2009年9月27日日曜日

忍穂耳命

卑弥呼の死後に男王が立ちますが、国中が服さず千余人が殺される争乱が起きました。神話では卑弥呼の死と台与の共立が天の岩戸に隠もった天照大神が引き出されたと語られていますが、天照大神が岩戸に隠もっている間に卑弥呼の死後の男王が立ったことになります。

神話では天の岩戸の後にはスサノヲが追放されて出雲に降り、マタノオロチを退治することになっていますが、天の岩戸の神話には男王が立ったことを表す部分がありません。しかしオオクニヌシの国譲りの後にオシホミミ(忍穂耳命)が葦原中国に降臨することになっています

天照大神はオシホミミに葦原中国の統治を命じますが、統治を命ぜられたのは高天が原ではなくて葦原中国であることに注目する必要があります。『日本書紀』本文は次のように記しています。

是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして、臨睨り(おせり)て曰はく「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す  

「未平(さや)げり」は平らでないということで、卑弥呼死後の争乱を意味しているようです。「不須也(いな)」は不用である、要らないという意味です。「頗傾(かぶ)」は曲がり傾いていること、「凶目杵之国(しこめきくに)」は不安定で平らかでなく悪い国だという意味です。

オシホミミは葦原中国に降るために天の浮橋(あめのうきはし)まで来ますが、下界を見ると葦原中国は頑迷で乱れており不安定な所ですどうしても降りていく気になれないので高天が原に引き返し、天照大神に降りなかった理由を説明したというのです。

卑弥呼の死後に男王が立ちますが国中が従わず、千余人が殺される争乱になり、台与が共立されます。一方のオシホミミも天の浮橋に立ちながら、下界が騒がしいので引き返しています。倭人伝と神話とではその時期が多少違いますが、男王と忍穂耳尊の立場はよく似ています。

神話は年代を示す方法がなかったので紀伝体になっていて、年代の異なる史実が物語風に纏められています。この部分ではスサノオの追放の物語が喚入されたために別の物語のようになっていますが、卑弥呼の死後の男王はオシホミミなのです

葦原中国は具体的には出雲ということになっていますが、出雲には律令制出雲國という意味のほかに、銅鐸・銅剣を配布した部族というという意味もあるようです。高天が原が邪馬台国であるのに対し、葦原中国には邪馬台国以外の国という意味もあって、それには面土国や銅戈を配布した部族も含まれているようです。

忍穂耳尊が葦原中国の統治を命ぜられたのは、稍を支配する王と、これを擁立する部族を統一し、倭国を統一国家にしようとする動きがあったということで、卑弥呼の後の男王は単に卑弥呼の後継の王というだけではなかったようです。卑弥呼死後の争乱は銅矛を配布した部族と、銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立でした。

私が降りようと衣装を整えている間に子供が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志 天津日高日子番能邇々芸命です。この子を降すのがよいでしょう」といわれた

結局、降臨したのはオシホミミではなく、子の穂のホノニニギ(番能邇々芸命・瓊瓊杵尊)ですが、台与が共立されて間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理が行なわれ、面土国王家は滅び、銅戈を配布した部族も消滅します。もはや女王は不必要になり男王が立てられますが、これがホノニニギですそれを画策したのは大倭(タカミムスヒ)や難升米(オモイカネ)などの、台与のブレーンたちだったのです。

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