2009年11月18日水曜日

後期後半

倭国大乱から弥生時代の終わる三世紀後半までの九〇年間が後期後半で、それは一八〇年から二七〇年までになります。この時期の中国は三国時代に当たりますが、同時に懿・師・昭・炎と続く司馬氏の時代でもあり、司馬氏が後漢滅亡後の中国を再統一するための期間でもあります

1期の倭国は大乱で王のいない時期だと考えられます。大乱は卑弥呼が王になることで終わると言われていますが卑弥呼が王になった時期は分かっていません。『後漢書』などに「更に相攻伐し暦年無主」とあり、卑弥呼が王になるのは三国鼎立が確定したことによると見ることもできます。

後期後半3期は240年から270年までの30年間です。238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼が遣使し「親魏倭王」に冊封されていいますが、後期後半2期は卑弥呼が確実に女王だった時期であり、3期の初めにも卑弥呼の遣使は続きます。

270年から300年までの30年間は、弥生時代と古墳時代のグレーゾーンで、この間に確実に古墳時代が始まりそうです。当稿が今まで主に言及してきたのは3期の最初の10年間ですが、私たちが最も知りたいのは倭人伝の記述の終わる247年から、倭人の遣使のあった266年までの20年間だと言えそうです。

注意されなければならないのは、3期は卑弥呼が倭王に冊封された239年から、倭人が弥生時代に遣使した最後の年の266年にほぼ一致することです。265年には炎が魏の元帝に禅譲を迫って皇帝になり国名を晋としますが、その翌年に倭人の遣使が行なわれています。中国の動きに連動して倭国でも変化が起きるようです。

晋の成立の4年後が270年なのですが、私が270年を弥生時代の終わりとするのは、90年ごとに時代(文化)が変わるということの他に、266年の遣使が古墳時代の始まりに関係していると思うからです。それは稍を統合して部族を解体し、倭国王(大王、天皇)が氏族を支配する体制に変えようということで、部族社会から氏族社会へ転換しようということです

高天が原で活動するスサノヲが追放されて出雲に下る神話に語られているように、250年ころに卑弥呼死後の争乱の戦後処理が行われて、銅戈を配布した部族が消滅し、その部族に擁立された面土国王家も滅亡します。この時に銅戈がいっせいに埋納されるのですが、春日市とその周辺には多数の埋納された銅戈が見られます。

私は台与が遣使して倭王に冊封されたのは266年ではなく249年ころだと考えていますが、面土国王は卑弥呼死後の争乱の原因になったとして滅ぼされていますから、面土国王家の滅亡は卑弥呼死後の争乱から間もないころで、250年よりも後のことになりそうです。

面土国王は女王共立の一方の当事者ですが、その当事者が居なくなったのですから女王制には存在理由がなくなります。こうして女王制にかわるヘゲモニーが必要になってきて、台与は退位し、実権のある王が立てられることになります。それは弥生時代の部族連盟社会が古墳時代の氏族社会(氏姓制社会)に変わっていく接点に、卑弥呼・台与がいるということです

部族連盟社会とは部族の擁立した王が、部族の連盟に属している宗族を統率している社会です。それに対し氏族社会(氏姓制社会)は天皇(大王)が氏族長を支配し、氏族長が下部にいる氏族員を支配するもので、部族は存在しなくなります。それを画策したのは大倭や難升米たちでした。

冊封体制の職約(義務)によって部族制社会の王は六〇〇里四方以上を支配することはできません。その六〇〇里四方が稍ですが、オオクニヌシの「出雲の国譲り」とは稍P(稍出雲)が併合されたとゆうことです。ホノニニギの「天孫降臨」とは稍O(稍日向)が併合されたとゆうことであり、そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の稍Q(稍大和)への東征が始まるのだと考えています。

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