2010年12月26日日曜日

宇佐説 その1

九州の古代史は神功皇后によって霍乱されているようですが、その顕著なのが玄界灘沿岸の松浦半島から福岡平野にかけての地域と、周防灘沿岸の宇佐神宮だと言えます。宇佐神宮の祭神は一の御殿応神天皇、二の御殿比賣大神三の御殿神功皇后とされています。

宇佐神宮の主祭神は二の御殿の比賣大神だと考えられていますが、この神のことはほとんど知られていません。そこから宇佐を邪馬台国とする説も出てくるようですが、畿内説・九州説を見てきた流れで、推察になりますが宇佐説を考えてみたいと思います。

伊都国は糸島郡ではなく田河郡だと考え、国名のみの21ヶ国の2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までは豊前にあったと考えています。3番目の伊邪国が京都郡であり8番目の沮奴国が宇佐郡で、宇佐が邪馬台国だとは考えていません。

宇佐神宮の二大特殊神事に放生会神事と行幸会神事があり、放生会神事は戦死した大隅・日向の隼人を慰霊する神事として知られ、行幸会神事はマコモ(真薦、苽)で作られた枕が、宇佐郡内各地を巡幸した後に海に流されるというものです。

放生会神事では、神事に先立って田川郡香春町採銅所の古宮八幡宮清祀殿で宇佐神宮の御正体(神体)の銅鏡が鋳造されていました。鋳造に当っては古宮八幡宮神官の鶴賀氏による神事が行なわれ、それには勅使の下向があり大宰府の官人も参加したということです。

清祀殿の中は土間で中央に鍛冶床があり、清祀殿横の長光家が鏡の鋳造に当ったと言われています。鋳造された御正体は輿に乗せられ途中の神社に立ち寄りながら宇佐市和間浜にある、宇佐神宮の浮殿に運ばれ、後に宇佐神宮に納められました。

香春町採銅所には神間歩(かみまぶ)と呼ばれる銅の採掘跡あり、このことから採銅所という地名が生まれました。私はこの神事について、全国に4万はあるといわれている八幡宮の神体の鏡が、かつては香春で鋳造されたことを示していると考えています。

この神事は享保8年(1723)以後途絶えていたが再興され、今では清祀殿で鏡が鋳造されることはなく、出来物の鏡をトラックで運ぶということです。かつての和間浜の浮殿はその名のように寄藻川の水面に浮かぶように建てられていました。

浮殿については宗像大社の浜殿と同様の船が祠になったものだと考えています。宇佐神宮の末社が創建されると、その神体の鏡が香春岳の銅で鋳造されて宇佐に運ばれ、寄藻川の河口で船に積み込まれて各地に送られたことを伝えているのでしょう。

古宮八幡宮と密接な関係を持つ香春町香春の香春神社の祭神は、第一殿辛国息長大姫大目命、第二殿忍骨命、第三殿豐比賣命ですが、第一殿の辛国息長大姫大目命は、赤染氏・鶴賀氏など辛国(新羅)からの渡来民の祭る神と、息長大姫(神功皇后、及び土着民の祭る大目命が合成されたものだと考えます。

香春神社第二殿の忍骨命は天照大御神の子とされる忍穗耳命の別名ですが、このことから天照大神の別名の日靈(おおひるめ)から「ひる」が滑落して「おおめ」となったのが、第一殿の大目命(おおまのみこと)ではないかと考えます。

香春神社第三殿の豐比賣命は空殿で神体がなく、豐比賣命は香春神社の祭礼の時だけ古宮八幡宮から第三殿に来るとされています。このことから古宮八幡宮は香春神社の元宮と言われ、その祭神は豐比咩命、応神天皇、神功皇后です。

『先代旧事本紀』は『日本書記』第一の一書に見える稚日女(わかひるめ)を天照大神の妹としていますが、神功皇后にも豊比売という妹がいるとされています。香春神社第一殿の息長大姫が神功皇后であるのに対し、第三殿の豐比賣命は「息長稚姫」だというのでしょう。

