では、その方位の東南や東が問題になります。ことに邪馬台国=畿内説を始めとする、北九州以外の諸説は東を南としないと成立しません。

そこで李氏朝鮮時代の1490年に作られた「混一彊理歴代国都之図」などまで持ち出して、東を南と言いくるめる必要も出てきます。しかし「従郡至倭」の行程は末盧国の海岸で終わっていますから、南は南のままでよいのです。末盧国から陸行が始まるわけではありません。

玄界灘沿岸には多くの神功皇后伝承が見られます。私は九州で活動する神功皇后は (斉明天皇+卑弥呼÷2=神功皇后) だと思っていますが、伊都国=糸島郡、奴国=福岡平野とする通説も神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとして創られた地名を根拠にしたものと考えるのがよいでしょう。

『古事記』『日本書記』と関連させて古代史を考える時、必ず突き当たるのが神功皇后と物部氏で、そこで前後の脈絡が途絶えてしまいます。特に神功皇后の場合はそれが顕著で、応神天皇の出自と関連するようです。史実を探求するのであればこの通説から離れてみる必要がありそうです。

2009年8月6日木曜日

「従郡至倭」の行程 その4

高橋善太郎氏は正史(中国の公式史書)には直線行程の記事は少ないが、その少ない直線行程の記事には必ず何らかの方法で直線行程であることが明示されているとしています。「又」「次」「乃」などの、行程が連続していることを表す文字を使用したり、前に用いた文を繰り返して使用して行程が連続していることを表すと述べています。

高橋氏の指摘するように帯方郡から末盧国までの記事には直線行程であることを表す文字や文が見られます。「従群至倭」は帯方郡が直線行程の起点であることを表していますし、帯方郡から狗邪韓国までの行程には「韓国を歴(へ)て」「海岸に環(そ)い」「乍(たちまち)南し、乍(たちまち)東し」の文が見られます。

対海国の文には「始めて一海を度(わた)る」とあり、一大国についても「又南に一海を渡る」とあり、末盧国にも「又一海を渡る」とあります。ところが伊都国以後には直線行程が続いていることを示す文、文字が見られません。そこで高橋氏は次ぎのように述べています。
 
正史の直線行程の記載法から言えば、末盧までが直線行程の中に数えられるだけで、 伊都以後が末盧からの四至になるとさえも考えられる。

四至(しし)とは放射行程のことで稍の考えに基づく記述方法ですが、高橋氏は伊都国以後は末盧国を中心とする放射行程だとさえも考えられるとしています。高橋氏の述べるように榎氏の伊都国を中心とする放射行程説は根拠が薄弱で、高橋氏の考えは適切です。

ここで注意しなければならないのは、高橋氏は末盧国が放射の中心だと断定しているわけではないことです。稍の考え方では郡治所、王城(国都)など、政治的、軍事的、経済的な中心地が放射の中心になりますが、倭人伝の記述する末盧国は放射の中心になるような場所とは考えられません。
                    そのような意味では伊都国のほうが中心らしいと言えます。高橋氏が末盧国を放射の中心だと断定していないのはこのためでしょう。伊都国も末盧国も放射の中心(稍に対する王城)ではありません。
                    伊都国と末盧国の間に倭人伝に国名さえも記されていない地点があり、その地点が放射の中心になっていると考えないといけないのです。これは「従郡至倭」の行程が末盧国で終わっているということでもあるのですが、下図は私の考えている放射行程です
                                        
「自女王国以北」の国と「従郡至倭」の行程中の国を区別しています。この倭人伝に見えない地点が面土国なのです。倭人伝の記事からは稍という考え方があるようには思えませんが、それは大海中の島国という倭国の特殊性によるものであって、放射行程こそ稍の考えに基づく記述方法なのです。

2009年8月5日水曜日

「従郡至倭」の行程 その3

今回は直線行程と放射行程に触れてみたいと思いますが、倭人伝の地理記事を帯方郡から邪馬台国まで一線上に連続して位置していると読むのが直線行程説です。気が付いて調べ直してみましが、東夷伝中で直線行程になっているのは、倭人伝のごく一部分だけで、他にはないようです。

