2009年12月14日月曜日

少名彦那と大物主 その2

『 古事記』では国作りの途中でスクナヒコナは常世の国に行ってしまい、オオクニヌシ(大国主)が嘆いているとオオモノヌシ(大物主)が現れて共に国造りをすることになっています。ここでオオクニヌシと「双生児的な関係」、あるいは「第2の自我」であるスクナヒコナは、オオモノヌシと入れ替わります。言うまでもなくオオモノヌシは奈良県大神神社の祭神で、纏向遺跡にとっては神奈備山とも言うべき三輪山に祀られている神です

以前には銅鐸分布圏と利器形祭器分布圏とは対立しており九州には銅鐸は無いと考えられていましたが、最近では九州に古いタイプの銅鐸があることが知られるようになって来ました。銅鐸もやはり九州が起源であり、部族の支配権の移動に伴って分布圏も移動したようです

近畿式銅鐸が造られ始めて、銅鐸の祭祀の中心は近畿地方に移ります。中国地方(稍P)の銅鐸を配布した部族は、初期には荒神谷の6個や福田形のような最古式の銅鐸を持っていた宗族が支配していたが、やがて近畿式銅鐸を持っていた宗族に移るようです。

それは一世紀末ころで北部九州では奴国王から面土国王に王権の移譲があり、また中国地方では荒神谷の中細形銅剣c類が造られたことにより、部族間のパワーバランスに変化があったことに関係するのでしょう。

スクナヒコナが常世の国に行ったというのは、一見すると最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだということのように思えますが、そうではなさそうです。考古学では青銅祭器が造られなくなった時点と祭祀が終わった時点とは、得てして同じだと考えられ勝ちですが、造られなくなった時と祭祀が終わった時とには時間差があるはずです。

荒神谷遺跡では最古式の銅鐸と中広形銅矛b類が同じ埋納坑から出土しています。写真は出土状況を再現したものですが、同時に埋められたことが分かります。銅鐸の祭祀は続いており最古式の銅鐸を祀っていた宗族が滅んだわけではありません。

荒神谷遺跡では銅剣と銅矛・銅鐸が7メートルほど離れた別の埋納坑から出土しました。銅鐸6個は最古式の特徴を持ち、九州で造られたことを考えてもよいと思います。銅矛は明らかに九州で造られたもので、それが同じ埋納坑から出土しています。

出雲で造られたとも言われている銅剣は別の埋納坑に埋められていましたが、埋納坑が別になっているのは、部族連合国家としての出雲(稍P)が、九州(稍M)系宗族と畿内(稍O)系宗族に分立していたということでしょう。

近畿式銅鐸が荒神谷遺跡にはなく、加茂岩倉遺跡で出土していることもこのことを表しているようです。私は荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器はオオクニヌシの国譲りの時に埋納されたと考えますが、荒神谷に埋納された時点では加茂岩倉の近畿式銅鐸を持っていた宗族は国譲りに同意していなかったようです。

『日本書紀』第二の一書はオオナムチ(オオクニヌシの別名)が国譲りした後に、大和の首渠(君長、賊首)のオオモノヌシとコトシロヌシ(事代主)が一族を率いて帰順してきたとしています。加茂岩倉の銅鐸はこの時に埋納されたようで、荒神谷と加茂岩倉にはわずかに時間差があると思われます。

オオモノヌシはオオクニヌシの別名とされ、オオクニヌシの子がコトシロヌシだと考えられていますが、大神氏(大三輪氏)の祖がオオモノヌシであり、加茂氏の祖がコトシロヌシで、両者は共に銅鐸を祀る宗族ではあるけれど父子というわけではないようです。

オオクニヌシの国造りのイメージは、西日本が律令制出雲国を中心にして統一されたように思えますが、これは銅鐸を配布した部族の神話であり、その内部事情が語られているようです。

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