神話に蛭子(ひるこ)という神が登場しますが、ヒルコからルが滑落したものが「彦」で男性を表し、ヒルメからルが滑落したものがヒメ(姫・媛)で女性を表します。大日靈は卑弥呼であり、稚日女が台与で、それが合成されて天照大御神になるようです。

香春で「ヒメ」の伝承を聞いたことがあります。五色の着物を着ていて何事でも見通すことができるが、その姿が見えるのは修行を積んだ者だけだというものです。豊前一帯に豐比賣(豐比咩)の信仰があることが考えられます。

香春神社第三殿の豐比賣命が空殿になっていること、及び宇佐神宮の神鏡の鋳造に古宮八幡宮が係わっていることみると、宇佐神宮の比賣大神は香春神社の豐比賣命、及び古宮八幡宮の豐比咩と同神であり、それは台与であることが考えられます。

2010年12月19日日曜日

九州説 その4

前回には女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けてみましたが、さらに国名のみの21ヶ国を「自女王国以東」「自女王国以西」に区分すると、女王国の構造がより明確になってきます。

大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て長峡川河口の草野津(かやのつ)に到る、律令制官道の田河路沿いに奴国と伊都国があると考えていますが、そこは倭人伝のいう「自女王国以北」で、そこは面土国王が「刺史の如く」支配している地域です。

豊後(図の大分県部分)には国名のみの21ヶ国のうちの16番目の邪馬国(日田郡)から21番目の奴国(直入郡)までの6ヶ国がありました。(2010年4月投稿『再考・国名のみの21ヶ国』)これを「自女王国以東」とみるのがよいようです。

肥前を横断する肥前路沿いの地域(図の佐賀県部分)が「自女王国以西」で、ここには9番目の対蘇国(基肄郡)から15番目の鬼奴国(杵島郡)までの7ヶ国があったようです。

また豊前には2番目の巳百支国(企救郡)から8番目の沮奴国(宇佐郡)までの7ヶ国がありました。これは「自女王国以北」とも「自女王国以東」とも見ることができますが、倭人伝は「自女王国以北」を遠賀川流域に限定しており、この7ヶ国は国名のみの21ヶ国の範疇に入れています。

女王国の中央に卑弥呼の王城のある邪馬台国があり、卑弥呼の王城の北が「自女王国以北」であって、東西に国名のみの21ヶ国があることになります。投馬国は卑弥呼の王城の南にある「自女王国以南」の国です。

弥生時代は部族が王を擁立する「部族制社会」だったと考えますが、部族の原形は宗族間の通婚が重なって形成された自然発生的な地縁・血縁集団でしょう。部族が国を形成したものが部族国家で、部族国家は古墳時代になると国造・県主・稲置・君・公などの姓(かばね)を与えられた部族長が支配し、律令時代になると郡になるようです。

部族国家が統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になりますが、紀元前1世紀に倭の百余国が遣使するまで、筑前西半の各郡はそれぞれ部族国家を形成していたでしょうが、百余国の遣使以後には統合が進んだことにより、部族国家と部族連盟国家の中間の形態の邪馬台国が形成されるようです。

戸数二万の奴国は田河路沿いの鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えていますが、この場合の郡当たりの戸数は約7千戸になります。伊都国のように千戸程度の国もありますが、平野部の人口密度の高い国の戸数は7千戸になるようです。

戸数七万の邪馬台国は筑前を三郡山地で東西に二分した時の、西半の10郡ほどになりそうです。筑前西半には上座・下座・夜須・三笠・糟屋・席田・那珂・早良・怡土・志麻の10郡がありますが、邪馬台国は志麻郡を除く9郡と考えるのがよいようです。

考古学的な面から見ても地政学的な面から見ても、邪馬台国は福岡平野を中心とする筑前西半に在ったと見るのが妥当です。筑前西半が統合されるについては、その中核になったのは春日市の須玖岡本遺跡の周辺(那珂郡)だと見るのがよさそうです。

しかし卑弥呼は倭国大乱を鎮めるために王になりました。卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、福岡平野の中心部を避けて、筑前・筑後だけでなく肥前と豊後にも接している朝倉郡・夜須郡を王城の地としたと考えます。

