冊封体制は羈縻政策(きびせいさく)とも言い、土着民の有力者に中国の官職を授けて懐柔する一方で、土着民相互の競争を助長して中国に敵対する大勢力が出現するのを阻止しようとするものでした。先に稍(しょう)について述べましたが、この稍こそ冊封体制(羈縻政策)を象徴しています。
前漢の武帝が楽浪郡を設置すると倭人も冊封体制に組み込まれます。奴国王には「王」を、面土国王には「倭国王」を、卑弥呼には「親魏倭王」の官職を授けて懐柔する一方で、それらの王の支配地を「王城を去ること三百里」に制限し、倭人の統一国家が出現するのを妨げていたのです。稍は260キロ四方です。
部族は王を擁立しましたが、その王が中国から稍の支配者であることを認められるには、部族そのものが大きくなければいけません。部族は急速に規模が大きくなりますが、それと共に部族間に王の擁立を巡って対立が起きます。2世紀末の倭国大乱や卑弥呼死後の争乱はこれが原因になっています。中国にとっては「思う壺に嵌った」わけです。
王の支配地は稍に制限されていますが、部族の規模は冊封体制の制限を受けませんから、複数の稍に同族の分布している巨大な部族があり、その部族は複数の稍の王を擁立することができました。北部九州の稍(これを稍筑紫と呼ぶことにします)の王は銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族が擁立しましたが、両部族は隣の中国・四国地方の稍(稍出雲と呼ぶことにします)の王の擁立にも関与しました。
近畿・東海西部地方の稍(稍大和と呼ぶことにします)の王は、銅鐸を配布した部族が擁立しましたが、この部族もやはり稍出雲の王の擁立に関与しました。従来、稍出雲は稍筑紫と稍大和の中間に位置し、両方の影響を受けている地域に過ぎないと考えられてきましたが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の発見で、この考え方には再考が必要になってきています。
荒神谷遺跡で358本の銅剣が出土したことは、この地方に銅剣を配布した部族が存在したことを意味します。稍出雲の王は銅剣を配布した部族が擁立しましたが、その稍出雲の王が支配していたのが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の合計419の青銅祭器を神体とする祭祀を行なっていた宗族なのです。
島根県鹿島町志谷奥遺跡の銅鐸2口・銅剣6本や、鳥取県東伯町イズチ頭遺跡の銅剣4本などのように、本来なら荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡に埋納されていてもよさそうなものや、未発見のものを含めると、 稍出雲の王は500、あるいはそれ以上の宗族を支配していたことが考えられます。
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