2011年4月24日日曜日

二人のヒコホホデミ その3


侏儒国は小さな国が鼎立しており、これを支配する有力者(王)はいなかったようで、薩摩のヒコホホデミ(古事記の彦穂々手見・火遠理、日本書記の火折)と、日向のヒコホホデミ(神武天皇)という「二人のヒコホホデミ」もそうした小さな国の支配者のようです。

台与の後の王の時代にこれらの小さな国が統合されますが、その過程が六つの独立した伝承になり、それが編成されて神武天皇の系譜が創られ、神武天皇はヒコホホデミの孫ということになったと思われます。

日向神話ではシオツチノオジ(塩土老翁)が重要な働きをしますが、山幸彦には海神の宮に行く方法を教え、神武天皇には東方に好い国が在ることを教えています。

良い土地があることを教えると共に、そこに行く海路を支配する役割を持っていて、塩土とは「潮つ道」で、海路を熟知している者と考えられています。

図は黒潮とその分流を示していますが、薩摩の沖で黒潮と対馬海流が分岐します。ホノニニギとアタツヒメ(コノハナノサクヤヒメ)の物語の舞台は薩摩ですが、シオツチノオジはこの海流のことを熟知している海洋民なのでしょう。

シオツチノオジとされる海洋民は南西諸島沿いの黒潮だけでなく、対馬海流のことも知っており、対馬海峡を渡れば朝鮮半島に到ることも知っているようです。山幸彦が海神の宮に行くのは、対馬海峡を渡る必要があった、つまり中国(魏)の冊封を受ける必要があったということのようです。

日向の美々津沖で派生した黒潮の分流は豊予海峡を通過して周防灘に流入していて、この潮流に乗れば大和に到ことができます。シオツチノオジはこの大和に至る潮流を知っており、このことが神武天皇に大和への東遷を勧める物語の根底にあるようです。

海幸彦・山幸彦の神話に見られるように、薩摩半島部の隼人は南西諸島産の貝を加工する海洋民としての性格が強いことが知られていますが、対馬海流を熟知しているのは対馬の海人や綿津美3神を祭る阿曇海人住吉3神を祀る那珂海人(筑前那珂郡の海人)です。

近藤喬一・佐原真氏は銅矛を外洋航路に関わる祭祀具とし、平形銅剣を瀬戸内海航路にかかわる祭祀具だとされています。また大場磐雄氏は『銅鐸私考』で銅矛を使用したのは阿曇氏であり、銅剣を使用したのは物部氏だとしています。

私は青銅祭器について部族が通婚関係の生じた宗族に配布したものであり、配布を受けた宗族は青銅祭器を神体とする宗廟祭祀を行ったと考えていますが、いずれにしても玄界灘沿岸に銅矛を祭祀具とする、阿曇海人・那珂海人に代表されるような海洋民集団が存在したことが考えられます。

シオツチノオジは対馬の海人や阿曇海人・那珂海人など、玄界灘の海人神と同族関係にあるようです。『日本書紀』第四の一書はホノニニギに国土を献上し、コノハナノサクヤヒメのことを教えた事勝国勝神の別名をシオツチノオジとしイザナギの子だとしています。

大場氏は銅矛を配布したのは阿曇氏だとしていますが、私は銅矛を配布した部族の伝説・神話上の始祖がイザナギだと考えています。シオツチノオジがイザナギの子だとすると、シオツチノオジは銅矛を配布した部族と関係があることになります

阿曇海人の祭る綿津見3神も那珂海人の祭る筒之男3神もイザナギの禊で生れた子とされていますが、阿曇海人も那珂海人も海神・豊玉彦の子孫とする伝承を併せ持っています。対馬下県郡にも和多都美神を祀る式内社が二社あり、ホホデミや豊玉毘売が祀られています。

また上県郡の式内社にも和多都美神社と和多都美御子神社があり、豊玉毘売とホホデミの子のウガヤフキアエズが祀られているようです。豊玉彦は壱岐の海神社でも祀られていて、日向神話の豊玉毘売・玉依毘売の父の豊玉彦だと考えられています。

豊玉彦の伝承が南九州ではなく対馬にあるのは奇異な感じがしますが、シオツチノオジを玄界灘沿岸の銅矛を配布した部族だと考えると辻褄が合ってきます。山幸彦を海神・豊玉彦の宮に行かせるのは銅矛を配布した部族が、山幸彦に南九州を統合させようとしているということでしょう。

