2009年12月25日金曜日

大国主の国譲り その5

『日本書紀』第二の一書は出雲のオオナムチに続いて、大和のオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順したことを記しています。近畿式銅鐸の分布圏が統一されたことを伝えているのですが、さらに次のようにも記しています。

時に高皇産霊尊は大物主神に「汝がもし国つ神を妻とするなら、吾はなお汝に疎んずる心が有ると思うであろう。今、吾が娘三穂津姫を汝の妻にしようと思う。八十萬の神を率いて永遠に皇孫を守るように」と言って環り降らせた。

これは一種の妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話で、タカミムスビ(倭人伝の大倭)は娘のミホツヒメをオオモノヌシの妻にすることで、銅鐸分布圏の支配権を確保したというのです。大和の銅鐸を配布した部族と同じような立場にあったのが越(北陸)の部族ですが、これがタケミナカタ(建御名方)です。

タケミナカタは追われて信濃の諏訪大社の祭神になったとされていますが、タケミナカタが北陸地方の勢力を表し、オオナムチが山陰地方の勢力を表し、オオモノヌシとコトシロヌシは大和、あるいは近畿地方の勢力を表していると見てよいでしょう。いずれも銅鐸の分布圏です。

それはフツヌシの功績といえるのですが、フツヌシは物部氏の祀る神です。物部氏の祖のニギハヤヒは船長・舵取り・五部人・二十五部など、多くの従者を従えて天磐船に乗り、天から河内の哮が峰(たけるがみね)に下り、後に大和国の鳥見に遷ったと伝えられています。

『先代旧事本紀』はニギハヤヒをホノニニギの兄としていますが、ニギハヤヒが河内に下った理由を記していません。しかし天照大神から十種の神宝を授かって降りたとしていて、弟のホノニニギが日向の高千穂の峰に降臨したのに対し、兄のニギハヤヒは河内の哮が峰に降臨したと言いたいようです。

ニギハヤヒもまた、鳥見(奈良県登美)のナガスネビコ(長髄彦)の妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、児のウマシマジ(宇麻志麻遅)が生まれたとされています。これもタカミムスビがミホツヒメをオオモノヌシの妻にするのと同じ、高天が原との関係を表す妻問い・国求ぎ(つまどい・くにまぎ)の神話です。

氏姓制下の氏族は大和朝廷に初めて服属した者を始祖としています。元来の物部氏はフツヌシを始祖としていたようですが、ニギハヤヒが神武天皇に服従したことで、ニギハヤヒが始祖になるようです。ニギハヤヒの東遷はフツヌシが近畿式銅鐸の分布圏を併合したことにより、物部氏が大和に地盤を持ったということで

換言するとオオモノヌシの帰順は物部氏が行わせたということになります。そこに神武天皇が東遷して大和朝廷が成立するのですが、大和朝廷が成立したことにより全ての部族が消滅し、部族の存続する根拠の青銅祭器は地上から姿を消します。そして青銅祭器による部族の宗廟祭祀に替わって、大和朝廷に初めて服属した者を始祖とする氏族の宗廟祭祀が行なわれるようになります。その神体の多くは銅鏡です。

津田左右吉は主として『古事記』と『日本書紀』の神話の違いから、神話は創作されたものであって史実ではないとしていますが、伝えた部族や氏族によって違いがあるのは当然のことです。『日本書紀』第二の一書の、言わば異伝とも言うべき伝承から、意外な事実が分かってきます。

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