東夷伝の地理記事はすべて「稍」の考え方に従って書かれており、直線行程は東夷伝中でも倭人伝の「従群至倭」の行程(帯方郡から末盧国まで)のみに見られるだけの特殊なものす。これは倭が大海中の島国のために放射行程の記述ができないことによります。

『日本書紀』神功皇后紀は倭人伝を引用するなどして、神功皇后を卑弥呼、台与と思わせようとしていますが、そこから肥前松浦(まつうら)郡=末盧(まつろ)国、筑前怡土(いと)郡=伊都(いと)国、那珂(なか)郡=奴(な)国、宇美(うみ)=不弥(ふみ)国、筑後妻(つま)郡=投馬(とうま)国、山門(やまと)郡=邪馬台(やまたい)国という説が生まれました。

と言うよりも倭人伝に合わせて地名が作られたようです。これが最初の直線行程説になっています。これに対し帯方郡から伊都国までは直線行程だが、以後は伊都国を中心にして放射状に位置していると読むのが放射行程説です。

稍には「王城を去ること三百里」という意味がありますが、その方位、距離の起点は王城になり、その地理記事は放射行程になります。 放射行程は「稍の考え方」に基く記述方法なのです。ただしその千里は300里ではなく半分の150里です。

先述したように東夷伝の記事はすべて「稍の考え方」で書かれていますから、本来なら倭人伝には直線行程はないはずですが、倭国は大海中の国なので国境を接する国も郡もなく、放射行程では国の位置を説明することができません。そこで帯方郡から倭国に至る行程を、直線行程で説明しています。

確かに倭国の位置は直線行程で説明できますが、倭国内の地理記事には直線行程では理解できない部分があります。そこで榎一雄氏などが放射行程説を提唱しました。従来の説では稍のことなど考えられもしていませんが、放射行程とは倭人伝にも「稍」の考え方が見られということなのです。
 
榎氏は末盧国までの記事には「至」の文字が使用されているのに、同じ意味の伊都国の記事には「到」の文字が使用されていることから、伊都国が放射の中心だとしています。また末盧国までの記事は方角、距離、国名の順なのに,伊都国以後は方角、国名、距離の順になっていることもその根拠としています。

榎氏の説は邪馬台国=九州説に有利で、九州説と畿内説が明確に区別できるようになりましたが、榎氏の説が完全無欠かというとそうでもありません。このことを指摘したのが高橋善太郎氏です。(「『魏志』倭人伝の里程記事をめぐって」愛知大学文学部論集、昭和四三年一二月、四四年一二月)

伊都国は一大率がいたり、王がいながら女王国に統率されていたり、あるいは帯方郡使が常に留まる所であったりと、倭国内でも特殊な国ですが、高橋氏はこの伊都国の特殊性に着目したのが榎氏の説であり、至と到の文字の使い分けや方角、国名、距離の記述順に意味はない述べています。

確かに到の文字は狗邪韓国にも用いられており、至と到の文字の使い分けが放射の中心であることを表すとは言えないし、方角、国名、距離の記述順も偶然にそうなったと考えるのがよいようです女王国は「王城を去ること三百里」以内のはずですから、放射行程であることを認めなければならなようです。

2009年8月4日火曜日

「従郡至倭」の行程 その2

倭人伝の記事は大きく三つに分かれていて、冒頭部分から「郡より女王国に至る万二千余里」までは地理記事です。「男子は大小となく皆鯨面(げいめん)文身(ぶんしん)す」から「常に人有りて兵を持ちて守衛する」までは風俗記事で、衣服、生活、倫理、動植物、鉱物、住居、支配体制など多岐にわたっています。 それ以後は外交記事で、卑弥呼が女王だった前後のことがかなり詳しく記されています。

風俗記事には帯方郡使が自身で見たことと倭人から聞いたことがありますが、明らかに帯方郡使が見たと考えられるものも多くあります。 見た場所については、伊都国が帯方郡使の常に留まる所なので、伊都国で見たことが書かれているとする説があり、また倭国の全般的な記述で特定の国のことではないという説もあります。 

風俗記事は量こそ少ないが地理記事の中にも見られます。表はそれを国別に整理したものですが、末盧国と伊都国との間でその量や質が変わっており、記述上の断絶が有ることがわかります。(表をクリックしてみてください)