神武天皇の東遷出発地が日向であることも奇異な感じがしますが、神武天皇に東遷をさせるのも玄界灘沿岸の銅矛を配布した部族であり、神武天皇は南北九州が統合される際の中心的存在であったが故に、東遷という重責を担うことになると考えます。

2011年4月17日日曜日

二人のヒコホホデミ その2

神武天皇の実名が彦火火出見であることが考えられますが、日向北部に神武天皇をホノニニギ(台与の後の王)の子とする伝承があり、薩摩に火遠理(日本書紀の火折)をホノニニギの子とする伝承があって、「二人のヒコホホデミ」が存在していると考えています。

それに伴ってホオリをホノニニギの子とする伝承では霧島連山の高千穂の峰が天孫降臨の地とされ、神武天皇をホノニニギの子とする伝承では日向臼杵郡の高千穂が降臨の地とされて、「二つの高千穂の峰」が存在するようになったことが考えられます。

2010年1月の投稿では「日向三代」の神話を、薩摩を舞台とする火神系神話と、大隅・日向を舞台とする海神系神話に区別しましたが、図のような六つの伝承が合成されて「日向三代」の神話になったのであり、そのために「二人のヒコホホデミ」が出現したと考えるのがよいようです。

このことは古墳時代の墓制からも考えることができます。この地方特有の慕制では3・4・5に「地下式横穴墓』が見られるのに対して、の薩摩北部は「地下式板石積石室墓」であり、の薩摩半島部には立石土壙墓が見られます。

は薩摩北部の薩摩君・前君などの伝承で、事勝国勝神(シオツチノオジの別名)がホノニニギに国土を献上する物語です。は薩摩半島の阿多君・衣君などの伝承で、ホノニニギがアタツヒメ(コノハナノサクヤヒメ)を「妻問い」し、ヒコホホデミ・ホオリが誕生する物語です。

は大隅半島の大隅直・肝属君などの伝承で、鰐に姿を変えた豊玉姫がウガヤフキアエズを生む物語です。は大隅北部の曽君などの伝承で、山幸彦(ヒコホホデミ、ホオリ)が海神の宮に行く物語です。

海幸彦・山幸彦の神話はの間に抗争のあったことが語られているようで、山幸彦が4であるのに対し海幸彦は2のようです。この抗争には海の神・豊玉彦が関係してきますが、豊玉彦については玄界灘沿岸、壱岐・対馬安曇・住吉など海人族だと思っています。

は日向の南半分ですが特別な伝承はありませんは日向北部の神武天皇の伝承で、美々津が東遷の出発地とされています。5では3・4・6の伝承が交錯しており、の伝承を中心として1~6の伝承が纏められて一連の「日向神話」になることが考えられます。天孫降臨の地が霧島連山の高千穂の峰とされるのは、5と1・4・の境に位置していることによるのでしょう

「日向神話」は侏儒国が統合される過程で生まれた、個々に独立した六つの伝承が合成されたもののようですが、それにはシオツチノオジ(塩土老翁、塩椎神)が重要な役割を果たしています。シオツチノオジが存在しないと「日向神話」は六つに分裂します。

の薩摩北部のホノニニギの伝承では事勝国勝神(シオツチノオジの別名)がホノニニギに国土を献上します。の薩摩南部の伝承ではアタツヒメ(コノハナノサクヤヒメ)のことを教えますが、その結果ホオリあるいはヒコホホデミが生まれます。

の大隅半島部のウガヤフキアエズの伝承にはシオツチノオジは関係していませんが、山幸彦に海神の宮に行く方法を教えなければウガヤフキアエズが生まれることはありません。の大隅北部の火遠理(日本書記の火折、ヒコホホデミ)の伝承では、シオツチノオジは山幸彦に海神の宮に行く方法を教えています。

の日向北部の神武天皇の伝承では神武天皇に東方に好い国が在ることを教えていて、神武天皇はその助言に従って東遷を決断しています。シオツチノオジが登場しないとそれぞれが孤立した物語になります。

日向神話には出雲の大国主や大和の大物主、あるいは越(北陸地方)のタケミナカタに相当する神が見られません。これは侏儒国が小さな国の集合体であり、孤立分散し鼎立しており、これを統合する大きな勢力が存在していなかったということでしょう。