志麻郡は国名のみの21ヶ国の最初の斯馬国であり、志麻も斯馬もかつて糸島半島が島であったことによる郡名・国名だと考えます。島であったために戸数も少なく対岸の怡土郡との通婚も希薄で、部族国家の状態を脱することができず、邪馬台国に統合されることがなかったのでしょう。

「自女王国以東」の豊前・豊後に13ヶ国、及び「自女王国以西」の肥前の佐賀県部分に7ヶ国があったことになり、その合計は20ヶ国になります。三郡山地以西の筑前に斯馬国以外の国名のみの21ヶ国が存在する余地はないようです。

投馬国は筑後だと考えますが、国の平均戸数を7千戸とすると、戸数五万の投馬国は律令制の7郡ほどになりそうです。筑後は10郡ですが筑後川の沖積や、流域の治水が進んだことなどにより郡数が増したことが考えられ、筑後にも国名のみの21ヶ国はなかったでしょう。

2010年12月12日日曜日

九州説 その3

前回には「第3の読み方」が可能であることを述べましたが、面土国は3世紀にも実在していました。それは筑前宗像郡であり、方位・距離の起点は宗像市田熊・土穴付近です。そして面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しています。

1、従郡至倭、循海岸水行、暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国
2、始度一海千余里、至対海国
3、又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国
4、又渡一海千余里、至末盧国

末盧国までは「循海岸水行」「暦韓国」「乍南乍東」「始度一海」「又南渡一海」の文字や文が示しているように明らかに直線行程ですが、伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られなくなります。

5、南陸行五百里、到伊都国
6、東南至奴国百里
7、東行至不弥国百里
8、南至投馬国、水行二十日
9、南至邪馬台国、女王之所都、水行十日水行一月

倭人伝の地理記事には末盧国と伊都国の間に断絶がありますが、この断絶について高橋善太郎氏は伊都国以後には直線行程であることを示す文字や文が見られないことから、末盧国を起点とする放射行程だとしています。

全体を直線行程とする説がありこれもやはり微妙ですが、私は女王国を構成している30ヶ国を「従郡至倭」の行程の国、「自女王国以北」の国、「自女王国以南」の国、国名のみの21ヶ国、の4グループに分けるのがよいと考えています。

国名のみの21ヶ国のグループ分けには異論はないでしょうが、高橋善太郎氏の末盧国を起点とする放射行程説に従うと、末盧国までが「従郡至倭」の行程の国であり、少なくとも伊都・奴・不弥の3ヶ国「自女王国以北」の国になります。

「自女王国以北」があるのであれば「自女王国以南」や「自女王国以西」「自女王国以東」もなければいけませんが、倭人伝には「自女王国以南」という記述はありません。実はこの「自女王国以南」という観念がないために混乱が生じています。

倭人伝に「自女王国以北、其戸数道里、可得略載、其余傍国遠絶、不可得詳」とあります。中国人が地理を示す場合には王城が中心になりますが、「自」は起点のことで倭国の王城、すなわち卑弥呼の王城が「自」になります。

伊都国・奴国、不弥国の距離は示されていますが、邪馬台国・投馬国の距離は示されていません。卑弥呼の王城よりも北が「自女王国以北」で、そこに伊都・奴、不弥の3ヶ国があり、戸数と道里を略載することができるというのです。

邪馬台国は女王国の中央にある「自」そのものであり、投馬国は「自女王国以南」の国になります。倭人伝の記述目的からすれば投馬国・邪馬台国は「自女王国以南」にある「其の余の傍国」なのです。

しかし戸数7万・5万の大国を国名のみの21ヶ国と同一視することはできず、方位と戸数は記しているものの道里は省略しています。倭人伝は邪馬台国や投馬国の位置を述べようとはしていません。私たちがそう思っているだけなのです。

直線行程説には「自女王国以南」という認識がなく、伊都国~投馬国間が「水行二十日」とされ、投馬国~邪馬台国間が「水行十日陸行一月」とされています。放射行程説も同様で投馬国の位置が定まらず、恣意的に決められています。