末盧国までの記事には草木のこと、漁労や道路のことなど、現地を見た者でなければ書けない写実性豊かな記述が見られますが、伊都国以後には写実性のある記述がほとんど見られず、方位、距離、官名など、倭人から聞いたと思われるものばかりになります。

帯方郡使の張政は末盧国までは確実に来ていますが、まだ伊都国へは行っていないので伊都国以後の記事に写実性のある記述が見られないのです。これは「従群至倭」の行程が末盧国で終わっていることを表しています。張政は伊都国までは行ったが邪馬台国には行かなかったという説がありますが、末盧国と伊都国の間には記述上の関連はありません。

同様のことが末盧国の方位についても言えます。倭人伝の末盧国の地理記事には方位が記されていません。陳寿が書き忘れたということも考えられますが、「従群至倭」の行程は末盧国で終わっているので書く必要がなかったと考えることができます。

「従群至倭」は帯方郡から邪馬台国に至る行程ではありません。陳寿は邪馬台国を倭の一国としか見ておらず、その位置などほとんど問題にしていません。問題にしているのなら「水行十日、陸行一月」「水行二十日」などと書かずに、ちゃんとした里数値と示しているはずで、問題にしているのは私たちだけなのです。陳寿はあの世で、邪馬台国の位置に血道をあげる私たちを見て苦笑していることでしょう。

「従群至倭」の行程中の国は帯方郡と倭国の位置関係を説明しているのであり、伊都国以後は「自女王国以北」の国です。「自女王以北」は倭国にどのような小国が有るか説明しています。投馬国や邪馬台国、あるいは国名だけが列記されている21ヶ国や女王に属さない国も同様です。

2009年8月3日月曜日

「従郡至倭」の行程 その1

長々と前置きを続けてきましたが、いよいよ邪馬台国の位置論を始めます。前置きが長くなったのは私の考えの概要を説明したかったからですが、位置論についてそれを纏めると次のようになります。

① 倭人の王の支配地は「稍」に制限されていた。稍には6〇〇里四方(260キ  ロ四方)という意味と  王城を去ること300里(130キロ)という、二つの意  味がある。
② 韓伝・倭人伝の千里は300里ではなく、半分の150里(65キロ)である。
③ その方位・距離の起点は王城だが終点は国境である。けっして相手国(隣   
国)の国都ではない

図は韓と帯方・楽浪郡、及び対馬との位置関係を示していますが、円の直径は四千里(260キロ)です。韓・倭人伝以外の諸伝では同じ円が二千里になっています。従って韓の南北の距離の四千里と東西の距離の四千里の合計は八千里になります。

まず帯方郡から倭国までの「万二千里」について考えてみたいと思います。万二千里は780キロになりますが、この距離は帯方郡冶の在ったソウル(京城)の外港のインチョン(仁川)から、佐賀県東松浦半島(末盧国)の海岸までの距離です。

通説では帯方郡から伊都国までの距離を万500里とし、残りの1500里が伊都国と邪馬台国の間の距離だとされていますが、方位・距離の終点は国境であって国都ではありません。従がって「万二千里」の終点は邪馬台国ではなく倭国の海岸でなければいけません。末盧国の海岸が倭国の国境と見られているのです。

帯方郡から狗邪韓国までの七千余里も、通説ではプサン(釜山)までの距離だと考えられていますが、狗邪韓国は慶尚南道であり、その西境までの距離でなければいけません。ナムヘ島(南海島)の西海岸のあたりが七千余里の終点のようです。

狗邪韓国から対馬国(対馬)への渡海地点が問題になりますが、通説のようにプサン(釜山)だと780キロを超えてしまいます。ナムヘ島(南海島)の西海岸が渡海地点になっていると考えなければいけないようです。渡海地点については東北方向に流れる 朝鮮海峡の潮流を考えて見る必要もあります。

韓の七千余里に狗邪韓国から末盧国までの3千里を加えると1万里になりますが、通説では残りの2千里は末盧国と邪馬台国の間の距離だとされています。しかしこの2千里はインチョン(仁川)から韓の国境までの距離であって、邪馬台国までの距離ではありません。このことから帯方郡と韓の国境は京畿道と忠清南道の道境であることが分かります。