南九州に青銅祭器が見られないことは大きな部族が存在していないということですが、志布志湾沿岸の曾於郡有明町野井倉で南九州唯一の中広形銅矛が出土しています。この銅矛を祭っていた宗族が、山幸彦に海神・豊玉彦の宮に行くことを教えたシオツチノオジだと考えています。(2010年1月12日投稿)

北部九州の銅矛を配布した部族が鼎立する小国を統合しようとしていることが、シオツチノオジの行動に見て取れます。山幸彦が豊玉彦の宮に行くことや、神武天皇の東遷が日向で始まることなどはいかにも奇異な感じがしますが、それは北部九州の銅矛を配布した部族の意向によるものであったようです。

2011年4月10日日曜日

二人のヒコホホデミ その1

ホノニニギ(台与の後の王)の天孫降臨は南九州の侏儒国が統合されたということのようですが、間もなく神武天皇の東遷が始まるようです。、以後に述べるのは表の?の部分に入る人名・神名と年代を考えてみようというものです。

卑弥呼=         天照大神A    =247年以前
卑弥呼死後の男王=  忍穂耳        =247年ころ
台与=          天照大神B     =247年ころ
台与の後の男王=   番能邇々芸    =250年代?
      ?        火遠理(海幸彦)    ?
     ?        鵜葺草葺不合      ?
     ?        神武天皇          ?
倭人の遣使          ?               =266年
古墳時代の始まり     ?               =3世紀後半

図は『古事記』による紳統ですが、火遠理を神武天皇の祖父としており、海幸彦・山幸彦の神話でも山幸彦は火遠理だとされています。彦穂々手見という神名も見えますが火遠理の別名とするだけで、『古事記』の彦穂々手見には事績がまったくありません。

ところが『日本書記』の場合は彦火々出見(古事記の彦穂々手見)を中心にして展開していて、火折(古事記の火遠理)の活動がほとんど見られず、山幸彦についても大部分は彦火々出見になっています。以下は『日本書記』に見える彦火々出見の母と兄弟です。


本文      鹿葦津姫=火闌降命・彦火火出見・火明命
一書第二 吾田鹿葦津姫=火酢芹命・彦火火出見・火折命
   第三 ?=火明命・火進命・火折彦火火出見
   第五 吾田鹿葦津姫=火進命・火折・彦火火出見
   第六 豊吾田津姫=火酢芹命・火折命(又の名・彦火火出見
   第七 吾田津姫=火明命・火夜織命・彦火火出見
   第八 木花開耶姫=火酢芹命・彦火火出見

『日本書記』は尊称の「尊」と「命」を区別していて、尊は天皇の祖とされる神に用いられ、命は天皇の祖ではない神に用いられており、彦火々出見はすべて尊になっています。ところが火折(古事記の火遠理)については第三の一書が火折彦火火出見尊とし、第五の一書が尊とするだけで他は命になっています。

『古事記』は神武天皇を火遠理(日本書記の火折)の孫としていますが、この「尊」と「命」の使い分けから見ると火遠理(日本書紀の火折)は天皇の祖ではないことになります。このことは別の視点からも言えます。

『古事記』は神武天皇の祖父を火遠理としてその別名の彦穂々手見を無視していますが、一方の『日本書記』は神武天皇の祖父は火折(古事記の火遠理)ではなく彦火々出見だとしています。これは彦火々出見が神武天皇の本名でもあるということのようです。

八段一書 第六      是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす
十段一書 第二     亦は神日本磐余彦火火出見尊と號す
       第三     次に神日本磐余彦火火出見尊
       第四       次に磐余彦火火出見尊
神武紀  即位前紀   神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見
       元年     神日本磐余彦火火出見天皇と曰す 

これについて津田左右吉は、彦火々出見と孫にあたるはずの神日本磐余彦(神武天皇)とは同一人物であったと考えられるとし、大和へ東征するのは彦火々出見だったが、後に物語の構成が変わり彦火々出見の次に鵜葺草葺不合が置かれ、新たに東征物語の主人公として神武天皇が創作されたとしています。

神武天皇即位前紀は神武天皇の諱(ただの御名)が彦火火出見だとしていますが、諱は「忌み名」のことで、中国から伝わってきた貴人を実名で呼ぶことを避ける風習です。つまり神武天皇の実名が彦火火出見だというのです。

『古事記』は彦穂々手見を火遠理の別名としていて、彦穂々手見の活動を記していませんが、神武天皇を実名で呼ぶこと避けているのでしょう。『日本書紀』はこの風習に従っていないために、神武天皇の実名が彦火火出見だとする記述が出てくると思われます。