2009年8月21日金曜日

伊都国 その2

糸田から金辺川(きべがわ)に沿って東に進むと香春(かわら)ですが、金辺川は『釈日本紀』所引の『風土記』に清瀬川と書かれていて、「昔者新羅国神、自度到来住此河原便即名曰鹿春神」とあります。鹿春神は具体的には延喜式内社、香春神社、あるいはその祭神ということになります。香春町役場の近くの国道にかかる橋の名を唐子橋といいますが、香春の歴史が凝縮しているような名前です。

このように香春には新羅からの渡来者の影が濃厚です。香春神社は三座で、第一殿 辛国息長大姫大目命、第二殿忍骨命、第三殿豊比咩神となっています。第一殿の祭神の辛国息長大姫大目命は、新羅からの渡来民の祀る辛国の神と息長帯姫、すなわち神功皇后、及び香春土着の大目命が合成されたものなのでしょう。私は大目命は大ヒルメのことで、天照大神ではないかと思っています。

第二殿の忍骨命は忍穂耳尊のことですが、第三殿の豊比咩神が問題です。豊比咩神は忍穂耳尊の妻の万幡豊秋津師媛と考えるのがよいのかもしれませんが、私は神功皇后の妹とされる豊ヒメ(淀ヒメとも)を考えています。そしてこれは卑弥呼の後継者の台与(豊)のことではないかと思っています。

『大宰管内志』によれば鹿春神社の神官には赤染氏(あかそめし)二家、鶴賀氏(つるがし)一家があり、第一殿、第二殿を赤染氏が奉祭し、第三殿を鶴賀氏が奉祭していたようです。赤染氏は赤色を用いる渡来系の工芸者集団ですが、香春の赤染氏は赤がね、つまり銅を用いる工芸者のようです。その銅を使用した工芸品として銅剣・銅矛・銅戈、そして銅鏡を考えてみる必要がありそうです。

香春神社の第三殿は空殿になっていて、香春町採銅所の古宮八幡宮として独立した神社になっています。古宮八幡宮の神官の鶴賀氏は宇佐神宮の特殊神事、放生会に先だって行われる銅鏡の鋳造に当たったことが知られていて、その技術者は新羅からの渡来民であったといわれています。 銅鏡の鋳造には、宇佐神宮の神官に渡来系の辛島氏がいるのも何らかの関係がありそうです。

香春を含めた豊前に渡来系の姓の多いことはよく知られていますが、『正倉院文書』の中の豊前国戸籍帳断簡(704)には「秦部」「勝」など渡来系氏姓が70~90パーセントを占めている例があります。このことを示しているような文が『隋書』にも見られます。
                                               又至竹斯国、又東至秦王国、其人同於華夏。疑不能明也

竹斯国(筑紫国)の東に秦王国があるが、そこに住む人は中国人と同じだと述べられています。秦王国のことがよく分かりませんが、豊前のことだと考えることも可能です。豊前には中国からの渡来民が多く、渡来してきた人々は香春に逗留して移住地を探し、目的地が決まると分散して行ったのでしょう。それは豊前国内とは限らず、瀬戸内海を東に進み河内・摂津に達した者もいたことを考えなければならないようです。 
                                               香春には渡来してきた人々を長期間にわたって逗留させる態勢が整っていたように考えられます。伊都国は「郡使(ぐんし)の往来して常に駐(とど)まる所」でしたが、香春がその場所だったことが考えられます。留まったのは郡使だけでなく青銅の鋳造技術者達もいたのです。後世の渡来人が畿内に流入するについても香春を経由した者がいたことを考えなければならないでしょう。

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