私たちは定住地を中心にした地理観を持っていますが、倭人伝の地理記事は遊牧民の境界を中心にした地理観で解釈する必要があります。

部族と青銅祭器 その10

部族の族祖に名前がないとその子孫を特定することができませんから、族祖にはそれぞれ名前がありました。弥生時代は部族が王を擁立した時代ですが、部族は民族と宗族(氏族)の中間に位置する「擬制された血縁集団」で、未開人社会と考える必要はさらさらにありません。

大場磐雄氏は銅鐸を使用したのは「出雲神族」だとし、出雲神族とは大国主神の子孫という意味だとしていますつまり銅鐸を配布した部族の始祖の名前はオオクニヌシとして語り伝えられているのです。ただしこれは後世に考えられるようになった名前で、本来は複数の名前があったようです

大場氏は銅矛を使用した氏族を安曇氏としていますが、安曇氏の祭る綿津美3神はイザナギの禊払い(みそぎはらい)で生まれたとされています。銅矛を配布した部族の族祖の名前はイザナギなのです。禊払いでは同時に住吉3神も生まれていますから、この神を祭る氏族の中にも銅矛を神体とする宗廟祭祀を行なっていたものがあるでしょう。

大場氏は銅剣を使用した氏族として物部氏を上げていますが、物部氏は問題の多い氏族です。私は物部氏が経津主命を祭る氏族であること、銅剣の多い出雲にイザナミの伝承があることなどから、火の神カグツチを生んで焼け死ぬイザナミが、銅剣を配布した部族の名前だと考えています。

私は大場氏の著作物は『銅鐸私考』以外には読んでいないのですが、大場氏は銅戈を使用した氏族については触れていないようです。これは私の考えですが、筑前の宗像氏、筑後の水沼君、豊後の大神氏など、宗像3女神を祭る氏族が銅戈を使用したと考えています。

つまり銅戈を配布した部族の名前はスサノオなのです。スサノオについては「邪馬台国と面土国 その4」でも述べていますが、面土国王の帥升が始祖だとされているのです。これが当ブログの今後の主要テーマになっていきます。

266年に倭人が晋に遣使していますが、その後間もなく部族は統一されて消滅し、大和朝廷が成立して氏姓制社会になります。部族が消滅することは青銅祭器の存在理由がなくなるということであり、全ての青銅祭器は地上から姿を消します。

そして古墳時代の氏族の行なう宗廟祭祀では、青銅祭器に替えて銅鏡が神体になり、それが現代にまで続いています。換言すると部族の宗廟祭祀の神体が青銅祭器であり、民族の宗廟祭祀の神体が銅鏡だということになります。

分かり易く言うとかってはオオクニヌヌシを祭っている神社の神体は銅鐸であり、スサノオを祭っている神社の神体は銅戈だったということです。あるいは銅鏡を神体としていた部族があったかもしれません。伊勢神宮の神体の鏡が三角縁神獣鏡なら面白いのですが、それを詮索するのは不敬ということになるのでしょうか。

2009年8月2日日曜日

部族と青銅祭器 その9

青銅祭器を宗廟祭祀の神体だとする説のないのが不思議ですが、それに近い考え方に大場磐雄氏の説があります。大場氏は銅鐸を使用したのは大神氏・加茂氏などの「出雲神族」だとしています。また銅剣を使用したのは物部氏であり、銅矛を使用したのは安曇氏だとしています。私はこれらの氏族を弥生時代の部族に置き換えて考えればればよいと思っています。

大場氏は昭和24年に『銅鐸私考』を発表していますが、藤森栄一氏などごく一部の人々を除き、冷笑、黙殺しました。それは大場氏が青銅器と神話を結び付けているからです。昭和24年といえば終戦後間もないころです。

神話は天皇の日本統治を正当化するために創作されたものであり、史実ではないとされて、神話に触れることはタブーだった時代でした。藤森氏は『銅鐸』の中で次のように述べています。(1995年5月、学生社)