前回の投稿では「於国中有如刺史」は仮定条件を伴っている文で、「於」は「自女王国以北」に懸かる文字であることを述べました。「自女王国以北」が卑弥呼の王城のある邪馬台国や「自女王国以南」の投馬国に対して、中国の州のように半ば独立した状態にある仮定されています。「半ば独立した状態」であることに留意する必要があるようです。

「有」の文字は伊都国とは別に「刺史の如き者」のいる国が有ることを表していますが、その国が面土国であり、面土国も「自女王国以北」の国に含まれます。九州説にも説得力がないのは面土国の存在が考えられていないからです。

2010年12月5日日曜日

九州説 その2

宇美を不弥国とし糸島郡を伊都国とし、那珂郡を奴国とする通説を肯定すると邪馬台国の位置論は混迷しますが、それは現状を見れば明らかで「神功皇后の呪縛」が横行しているようです。九州説も通説から離れないと事実は見えてこないように思われます。

伊都国・奴国を佐賀平野・筑後平野方面とする説がありますが、これらの説は南を東の誤りとし、糸島郡を伊都国とする通説を否定することから生れたもので、結論はどうであれ通説から離れる姿勢は評価されるべきだと思います。

私は筑前を三郡山地で東西に二分した時の西半を邪馬台国とし、東半には面土国・伊都国・奴国・不弥国があったと考えていますが、古田武彦氏も邪馬台国を福岡平野とされていて、筑前西半に伊都・奴・不弥・邪馬台の4ヶ国があったとされています。

伊都国は糸島郡の半島部分、奴国は糸島郡の平野部分、不弥国は福岡平野東部の海岸地帯、邪馬台国は福岡平野とされています。古田氏の立論は難解で私には理解ができないのですが、投馬国は九州南端の薩摩・大隈とされています。

推察になりますが古田氏も通説から離れることができず、通説で奴国とされている福岡平野を戸数七万の邪馬台国としたために、二万の奴国を糸島郡の平野部分としなければならず、五万の投馬国を薩摩・大隈としなければならなかったのでしょう。

このような状況は通説に囚われたことにより生じていますが、これを打破する考え方はあるでしょうか。しつこく述べるのでうんざりされるでしょうが、新しい解釈が出てきたのでまた繰り返します。

租賦を収めるに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易す。大倭をして之を監す。女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

「国中に於いて(於ける?)刺史の如き有り」と訳した部分の原文は「於国中有如刺史」ですが、『大辞泉』によると「於」の文字が用いられるのは 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うとき、だということです。

時間を表すときには「の時に」という意味になり、場所を表す場合には「で」「にて」という意味になるということですが、場合や事柄を表すときには「に関して」「について」「にあって」という意味になるのだそうです。

一大率があたかも刺史のようだという通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味になるようです。しかし「に関して」「について」では意味が不明瞭になります。通説は「伊都国中にあって刺史の如し」という意味に解釈されているようです。

この「にあって」は「に有って」という意味ではなく、国の中での「刺史の如き者の立場」が述べられています。この場合、一大率は常に伊都国にいるから、国は伊都国に限定され他の国の存在は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。

「於国中有」の文字が見られるのは4の、仮定条件の伴う場合だということのようです。その場合には係助詞の「は」が付随して意味が変わり、「国中に於いては刺史の如き有り」となり、この文には何かが仮定されており、条件が伴っています

倭人伝中の各国には官と副(官)が置かれており、官は中国の郡太守に相当するようです。その郡太守よりも上位に「州刺史」がいますが、魏・晋代の刺史は前漢代のそれとは違い最高位の地方行政官で、州の長官です。その仮定条件は「中国の州」のようです。

通説の解釈との違いは微妙ですが、伊都国は中国の郡に相当し、州に相当するとは思えません。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定されているのです。それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になっています。

「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「州刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというのです。私はこれを「第3の読み方」と言っています。

この「於」の文字の4つの解釈は漢文を和文に翻訳する時に生じるということで、漢文でも「於」の文字は仮定条件の伴う時に使用されるようです。「第3の読み方」は可能のようで、「自女王国以北」に面土国が存在したと考えてよいようです。