考古学者として、大場さんの仕事も、私のいこうとする方向も、ほんとうはタブーなのである。このいかにも面白い、いや、これきり他には結論はないだろう大場学説が昭和二四年から、今日に至るまでまったく黙殺されて、一言の評論もないのも、ほんとうはその学説の当否ではなくて、この方法がタブーであるからである。「考古学は物をもって語らしめよ。研究者がとやかく類推する必要はない」それは考古学者の骨の髄までしみとおったかたくなな信念である。

加茂岩倉遺跡の発見で大場氏の説はユニークな説として注目されるようになり、発見を記念した特別展の図録、『銅鐸の美』(国立歴史民族博物館編)にも、イメージ豊かな仮説として紹介されています。

39個の大量の銅鐸が1ヶ所で、しかも大場氏が予見したように出雲の加茂で出土したのですから、その予見に関心が向けられたのは当然のことです。その10年ほど前に荒神谷遺跡で銅剣358本・銅矛16本と共に銅鐸6個が出土していたことも、大場氏の説に関心が寄せられる一因になっています。

しかし神話は国文学、比較神話学の分野であり、考古学や史学とは別物だという考え方はまだまだ存在しているようです。大場氏は国学院大学教授という立場にあり、藤森氏は在野の研究者であったからこのような思考も可能でしたが、他の研究者がこのような説を発表すれば学者生命を断たれるでしょう。

確かに神話に接してみると史実とは考え難いものが多々あり、神話は史実ではないとも思えますが、神話には大変な量の古代史の情報が含まれています。神話に含まれている情報を用いないのはまさに宝の持ち腐れ以外のなにものでもありません。

青銅祭器は部族が父系の同族関係を擬制した宗族に配布したものであり、私は青銅器を理解するには大場氏の方法は有効であり、それは部族と無関係ではないと考えています。 

2009年8月1日土曜日

部族と青銅祭器 その8

冊封体制は羈縻政策(きびせいさく)とも言い、土着民の有力者に中国の官職を授けて懐柔する一方で、土着民相互の競争を助長して中国に敵対する大勢力が出現するのを阻止しようとするものでした。先に稍(しょう)について述べましたが、この稍こそ冊封体制(羈縻政策)を象徴しています。

前漢の武帝が楽浪郡を設置すると倭人も冊封体制に組み込まれます。奴国王には「王」を、面土国王には「倭国王」を、卑弥呼には「親魏倭王」の官職を授けて懐柔する一方で、それらの王の支配地を「王城を去ること三百里」に制限し、倭人の統一国家が出現するのを妨げていたのです。稍は260キロ四方です。

部族は王を擁立しましたが、その王が中国から稍の支配者であることを認められるには、部族そのものが大きくなければいけません。部族は急速に規模が大きくなりますが、それと共に部族間に王の擁立を巡って対立が起きます。2世紀末の倭国大乱や卑弥呼死後の争乱はこれが原因になっています。中国にとっては「思う壺に嵌った」わけです。

王の支配地は稍に制限されていますが、部族の規模は冊封体制の制限を受けませんから、複数の稍に同族の分布している巨大な部族があり、その部族は複数の稍の王を擁立することができました。北部九州の稍(これを稍筑紫と呼ぶことにします)の王は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族が擁立しましたが、両部族は隣の中国・四国地方の稍(稍出雲と呼ぶことにします)の王の擁立にも関与しました。

近畿・東海西部地方の稍(稍大和と呼ぶことにします)の王は、銅鐸を配布した部族が擁立しましたが、この部族もやはり稍出雲の王の擁立に関与しました。従来、稍出雲は稍筑紫と稍大和の中間に位置し、両方の影響を受けている地域に過ぎない考えられてきましたが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の発見で、この考え方には再考が必要になってきています。

荒神谷遺跡で358本の銅剣が出土したことは、この地方に銅剣を配布した部族が存在したことを意味します。稍出雲の王は銅剣を配布した部族が擁立しましたが、その稍出雲の王が支配していたのが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の合計419の青銅祭器を神体とする祭祀を行なっていた宗族なのです

島根県鹿島町志谷奥遺跡の銅鐸2口・銅剣6本や、鳥取県東伯町イズチ頭遺跡の銅剣4本などのように、本来なら荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡に埋納されていてもよさそうなものや、未発見のものを含めると、 稍出雲の王は500、あるいはそれ以上の宗族を支配していたことが考えられます。